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2006年01月08日

場の調和

 さいきん、いくつかのblogに書き込みをしているのだが、考えてしまうことがある。
 あまり場にそぐわない、浮いた書き込みをして、調和を乱してしまうのは、日本人として(笑)イヤなのだが、他のコメンターとの資質があまりにちがいすぎて、あきらかに自分のコメントだけが常軌を逸しているように見えてしまうと、やはりコメントをご遠慮したほうがいいのかな、という気持ちになってくる。
 いやはや、たかがブログとはいえ、人間関係はむずかしい。

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2006年01月18日

自己紹介

 新しく訪れてくださる方も(ひょっとしたら)いらっしゃるのかもしれないので、評価の座標軸を示しておくこととする。
 筆者が高く評価している本を、文芸とそれ以外とで分けて十冊(十人)ずつ挙げてみる。なお、このリストは順次変更してゆく可能性がある。

文芸
・伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」「氾濫」
・埴谷雄高「死霊」
・ソルジェニーツィン「イワン・デニーソヴィチの一日」「ガン病棟」「煉獄のなかで」
・山本周五郎「樅ノ木は残った」
・隆慶一郎「影武者徳川家康」「一夢庵風流記」「死ぬことと見つけたり」
・武田泰淳「森と湖のまつり」
・モーム「月と六ペンス」
・宮城谷昌光「晏子」「孟嘗君」「楽毅」
・高橋和巳「悲の器」
・吉行淳之介「暗室」

評論その他
・土佐弘之「安全保障という逆説」
・ブローデル「物質文明・経済・資本主義」
・小熊英二「単一民族神話の起源」「<日本人>の境界」「民主と愛国」
・ハンナ・アレント「イェルサレムのアイヒマン」
・網野善彦「蒙古襲来」
・岸田秀「ものぐさ精神分析」「続・ものぐさ精神分析」
・保苅実「ラディカル・オーラル・ヒストリー」
・テッサ・モーリス=スズキ「批判的想像力のために」「自由を耐え忍ぶ」「辺境から眺める」
・ネグリ/ハート「帝国」「マルチチュード」
・サイード「オリエンタリズム」

参考までに音楽も挙げておく。
・ボブ・マーリー「キャッチ・ア・ファイア」「バビロン・バイ・バス」
・ボブ・ディラン「ハイウェイ61再訪」「ブリンギング・アット・オール・バック・ホーム」
・ニール・ヤング「今宵その夜」
・グレイトフル・デッド「アメリカン・ビューティ」
・ザ・バンド「ラスト・ワルツ」
・セロニアス・モンク「セロニアス・モンク」
・ミシェル・ペトルチアーニ「ミシェル・プレイズ・ペトルチアーニ」「ミュージック」「プレイグラウンド」
・バッハ「ミサ曲ロ短調」
・モーツァルト「ピアノ協奏曲第27番」「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
・メシアン「みどり児イエスに注ぐ20のまなざし」

筆者のアドレスはこちらである。

2006年01月24日

「買う」ことについて

 トラックバックが復活しているようなので、こちらに書くことにする。

「セックスは相互理解」とは、幻想にほかならないと思う。しかし、それでいいのだ。「お互いがより理解し合い、絆が深まったように思う(誤解する)」のも、セックスの効用のひとつ。
 わたくしはもともと岸田秀の「唯幻論」の支持者だが、とくにことセックスに関しては、岸田氏の意見とわたくしのそれとはほぼ一致している。つまり、セックス(というより、性欲一般)においては、肉体的快感なるものは単独では存在しない。それはあくまでファンタジーを満たす、という意味において存在する、ということである。
 例えば、具体的な話を持ち出して恐縮だが、自慰において、「いく」こと自体が物理的に重要なわけではない(はず)。空想が満たされるほうが大事なのだ。だから、男女を問わず「おかず」が必要なわけ。
 なので、わたくしが買わない、買いたくない理由とは、単に「買う」ことでは、自分のファンタジーを満たすことができないからに過ぎない。逆に「買う」ことで、あるいは「買う」ことでしか、性的空想を満たすことのできる男性(さいきんは女性も)はいるわけだし、そういうひとにとっては買えることは死活問題なのであろう。

2006年01月25日

人後に落ちる

 先日、g-callが宣伝のメールに「緊急」のフラグを付けて送った、という件で(どーせそんなフラグはOutlook Expressくらいにしか対応してないんだろうけど)、陳謝のメールを送ってきた。その中の一文だが
「人後に落ちる行い・・・」というのがあった。
何? ジンゴニオチル、だと??
じつは筆者はこういう日本語にはかなり敏感だ。「人後」って、ふつうは「腑に落ちない」と同じように、原則否定形でしか使わない言葉じゃないの? ふつうは「人後に落ちぬ働き」とか言わないかな。
 かなり筆者の言語感覚は古いらしくて、インターネット上で使われる言葉としては、「こん」というのは許せない。挨拶のことばというのは、省略などしないのが原則ではないのか。もともと無意味なことばなのだから、定型を守るのが筋なのではないだろうか。「・・・ですの」とか「・・・と思われ」の二つは、ときどき使うが、ヘンな日本語、と言われたらその通りだと思う。ヘンだということを承知で使っている。
 他には、「まったり」とか「イケメン」に許し難さを感ずる。前に話題になった単語としては、「やばい」ということばが、英語の"so bad"、つまり、逆に「クール」「かっこいい」「どうしようもなく(好き)」といった意味で使われていた、というのがあったが、筆者はことばの意味の変遷自体を咎めているわけではない。言葉というのは、オリジナルからみたら劣化を続けるものなのだ。それが言語の運命だから。
 そう考えると、「正しい日本語を守ろう」というような動きは、実にばかばかしい運動であるということになるのだが、自らの言語感覚については、それを自分の意思で変更するわけにはいかない。ものごころついたときにはすでにビルトインされているものだからである。「イケメン」の気持ち悪さが、「いけてる」という意味不明の日本語に、さらに英語の「men」をくっつけた、という二重のいかがわしさから来ている、という解説をしてみたところで、その気持ち悪さを感じない若者のほうが多い以上、それを正当化するわけにもいくまい。自らの言語感覚を理由とした「ことばの正当化」は、ファシズムと同じなのである。
 だからといって、少なくとも筆者に向かって、先に挙げたようなことばを使用する方には、好感を抱くことはできない。それは仕方がないだろう。

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2006年01月26日

「スイスの山村」氏に答える

ここで晒し者にされてしまった(笑)。あちらで延々と自分のことについて述べるのも何なので、こちらで筆者の考えを記しておこう。
1)兄弟姉妹がいるかどうかによって、異性への対応、考え方が異なるという指摘は、経験上ただしいもののように思われる。また、成人するまでの少青年期に、どのくらい異性と(ふつうに)接したか、ということも重要だと思うので、中学・高校が共学かそうでないか、というのもおおきいと思われる。男女問わず、共学校で過ごしていないひとは、異性を理想化してみる傾向があるように感ずる。
2)「幻想」ということばの使い方を厳密にしておきたい。このことばは、ふつうに使用するぶんには、「に過ぎない」という続きを付け加えられることがおおいことからもわかるとおり、どちらかというとネガティブな価値判断を含めて使用されることが多い。岸田秀氏、あるいは筆者が「幻想」ということばを用いるときには、それには否定的なニュアンスがないことには注意が必要だ。いや、場合によっては、人間に生きている積極的な意味を付与している、という点から、ポジティブに使用されるケースすらある。
 女性の理想化、つまり、プラトン的な「イデア」を現実の女性に投影することと、性的関係、あるいは恋愛において、その関係が幻想である、ということは、完全に一致しているどころか、前者は後者のごく特別なケースに過ぎない、ということだ。つまり、『女性について何も幻想を持っていないし、全てそのまま受け入れることに何ら抵抗がない』という発言自体も、筆者の用語からすると、「幻想」ということになる。というのは、「女性の現実」などというものは存在しないし、「そのまま受け入れる」というのも、すべてのバイアス(これは、女性側に起因しているだけではなく、受け入れる男性側に起因している場合のほうがむしろ多い)を排除することが、原理的に不可能であるからだ。
 つまり、「ありのままの女性をそのまま受け入れる」というのは、男性側の幻想なのだ、と言いたいわけだが、ここで特記すべきことは、それは筆者は「幻想」とみるけれども、否定するどころか、そういう幻想は恋愛にプラスに寄与するものであるなら、大いに奨励すべきだ、と考えていることだ。
3)つまり、家族とか国民国家とか資本主義とか、現実に作用していると考えられているシステムも、すべて「共同幻想」とみなす立場からすれば、人間の思考、思想もすべからく「幻想」ということになる。かように幻想とは広い意味で用いられており、「女性を理想化する」というプラトニズムとは、そのイデア論を否定するところから、対極に位置することにあると言ってもいい。
4)だから、筆者は、「対立」とは捉えていず、むしろその幻想の内容が異なるだけで、それはごく自然なことである、と考える。なお、
5)『僕の場合、先日書いた話どころでなく、「ふつうに考えればとんでもない話(=ここには書けないような話)」をいくつも経験しているから、今更幻想も持っていない』については、筆者も同様である、と書いておくことにしよう(笑)。ただ、恋愛に限らず、学術研究やイデオロギー追求に関してだって、「幻想」は人間をドライブする原動力として、絶対に必要なのだと思われる。「金持ちになりたい」「有名になりたい」「自分を高めたい」などという欲求(精神分析学的には「欲望」というべきか)も、その内実をよく観察すると、すべて幻想なのであるから。

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2006年02月10日

作品展

 http://blog.sankichi.lolipop.jp/?eid=105857 友人が入院中・自宅療養中に制作した作品展が渋谷で開催中のようです。
 場所はこちら。

 素朴な疑問だが、もし写真を撮って、ブログ等で掲載した場合に、著作権法には引っかからないのだろうか。調べておかなくてはいけない。
 この上の写真の左側はおそらく腎臓の間質組織。これでみるかぎりあまり炎症はなさそうである(笑)。臨床医としては、間質よりも糸球体の状態がみたいところである(笑)。これって芸術鑑賞者の態度ではないな。
 しかし、この紹介文章、「自身の腎臓組織」というのはいくらなんでもないだろう。「自身の腎臓組織の写真」とすべきだ。まさか、作品の一部に密かに練り込んであるとか・・・「血染めの遺書」とか思い出してしまう。

 腎組織を使ったのなら、光学顕微鏡だけでなく、蛍光抗体法で染めたもの(これはそれだけ見てもキレイである。もっとも、病変があった方が「キレイに」見えるというのが難点か)や、電子顕微鏡の写真もあるはずだから、次回作はそれらにも期待しよう。

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2006年02月20日

アンチショック

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 古本コレクター廃業宣言をしたため、本の話題が減ることが予想される。しかし、「昨日の購入・読了」があるものを「読書」に分類しているために、全く関係のない内容が書き込まれることが多くなるが、どうか気になさらないでいただきたい(笑)

 一眼レフで望遠レンズを用いたり、夜景を撮るときには三脚は必須である。しかし、なかなか重い三脚を持って行動するのは大変だ。特に、登山の時などは荷物は可能な限り軽くしたいものである。そう思っていたら、こんなアイディア商品があるのだ。
 ドイツの登山用具メーカーとして著名(らしい)なLeki社が出した登山用スティックである。これはとくに下山用に重宝するショック・アブソーバーのついたものなのだが、この先端が取り外しができるようになっていて、ここにカメラの取り付けが可能なのだ。要するに、一本で二度おいしいというものらしい。たとえ、一脚として使用しなくても、登山用杖としてももちろん有用な製品なので、買って損しないと思って発注した。
 しかし、これを買ったからには、登山には200gのGR digitalではなく、435gのE-500(50-200mmの望遠を付けたら1.5kg!)を持って行かないわけにはいかなくなってしまった(苦笑)。

