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登山 アーカイブ

2008年04月13日

論理学

 こんかいは、まず携帯トイレの話からはじめよう。先日amazon.co.jpで、ハイマウントの簡易トイレというのを買った。これは、筆者はトイレの設置されていない山に行くことのほうが圧倒的に多いから、環境への負荷が前から気になっていたことが理由である。

 この携帯トイレ、メーカーのホームページでは使い方がよくわからない。筆者の一番の懸念は、同じ袋で小用が何回できるのかということであった。一回の小用で一袋が必要であれば、とても実用的な製品とは言えない。というわけで、今回の山行では一袋持っていったのだが、小用の有用性を検証する前に、早くも携帯トイレの必要性を十分認識させられるという結果になった。

 前回と同じく藤野発やまなみ温泉行きのバスに乗り、東野行きに乗り換えバスを降りたのが7:20くらい。今回はここから延々と神ノ川キャンプ場まで約1時間のみちのりを歩くことになる。車道だが、林道なのでクルマはほとんど来ない。バスを降りたときには感じなかったのだが、歩いていくうちに尿意だけでなく便意を感じはじめたことに気付く。目指す先はキャンプ場だからそこでトイレを借りることができると思い、がんばって歩いていたのだが、キャンプ場を目前にしてどうしてもがまんができなくなってきた。そこで人通りもクルマも見当たらないことを奇貨として、いきなり簡易トイレを使ってしまうことになった。よかったのか、悪かったのか・・・

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 キャンプ場に着いてから神ノ川を渡り、対岸を歩いてゆく。このコースは一般向きではないはずなのに、何とすでに山岳耐久レースのコースと化していたのである。「一般の登山者に会うこともない」コースだと書いてあるが、たしかにここでも倒木が道を塞いでいたりなかなか手入れの行き届いていないコースであった。なお、このコースは一部道の分岐が不明瞭なところがある。迷ったときは尾根を外さないのが吉である。

 しばらく進むととの分岐を分け、ここから急な登りとなり、道の状態はいきなり悪化する。しかし、特にわかりにくいところもない。ここから三十分足らず(だったとおもう)鐘撞山の山頂へ到着する。展望はないが、何人かのかたがblogで書いているように、この鐘の音色はとてもよく、ぜひ鳴らされることをお勧めしたい。

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 ここから少し下って直進し、小ピークを過ぎると右に進路を変え、巨大な山が行く手に望見される。これが目指す大室山であるが、距離が近く見える割には標高差がありそうにみえる。これは目の錯覚ではなく、実際にここから600mくらいを短い距離で稼がなければならない。そしてここからの登りは丹沢で一、二を争うと言われる急登である。木がなければとても登攀不可能な登りで、桧洞丸のツツジコースの急登を思い出すが、そこよりは困難感はかなりつよい。なぜなら地面が土であり、靴が滑るからである。おそらく雨の日の直後(きょうもそうだったのだが・・・)はほとんど登攀は不可能だろう。「ヒメサユリ山の会」と書いてある小さなピンク色のプレートを見つける(きっとヒメサユリとは似ても似つかぬオ○サンばかりの会だったりして・・・などと不届きな想像をしてしまう)。この急登を登って、しばらくなだらかな道が続き、最後の急登(といっても、先ほどの信じられないくらいの登りとはぜんぜん違う)を過ぎると頂上はまもなくである。

 頂上は展望はないが、そこからしばらく白石峠側に数分あるくと展望のある平地に出る。ここからは桧洞丸側も見えるが、道志側の展望がよい。先日登った赤鞍ヶ岳はもちろん、道志山塊よりも大室山のほうが標高がたかいため、旧秋山村集落が山越えに展望可能である。道志の山に登ったことがあれば、ちょっと感動するだろう。

 さてここからひたすら犬越路へと下り、そこから東海自然歩道に合流して、西丹沢へ下山すれば何も問題ないはずであった。しかし、最後の最後まで歩いてみないとわからないのが登山というものである。もう全行程の95%くらいを消化し、あと400mで用木沢出合、つまり舗装された林道へ降りられる、というところで躓いた。

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 橋が流されて存在しないのである@_@

 さあ、どうしよう。

 困った・・・・・

 帰れないぢゃないか・・・・・


 筆者はここで「詩経」の一節を思いだした。ここがなみの登山者と筆者との違いである(爆)。

 「深ければ厲し、浅ければ掲す」そう、川が深ければ着物をたくしあげ、浅ければ裾をからげて渡れ、という教えである(うんうん)。というわけで、筆者はGOROのC-7でそのまま激流に突っ込み、徒渉したのであった。


先日の読了
 「一冊でわかる 論理学」岩波書店 ?

