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2010年03月 アーカイブ

2010年03月02日

オリンピック(3)

 もちろん筆者はあまりまじめに見ていないが、開幕式と閉幕式では、カナダの先住民(の格好をした人?)を多数動員していたようである。これは、十年以上前ならばあまり考えられなかったことで、1992年のリゴベルタ・メンチュウのノーベル賞受賞や、オーストラリアにおける労働党政権時代の、アボリジニによる土地返還請求の是認などの、先住民尊重の機運がポリティカリー・コレクトとなっていることの反映であろうと思われる。

 しかし、それでいいのか。これは、武田泰淳がすでにあの評判のわるい(筆者は泰淳の最高傑作と考えるが)「森と湖のまつり」で指摘しているような、難しい問題を孕んでいるように思われる。

 たとえば、「スポーツへの資本主義の浸透」と同じような、「先住民文化の商品化」という古典的な問題である。そもそも、先住民の衣装・舞踊を「鑑賞」しているわれわれの意識のなかには、少なからずエキゾシズムが入り込んでいるであろうことは否定できまい。そしてそのエキゾシズムに応えるかたちで先住民文化が商品化され、われわれの前に提示される。これを、先住民文化の尊重とはとても言えるまい。

 さらに、日本における先住民問題を、どれだけの日本人が理解しているだろうか? 1997年まで、「土人」という文字の入る法律が施行されていたことや、二風谷ダム・平取ダム問題などについて、どのくらい知られているのだろうか。また、先住民問題とは微妙に異なるが、これも幾重に複雑に屈折した側面を孕んでいる沖縄の現状は、どうだろうか。

 そういった問題に対して、関心がなかったひとたちの眼が向くようになるのであれば、あの作り物めいたエグジビションにも何らかの意味があるというものだろう。

2010年03月16日

和名倉山敗退

 実はたくさん古書を購入したのだが(大岡昇平と武田泰淳の、文庫になっている諸作品)それについてはまた触れよう。

 いきなり唐突に何を言うのかと思われるのかもしれないが、死ぬのが怖い。自分が死んでしまった後に、百年が経過すれば、自分のことを覚えている人間はすべて消滅し、さらに何万年か何億年か経てば、人類も一人残らず死に絶え、さらに時間が経てば、地球が消滅し、さらには
この宇宙そのものが消滅し、何もなくなってしまう・・・時間や空間でさえも(この理解は正しいだろうか?)。つまり、自分が生きているというこの事実そのものが何の意味もないものと化してしまうのだ。

 そういうことを考えはじめると、実生活に支障を来すだけでなく、恐怖のために日常を楽しく過ごすことの障碍となる。決して褒められた思想ではない。それよりも、いっときの高揚のために、冬山にその命を散らす、そのような生き方のほうが生の効率はよいのかもしれない、そんなことも考える。


 和名倉山は大きな山だ。その巨大な山容に、ルートの確立している将監峠からのものを選ばずに、北面の、しかもポピュラーでない川又からのルートを選んだ時点ですでに敗北は決定していたのかもしれない。

 そもそもこの川又道の最も難しいところは、取り付きなのだ。この取り付きは、前もって知っていない限り、薄暮に見つけるのは至難だ。川又バス停からすぐに川に下り、吊り橋を渡って(この吊り橋は地形図には記載されていない)、地形図に記載のある沢沿いに進んでいくと、左手の植林の中に入っていく道を見つけられよう。いったんそこまで到達してしまえば、親切な赤テープ(東大のひとたちが演習林のために設けたものだろうか?)があって、道迷いはほとんど考えられない。筆者のように、吊り橋を渡って、そのまま強引に1058mを目指そうとなんかしなければ。地形図の通り、この斜面をまともに登るのは非常に困難だ。まだしも、滝川ー入川分岐部の尾根から登るほうがましだ。この尾根には、道はあるのだろうか。

 すうじいさんの「和名倉山概念図」によれば、地形図の1173mピークのあたりで、左から登ってくるルートに合流し、さらに1669mへ至る、超急峻な尾根を避けて、1558.6mを擁する巨大な尾根の手前で、1669m-1762mピークを結ぶ尾根に這い上がるはずである。事実、道はそのように付いていた。1173mからすぐに道は尾根を右に外し、延々トラバースを繰り返した後、その尾根の中間のあたりでジグザグを繰り返し、尾根に這い上がる。それから尾根のピークを外して右側(=西側)を伴走すると、1762mピークへ出る。ここから道は尾根の左側(=東側)へと位置を変え、おまけに尾根の走行が変わるから、このポイントはすぐに特定できよう。