昨日の購入 なし
昨日の読了 なし

2006年02月22日

亀有駅前

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 こんなものが建ちました。

2006年02月26日

死者の書

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 最近雨の日が続いている。植物園か山へ足を運んで撮影しようという意欲を削ぐ天候である。六本木の建設中のビルの上部もすっかりくすんでしまっている。モノクロ撮影でもよいくらいだ。
 さて、折口信夫は柳田国男の弟子でもあったが、学者然とした師とは違って(柳田は東京帝大を卒業した農商務省の官僚でもあった)、より文学的・神話的な民俗学を作り上げたことで知られている。その折口の代表作のひとつである「死者の書」が映画化された。岩波ホールで上映されているのを見に行った。
 あえてCGを多用せずに、人形の動きを主体にした撮影だ。これは細かな、滑らかな動きを表現するためにひどく時間がかかるそうだ。主人公である藤原南家の息女である郎女の動きはむしろ地味であり(これは役柄からしても当然であろう)、むしろ建設現場で働いているたくさんの人形に精巧な動きをさせているが、これらの人形は多摩美大の学生がひとり一つずつ作ったらしい。気が遠くなるほど手間暇がかかったであろう。スタッフに「人形関節」なる役割の人がクレジットされていたが、関節だけは特別のプロが作るものなのだろうか。
 折口の世界を表現するには通常の俳優を用いた撮影や、宮崎駿作品のようなアニメだけでは十分でない、と判断した、人形劇撮影家として著名な監督の判断であろうが、その試みは成功していたのではないだろうか。ただ、ストーリーよりもカメラワークが気になっていたのはデジカメのせいだろう(笑)。折口信夫、以前から気になっている著述家であるので、やはり読まなければいけないという感を新たにした。

昨日の購入・読了 なし

2006年04月04日

武蔵の山村

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 火曜日の生態は謎ということになっているのだが(公式にはある施設で研究に従事していることになっている)、きょう一日の行動を明かせば、奥武蔵の丸山という山へ行ってきた。700mほどの低山だが、あのあたり(芦ヶ久保)では一番高いらしく(武甲山を除けば)、展望がいいということなので、フォトレックに行ってきたのだ。
 9:07あしがくぼ着。丸山には11:00くらいに着いてしまう。360度の展望だが、さすがに春では厳しい。冬に来るとよいらしいのだが、それでも浅間山と八ヶ岳の一部(赤岳か?)が雪を冠っているのが眺められる。奥武蔵の盟主武甲山は南側が石灰岩採掘のためにすっかり破壊されてしまって痛々しい。
 丸山から日向山に向かう。この日向山の北側斜面には、カタクリの自生地があるのだ。オリンパスの中望遠マクロ、すごく切れがいい描写をしてくれたようだ(液晶でもわかった)。しかし、F5.6でも被写界深度が浅すぎて、花全体にピントがあっていない・・・オリジナルはこちら。
 そこから横瀬の駅まで歩こうとするが、ルートが分からなくなってしまい、分譲別荘地に出てしまう。仕方なく舗装された道を下っていったが、その造成地の山の北斜面に、なんとカタクリが大量に! 盗掘するわけではないが、風もないし柵もないのでここでまた撮影タイム。それから横瀬駅に向かう途中、秩父札所が四つあったが時間の関係で無視。武甲鉱泉郷の秩父湯元旅館へ。大量にマイカー客が来ていて、ちょっとがっかり。横瀬駅からレッドアロー号で池袋へ帰る。

 行き帰りにトクヴィルがだいぶ進んだ。また、購入したモンベルのウェアが早速偉功を立ててくれたのはいいのだが、ちょっと前に痛めた右膝の激痛が再燃してしまった。
 さ、次は丹沢の主脈くらいにはいきたいのだが。

2006年04月12日

成分解析

 nishima先生のところで紹介されていたネタ。URLはここです。

 その1 HN
 ○○○○○○の55%は希望で出来ています
 ○○○○○○の32%はスライムで出来ています
 ○○○○○○の7%はマイナスイオンで出来ています
 ○○○○○○の5%はお菓子で出来ています
 ○○○○○○の1%は言葉で出来ています

お菓子のパーセンテージはもっと多いはずなのだが、おかしーな・・・^o^

 その2 本名
 ○○○の91%は波動で出来ています
 ○○○の8%は魂の炎で出来ています
 ○○○の1%はマイナスイオンで出来ています

筆者の大部分は波動、炎、イオンであって、実体はまったくないらしい。参考になる。

 その3 友人某氏
 ○○○○の57%は真空で出来ています
 ○○○○の25%は果物で出来ています
 ○○○○の8%は気の迷いで出来ています
 ○○○○の6%は成功の鍵で出来ています
 ○○○○の4%は理論で出来ています

「8%」を見たときには、申し訳ないが爆笑してしまった。

 その4 筆者の職場

 ○○病院の64%はやましさで出来ています
 ○○病院の33%は濃硫酸で出来ています
 ○○病院の2%は理論で出来ています
 ○○病院の1%は成功の鍵で出来ています

かくして、この成分分析の正しさは立証されたのであった。。。

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2006年04月13日

ruby

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 筆者はコンピュータの使い手と誤解されることがおおい。たしかに、インターネット歴は長い方だし(その前に短期間のNIFTY歴を含む)、Macintoshは漢字Talk6.0.7から使っているし、自作PCも所有している。独自ドメイン取得、自宅サーバ立ち上げ、管理も行っていたこともある。
 しかし、違うのだ。「使い手」というのは、道具として使いこなしている、つまり、計算機を用いて生産的な活動をしている人物を指すのだとすると、筆者は計算機を使うことが自己目的化していた。つまり、それで何かをするのではなく、「計算機を使うために」使っていただけなのだ。

 先日、デジタル一眼レフのRAWファイルを一括現像した際に、生成されたファイルの名前を一括変更する必要が生じた(具体的には、アンダーバーではじまる名前をRではじまる名前に変更したかった)。こういうときに、10や20なら手でいちいち変更することもできるが、これが100や200だととっても面倒である。将来同じような事態が生ずることを考えて対処することにしたが、読者はどのような方法を取られるだろうか。
 UNIXの世界でこういうときに使われるのはシェルスクリプトと呼ばれる簡易言語である。ちょっとしたテキスト処理のためには、sedやawkという言語が用いられる。もちろんこのようなものも視野に入ってくるが、たぶん広く使われているテキスト処理ツールは、CGI、つまりインターネットのサーバーでもよく使用されているperlというスクリプト言語であろう。
 近年、このperlにちょっとだけ似た性質をもつ、日本発の言語が利用されるようになってきた。それをrubyという。perlとのちがいは、後者が手続き型言語、つまりデータ処理の流れを中心にプログラムする言語であるのに対して、rubyはオブジェクト指向、つまり処理されるデータに着目したプログラミングをする言語である、ということだ。このオブジェクト指向ということをきちんと理解するには十年かかると言われているので、これ以上の深入りは避ける。
 さて、筆者としても久しぶりのプログラミングだったので、もう一度rubyの参考書の読み直しからはじめて、ほんの二、三行のプログラムを書くだけで二日かかった。ふぅ。

 筆者が書きたかったのは、日本にも、Linuxを作ったLinus Torvaldのように、金銭のためでなく万人の役に立つプロジェクトを立ち上げ完成させた人物(まつもとゆきひろ氏)がいることである。「だから何なの?」と言われるとそれまでだが、オープンソース運動は政治的にも「帝国を壊す」働きの一端を担うと確信するがゆえに、このような動きを歓迎したい。まつもと氏の努力には頭が下がる。

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2006年04月15日

民主主義の不可能性について

 前に触れた大澤真幸氏は「恋愛は不可能だ」と喝破したが(その論理構造はよくわからん・・)、筆者はむしろ民主主義こそが不可能なのでは、と考えている。それは、人間は他人の説得を(原則として)受け入れないようにできているからである。
 民主主義の基礎となるのは討議、ディスカッションである。そして、ある事柄について喧々諤々の議論をするためには、全員が議論の前提となる知識(情報)を共有している必要がある。その知識の共有はたしかに実践的には大問題だが、それは知ろうとすれば済む話なので、理論的には問題にならない。つまり、討議を不可能にする理由にはならない。
 それよりも、たとえばAさんとBさんが意見を戦わせた場合に、じっさいにはその議論が噛み合わないケースのほうがおおいはずなのだが、噛みあったと仮定しておく。その議論の結果、起こりうるパターンは次に列記する4パターンだ。
1)お互い元の意見を保持する
2)AさんがBさんの意見を受け入れる
3)BさんがAさんの意見を受け入れる
4)AさんはBさんの、BさんはAさんの意見に変化する
 実践的にはともかく、理論的には4)は保持しておかなければならない。2)と3)は理論的には等価と考えてよい。筆者が問題にしたいのは、この意見の変化の可能性についてである。お互いに確固たる意見を保持している時に、相手の説得を受ける、あるいは相手の意見を傾聴した結果、自分の意見を変更することは、かなり心理的に困難なのではないかと思われるのである。
 相手の意見を納得してしまった際の対処は、通常次のようになる。ひとつは部分否定だ。つまり、意見のある部分については正しさを認めるが、全体として、あるいは最後の結論を間違っている、と判定することである。もう一つは真理相対主義だ。「君の立場では君は正しいが、それはすべての人に当てはまらないのだ」という方法だ。
 また、これは歴史学でしばしば問題になることであるが、「唯一の正しい歴史は存在するか?」という問いがある。神がこの世に存在して、神はすべての歴史事象を正しく認識している、という考え方だ。しかし、たとえ目明きであっても、象を正しく観察できる人間がいるのかどうかはかなり怪しいところだと思われる。ある事件に巻き込まれ、その渦中で事件を観察できたとしても、結局身の回りに生じたこと以外をみることはできない。どれほど資料を蒐集しても、事件の全貌をみることはできない。それは、観察するためのフレームワーク・・・たとえば、会話をするためには日本語なり英語なりが必要だ・・・を通して物事を観ざるを得ないからである。その色眼鏡は個人によって異なるいじょう、他人と同じもののみかたは不可能なのである。
 その「見ることの不可能性」に加えて、意見を変えることに伴う莫大な心理的抵抗を克服しなければならない。こちらのほうがハードルは高いかもしれない。
 つまり、その結果、民主主義は多数決と同義でしかないし、話し合いや討議の場というものは、おのおのがその意見を開示する場でしかないのではないか、ということだ。発言の自由が許されているのはよいことだ、という意見もあろう。たしかにそうかもしれない。ただし、自由な言論は単なるガス抜きのために許されることもある。むしろ「不満を口にさせる」ことで実力行動に出ることを差し控えさせるという意味合いの方が大きかろう。

 そう、そもそも筆者がどうしてこのようなことを問題にするのか。それは、経験上、討論や討議によって、相手もしくは自分の意見が変化した、という経験が皆無にちかいからである。あきらかに自分が間違っていることを発見する場合もないではないが。
 そして、そういう事態がほとんど起きえないものなのであれば、それを想定している民主主義なるものは、結局多数決の同義語となるしかないのではないか、という疑問が湧いてくるのは当然だろう。ひとくちに「衆愚政治」というが、これは有権者がバカかどうかというよりも、そもそも人間というのは自分の意見を変えない、他人の意見を聞かない、あるいは耳を傾けたとしても受け入れない動物なのではないか、という諦念に発している、というみかたなのかもしれない、と思うのである。

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2006年04月18日

ワイン

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 久しぶりに銀座のフレンチの有名店に行ってきた。

 料理は日本人に合わせたボリュームの小さいもので(懐石風とまでは行かないが)、たぶんトータルのカロリーはそれほど高くないと推定された。べらぼうに高いワインを勧めないのがこういう高級店の特徴で、一万円前半くらいのものを二本ほど頼んだ(あとブランデーを一本)。
 筆者はそれほどアルコールが好きな人間ではない。だから余計そう思うのだが、ワインに対する日本人の嗜好や一部の「通」と称する人間たちの気取りが理解できない。
 「それは文化だから」といわれそうだが、そもそも材料を厳選し、手間暇かけて調理した料理のフルコースが、一本のワインよりも価格設定が低かったりすると、一体何様?? と感じてしまう。

 つまり、ワイン信仰には、いまだに根強い日本人の西洋崇拝という奴隷根性が潜んでいるように思うのだ。先日、登山用品のブランドを検索していたときも、ミズノはBERG、アシックスはTARAS BOULBA、モンベルもキャラバンも(まあこのくらいなら許せるが)全部横文字。コマーシャルに白人男女を起用するとか、ブランド名に横文字を使うなどの慣習はいつまで続くのだろうか。
 筆者じしん、好きな音楽について述べるときに、「クラシック、ジャズ、アメリカン・ロック、ブルース、レゲエ、ボサノバ」と列記してみて、あれ、日本の音楽が入ってないぞ、と思うのだ。ここで「邦楽が好き!」と言ってみても、それが東儀秀樹や鬼太鼓座の演奏でない限り、ふつうの「邦楽」なら、その元になっているコンセプト(というか、音楽の体系)は結局古くはクラシックに由来するものだ。むかし、岡林信康が「日本のリズムへの回帰」を唱えて、エンヤコラに基づくロックを提唱していたが、それにしてもメロディの発想は西洋流の音階に基づくものだろう。