 本書、ところどころ面白い箇所あれど、論理学の本なのに筆者がどうしても理解できない箇所が二、三あった。その理由はいくつか考えられる。

1)原書が悪い
2)翻訳が悪い
3)論理学という学問が悪い
4)筆者の頭が悪い

 4)の可能性がたかそうなのだが、2)も捨てきれない。もういちどゆっくり読むとわかるのかもしれない。
 本書、「神の存在証明」のさまざまなバリエーションが出てきて、この問題がキリスト教圏において、重大な問題だったということが伺える。そして、その証明は論理学的にはすべて荒唐無稽なものであった、ということは、この学問の発達のひとつの動機がそれを証明することだった可能性がある。
 しかし、それを愚かだと笑うことはできない。現人神を否定すると磔にされた時代が日本にもあったのだから。

2008年04月27日

丹沢縦走

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 丹沢山塊において、その最高峰である蛭ヶ岳(1673m)を中心に、北に向かう山稜を主脈、西の桧洞丸へ向かう山陵を主稜と称する。そして、主なピークである塔ノ岳(1491m)、丹沢山(1567m)、蛭ヶ岳から主脈方面に姫次、黍殻山、焼山、そして神奈川県の道志川沿いの集落である青根に出る主脈ルートが、丹沢を縦断するコースとなる。こんかいは、交通機関の関係上、青根の焼山登山口バス停から焼山、黍殻山、姫次、蛭ヶ岳という逆コースで日帰りを試みてみた。

 神奈川県橋本から三ヶ木行きバスに乗り込み(このバスがほぼ満員だったのには意表を突かれた。津久井湖の周りに高校や日赤病院などもあるから、通勤用として結構有用な路線なのだ)、三ヶ木から月夜野行きバスに乗り換えて焼山バス停に到着するのがほぼ8:00である。ここから八時間の踏破で16:00には塔ノ岳の下山/登山口である大倉バス停に着けばいいと思っていたのだが。

 今回は一足1.3kgのGORO製革靴ではなく、Caravanの軽登山靴で臨んだ。軽い。足を運ぶと少々足元が(橋下がじゃなくて)頼りなく感ずるが、これなら長征(江西省から陝西省まで歩いたわけではないけれど)に耐えられそうだ。

 で、急ぎ過ぎたのか、登山口から蛭ヶ岳まで四時間で着いてしまった。このあいだ、黍殻山から姫次までのあいだ、黄色く尾が異様に長い鳥が飛んで逃げてゆくのを見た。あれは天然のキジにちがいなかろう。丹沢にはまだそんな生物も生息しているのだ。しかし、蛭ヶ岳を過ぎてそこから地獄がはじまる。次の丹沢山まで一時間半、そして塔ノ岳まで一時間とコースタイム通り。おかしい。

 そして、塔ノ岳からのあの悪名高い大倉尾根の下りでついに死んでしまった。足が前に進まないのだ。より正確にいえば、登りはなんなく進むのだが、下りが延びない。十五分くらい毎にベンチがおいてあるので、そこで何度となく休むのだが、ついにはいわゆる「膝が笑う」状態になってしまった。以前こうなったときは、脱水が原因と思われたのだが、こんかいは十分水分補給はしている。となると、筋肉の疲労そのものが原因のようだ。

 で、やっとの思いで下山したのだが、通常筆者の足で一時間半、コースタイム二時間のところ、二時間半ちかくかかってやっとの思いで山を降りた。

 原因は、何だったのか。それは大腿四頭筋のトレーニング不足にある。登山の時は、四頭筋は短縮性収縮、つまり短くなりながら収縮するわけで、四頭筋にかかる負担はすくない替わりに心肺負荷がかかる。下山の時には低所へ移動するために心肺負荷はすくないが、四頭筋は伸張性収縮、つまりぴんと張りながら負荷を吸収する必要があるために、筋への負荷は比較にならないくらい大きいのである。ということは、もっと筋力トレーニングが必要! というところに落ち着いた。大倉尾根のような階段が多く、傾斜が急な尾根は、トレーニング用としては最適なのである。