 1762mからちょっと下った鞍部が、ヒルメシ広場である。ここの到着が11:30。すでに七時間歩いている。ここから頂上までは300mのアルバイトしかないが、ラッセルを繰り返し登ってゆくことを考えると、ここから山頂まで四キロ程度の道のりを、二時間でゆくのは至難といえよう。断腸の思いだが、ここで引き返した。

 この尾根、自然林が豊富で、「植林だらけの山」というイメージを覆すだけでなく、いったんルートに乗ってしまいさえすれば、悩むこともなく、一般登山道並に明瞭である、という意味で、おいしい登山道と言えるだろう。世間的に知名度が低いのは、何か政治的な意図(あまり登って欲しくない)があるのだろうか。それとも、単に地理的な問題なのか。

2010年03月20日

忘れられた思想家・堺攘夷始末

 さいきん読書量がめっきり減っている。環境が変わればまた復活するのかもしれないが・・・

最近の読了
 H.E.ノーマン「忘れられた思想家(上下)」岩波新書 B2
 大岡昇平「堺攘夷始末」中公文庫 B2

 両方ともふつうの評価である。

 H.E.ノーマンは、カナダの歴史家・外交官である。悲劇的な自殺をしたことで知られている。本書を読むまでは、筆者は安藤昌益という思想家は、主に老荘思想の影響を受けた神秘思想家だと思っていたのだが、それはまったくの誤解で、徹底した農本主義の観点から、農民に寄食する武士=政治家を徹底的に弾劾し、それだけではなく自ら物を作り出すことのない商人に対しても仮借ない批判を浴びせる、そういう人物であったことがわかった。
 しかしだ。
 この現代においても、昌益の時代と全く同じ現象が生じている。いやもっとはっきり述べれば、中国の古代からこの「農本主義」思想は、真っ当な思想だと認められながら、ほとんどそれが有効な政策として打ち出されたことはなかったのだ。それほど経済において物資の取り引きは重要であるということだ。商社や金融重視の経済体制が現代日本の国力を削いでいるということはすでに指摘されているが、では再び農業や製造業立国にできるのか? 答えはノーである。手っ取り早く楽に金を稼げる(と言い切ってしまうと、それはそれで嘘であるけれども)業界に人材が流れるのは理の当然であり、学業は大変でかつ薄給の製造業を目指そうという人材は希少種になってゆくのは当たり前ではないだろうか?
 筆者が思うに、2000年前から解決できない問題が、この現代に簡単に解決可能なはずはない。モノを作って儲けるという行為の衰退は避けられないのではないか。

 大岡昇平の本作、正直言うと、著者のこの事件に対する思い入れがどこから来るものなのか、筆者にはよくわからなかった。森鴎外からはじまり多くの作家に取り上げられている題材だからなのか? 著者の「天誅組」などはとても面白いし、実によく調べ上げられているという印象を受けるのだが、本作はそれほど面白いとは残念ながら感じられなかった。

2010年03月21日

辛い山行

 山登りがこんなに辛く感じたのははじめてだったかもしれない。

 丹沢の主な山はほぼ登り尽くした(?)ような気がしているが、その中でまだ未踏な山が鳥ノ胸山であった。このマイナー(?)な山が山梨百名山に入っているのは、ひとえにその地理的要因にあると思われる。

 丹沢山地は神奈川県と山梨県の両県にまたがっているが、その県境はどこにあるかというと、道志川である。道志川を遡ってゆくと、道志ダムと奥相模湖があり、さらにその西方で支流神ノ川を出している。その道志川本流と神ノ川のあいだが県境尾根であり、ここには大室山へ向かう登山路がある。かつてはマイナーだったが、トレイルランの大会が行われてから正規ルートへ昇格したようだ。

 この県境尾根は裏丹沢の盟主、大室山から加入道山を経て、城ヶ尾峠へ向かう。当然百名山に加えられるべき西丹沢の名峰、畦ヶ丸はこの主稜線からわずかに外れて神奈川県側にあるから、山梨の山ではない。そしてなぜか菰釣山が選から漏れているのだが、その理由はよくわからない。そして鳥ノ胸山は同様に主稜線から山梨県側へ外れている。これが選ばれた理由だろうか。