 食や音楽といった文化にナショナリズムを持ち込むことには閉鎖的な弊害のほうが多いのかもしれないが、純粋なクラシックから出発し、出身地ハンガリーからはじめて、ルーマニア、ロシア、トルコと言った非西洋的な民謡の研究を、古典的なリズム・音階の発展的解体という方向へ行かしていった大作曲家、ベーラ・バルトークの業績をみるにつけ、何とかならないものだろうか、と筆者はおもう。「小学校からの英語教育」のような風潮をどうかと思うのは、現在の文化的植民地、文化帝国主義に隷属している状況が変化しないどころか、ますます強まることを懸念することもその理由に挙げてもよい。自国の言語を保存するために、英語による広告に厳しい制限をかけていたり(原則禁止)、食文化の保護のために日本のヤマザキのような製パンの大企業を認めない(ヤマザキが誕生し、発展したのは、食品添加物に関する国の積極的認可があってのことであり、もちろん小麦粉の消費の拡大という国策が潜んでいる)フランスを見習え、とは言わないが、「横文字の方がカッコイイ」というドレイ根性は、韓流や東南アジアのスターが持て囃される昨今といえども変化していないように思われる。

 「国の誇り」などと、国家単位の優劣を云々するような議論には賛成しないが、日本列島に生まれ暮らす者として、土着の文化(とくに食)を大切に思う気持ちは持っていたいものである。

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2006年04月25日

懐石イタリアン

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 きのうは会食だった。なので

昨日の読了 なし

 懐石風イタリアン、おいしければいいのか? 筆者はちがうとおもう。懐石はあくまで懐石であって、イタリアンではない。ぎゃくにイタリアンはボリュームで攻めるものであって、懐石であってはならない。あのボリュームがイヤならばアラカルトを頼めばいいのだ。
 あのシュワルツネッガーは、東京でトロを30貫(この字でいいんだっけ?)たのんだというが、それがトロの食べ方なのか? こころある日本人は疑問に思わないだろうか。

 ・・・でも、世界で最も売れていて、エビデンスも豊富なDィオバン、使いますから許してください m(o)m

2006年05月12日

学生時代

 別の場所で、「パターン認識問題」について書いていて思いだしたこと。

 筆者は、中学・高校生時代、「学校で教わったことなど何一つなかった」と豪語していたが、そうでもなかったことに気がついた。
 中学二年(一年だったか?)の時、筆者は「コンピュータは人間を超えられるか」という題で、学校の弁論大会に出場した。筆者の結論は、「創造力にあり」という、きわめて平凡なものであった。
 会が終わった後、それほど親しいというわけでもなかった、隣のクラスの数学教師の自宅(下宿)に招かれた。彼は東大教育学部の出身で、ほどなく母校の武蔵中学の数学教師に迎えられ、学校を去っていった。たぶん、彼は母校(武蔵中・高)と比べて質のわるい筆者の出身校で教えることが寂しかったのだろう、と今になればわかるのだが、自宅へ招いた筆者に、自分の卒業論文の写し(ガリ版刷りで、しかも手書きだったので、判読はかなりむずかしかった ^^)を渡して、
「コンピュータの限界はパターン認識にあり」
という持説を説明してくれたのだ。

 筆者のような、自分より知識も思考力も遙かに劣る学生に対して、対等の研究者であるかのように接してくださったその先生の姿勢は、今でも筆者のどこかで生きているようにおもわれる。
 ちなみに、その後の計算機科学の進歩により、当時問題だったパターン認識問題はほぼクリアされた。その問題の以前は「ソーティング」が一大テーマであり、図書館情報学という分野の精力がそこに傾注されていたことを筆者が知るのは、そののちの話である。

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2006年05月18日

どこまで素直にものごとを視るのか

 mononohazumiより。

 素直に書かれた文章のように見える。いや素直に書かれている。にも拘わらず、常にものをナナメに見ることに慣れている筆者は、論旨の流れに逆らって読みたいという欲望を禁じ得ない。
 おそらくこの文章の書き手であるhazumi氏(省略失礼)は、むかしむかし古老が囲炉裏端で子供に語ったという「怖しい話」の伝統、大家族のなかで成人するまでに誰か複数の死に直面した、という麗しき伝統を念頭に置いているのだろう。そういう死や恐怖という側面が「消毒」されてしまっていることに氏は「物足りなさ」を感ずる。すると、氏の文章に共感する立場からは、当然「伝統への回帰」という方向で話が続けられてゆくだろう。
 筆者は、お笑いやグルメの話や、ゲーム感覚の人生のハウツー番組、そしてデフォルメされ視聴者受けする商品となった相談事、などは、マスコミ(とくにフジテレビ)による愚民化政策である、という側面を否定はしない。が、それはやはり物事の一面のみを見ているように思われるのだ。
 そうではなく、ある意味それを制作しているTV局側の意向とはちがって、それを視る視聴者は、「自己防衛」として、無意識のうちにそういった番組を選択している、とも取れるとおもうのだ。

 どういうことか。ほとんどの日本人は、まじめに生きることで、市民運動等で社会と関わってゆくことで、この日常が変わってゆく可能性に絶望しているように思われるのだ。つまり、<<隠さなくとも絶望は随所に転がっているがゆえに、あえて触れようとしない>>ように筆者には思われるのである。これは、「闇の物語は消毒され隠蔽されている」という氏の見方とはまったく相反するものである。
 特に、最近のニュースを追っていると、伝統的な陰謀論ではないが、やはりある特定の階層が、自分たちの生存に有利なように社会を固定しているそのプロセスがあからさまに示されているように、筆者には思われる。(筆者は見ていないが)「その論理を批判するにせよ、論理の受益者としてシステムに組み込まれるにせよ、東大に入るしかない」という「ドラゴン桜」の台詞、そしてそれが支持される背景には、この再生産のシステムはメタレベルで多くの日本人が認知していることを表す、と言ってよいだろう。

 そのある意味絶望的な「構造」は、再三指摘されつつも、それを決定的に変えるプロセスは提示されていない。少なくとも共産主義は死滅したし、北欧流の社会民主主義は特別な条件を満たす国家でしか通用しない政体であると思われる。では日本はどのように進んでいけばいいのか。この質問に対する回答が与えられるどころか、保守二大政党制が確立しつつある今、システムを温存する方向へ潮流が向かいつつあるところに、「ふるきよき時代に帰ればよい」という議論の限界があらわれている。

 まずは現実を直視すること。直視することに快はない。その不快さに堪えてゆくことが出発点となるのだろう。

2006年05月19日

ヴィヴィッドな悪夢

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 最近、よくリアルな夢を見る。リアルというのは、目が覚めてからも内容をはっきり覚えており、実生活と関連がある夢である。大抵は悪夢で、目覚めや後味が悪い。こういう夢を見る原因はわかっている。PCの画面を長く眺めていると、眼の問題を抱える筆者はかなり疲労が蓄積して、それが原因で睡眠に影響が出るらしいのだ。対策は「PCの画面を見つめないこと」なのだが、複数のサイトに記事を書くようになってからは(やめりゃいいのに)そうもいかない。抜本的な対策が望まれる。

昨日の読了 なし

 もうすぐ大作が読了する模様。スイスの山村氏から指摘のあったロシアの現状につき、「プーチニズム」(NHK出版)を1/3くらい読んでみたが、つくづくイヤになった。本が悪いというわけではない。この本の内容が真実だとすれば、現状はソルジェニーツィン時代のソ連よりも後退していることになるからである。

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2006年12月23日

劣等感(1)

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 この話をここに書くつもりはなかったのだが。

 筆者を直接知っている、面識のある方も、そしておそらく面識が直接ない方も・・その度合いは後者のかたのほうが大きいと思われるのだが・・筆者の能力を過大評価されている方が多いのではないかと思っている。

 そして、過大評価された方が、自然と身の回りに集まって来てしまうことは、当人にとって幸せなのか、不幸なのかはよくわからない。そもそも、等身大の自分を見てもらう、ということが、人間関係において本当にありうるのかもよくわからない。自分の恋人や友人のことは、通常過大評価するに決まっているからである。そしてその過大評価からいろいろなプラスの、有益なものが生まれてくるのだと、筆者は思っている。

 さて、客観的に見ると、筆者はさまざまな点で、多くの日本人ができることができない、という欠陥を持っている。そしてその欠陥のいくつかの点は、本人が気にしている部分もあるし、気にしていない部分もあるし、肉体的欠陥に属するようなことは諦めている。とりわけ、筋肉が疲労しやすいことによる筋力の問題(昔からちょっとした運動で簡単にCK・・クレアチンキナーゼ、筋肉内に存在する酵素・・が上昇するので、ひょっとしたら遺伝性の筋疾患の保因者なのかもしれない、と思っている)や、眼位の異常(斜位)による立体視の能力の低下、ひどい眼精疲労(特に液晶画面を見ているとき)などについては、もう解決は諦めている。

 筆者が思う、「周りのひとびとができて自分にできないこと」は、こんなものである。

・マリンスポーツ&ウィンタースポーツ
・楽器演奏、譜面読み
・絵を描くこと
・英会話
・クルマの運転(免許は持っている)

 とくに、「何年間かずっとやっていることが重要」なことに関しては、ほぼ全滅である。

 どうしてこんなことを書こうと思ったか、というのは、先ほど取りあげた「文化資本」と関連する内容であるし、先日起きたある出来事のこともある。

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2006年12月24日

劣等感(2)

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 きょう気付いたのだが、筆者はほとんど「習い事」をしたことがないのだ。珠算塾には通ったことがあったけれども(小学校四年まで)、塾や予備校さえ嫌いで、結局短期の講習以外は受けずに済ませてしまったくらいである。

 習い事は子供本人の自主性と、親の熱意がせめぎ合って決められるものである。果たしてそれだけだろうか? いや、そうではない。そこには、親の社会階層による、厳然とした暗黙の共通了解がある。

 どういうことだろうか。
 たとえば、筆者は、国立の医大を卒業しているが、高校在学当時、そのような学校を志望している同級生はほとんど皆無に近かった(私立の医大志望者はそこそこいたけれど)。これが、コンスタントに国立医大に卒業生を送り込んでいるような学校であれば、生徒の間にある常識が共有されるようになる。例えば、受験で有名な神戸にあるN高校では、

「生徒は全員同じ参考書を使用している」

 という話を、卒業生から聞いた。ほんとうかどうかはわからないが。。。

 入学してからも、まったく高校時代からの知り合いもおらず、むしろ他学部の友人と付き合うことが多かったために、「医学部の常識」を知らないまま(例えば、学生時代に短期留学するとか、USMLEの勉強会をするとか、そういったことには筆者はまるで関心がなかった)卒業してしまった。なので、いまだに筆者は、

「同窓生の文化」

 について、よくは知らない。筆者が他の同級生と大きく違った進路を歩んでいるのも、それが一因である。例えば、筆者の同級生はほとんどが大学院に進学しているはずであるが、それをしていないのも、大学の医局の所属を外れてしまったことも、それが一因ではあろう。

 話がじゃっかんそれた(まるで無関係なわけでもない)。
 ひとことでいうと、筆者の両親には、

「子供に習い事をさせよう」

 という、文化的な習慣がなかったのである。それは、筆者のみならず、筆者の兄も同様であったことを記しておけばじゅんぶんな証明になろう。

2006年12月25日

劣等感(3)

 断わっておくが、筆者は今両親とは良好な関係にないとはいえ、彼らを恨んではいない。ふたりとも父親のいない環境で育ち、高等教育を受けぬまま(高校は出たが)ノン・キャリア地方公務員として生計を立て、結婚と同時に母が退職してしまった、そんな状況で、二人の子供に「資本」として残せるのは、高等教育(兄も大卒である)しかない、という決断だったのだろう。その高等教育を受けたひとびとが将来所属する「階層」に相応しい文化資本を身に付けさせる、という発想が、彼らにはなかった。というより、自分たちが生活で精いっぱいの子供時代を送って来たために、子供に実用的なもの以外の(珠算は実用的だと考えていたのであろう)習い事をさせる必要を感じなかったのであろう。

 また、筆者は(学費が安いことで有名な)私立中高一貫校に通ったわけだが、その同級生は、多くは中小企業の子弟であって(中には開業医の子弟もいたが)筆者が大学に入学してから身を置くようになった、官僚、銀行員、研究者、テクノクラートなどにある程度共通する文化的な背景を共有することはなかった。そして、ホワイトカラーの末端に属する両親の生活意識を身に付けていた筆者は、そのような文化資本を身に付けることよりも、資本そのもの、つまり技術や学歴を取得することのほうが、遥かに重大な関心事であった。