読了した本
 ピエール・ブルデュー「ディスタンクシオン(I)(II)」藤原書店 S
 ハリー・ハルトゥーニアン「近代による超克(上)(下)」岩波書店 S
 花崎皋平「静かな大地―松浦武四郎とアイヌ民族」岩波現代文庫 B

 ちょっと甘いが、S評価をふたつ出してみた。

 まずブルデューから。本書は、ブルデューの主著と考えられている本であり、筆者のS評価はブルデュー理論に対する評価だと考えていただきたい。本書自体は、典型的な「結論決め打ち型」の本である。つまり、ブルデューの言いたいことが先にありきで、そのためにさまざまなデータが(言い訳のように)引用されているという体裁の本だ。そこに読者は抵抗を感ずるかもしれない。
 本書のテーマは、階級(階層)と資本の関係である。まずブルデューは、「資本」には金銭以外の側面があることに着目する。一般的にはそれは「学歴」も含めた「教育」であると考えがちで、そしてその意見には大方の賛同が得られるだろうが、ブルデューの作り出した造語は「文化資本」という言葉であった。これは、教育資本を含むと考えることもできる。一方でブルデューは、マックス・ヴェーバーいうところの「エートス」、つまり人生に臨む心的態度を「ハビトゥス」と名付ける。ハビトゥスが一致した相手とは、よき理解者や伴侶となれる率が高いということになるが、そのハビトゥスは文化資本と密接な関係があるのだ。そして、その文化資本をどれほどどのくらい持っているかということが、実際の金銭的な資本と併せて、ある階層の性質を決定的にするというのが彼の主張である。
 さらに彼は、文化とは「ディスタンクシオン」、つまり他人あるいは他の階級との「差異」をあきらかにするために使用されていると主張する。ことばを替えていうならば、文化は支配階級の再生産のための道具だということになる。そして、一般的に「高級」とか「趣味がよい」とされる文化(たとえばバッハなどに代表される、通俗的でないクラシック音楽や、画家でいうならばピカソなどがそれに当たる)は、「高級な文化であり、高級な文化を解する人間は文化的に洗練されている」という「言説」(フーコー)のもとに、文化そのものとしてだけではなく、階級を聖別し、ヒエラルキーを維持するための権力装置としても作動する、というのである。
 かなり極端なみかただ。そして、その発想は、ブルデューが大学へ入学したときのショックに端を発するということである。しかし、筆者はさまざなま意味でこのブルデューの主張には強く共感している。それは、筆者自らが大学へ入学したときに、周りの同級生と比べて自らの「文化資本」のなさに愕然とした経験であり(たとえば筆者には高校での留学経験も、海外旅行体験も、演奏できる楽器も、ウィンター・マリンスポーツの経験もなかった)、また往々にして独創的で革命的な意見は極端なものから生まれるという確信である。
 差異(ディスタンクシオン)とは、(当時の)現代思想におけるキーワードのひとつであるが、現代日本においてもこのみかたは以前として光彩を放っている、というのが筆者の見解である。

 次にハルトゥーニアンの著書に移ろう。筆者はもともとこの「近代の超克」プロジェクトには関心があった。これは1942年に「文学界」が主催した座談会である。この座談会の目的は、日支事変から太平洋戦争に至る日本の戦争目的をはっきりさせると同時に、明治維新後の日本の近代化によって、日本の伝統的な文化や生活が風化し、資本主義社会の基にマスプロ的な生活習慣がはびこることで、その破壊力に危機意識を持った学者や文化人があまた存在し、それに回答を与えたいというところにもあった。
 本書はその座談会に参加した中心人物の思想的な営為を深く掘り下げたものであり、結果的にすべての人間がファシズムに傾斜してゆかざるを得なくなった経緯を説明している。
 これで本の要約は終了してしまうが、そこで投げかけられる疑問は実に巨大である。まず、著者は「資本主義という前提には手を触れずにその影響だけを排除/変更しようとした試みはすべて失敗している」と書いている(と筆者には思われる)が、それならばこの「近代の超克」プロジェクトは、現代においても完成していないプロジェクトではないだろうか、ということが一点。さらに、これだけ優れた知性がファシズムに傾斜したことは、他の解決策はあるのだろうか、という疑問に繋がってゆくし、さらに「ファシズムは本当に悪い政体なのだろうか?」という根源的な疑問へゆきつかざるを得ない。つまり、われわれはファシズムは自由を抑圧するゆえによくない政治制度だということを前提にされているが、それは日本が軍国主義となって他国を侵略したとか(英米仏もやっている!)ドイツがホロコーストを起こしたという結果から善悪を判断しているだけで、他国に戦争をしかけない、あるいはジェノサイドを行わないという仮定において、実は優れた制度だということを否定できるだろうか、という疑問である。
 資本主義と民族文化、あるいは民族文化同士の関係について、深い洞察を誘う本であるように、筆者には思われる。