 この山は、通常は「道の駅 どうし」とか「道志の森キャンプ場」とかから登るのがふつうであるらしいのだが、「道志の湯」からも尾根伝いに登れるらしい。ただ、途中で山の東側に通っている林道を横切ることになる。

 はっきり言って、このコースはよくわからない。取り付きも、道志の湯の向かい側にあるキャンプ場に入って、その左手の植林帯の登れそうなところから登っただけである。注意しなければならないのは、925.9mピークの手前に、地図に書いてない林道が走っていることである。この林道は、たぶん鳥ノ胸山東側の林道に合流するのではないだろうか。

 925.9mピークに達したのちは、南側に尾根を下ってゆくと、林道にぶつかる。筆者はどこが越路峠なのかわからなかったが、この林道の一番高い地点のことらしい。地形図をみるかぎり、筆者の通ったルートが正規のルートらしいのだが、ここには道は存在しない。

 ここからさらに鳥ノ胸山へ登ってゆく。標高差はたかだか360mくらいしかないはずなのだが、遠く遠く感じる。1050mのあたり、右手から尾根が合流してくるが、ここから道らしきものが出現してくる。このあたり、あまり辛くて十メートルくらい登ると立ち止まる、ことを繰り返していた。

 さらに尾根を登ってゆくと山頂の南側の小ピークに着くのだが、ここから道は明瞭になる。何やら山頂が騒がしい。かなりの大部隊がいて、しかも続々と上がってくる。この山、これほどメジャーだったか? 要するに、麓にキャンプがたくさんあること、道の駅から周回コースが取れ、しかも標高差があまりなく手ごろだとか、そういう理由で人気があるらしいことを後で知った。

 早々に山頂を辞する。ここから下山して帰りたかったが、道志側へ降りると帰りの足がない。西丹沢へ行くしかない。幸い、ここからの道のりにきつい登り下りはない(地形図からわかる)。意を決してゆくことにした、が、、、

 ない。

 コンパスをどこかへ落としてしまったらしい。

 救いは、辺りが望見できることだ。大界木山も、そして左手に見える山は、畦ヶ丸だろう。これで軌道修正しながらゆけるだろう。まず、100mの下りの次は平坦地になり、そこから緩く登り返したピークが雑木ノ頭だ。ここで右手に「道志の森キャンプ場」への道を分けるが、地形図から正解は「道志の湯」方向、つまり左手の道であることは容易にわかる。1146mピークにも何か標識があったが忘れてしまった。ここを直進し、しばらくゆくと道は左手に折れて曲がる。ここ、直進または右手方向へ行くのが正しい(城ヶ尾峠方向)ルートだと思って探してみたが、見つからない。あとで軌道修正すればいいかと思い、道なりに下ってゆくと、しばらくして眼下に林道が見えてきた。あれ? と思い、林道へ降りていったら、これが「道志の湯」から伸びてきている林道であった。ここが浦安峠である。

 城ヶ尾峠へ直接出るルートはどうやらないらしい。すぐに「大界木山」と書かれた古い標識と、林道から向かい側の尾根へ登る登山道を発見できる。ここから30分で大界木山へ行けるようだ。

 ここまでの道で、鳥ノ胸山からの下山のところで1パーティを抜かし、途中で単独行ひとりとすれ違っている。城ヶ尾峠からの縦走路と合流し、そろそろ大界木山というところでもう一人の単独行の男性を追い抜く。

 城ヶ尾峠〜大界木山以降は東海自然歩道であり、随所に標識あり、地図がなくとも迷うことはない。程なく畦ヶ丸である。途中に一箇所道志へのエスケープ・ルートがある。畦ヶ丸への最後の登りは地形図ほどは苦しくはない。

 帰りは、善六のタワからのバリエーションで帰ろうかとも思ったが、疲労していたしそのまま西沢への正規ルートで戻ることにした。意外に早く戻ることができた。


 今回の山行が苦しかったのは、体調だけではなくて、いろいろなことを考えながら歩いていたからなのだが、山歩きが愉しめなくなったら、もう思い残すことはないかな。

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