 別のところで、「東大受験の時にキレイな女の子を見つけて、即座に口説いた。試験なんかどうでもよかった。たまたま合格し、入学後はプログレのバンドに入った」という人物に対する不快の念を表明したのだが、それはすでにさまざまな文化資本(おそらく「東大に合格する」ということが、それほど珍しくない階層・学校の出身なのであろう)を身に付けている「強者」に、その人物が属すると思われたからである。

 じっさい、医学部に入学してみると、いわゆる「ガリ勉」タイプはほんのごく少数で、スポーツで全国大会に出場したり、プロ並の楽器演奏の腕前を持っていたり、といった、「文化資本」を身に付けている人間のほうが、むしろ大多数なのであった(これは、そういう世界をご存知ないかたにとっては、意外なのではないだろうか。筆者にとっても異次元の世界であった)。

2007年01月03日

所感

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 よっぽど気に入ったのか、おそらく同じアオサギがまた飛来していた。意外に餌が豊富なのだろうか、それとも別の理由があるのだろうか。謎である。

 たしかこのblogを書き始めたのは一昨年の十二月で、最初の部分は筆者の手違いで消えてしまったのだが、12月20日くらいであったように記憶している。
 今、こちらへトランスファーを行っているが、以前書いたものはなかなかきちんと書いている。今筆者自身が読み返してみても、思わず読みふけってしまうくらいである(笑)。
 思えば、amazonへの書評の投稿が、あまりにも検閲されてしまうことに腹を立てたのが最初の動機だった。しかし、気づいてみればいつの間にかamazonのベスト・レビュアー100に(苦笑)。いくらか売り上げに貢献してしまっていたようだ。

 ただ、筆者はアフェリエイトは嫌いなので、やらない。重要なことは筆者の元に収入が入ることではなく、筆者の記事を読んでくださったどなたかが、新しい世界をかいま見る、ということだからである。

 また、ちょっとはまじめに書いてみようかな?(笑)

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2007年01月04日

劣等感(4)

 筆者が、ホワイトカラー最低層から、知的専門職階層へと「階層移動」を遂げる過程で、いろいろな階層・・多くは、もちろん両親が大卒で、ある一定以上の収入を持つ階層の出身者が多かったのだが・・に接するにつれて、「違和感」は増大していった。

 ブルデューが指摘するように、どうやらある職業と、学歴と、価値観や余暇の過ごし方、ライフスタイルとの間には、緊密かどうかはわからないが、相関があるらしく思える。それを一言で言えば、階層(階級と言った方がいいのか?)間の「文化」のちがい、ということになる。

 ブルデューの踏み込みは、それを単に「文化が違う」と言っただけではないことである。筆者の理解では、ブルデューの主張は二つに大別される。

1)階層(階級)は、再生産される。
2)階級の再生産には、文化の伝承(文化資本)が重要な役割を果たしている。

 これは、どういうことだろうか。
1)階級の再生産にかんしては、政治家や医師の子弟に、親の職業を継ぐ人間が多いことから、容易に想像がつくと思われるが、それをブルデューは(ある程度)実証的に立証している。
 しかし、その立証は、ブルデューよりも、もっと厳密に証明している社会学者は、いくらでもいる。だから、彼の本領は、その実証的な研究ではない。
 むしろ、彼の主張は、2)に集約されていると思われる。

 このステートメントは、よく読むと、二段に分かれているように思われる。
a)文化は伝承される
b)文化の伝承によって、階層も伝承される

 この二つの命題は、さらに詳細に検討が必要であるように思われる。

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2007年01月06日

劣等感(5)

b)文化の伝承によって、階層も伝承される

 とは、どういうことだろうか。これは、複数の意味を包含していると思われる。まず、親の階層を子が受け継ぐためには、文化資本を保持していることが有効であるということが前提として挙げられよう。
 これは、例えば、GWBやわれらがABSZが大統領や総理になったことを想起すればいい。もちろん、彼らは資本として「地盤」を受け継いでいるわけだが、何よりも大統領や総理大臣という職が、彼らにとってとても身近なもので、心理的抵抗がなかったこと、そして周囲も、彼らがそのポジションを占めることに疑問を感じず、サポートを受けることができたこと、そして、彼らがそういうポジションの人間が身に付けるべき「教養」(文化、と言い換えた方が適切だろう)が何であるか、を知っていた、ということが大きいだろう。

 つまり、具体的な方法論を学んだ、というよりは、心理的・文化的なアドバンテージが、彼らにとっては資本としての価値を持った、と思われる。

 逆に、例えば医師の子弟が医師になるような場合は、まず何よりも、同じような階層(=医師仲間)の子どもが進学するような学校へ子弟を入学させることを、親は考えるだろう。そこで、同じような目的を持ち、似たような環境で育った仲間を得ることで、ある<文化>を共有するようになる。その文化の中で育つことで、彼らは、「自分たちが将来医学部に入学して、医師になるのはごく自然なことである」という意識を持つようになる。

 また、より実用的な効果としては、「予備校にはこう通いなさい、いつ頃から受験勉強をしなさい、こういう参考書がいいんですよ」のような、受験に関する情報を多量に入手することができる。そして、なにより、受験勉強に取り組むことが、自然な文化となって同級生に共有されていることは、心理的には大きなサポートとなる。いわゆる名門校へ子弟を送り出そうとする親の熱意は、こういった「文化資本」を学校においても獲得させよう、という、もっともな目的に基づいている、ということができる。

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2007年01月07日

劣等感(6)

 ブルデューのいう「文化資本」は、階層(階級)の再生産のキー概念であるが、それは単に再生産のための資本であるに止まらない。その本体があくまで「文化」である以上、ある文化的な価値観に基づいたライフスタイルを実践することで、そういった文化を持たないひとびとに比べて、多様な楽しみを享受することができる、ということになる。

 心理学の考え方からすれば、ひとは「ストローク」を与え続けられなければ、満足することのない存在ということになる。そして、そのストロークとは、他人から与えられるもの(愛情、承認、称賛など)と、自分自身に与えるもの(目標達成感、自己愛など)とに分けられる。
 高等教育を受けて、それに見合う、あるいはそれ以上のポジションにつき、ある一定の社会的ステータスを手に入れる(ある階層に属する)ことは、他人からもストロークを与えられるし、また自分自身に誇りや満足感を持つことにもなる。つまり、生活のためだけでなく、ストロークを得るひとつの手段となっていることがわかる。

 しかし、それは自分自身が自己実現を目指すための、一つのルートに過ぎない。自己実現のためには、そのために必要な手段をたくさん持っているほうが、より多くのストロークを得られる可能性が高いだろう。そして、その手段が、ひじょうに広い言い方をしてしまうと、「文化」ということになる。

 そして、その自己実現のための手段というものが、属する階層によって独占的に所有されている場合がある、というのが、ブルデューの主張のひとつである。例えば、音楽という文化を例にとってみると、「ロックバンドを組む」とか「アコースティックギターを弾く」という手段は、比較的多くの階層のひとびとにとって、到達可能なところにあった。だから、以前筆者が東大卒のロックバンドメンバーに不快感を感じたのは、「本当に好きでやっている、というよりも、自分が属する階層からみると、下の人間のところに降りてくるようなことをやっている」という、ある種の「蔑視」を感じたからである。
 これとは逆の例を挙げれば、歌舞伎(というより、能か)やオペラに小さい頃から親しむ、とか、家族で弦楽四重奏が組める、というようなレベルは、かなり高い社会階層に属していることがほぼ条件となる。筆者が「独占的」と書いたのは、そういう理由である。

2007年01月08日

劣等感(7)

 ここで筆者自身のことに戻ろう。筆者はともに高卒の両親のもとに生まれた次男であり、すでに母親は退職して、扶養控除が受けられる程度の収入しか得られない仕事しかしていなかったから、生活水準としては、医師を輩出する階層ではなかった。事実、もっと上の世代ならともかく、筆者の世代から後をみると、ほぼ同じような階層の出身者を見いだすことはかなりむずかしい。そして、進学した学校は、中学から私立であったとはいえ(これは両親にしてみれば、かなり勇気の要る決断であっただろう。いくら、筆者の進学した学校が、都内でも有数の学費の安い学校であったにせよ)、中堅私大の入学者を大量生産するようなたぐいの学校であり、医学部進学者はそれなりにいても、そのほとんどは開業医の子弟であり、私大の医学部へ進む人間がほとんど、というような環境であった。

 当然ながら、最も学費が安い慶応大学医学部ですら、進学ができないような経済状態であったために(しかも、慶応は卒業後、ほぼ十年くらい無給を強いられるため、親の資力がカギになるという噂がある)、筆者が医学部を選ぼうとすれば、国公立または防衛医大・自治医大という選択肢しかなかったということになるが、これらの学校を受験しようという同級生はほぼ皆無であった。つまり、将来これらの学校に入学しよう、という生徒に共通する「文化資本」を、家庭からも、学校からも、筆者は得ることができなかった。

 大学に入学した後に、同級生と広く交際することによって、彼らの浸っている「文化」を吸収して、<<医師らしく>>行動できるように軌道修正することもできたのかもしれないが、筆者は入学してまもなく、ブルデューがリセに入学したときのことを書いているような「疎外感」を感じた。結局、卒業するまで、筆者はほとんど医学部の同級生とは親しく交わることのないまま、現在に至っている。例えば、筆者の出身大学の多くの卒業生は海外留学を経験すると思われるが、それに備えてUSMLE(United States Medical Licensing Examination)の受験準備をしたり、夏休みに海外の大学へ研修に行ったり、それ以前に英会話学校へ行ったり(笑)といった行動を、筆者はまったくとらなかった。そもそも、当時は大学生としても珍しく、海外への興味が皆無であったことも関係してはいたと思われるが。

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2007年01月09日

劣等感(8)

 前も述べたように、筆者は今自分が同級生の多くが辿るスタンダードな道のり(医局に入局し、大学院へ進み、博士号を取り、大学で研究を続け、海外留学をする)を踏んでいないことに対しては、特別な劣等感は抱いていない。つまり、文化資本を身に付けなかったことで、自分のキャリアが変則的なものになったことに対しては、特別な感情はない(但し、もうかつての同級生と再会したいとも思わないし、特別親密な関係を保ちたいとも思わない。それは劣等感がそうさせているというよりは、筆者にとって彼らが「縁なき衆生」だから、という理由である。

 そうではなく、筆者はブルデューの主張は、ある核心を突いていることは認めつつも、文化資本を学歴とのみパラレルに結びつけるという方法に違和感を感じ始めていることも言っておかねばならない、と思っている。まず、筆者の経験上、ある職業に就くためには、たとえば医師のような資格職の場合には、医大を卒業していることが絶対条件となるが、その医大の「学歴」と、卒後の医師としての実力が、どのくらい相関するものなのか、ということに関しては、「必ずしも相関しない」と言わざるを得ない。では、どこが違うのかといえば、「歩留まり」である。本人にやる気があり、優秀な資質を持っている場合、いわゆる「偏差値の高い大学」へ進学することで、本人のチャンスは増える。

 しかし、最近の動向を見ている限り、そうも言えないようである。特に、若い世代のオピニオン・リーダーと言われる人たちは、(この動向も筆者にとってはちょっと不快であるとも言えるのだが)国内の「あまり有名でない」大学を卒業した後に、海外(主に米国)に渡り、臨床研修及びに卒後研修を積み、board(専門医資格)を取得して、その後日本へ帰国しているというパターンが多いのである。つまり、日本における「学歴」は徐々にその効力を失い、「海外でどのくらい最新知識を身に付けてきたか」が日本におけるポジションへ直結している傾向が徐々に強まってきているように思われる。

 この事実自体も、根強くわれわれに「欧米信仰」が残っているようで、それが筆者に不快感を感じさせる理由なのだが、このような「海外での研修」に要求されるハードルとしては、金銭的な問題以外には、第一に「語学力」である。英語でコミュニケーションを取る能力は、典型的な「文化資本」のひとつであろうが、近年その階層的ハードルは、年々低くなってきているように思われる。つまり、以前はかなり親の社会的地位や収入に依存していた部分が、だんだんなくなりつつあるように、筆者には思われる。

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2007年01月11日

劣等感(9)