 さて、この二冊に比べると、花崎氏の本は若干軽いように思われるが、そんなこともない。本書も、日本人がアイヌ民族をどのように扱ってきたのか、そしてそれが現在の北海道およびアイヌ政策にどのように関係しているのか、ということを問う本である。
 著者の真摯さは疑うべくもないが、高橋和巳的な、あまりに左翼リベラル的な政治姿勢に、ちょっと筆者は息苦しさを感じなくもないのであった。

2008年04月29日

大山北尾根

 GWの最初の休日、丹沢、特に交通の便がよく、景観のよい、そしてそれほど行程のきつくない大山や表尾根は非常に込むことがわかりきっていた。そんな休日に静かな登山の楽しめる丹沢の山はどこか? 交通が比較的不便で急登のある西丹沢? いや、檜洞丸や畦ヶ丸は混雑するに決まっている。西丹沢でも、大室山や菰釣山といった知名度の低い山なら、それなりに空いているかもしれない。

 しかし、じっさいには、人出の多い東丹沢、しかもその中でも人気No.1と言える山でも、ほとんど人に会わず静かな山登りが楽しめる山がある。それが、今回書こうとする相州大山、そのほとんど登られない北尾根である。

 このサイバー国土の地図を見て頂きたい。中心にあるのが大山である。ここへの代表的な登路は、左下、つまり南西のヤビツ峠からのものと、右下、つまり南東の追分からのものの二つである。共に一時間半程度で山頂に立つことができる。バリエーションルートとして、東側に抜けるルートがふたつある。ひとつは不動尻を経て広沢寺温泉に抜けるものであり、もうひとつは日向薬師へ抜ける道である。この二本は比較的利用者がすくないルートであろうと思われる。

 しかし、じつはもう二ルートあるのだ。それが、ほぼ真西へ向かう、諸戸へ抜けるルートと、ほぼ真北へ向かう北尾根である。こんかい選択したのは、この北尾根である。

 小田急線秦野の駅にて下車。この駅からヤビツ峠行きのバスが何本か出ているが、急祭日には増発されるのが常のようである。それらの登山客を横目にみつつ、タクシーに乗り込み、行き先を「(ヤビツ峠の先の)札掛から少し先の、物見峠入口まで」と告げる。

 ヤビツ峠に至る途中の蓑毛は、むかしの大山登山の基地であった。ここを過ぎると道は急に曲がりくねる山道となる。たくさんのロードバイクを追い越し、モーターバイクに追い越される。ヤビツ峠は大山と表尾根に向かうハイカーでごった返していた。表尾根への登山者を追い越し、札掛へ向かう。札掛から物見峠入口まではごくわずかの距離であった。タクシー料金は6,300円ほど。高いよ・・・・・ToT

 物見峠入口から北尾根との交点である一の沢峠まではよく整備されている。ここが一の沢峠であるが、道標をみてもわかるとおり、ここは正規ルートとされていない。

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 ここから、道であって道でないようなコースを延々とたどる。一ヶ所だけ地図とコンパスでルートを確認したが、特に迷うような場所はない。おおむね、とても狭い尾根である。

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 一時間ほど歩くと鉄柱のある小ピークへ出、北尾根の全貌が観察可能となる。この小ピークで県道からの道を合わせ、以後の道は鮮明となる。

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 ツツジも咲いている。

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 結局、このコースで、山頂到着までに出会ったパーティーの数は、たった五。もちろん追いつき、追い越しはゼロ。この北尾根、下山ルートとして使うひとはいても、滅多に登山ルートとして使うひとはいないらしい。途中出会ったおじさんに、「よっぽど山がお好きなんですね(物好きですね、という意味か?!)」と言われてしまった。

 で、ゆっくり歩いても、ほぼコースタイムどおり、物見峠入口から三時間半ほどで大山山頂へ到着した。そこは、別世界だった。見渡す限りの人の山!!!!!