 文化資本は「資本」ということばが使用されているように、最初から学歴との相関を念頭に置いてつくられた造語である。だからそれを非難するのはおかど違いであるが、この「資本」は何も自分の生活の安定やある階層への移動を目的として使わなくても当然いいわけである。

 また、学歴と社会階層との相関関係は、徐々に崩れつつあるとすれば、古典的な「文化資本を身に付けて、高い学歴をゲットして、社会階層を上昇して豊かな生活をしよう」というようなスローガン(これが学歴社会の原動力であろう)は、力を次第に失ってゆくはずである。

 筆者は、階層に見合った、ある階層で生きてゆく(生活していったり、交際していったりする)ために必要な、道具としての「文化資本」ではなく、純粋に自分が楽しんだり、自己実現をしてゆくための「文化資本」を持っている人に対する憧れがある。そしてその裏返しが劣等感になる。

 具体的な例を挙げれば、筆者には、「何か一芸に秀でている」ものが、何もない。それは二つ理由があって、小さい時からずっと習っているような「習い事」の経験がほとんどないこと(珠算くらいしかない)、そして長じては、何か新しいことをはじめる(特に、人から何かを習うというような)ことに関して、常人では考えられないくらいの「恐れ」があったことである。だから、いろいろとしてみたいことはあっても、サークルに参加するとか、教室・学校に通う、ということが、心理的にとてもハードルが高かったために、「これなら誰にも負けない」ところまではいかなくとも、人に披露できるような「芸」を身に付けられることが、絶えてなかったのである。

 その結果、筆者には、何か他人と一緒に行ったり、あるいは一人ですることのできる、レクリエーション(あるいは技能)はほとんどまったくなく、端からみれば、とてもつまらない、面白みのない人間のように映っているにちがいないだろう、と思われる。

 結局、筆者の失敗は、生活の安定を第一に考え過ぎて、学歴や資格の取得にばかり力を入れ過ぎてしまったために、著しく文化面でバランスを欠く行き方をしてしまってきたことである。なので、筆者のコンプレックスは、そのような「一芸」がない、ということにほぼ集約される。さらに、今から、「周りのみんなはたいがいできるけれども、自分はできない、あるいはやらない」ようなたぐいの習い事(たとえば、スキーとか英会話とか)をはじめることに、非常に高い心理的な抵抗を感じてしまう。遥かに年下のひとびとと並んでスタートラインに立つことが苦痛なのである。この屈折した自尊心をどうにかしない限り、筆者が変わってゆくことはできないようにも思われる。

 この年齢になって、人に誇れる「一芸」が、仕事の世界を除いて(仕事でもあるとは思われないけれども)何もない、というのは、自分の生き方が甘かった、失敗だった、と言われても、まったく仕方がないのではなかろうか。

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2007年01月12日

劣等感(10)

 きっと、真の問題は、筆者が劣等感を持っている、というそのことじたいにあるようにも思われる。コメント欄でちょっと触れたように、ほんとうに「人間はみな平等」と思っているならば、「誰かと比べて自分は優れている、劣っている」という感情は、生じようがないからである。

 理念としての「人間は平等である」ことを理解することと、それをほんとうに自分のものとして信じられる、そしてその確信のもとに行動できることとは、まったく別のことである。わかっているだけでは何の意味もない、わけではないが(わかっている、そして認めている、ということは、少なくとも「言説」を構成することにはなるから)、それはほんとうにわかっていることにはならない。行為化(acting out)することが、わかっていることであると筆者は考える。

 もちろん、生きてゆく上で、よりよい容姿を持ち、スポーツ万能で、有り余る金銭を持ち、服装のセンスにもスキがなく、多芸多才な人物なら、異性にはもてて然るべきだろう。しかし、それは彼/彼女の「人間としての序列」などとは何ら関係がない。異性にもて、同性に好かれるその魅力が、人間をランキングするわけではない。そして、多くの保守主義者が信じているように、「社会的に貢献できる能力」を持って、人間の価値の高低を決める思想にも、賛同することはできない。たしかに、動物は自助の能力がない個体を自然淘汰というかたちで選別してきたのかもしれない。だからといって、それと同じ論理を人間社会に持ち込むわけにはいかない。ただし、「楢山節考」のように、一切の例外を許さないことを条件に、ある一定の年齢に達したばあいに、世の中から引退してもらう、というような方法は、ありうると思われるし、実際に生産力の乏しい地域では、実践されてきたのではないか。

 筆者が思うのは、「自分には、好かれる/愛される資格/価値/要素がない」ということである。人間に上下はないかもしれないけれども、「人としての格の高低」はあるような気はしないでもない。
 たとえば、筆者は新しいことに取り組むことにきわめて後ろ向きだ。さらに、累々述べてきたように、国立大学医学部卒業という点では、学歴競争における勝者(すごく嫌な言い方だが、合格者数はゼロサムという世界である以上、競争は必然的に発生するから、しかたがない)ではあるかもしれないが、入学後にとりわけ勉強したわけでも、熱心に講義に出たり、研究室に出入りしていたわけでもないから、「ガリ勉」ですらなく、学歴にマッチする(このような嫌みな言い方をしなくてはならないところに、ブルデューが「文化資本」と名付けたゆえんがある)「教養」や「特技」は、ほとんど何ら持ち合わせていない。つまり、こういう尺度でみてみれば、人間として付き合っていくうえで、とてもつまらない部類に属するだろうと思われる。

 特に、ネガティブ・シンキングにもかかわらず、ものごとのなりゆきについては極めて楽観的なところの落差は、どうしようもないように思われる。比較的抑鬱傾向が強いにも拘らず、一度の(演技的)自殺未遂を除いては、あまり死のうと思ったことがない、のは、「後ろ向きのくせに楽天的」な性格のせいなのだろうが。

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2007年01月15日

TOEIC

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きょうは、久しぶりに受験生に戻って、燃えてきた(笑)

でも、退屈な試験だったなぁ。。。
就職のために本気で受験するひとは、可哀想だと思った。
受験者の推定八割が女性ということは、みな就職用なんだろうな。
幸いあれ。

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2007年01月17日

日本人的心性

 何だか寝られないので書いてみる。

 語学(ここでは主に英語を取りあげる)の習得に関係する話。日本人は、特に母語との関係以外にも、語学習得が容易でない「心性」を持っていると言われている。それに思い当たる出来事がいくつかあるのを思い出す。

 例えば、異質なものに対する同化圧力。目立たないようにしよう、とか、スタンドプレイを演じようとする人間に対してまゆを潜めるような心理は、人一倍持っている。いかにも「日本人的」だ。しかし、こういう心性は、「個の尊重」といった、politically correctな理性を持つことで、抑制可能である。

 しかし、外国人恐怖(xenophobia)とか、相手の言葉がわからないときに、(英語なら)"Pardon?" とか、"What do you mean?" とか言って追求すべきところ、「曖昧に笑う」という、(たぶん)日本人独特のパフォーマンスをしてしまう、とかは、もっと感情的なレベルだけに、どうしようもない。筆者は、基本的に(外国人に限らず、見知らぬ人に対して)オープン・マインデッドと凡そ正反対の性格だ。しかも、当然のことながら、英語圏の人間から、こちらの会話を鼻で笑われてしまうような事態を極端に恐れているし、そのような場合には、「なにくそ!」と思うより、逃げてしまう人間でもある。なので、ますます話す機会を持たないし、持っても可能な限り話さないで済ませようとする。だから、上達することなどあり得ない。

 たぶん、いわゆる集団主義的かつ島国根性といった、「日本人らしい日本人」の本性が、骨の髄までしみ込んでいるらしい筆者が、ホンネは英語を学ぶことが苦痛で苦痛でしょうがない、というのは、どうしようもないらしい。こればかりは、努力で克服できるようなものではないのであろう。おそらく、難民として異国へ暮らさなくてはならなくなったとしたら、筆者のような「典型的な日本人的な心性を持つ」クローズド・マインデッドな人間は、最後まで同化できずに終わってしまうのだろう。

 と、自分でも鬱になるようなことを書いてしまうのは、筆者の周りにいる方々は、この「日本人的心性」を突き抜けた、どちらかというと日本人の平均よりはずっと「オープン・マインデッド」な向きが多いように思われるからである。

 「そんなにイヤならやめればいいじゃん」という声が、あちこちから聞こえてきそうだけれども。

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2007年01月21日

酒について

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 読書量が減ってしまったために、必然的にこのblogの更新が滞ってしまっている。さいきん、アルコールを飲む機会が激増しているので、酒についてまとめておく。

・吟醸酒と純米酒
 「純米」が付かない吟醸酒は、フルーティな香りを出すために醸造用アルコールが添加してある。すっきりしたキレがいい味になるが、日本酒らしさは遠のく。「純米酒」あるいは「純米吟醸」は、醸造用アルコールを加えていない酒のことである。

・吟醸酒、大吟醸酒
 前者は精米歩合が60%以下、後者は50%以下。醸造用アルコールは白米重量の10%以下でなければならない(ということは、醸造用アルコールが加えてある酒の中には、発酵によって出来るアルコールの分量が少ないために添加してあるというものがある、ということだ)

・山廃仕込
 もともと、酒造りの工程(酒母を作る)には、米をすり潰す「山卸」という作業が入っていたが、これは大変な重労働であるために、これをやらなくてもよい酵母が発明された。そのため、山卸をしなくてもよくなったために「山卸廃止」され、これが「山廃」となる。熟成期間が長くなるために、アミノ酸含有量が増える。

・生酒
 酵母や酵素による酒の品質低下を防ぐために、通常は出荷前に加熱をするが、それを特殊なフィルターを使って取り除き、非加熱で出荷された酒。低温保存が必要で、日もちしないが、フルーティな香りがする。

・上面発酵と下面発酵
 一番大きな違いは発酵温度。上面発酵では常温、下面発酵では低温で醸造される。前者は液面に酵母が浮上してくる。イギリスやベルギービールでは前者が、日本の大手メーカーのビールはほとんどが後者である。

 追記するかもしれない。
 

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2007年01月28日

Windows Vista

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 ついに発売になるらしい。

 そういえば、筆者は、メインに使用しているOSがMacintoshだということもあって、さほど関心がなかったのだが、気づいてみればWindowsにactivationが要求されるようになって以来、OSをWindows 2000からアップグレードしていないのだった。

 筆者のマシンは、いまだにAthron 1.1GHzだ。この頃は、まだベース・クロックを今のように上げることは、技術的にはむずかしいとされていた。また、デュアルCPUのマシンは存在したが(筆者も一時所有していたが)、あくまで「馬力の強化」であって、二倍早くするようなアルゴリズムは、まだOSには採用されていなかった(今はZetaとなったBeOSが、軽量かつデュアルCPUを前提として設計で、一時注目されていたのが新しい動きであったろう)。

 今でもハードウェアの進歩に比して、ソフトウェア(OSも含めて)の進歩が遅々としたものであることにはかわりがない。筆者が今度採用される技術で関心を持っているのは、(OSとはあまり関係はないけれども)microsoftが提唱する、新しい画像フォーマットである。今、通常のユニバーサルな規格としてはjpegが使われているけれども、これは周知の通り、かなりの情報を欠落させてしまう。メディアもネットの速度も増大した今、多少ファイルが大きくなっても、情報を欠落させない新たなフォーマットが求められているのだ。この規格は、最大32bitの階調をサポートするということなのだが(今はtiffでサポートされる16bitが通常最大とされている)、そういう意味でも楽しみな規格である。提唱するのがM$であるところは、気に入らないけれども。

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2007年02月01日

ことばの誤用

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 あえて名指しすることはしないが、愛読している某ブログに、「マスコミの言葉遣いがおかしい!」という恨みがましい文句が載っていた。
 ことばに、清く正しく美しいものなどあるのだろうか? この問いに対して、筆者は長らく「ある」という肯定の答えを以て対していたのだが、社会言語学者の田中克彦氏の著書を読んでから、その考えは変わった。
 正しい言語がある、という見方は、ピジン語、クレオール語を否定することと同じメンタリティの持ち主がすることである、と。
 そもそも言葉は生々流転するものだ。外来語が入ろうと、「やばい」が肯定の意味に使われようと(これは、英語で"badly"が肯定的な意味に使われるのと同じような「誤用」であり、universalな傾向ではないのだろうか?)、そういう使い方をする人間が多数を占めれば、それは誤用ではなく、新しい日本語として定着するのだ。

 そもそも、くだんの人物が例として挙げている「全然」については、例えば米川正夫訳「戦争と平和」(トルストイ)は、戦前にはじめて刊行された書物であるが、「ぜんぜん」を肯定の意味に用いている。ということは、「全然」が否定後に接続して用いられるものである、という「感覚」は、おそらく戦前にはなかったのではないだろうか(江戸時代には云々、とこのブログの著者は書いているけれども)。
 時代によってことばは変わり得る、というアタリマエのことをわからないというのは、大変申し訳ないが、知性が低いと言わざるを得ないのではないだろうか。

#スミマセン、かなり個人攻撃が入ってます ^^;

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2007年02月24日

総取り換え

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 Windows Vistaを導入するつもりではないが、既存のPCのアップグレードを図ろうとして、パーツがどのくらい生かせるのかが気になってきた。
 今の時点でわかっていることは次のことである。

・メモリはDDRが主流なので、買い替えは絶対に必要
・ビデオカードはAGPからPCI Express (x16)に移行してきているうえに、chipの発熱を抑えるためにファンが搭載されているものが多く、
・電源はATX 2.0規格でいいのであるが、マザーには5V 24pin、CPUにはEPS12V 8pinを要求するものがあり、特に12Vには十分な電流を供給するもの(20Aとか)が必要なので、Pentium4時代の電源は使えないものが多いようだ。

 さて、どうするか・・・
・AGPが刺せる旧型のマザーボードを探してくる
・低電力型のCPUを選ぶ
 と、たぶん最小限ムダを省くことができるが、省電力型CPUは割高。おまけに筆者の所有しているAPGビデオカードは、Vistaに対応していない。

 とりあえず、Vistaへのupgrade couponつきのXPを購入して、この最小限の構成としようかと考えている。それでも、トータルの出費は10万くらいになるんだよな。

一昨日の読了
 ロイ・ポーター「一冊でわかる 狂気」岩波書店 B

 フーコーのイデオロギー性を否定しつつ、医療史家として精神医学の歴史を辿ってゆくという方法をとっている。そのため、フーコーのような面白さには欠けるが、比較的公正中立な立場に立とうと努力しているようには思われる。この分野の書物は、誰が書いてもイデオロギー的に中立ということはありえないので、概論書と言えどもどういう立場のひとなのか、それをよく確認して読むことが必要である。

2007年02月25日

性的幻想の未来

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 友人のblogで、二股をかけられた女性の告白がきっかけで、恋愛談義に発展していた。筆者はつい羽目を外しいろいろと柄にもなく書き込んでしまったのだが、あらためて思うことがある。

 それは、

「愛のないセックスはむなしい」

 とか、

「愛する異性とでなければ、性行為はできないし、しても楽しくない(気持ちよくない)」

 という、一般的に流布されている性的観念もまた、人間の想像の産物だということだ。

 これはどういうことだろうか。
 つまり、岸田秀によれば、性に限らずほぼ100%の人間が作り上げた観念や実体は幻想である。さらに、K.ポランニーおよび栗本慎一郎によれば、人間は、性の快楽を最大限にすべく、その宗教や制度を作り上げてきた。

 おそらく、「愛する人間でないとセックスをしてはいけない/できない/してもつまらない」というのは、ロマンティック・ラブ言説が作り出した、最大の体制強化のための幻想であって、つまり「愛する異性と一生一緒に暮らし、性生活と子育てをその中に限定する」という、近代社会の一般的な枠組みを維持するために、広く共有された幻想である、ということだ。

 ここで注意しておきたいのは、それが幻想である、ということは、その個人にとって大して重要ではない、という意味ではない、ということだ。むしろ、各個人が持っている幻想は、その個人の生き方を大きく左右する、価値観や人生観と同義なのだ。

 世の中には、愛情と愛欲を一致させられない男性(女性もいるかも知れない)が多数存在する。その男性たちは、自分たちがおかしいのではないか、社会生活をうまく営めないのではないか、という恐怖を抱いている。しかし、性的興奮を惹起する「性に対する感受性」も幻想でできている以上、これは当然のことである。ただ、その幻想が、社会の多くの人間、あるいは体制と適合しないだけの話である。

 まあ、一般的には、愛情の相手と性欲の対象が一致していた方が、何かとやりやすいのかもしれないが、自分の性的幻想が社会のそれと一致しないからといって、その性的幻想を満たすためには多大な努力を必要とする(それは反社会的行動とみなされるために、それに付き合ってくれる異性を探すのはむずかしいだろう)だけであり、それほど気に病む必要もないのではないか、と筆者には思われる。

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2007年03月25日

radio SHARK 2

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 筆者はiPodのuserである。メインマシンはPowerBook 17inch(を、外付けモニタとキーボードで使うという、実にもったいない使い方をしている)である。

 さて、NHKは近い将来radioのネット配信(Podcast)をはじめると思われるが、現状ではtunerを使って録音するしか、iTune(またはiPod)で聴く方法がない。

 で、こんな製品がある。Griffin Technologyという会社の、radio SHARKという、USB接続のラジオである。現在でもOlympusのICレコーダーなどでは、ラジオをmp3形式にして録音することができるらしいが、このradio SHARKのいいところは、(Mac専用機といってもいいので)直接iTuneと連動できるというものである。

 値段もそれほど高くないので、近い将来NHKがPodcastの配信をはじめても腹が立たないくらいのものである。それまでの繋ぎとして使うには悪くないと思ったので、注文してみた。

2007年07月10日

なぜ人を殺してはいけないか

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 一、二年前に話題になった論点である。もし自分の子供から、「パパ(ママ)、どうしてボクは誰かを殺してはいけないの?」と尋ねられて、どう答えたらいいだろうか、という話である。

 まず見極めることは、この問いにどの次元で答えるべきか、ということである。

A)倫理的次元
B)利己的次元
C)社会的次元

 A)倫理的次元とは、「人を殺すことはいけないことです」という倫理的な規範を子供(他人)に形成させることが目的である。ここで注意しなければならないことは、倫理的規範には、合理的な理由は必要がないということだ。なぜなら、その規範を子供(他人)が受け入れるかどうかは、その合理性に依存するとは限らないからである。むしろ、不合理(と思われる)な理由付け、つまり、「キリストがそうしてはいけないと言ったから」のほうが、強固な規範として作動する可能性すらある。
 つまり、実は、この次元で説得を試みる限り、いかに優れた説明であろうと、結局意味としては等価であるように筆者には思われる。

 B)利己的次元とは、「自分の利益のためには他人を殺さないのが得策」という説得の仕方である。筆者には、この説明の仕方のほうが、現実的にはA)よりも優れているようにも感じられるが、これには致命的な欠点がひとつある。
 この説得の論理は、「キミに殺人の権利を与えるなら、人間は平等である以上、他人にも等しく殺人の権利が与えられなくてはならない。よって、キミはいつ何時誰かによって合法的に殺される可能性がある。ならば、キミが殺されない代わりに、誰かを殺してもならない、そうならないか?」というものだ。この文脈において、「キミ」が「殺される」可能性を否定しない場合、つまり、命を捨てにかかっている場合、他人の殺人を止めることはできないことになる。

 C)社会的次元とは、社会が成り立つためには殺人を許容してはならない、というものだ。たしかに、殺人のない社会のほうが生きやすいことは事実だ。問題なのは、その「生きやすい社会」の実現という利益が、殺人者にとっては、「殺人が行える」という利益を上回ることがなさそうだ、というところであろう。また、「社会生活のためには殺人は禁止すべき」という説は、サルなどの高等哺乳類でも同族殺しが存在すること、出生率が十分に高ければ、殺人が一定の割合で生じたとしても、人類は存続可能であることから、十分な根拠を持つようには、筆者にはおもえない。


 さて、もう一つの問題は、「殺人の禁止」が、人間にとって、
X)本質的なもの
Y)社会によって作られた(社会構築的な)もの
 の、どちらであるか、ということだ。

 これに関しては、文化的な考察としては、躊躇なく筆者は後者を取る。なぜなら、個対個としての殺人のみならず、戦争というかたちの大虐殺をも含めて、人類はかつて大量の同族を殺してきたし、これからもするだろう。そして、にもかかわらず、人類の総数は確実に上昇してきている。つまり、殺人は今のところ、人類の存続にさほど影響を及ぼしていないということが言えると思われる。
 それよりも、「殺人の禁止」は多くの社会で定まった「規範」であり、その規範のよって立つ理由は、B)C)の観点から「殺人は禁止した方が安定した社会のためには合理的であろう」という判断が成り立ったがゆえに、同じような規範を持つ社会が多いのであると考えられる。この場合、「殺人の禁止」は、「してはいけないからしないのだ」という、本質論的な議論よりも、「殺人はしてもよい」という考えに対して、社会が強い規範的なアレルギー反応を持つ、ということによって達成される。これは、まさに「社会の全員がそのような幻想を持っているから守られる」という、社会構築主義に合致する考えである。


 しかし、筆者には、実情としてはむしろ、「人は殺人をしない」のは、人間という種の遺伝子の中にプログラムされた、生得的な、本能的な現象だと思われる。そして、殺人をしたとしても、人類の出生率に合致する範囲内で、その殺人の量をコントロールするようなしくみが本来備わっていると考える。
 なぜならば、人類は今まで存続しているからである。つまり、言い換えれば、「多くのひとは、殺人の願望を持たない。あるいは、持っても、実行に移さない。それは、遺伝的なブレーキがかかるからである」ということだ。

 では、規範を変える、つまり、社会的に「殺人をしてもよい」という観念が構築された場合には、どうなるか。種としての人類の遺伝子的な本質と、人間の規範とが対立した場合である。そもそも、本質と規範とは対立しない、という楽観的な意見のかたもおられようが、そもそも人間とは本能が壊れた動物(岸田秀)という意見に従えば、本能と規範が対立した場合には、規範が勝つことになる。仏教(ジャイナ教だったかも)の修業の中で、息を自らこらえて死ぬことができた僧侶がいた、という話を読んだことがあるが、まさにそれと同じことが起きると筆者は考えている。


 よって、筆者の「なぜ人を殺してはいけないのか」に対する答えとしては、

・今の社会では「殺人を犯してはならない」と決められているから。しかし、それは社会的な規範・倫理であり、実利的な根拠は認められるものの、万人を納得させるだけの論拠は存在しない
・社会的に規範を変更し、「殺人は可」とすることはできよう。そして、規範が変更されたことで、殺人に対する遺伝的なブレーキは減弱する。その結果、その規範が世界的に拡大すれば、人類が滅亡することもありうる

 となる。

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2007年07月19日

プロテスタントに関するメモ

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・長老派
 ジャン・カルヴァンの流れに連なり、制度として「長老制」を採用する分派。カルヴァンの「予定説」を信じ、狭義では「ドルト信条」、「ベルギー信条」もしくは「フランス信条」、「ハイデルベルク信仰問答」の三つを信ずる宗派を言う。

・バプテスト
 アメリカで最も多いプロテスタントの分派。大きく米国バプテスト同盟(北部)と南部バプテスト同盟とに分かれる。後者のほうが優勢。洗礼の際、全身を水に浸すことが特徴。聖書の無謬性を信ずるのはこの会派である(つまり「宗教国家アメリカ」のイメージは、バプティスト、特に南部のそれの影響が大きい)

・メソジスト
 アメリカで二番目に多いプロテスタントの分派。ルター派に近い。救世軍はメソジストの一派。

・ボーン・アゲイン・クリスチャン
 「生まれ変わったクリスチャン」つまり、成人になって以降に、キリスト教に改修した人間を指すが、ほぼその「キリスト教」とはキリスト教右派、つまり福音主義やキリスト教原理主義(したがってプロテスタント)を意味する。ブッシュ(子)大統領が当然を果たすことができたのも、彼がボーン・アゲイン・クリスチャンであったことが大きいと言われている。

2007年08月02日

釣り記事

Ranking of eco-friendly cars

2007年08月04日

お知らせ

 サーバを変えるために、数日間アクセスができなくなるかもしれません。閉鎖する予定は今のところないので、ご諒承ください。

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2007年08月12日

MacMini

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 筆者のメインプラットフォームはWindowsマシンではなく、MacOSXである。今までは当然PowerPCベースのマシンを使ってきたが、職場で使っているPowerBookG4の遅さが目立つようになったために(デスクトップマシンでないことが原因かもしれない)、自宅で使っているもう一台のG4を職場に持って行き、自宅用の新しいMacを一台買うことにした。