 帰りは、諸戸へ抜けるもうひとつのバリエーションルートを選択したかったが、道が見つからず(これは筆者のミスで、五万分の一と二万五千分の一の地図を両方みていれば、容易に発見できたはずなのである)、仕方なく追分に抜ける表参道を降りたのであった。有終の美を欠く一日であった。

2008年05月03日

両神山(1)

 に、登頂するつもりだった。が、挫折した。なぜなら・・・

 深田久弥の「日本百名山」の中に、埼玉県は三つの山を輩出している。雲取山、甲武信岳という奥秩父連峰のふたつと、この両神山である。そして、雲取山は東京都との県境にあり、東京都から唯一百名山に選出されている山であり、埼玉固有の山とはいいがたいであろう(2ちゃんねるには、「雲取山は古来より埼玉県固有の領土であり云々」という書き込みがあり、失笑してしまう。しかし、たぶん歴史的にはその論者が正しい。なぜなら「三峰山」の三峰とは、妙法ヶ岳、白岩山、そして雲取山の三山を指し、その三つを祀る三峰神社は秩父側にあるからである)。そして、いうまでもなく甲武信とは、甲州、武州、信州の県境にあり、これも「埼玉固有の山」とはいいがたい。その点、両神山は埼玉固有の領土であり(笑)、名実ともに「埼玉を代表する山」と言えるであろう。

 この山へ登るルートは複数ある。そのうち、一般ルートと言えるものは、秩父側から日向大谷口から登る表参道、白井差口から登る(一時このルートは閉鎖されていたが、現在管理者に事前連絡をして管理料を払うことで通行可能である)ルートの二つである。筆者が中学生のときに父親に連れられてきたのは、たしか白井差から登り、日向大谷へ降りるルートだと記憶している。ので、今回は八丁峠からの岩場ルートで山頂を目指す・・・はずだった。

 八丁峠はここである。そして、ここから西方向へ向かって尾根が伸びている(岩場マークがたくさんついている)。この尾根を西へ辿ると、赤岩峠に達する。当初の予定では、ここから八丁峠を経て、両神山へアプローチするはずだった。

 自宅より池袋までタクシーで向かう。5:00発の西武池袋線に乗ると、西武秩父で乗り換えて7:40頃に秩父鉄道の三峰口駅に到達できる。ここからタクシーへ乗って、約1時間、9,200円ほどを払って赤岩峠より南の赤岩橋集落で降りる。

 ここは日窒の鉱山があったところで、タクシーの運転手さんの話によると、金や鉄鉱石を産出し、全盛期は2,000人ほどが働いていたということである。現在はこの集落はほぼ廃村にちかい。ただ、ここから少し南に下るとまだ石灰を掘っており、郵便局だけは稼働しているようだ。この橋を渡り、集落に入りここを北に抜けるところを標識がある。「ここから赤岩峠を経て大ナゲシや赤岩岳に向かうルートは・・・事故多発しており・・・ザイル装備が必要な熟練者向きルートである・・・」という例の標識である。ただ、ネット情報によれば(そんな怪しげなものを信用していいのかという問題もあるが)「ザイルなしでも可能なルート」らしいので、いちおう無視して進む。

 1時間ほどで赤岩峠に着く。ここから、まっすぐ赤岩岳に登るつもりだったが、ガスっていて視界が閉ざされていた峠の北西に、突如として奇妙なかたちの岩峰が目に入った。標高1,532mの、地形図では名前は記されていないが、これが大ナゲシである。「あそこへ登ってから八丁峠を目指そう。時間切れになったら両神山は断念し、八丁峠から下山しよう」そう決定した。

 八丁峠から西へ向かう。途中で、このようなテープがあった。

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 この矢印は、このテープの後方、右へ回ってゆくルートを示しているのだが(ふつう正規のルートだとおもうだろう)、実はこのテープの手前に右へ降りてゆく踏み跡がある。筆者はこのテープはその踏み跡を意味しているのかと思い、そちらへ降りていったが、最終的には大ナゲシへ至るものの、ちょっとした体力と時間のロスになった。

 しばらくして、左の正規ルートと合流し、ちょっと進むと問題の岩場に到達。ここでリュックを降ろす。

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 あのー、この垂直の壁、登るんでしょうか?