 現在のMacintosh(デスクトップ)のラインナップは三つに分かれている。サーバといってもよいMacPro、一般人のユースを想定したiMac、そしてPCからの切り替えユーザをターゲットにしたMacMiniである。筆者にはMacProは高すぎるし(メモリ増設などをしているとあっという間に40万を超えてしまう)、iMacは液晶モニタに内蔵されているという点が問題だ(今液晶モニタはAdobeRBG対応機種が続々登場しており、デジカメを楽しむ層には必需品となりつつある)。そこで、現行のMacMiniのCPUが、Intel Core DuoからCore 2 Duoに切り替わったら買おう、と決めていたところ、めでたくこんかい切り替わったので、早速有楽町のビックカメラに出向き、入手してきた。

 使ってみて、このマシンのコンセプトがわかってきた。これはPCのcubeマシンと同じく、低発熱・低騒音のマシンなのである。発熱と騒音、そしてもちろんコストを抑えるために、CPUやハードディスクのスペックはやや下げてある。しかしそれは一つの見識とも取れよう。ともかく、以前使用していた三年前のG4と比べて格段のスピードアップである。かなり満足だ。

昨日の読了
 武田泰淳「身心快楽」講談社文芸文庫 C

 かなりの部分が岩波文庫の「滅亡について」とダブるので、そちらを買った方がよい。もっとも、重複していないものの中に、戦地から竹内好などに当てた手紙など、貴重なものも含まれているので、泰淳のファンならば入手してもよいだろう。

2007年10月20日

エム・バタフライ

 まだ観てもいない映画のことを書くのも何なのだが。

 この映画は、多くは帝国主義における宗主国と被植民国が、それぞれ男性と女性に喩えられ、その逆転関係を描いたものとして評されるようだ。少なくとも筆者が読んだ映画評はそのように解釈していたようだ。

 しかし、筆者には、もっと単純な問題のように思われる。

・恋愛の相手は異性でなくてはならないというのは、幻想である
・国家に対して、二十年間カマを掘られ続けるというかたちで忠誠を尽くせるものなのだ

 前者に関しては、相手の素性が発覚したときに、(もちろんスパイとしてだまされ続けていたことも含み)ショックに陥り、自己のアイデンティティを失い崩壊してゆく、という必要は、必ずしもないように思われる。かりに、ふたりの関係から機密漏えいという要素を取ってみたら、どうなるだろうか。長年愛し続けてきた相手が同性だと知っても、それを受け入れられるかもしれない。逆に言えば、人間は真実を知らなくても幻想のなかで十分幸せに生きられるということで、ある意味筆者はこんかい有害物質の中で生き続けてきたということを身をもってはじめて知ったわけで、ひょっとしたら外来を訪れる不定愁訴(頭が重い、やる気がない、からだのあちこちが重い、咽喉がいつもいたい・・・)の患者さんの中には、これらの当然の反応として症状が生じており、その中で生活できている「健常人」がいるために、無視され続けている、ということなのかもしれない、と思うのだった。

・異常な状態が持続していても、その中で生活できている人間が多数(ほんとうに多数なのかどうかは、確かめようがない)であれば、その異常な状態は問題にされない

 これはそもそも北半球ではメタボ、南半球では飢餓が一般的である、という数十年も放置され続けている現状が常態化している、ということに思いを致せば当然なのであって、米国で脚光を浴びているさまざまな肥満に対する手術はどうなの? とも思うし、そもそも生活習慣病の薬剤など、その10%くらいには税をかけて飢餓に苦しむ国々に送金すべきなのだ。

 さて、戦前の日本では生命を国家に捧げた人民が多数いたわけだが、ひとによっては死ぬよりも「カマを掘られ続ける」ほうがずっと苦痛である、という向きもあるだろう。しかし、人間は恐ろしいことに、「慣れる」という能力を持っている動物である。苦痛だ、変だと思っても、かなりの場合それに耐えられ、しまいには慣れてしまうものだ。筆者はいまだにカマを掘られたという経験はないが、肉体的に快感を感ずるようになるかどうかはともかく、精神的には、それをせざるを得ないような状況に追い込まれたら、いまはおぞましい、そのくらいなら死んでしまった方がいい、と思っていても、すぐに慣れてしまうのかもしれない。

 人間にとって最もオソロシイことは、この「慣れ」という感覚かもしれない。

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2007年10月29日

Leopard

 病人となると病気のことしか関心がなくなる。それはふだん患者さんに戒めることなのに、見事に自分がその轍にハマっている。まあ当然といえば当然の心理状態なのだが、小康状態にならない限りは、病気による生活の心配などが先に立って、人生を楽しもうという生産的な心的状態にならないものである。

 MacOSXの最新バージョンであるLeopardを買って、MacMiniとPowerBookG4に入れてみた。今の自宅でのメインマシンはG4のほうだから(据置きマシンは使用できないから、つまり筆者が長時間滞在できる部屋がダイニングしかないから)ここでの感想になるが、

「300以上の新機能といってもほとんど使ってない」

 のが現状である。まあMacユーザーはApple社に潰れてもらっては困るから新機能がなくても購入するのだ。
 しかし疑問なのだが、安定性が極めてたかいOSXにおいて、TimeMachineなる機能は必要なのか? これは安定して稼働していた状態にバックアップから復元してくれるのだが(ちょうどUNIXにおけるdumpみたいなものだ)、vmware fusion for MacでしょっちゅうOSごとfreezeするというようなハードな使用をしていない限りにおいては、あまり有用性がないような気もする。

先日の読了
 大庭みな子「啼く鳥の」講談社文芸文庫 A

 この作品を読むのはたいへんだった。なぜなら、文芸文庫の紙質、インク質と、筆者の病気は相性がわるいからだ。

 この作品は、、、、、ひとことでいうと、作者の描く世界、作者の世界に登場するひとたちが、筆者にとってはいかに自分と異なるかということが最も実感できる作品だとおもわれる。まず、日本人の側は、アメリカやヨーロッパと日本を(なぜかアジアやアフリカは舞台として登場することがない)自由に行き来できる人間であり、またアメリカやヨーロッパの側の人間は大学の研究者などの知識人または財産家であり、知的水準や財産の水準が並み以下の人間は登場しないのだ。

 つまり、日本人も外国人も、互いの国においては、ごくごく少数の階層の人間だけが登場している、それが違和感を感ずる第一の理由であり、第二の理由は、その彼らの間の人間関係(というより、性的関係)が、単に奔放というに留まらず、特異な(妻に執着することを生き甲斐にしている男性、など)ものであることも、何が自然で何が不自然か、という世間の性的な枠組みを外すという効果は持つものの、筆者にはまったく共感できない。

 そして著者自身が「この小説を読んで何も自分と重なる部分が発見できない読者は離れてよい」と宣言しており、筆者がそのカテゴリーに当てはまる人間である以上、これ以上くだくだと論じても意味はないであろう。ただ、戦後日本の小説としては、極めて特異な感覚をもって書かれたものであることは、評価してよいだろう。

2007年11月19日

神 奈 川 県 警 は 何 を し て い る ! ?

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 桧洞丸方面から犬越路を望んで。

 トレーニングの一環として、西丹沢の盟主、桧洞丸へ行ってきた。4時45分起床、新宿発5時42分の小田急線に乗って、新松田で下車し、バスを一時間乗って、終点の西丹沢自然教室に着いたのが、8時20分くらいである。以前は、ここからかなり手前の箒沢までしかバスは入らなかった。

 バスを降りた人数は20人弱で、これより早いバスはないはずなのに、西丹沢自然教室の建物は混雑していて、何事かと思ったのだが、ここからは桧洞丸にしても、畔が丸にしても、ここを起点とする循環コースが多いから、皆ここまでクルマで来るのだった。

 ここから、登るというよりも、よじ登るという語感がぴったりの(5km弱の直線距離で、高度を1100m稼ぐから)急登の連続を経て、三時間後には桧洞丸の頂上に立つことができた。
 頂上からは、武田信玄が軍犬を先頭に越えたと言われる犬越路まで縦走。滑りやすい痩せ尾根の細かい上昇下降を繰り返す道で、十分神経を使いながら到着。ここで午後1時半。2時40分の西丹沢発バスに間に合わなければ、一時間待ちとなる。通常の所要時間一時間半のところ、駆け足で下って、何とかバスの時間に間に合った。おかげできょうは筋肉痛がものすごい。

 西丹沢発のバスに乗って、御殿場線谷峨の駅に着いたとき。このバスの終点は小田急線の新松田だが、運転手が「急ぐ方は降りてください」とアナウンスをする。理由は、暴走族が来たために、道路が渋滞になり、バスが予定通り着かないということらしい。運転手がそれをアナウンスするということは、同様の現象がしょっちゅう起こっていることを意味している。筆者にとっては、たぶんもう乗ることのない御殿場線に乗れたということで貴重な経験をできたのだが、いったい神奈川県警は何をしているのだろうか。坂本堤事件で遺憾なく証明された神奈川県警の無能ぶりは、まだ健在なようである。

先日の購入
 ドストエフスキー「鰐」沼野充義編
 辻井喬「暗夜遍歴」 以上講談社文芸文庫
 大西巨人「深淵(上下)」光文社文庫
 「日本の百年4 明治の栄光」
 野口武彦「忠臣蔵」以上ちくま学芸文庫
 増尾清「危ない食品食べてませんか」三笠書房

 最後の本は、筆写にとっては単なる知識を得るためというよりは、切実に差し迫った問題(添加物が食品に入っていると反応する)の解決のためである。

先日の読了
 安丸良夫「近代天皇像の形成」岩波現代文庫 B

 天皇は、明治維新後の日本が、近代国家として欧米に対抗してゆくための、キリスト教のような精神的な支柱として、捏造された「伝統」である、という本書の結論のひとつは、すでに広く受け入れられていることだろう。本書の重要な指摘は、天皇制に賛成するにせよ反対するにせよ、多くの政治的な立場は、天皇制という前提をあたかも空気のように受け入れて出発している、ということであろう。それは、例の昭和天皇の危篤から崩御にかけての「自粛」が、朝日新聞から歌舞伎町の暴力団に至るまで、政治的立場の左右を問わず広く受け入れられたということに象徴されている。

 本書の指摘、結論はある意味では平凡であるが、それを提出する論理や歴史的資料の積み上げに意義があるのであるから、それについてはきちんと評価をしたいとおもう。

2007年12月22日

ソウル

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 音楽の話でも政治の話でもない。靴底の話である。

 このところ1000m台の低山ハイクをしているが、日によってかなりの筋肉痛が残るようになった。しかし、先日はかなりの距離をしかも飛ばして歩いたにも拘らず(標準的コースタイムを1時間以上短縮)翌日に痛みが残らなかった。

 現在、筆者が所有している登山靴は二足。一足は、もう二十年くらい前に買った、GOROという会社の(まだある)軽登山靴である。これは当時の「軽」であって、総革張りであり、今のトレッキングシューズよりは遥かに重く、頑丈である。ソールは伊ビブラム社の定番靴底である。もうひとつは前にもちょっと触れたアシックスのGII Trekking Shoesというやつで、こんかい穿いていったのはこちらである。これは登山靴というよりはトレッキング靴、つまり2000m以上の山や、岩場などは想定されていない。

 このGOROの靴とアシックスの靴の決定的なちがいはふたつある。一つは重量であり、GOROのほうが二倍くらい重い。もうひとつは靴底のかたさで、アシックスのそれはラバーソールで衝撃吸収材などを使ったハイテク仕様なのに対し、GOROはトラディショナルなビブラムだけである。そして、筋肉痛を起こさないアシックスの特性は、重量よりも靴底の違いと考えられる。

 しかし、この靴、柔らかいだけに岩稜歩きなどでは不安がある。そこでGOROを穿いてゆくと、岩や木の根などで滑るのである。その理由は、ビブラムのソールは剛性と土はけを主眼に作られているせいで、「大地をしっかり捉える」という点では問題がある。つまり、岩や湿った木材などと接触した際に、摩擦抵抗が大きくないために、滑って危険なのだ。まあ、滑りやすいのをビブラムのせいだけにするのもちょっと酷であって、二十年近く前の革靴のソールを張り替えしない筆者がまず責められるべきなのだが。GOROの店舗へ行って、新しいソールに替えてもらわないといけない時期なのだ。

 さて、滑りやすいというゴム底という問題に取り組んだのがロック・クライミング用のシューズのメーカーであるファイブテンというアメリカの会社だ。ここが開発したステルスソールという特別なゴムは、摩擦係数がたかく、岩登りや沢登り用のシューズに使用され、高い評価を得ている。それが、通常のトレッキングシューズに使われてこなかったことがむしろ不思議なのだ。トレッキングでも事故や疲労の原因はスリップであるからである。

 今期にキャラバンから出た新製品がこのソールを使っている。このGK-26というのがそうだ。筆者ももう中高年登山者なので、このようなハイテクを使った製品を積極的に取り入れて、事故防止に努めなければなるまい。

昨日の読了
 カズオ・イシグロ「女たちの遠い夏」ちくま文庫 B
    同    「浮世の画家」中公文庫 B

 いずれも優れた作品である。

 まず、前者は、「日の名残り」よりも、さらに玄人受けする作品といえよう。つまり、プロフェッショナルな小説の読み手にとって、「行間を読む」余地がたくさん残されているからである。リアリズム小説の読み方として、「空白を読む」ことが言われるが、そのように文芸評論という立場からすると解釈の多様性に富む小説であるということが言える。

 筋は、日本を出国し、新しいイギリス人の配偶者とも死別してしまった日本人女性が、今までの半生(特に在日時におけるある日本人女性との交情)について物語る、という筋だが、多数の空白を残して語られないまま作品は幕を閉じる。よって、再読のたびに新しい発見がある、そんな作品であると思われる。


 「浮世の画家」も、ブッカー賞を一票差で逃した作品だということである。日本人画家が戦時中に行った軍への協力についての道義的責任の告白を強いられる、という筋である。これは日本が主な舞台であるが、瑕瑾であると思われたのは、「握手」とか、「肩をすくめる」とか、親しげに語る父子関係とか、日本の風俗としてそぐわないものがいくつか登場することである。イシグロは血統的には日本人であっても、日本人のコミュニティで育ったわけではないから、日本人同士で交わされる習慣についてはよく知らないのであろう。イギリスの読者にとっては気にならないところであろうが、日本人にとってはひっかかるところであると思われる。


 まあ、いずれの作品も、面白さという点ではひけを取るまい。ただ、一作勧めるならば、やはり「日の名残り」であろう。

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2008年01月03日

初登山

 登山、というよりは、ハイキングと言った方が適切だが。

 症状が軽くなってきたとはいえ、やはり定期的な運動療法は欠かせないと考えているので(そういえば近くの小学校がプールを開放しているからそこにも行ってみたいし、千駄ヶ谷の東京体育館のプールなら時間の都合もつけやすいのであった。少々値段は高いけれど、しょっちゅう行くのでなければ、一回800円はリーズナブルとも言える)、お金のかからないスポーツと思われている(これは絶対に嘘だと思う・・・)山歩きをすることにしている。

 で、今回行ってきたのは、秋川の入り口にあたる戸倉三山というところである。ここの標高は1000mないから、冬期向きの低山ではあるが、かなりの距離を縦走しなくてはならないために(コース全長は15kmくらいになるんじゃないか?)なかなかのハードコースとして知られている。

 で、8:10に武蔵五日市に近い(京王八王子からバスで行ったのだが)今熊バス停で降りて、ここから今熊神社 - 今熊山 - 刈寄山 - 市道山 - 臼杵山と縦走。ここから秋川沿いの荷田子のバス停まで歩いた。地図によればコース時間は八時間強と書いてあるが、五時間強で踏破。それもそのはず、ここはさいきん流行りのトレイル・ランニングのコースになっていたのだった。道の途中に「日本山岳耐久レース10km地点」という立札をみかけた。ようするに飛ばそうと思えば飛ばせるコースなのだ。しかし、筆者には、こんなのはさすがにむりである。

 下山したのが13:30で、ちょうど荷田子バス停には五日市に戻るバス便はなかったので、ここから瀬音の湯という第三セクターの温泉施設に向かう(徒歩八分)。ここがまたすごい賑わいで、「混浴はただいま大変混みあっております」という表示が、渋滞した道路のあちこちに出ていた。何も混浴が目当てで男性陣が押しかけてくるというわけではなくて、家族連れが単に多いからというだけなのだろうが。

 で、混浴が45分待ちという状況から推して、山登りの帰りに気軽に寄る温泉施設ではないと診断、帰ろうとしたところ。

 何やら、人が集まって、足を水に突っ込んでいる。よくみると、「足湯」と書いてあり、ここは(第三セクターらしく)無料で開放しているようである。

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 仕方がないので、筆者もバスの時間まで、このように足を突っ込むことにしたのである。


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2008年02月03日

マス釣り場の謎

 むかしから疑問に思っていたのだが、多摩川、秋川、そして荒川流域のマス釣り場に「国際」という名前が冠せられているのは、なぜなのだろう?

 ネットでちょっとだけ調べてみたところによると、

本来外国の魚であるニジマスを釣らせるから

 ということなのだが・・・


 筆者的には、実は従業員が全部東南アジアからの出稼ぎだったとか、客がすべて台湾・香港・中国本土の金持ちだとか、ブラックな現実があったりするのではないか(もちろん、もう数十年も前から「国際」なのだから、それは名付けの理由にはなり得ないわけだが)などと想像してみたくなったりする。

 当然ながら、マスが関東の川に自生しているわけはないから、これらはすべて養殖である。

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2008年05月04日

教えてください(蚊?について)

 家のドアの灯をつけたままゴミを捨てに行って、戻るときに飛翔する物体に侵入された。その物体は、部屋まで飛んできて、アタックをかけてきた(ということは、吸血性なのか??)。とっさに筆者はその物体を握ったが、ぐしゃっと握りつぶすことはしなかった。

 どこかへ消えてしまったのかと思ったら、力なく近くを飛んでいたので、改めてはたき落とす。

 これである。

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 このサイトその他で調べてみたが、そもそも蚊かどうかはっきりしない。

 ご存じのかたがおられたら、教えていただけると大変嬉しいです。大きい写真はここに置いておきます。

2008年06月24日

脳波入力機

 これって、オウムのヘッドギアなのでわ・・・

2008年08月25日

お知らせ

 本日より九月一杯まで、当分の間ここの更新は休みとなる予定です。予定ですので不定期に更新はありえますが、基本的にはなくなる模様です。

 ご愛読のかたがた(って、どのくらい・・・)には大変ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願い申し上げます。

2009年01月07日

ラーメン&ブルーノート東京

先日、GOROへ靴の修理に行ったときに、近くにある「千石自慢ラーメン」に寄ってきた。ここは、大学生(研修医だったか?)のときに一度友人と行ったことがある。そのときの感想としては、「食後に口の中に味の素が残る。どうしてここが人気ラーメン屋なんだ?」というものであった。あれから年月が経ち、まだここは人気ラーメン屋としての名声を相変わらず博している。どんなふうに味が進化を遂げたのか、興味津々で行ってきたのだが・・・

 「全部入りラーメン」を注文して、食べ終わる。東京とんこつを銘打っているが、それほど濃い味ではなく、どちらかというと淡白な感じだ。
 さて、食べ終わると・・・なにやら妙な感じが口の中に・・・

 味の素のような・・・

 例の化学物質過敏症罹患以来、筆者の味覚も正常ではなくなっているかもしれないから、この記述の信憑性についてはそれほど自信はない。読者みずからの舌で確認していただきたい。ただし、筆者としては、わざわざ足を運んで「まずかったぜ!」と言われても、当然弁解のしようはない。


 さて、(たぶん)当代一のジャズ・ギタリスト、パット・メセニー@ブルーノートを聴いてきた。ホレス・シルヴァーの名曲「ロンリー・ウーマン」をやることを期待していたのだが、そうは問屋が卸さなかった。筆者は彼の演奏は、デビュー作「リジョイシング」と、ジョニ・ミッチェルの「シャドウ・アンド・ライト」の演奏しか知らないのだが、サウンドはフュージョン+アバンギャルド、時々アコースティックという感じで、かなりモダンである。いわゆる古典的な(ブルースを基調にした)ジャズ・ギターでも、ウェス・モンゴメリー、タル・ファーロウなどの超絶系ギターでも、ジョン・スコフィールドなどのフュージョン・ギターでもない。「ジャズ・ギター」という分類そのものが彼にとっては無意味であろう(ジェリー・ガルシアのギター・ワークがロック・ギターの範疇に入らないように)。筆者がおもうに、このフュージョン+前衛というカップリングはきわめて現代的に響く。熱狂的なファンも多く、世界的に名声を勝ち得ているのも故なしとしない。

 でも、聴いていて気持ちがよいのは、筆者にとってはジェリー・ガルシアのインプロビゼイションだな、残念ながら。

2009年05月31日

Blackberry

 を、買った。

 ケータイが壊れてしまったのだが、iPhoneとかなり迷った。しかし、山岳において弱いSoftBankをキャリアにすることはできず、また日本で発売されているBlackberryは800MHz帯の電波も受信でき、docomoのエリアプラスに対応しているため、現時点では最強の携帯であるようだ。どうやら電池が強力なことも関係しているのか、ケータイとしての性能も優秀であるようである。
 ただし、やはりお遊び機能(音楽、カメラ、ゲームなど)とウェブ閲覧についてはiPhoneには敵わぬようなので(やはりあくまでビジネスモデルだ)、場合によりiPod touchの導入も考えたい。

最近の読了
 福沢諭吉「福翁自伝」岩波文庫 B
 ピエール=アントワーヌ・ドネ「チベット 受難と希望」岩波現代文庫 A

 読んではみたが、やっぱり福沢ってイヤな奴だ。こんなのが同僚や友人にいたら総スカンを食って当然だろう。福沢の仕事って、「西洋のものを日本に紹介し、西洋的な習慣(作法、人間関係、思考様式)を日本に輸入する」というだけで、何ら独創的なことはやっていないことがわかる。時代を考えれば当然だと思うだろうか? そんなことはない。あの時代にあってもすでに技術において西洋を凌駕している分野もあった。今の日本、特に筆者がよくしっている医療の世界においても、基本のフレームワークは変わっておらず、「十年前に欧米で流行しているものをいちはやく日本に取り入れると第一人者になれる」というものである。なので筆者はすっかりそういうものへの興味をなくしてしまった。英文のジャーナルを読んでいれば容易に予測できるものばかりだからである。
 福沢には官への感情的な反発があっただけではなく、学問は学問として大切なのであり、それを実業に応用するとか就職や出世の武器にするということを忌み嫌っていたようである。そうした福沢がもっとも強調したのが「一身自立」ということである。
 さてどういう意味だろうか。このキーワードについて福沢は詳しくは本書で語ってくれないから、本書全体の文脈から推測するしかない。封建制の短所として「役回りにありながら決定権を持たない、というより、自分で決定を行ったことがなく、上役に尋ねるか、先例を探す」役人があまたいることをたびたび指摘しているから、おそらくこの意味は、「権威に阿らず、時勢に流されず、必要な情報を自分で入手して、自己決定する」という人間像を指しているものと思われる。
 さて、慶応義塾の大学としてのあり方は、この福沢の教えに沿ったものになっているだろうか? 大学全体が就職予備校と化しているような気がしないでもないのだが。

 「チベット 受難と希望」をA評価にしたのも、政治的な理由である。前回の「雪の下の炎」と併読すると理解が非常に深まると思われる。本書は想像するに現時点でもっとも優れたチベット問題の概観書になっていると思われる。
 「受難と希望」とあるが、読後感としては希望は見えてこない。著者がいみじくも指摘するように、「時間」は中国政府にとってのみ味方である。彼らはダライ・ラマがその生命の炎を燃やし尽くすのをただ待っていればよい。国連をはじめとする各種国際的な団体の活動は、主権国家に対して何らの権限も持たないし、中国相手に経済制裁を課すことは不可能だからである。
 ひっきょう、人類は二千年前と比べても倫理的に全く進歩してないということになる。国という単位すらなく、世界中が少数の部族に分かれていた時代のほうが、みな幸せだったということにはならないのだろうか。

2010年01月13日

MacMiniプチ改造

 忙しさにかまけて記事をさぼっているが、最近Macが劇遅になってきたので、それを改善すべく、内蔵HDをSSDに変えた。IODATA製の64GBのものである。その前提として、ホームディレクトリを外付けの1TBのHDへ移した。ホームディレクトリは速度に影響しないからである。

 で、SSDにSnow Leopardを再インストール。速い!!!!! まあ、速度の改善はこれだけが原因ではなく、vmware fusionがアンインストールされた状態で動かしているとか、Egbridge Universal 2の代わりにかわせみを使っているとか、いろいろあるのだが。

 この速度なら、まだまだMacMiniでいけるかも。

2010年01月29日

ペン先復活

 床に落としてペン先を十字型に曲げてしまった万年筆が修理から上がってきた。

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 これできちんと滑らかに書けるように調整されているので驚く。プロの技である。もう落としたらペン先交換ですよ、そう言われた。気をつけねば。

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