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 こちらは左側のルートで、写真よりも実際には高度感がある。意を決して正面から登ることとした。写真のようにロープが(鎖ではない)垂らしてあるが、このロープは使わなくとも、慎重に足がかりとホールドを探してゆけば、それほどの危険はない。しかし通常の山登りに比べればスリリングだ。

 しかしこの登りはすぐに終わり、次の山頂直下の岩場はここまでの緊張感はなく登れる。

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 そして程なく山頂。黄色いテープで、石に「大ナ」と貼ってある。「ゲシ」は取れてしまったらしい。

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 ツツジも咲いている。

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 周りはガスのため、見えない。

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 ここから先ほどの岩場を下ってゆくが、これも特にロープを利用せずとも降りられる。結論として、大ナゲシはかろうじて一般ルートと言えそうだ。「ザイル必要」はさすがに大げさだろう。

 ここから赤岩峠に戻る間に、大ナゲシがわずかに展望できた。このように特異な岩峰が屹立しているという印象である。

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 さて、赤岩峠に戻って、改めて赤岩岳をみるに、とんでもない山である。印象は大ナゲシの数倍危険度がたかそうだ。この写真ではちょっとわかりにくいが、正面にあるのはほぼ垂直に近い大絶壁だ。こんなところ、登れないよ・・・

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 で、登ってみると、その絶壁はエスケープして、巻いてから登るルートがあった。少々岩が多いものの、登れないルートではない。頂上に着いたときは、これくらいなら大丈夫、と思ったのだが。

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 ここから1589mの蓬莱山への分岐まで、このような垂直に近い絶壁が連続するのだ。そして、そのほとんどが絶壁の直登! である。エスケープはない。こんな場所、登れないって・・・

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 いちおうロープはあるものの、なるべくロープに頼らないようにして、三点支持を忠実に心がける。いちおう、登れないこともない。しかし、万一足を滑らせたりしたら、命はない。やっとの思いでピークに到着すると、次はこれである。

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 筆者の記憶では、合計四回(五回だったかも・・・)このような危険な岩場を通過したと思う。でも、ザイルは必要なかった。1589ピークから下りるところ、ここだけは唯一備え付けて逢ったロープを利用した。ここは自力だけでは負傷した可能性が高いと思った。

 で、八丁峠に三時間後に到着。さすがに、ここからさらに両神山まで二時間、さらに日向大谷へ三時間のみちのりを歩く元気はなかった。ここにはこんな標識が。

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 これを見たときは、「そんなこと言われても、もう来ちゃったよ」と思ったのだが、あとで冷静に考えれば、埼玉県のこの看板は正しかった。というのは、

「この赤岩尾根で、岩場はすべてピークの西側にしかなかった」

 のだ。つまり、赤岩峠から登れば、岩場はすべて登りで、八丁峠からでは下りになる。そして、言うまでもなく、岩場では下りは登りの数倍危険である。

 たしかに、筆者はザイルなしでこの尾根を無事通過した。しかし、「ザイルなしで通行可能な、一般ルートの最難関」と考えることは、危険だと思う。やっぱり、

「ザイルなしに入山してはならない」

 という峠の登り口にあった看板が、大ナゲシはともかく、赤岩尾根に関しては正しいのだ。なぜか。それは、

「いつまでもあると思うな補助ロープ」

 ということだ。誰かがいたずらで切断するかもしれないし、体重100キロオーバーの人間が全体重をかけてロープをだめにしてしまうかもしれない。それどころか筆者がみるかぎり、筆者の体重でも万が一滑落したら、耐えられそうにないものもあった。また、悪天候で引き返す必要が生じたとしよう。この尾根にはエスケープがない。ということは、あの危険な岩場をバックする必要が生じることも考えられる。さらに、さいわい筆者は天候に恵まれたが(降雨があったのは八丁峠から坂本へ向かう途中だった)雨が降り岩場が濡れれば、滑落の危険性は倍増する。そういった万が一(というには、高すぎる可能性のある)の不測の(いや、予想できる)事態に備えて、安全下降のためのザイルは持っておいてよい。というか、必要だ。

 ザイルなしでこの尾根を通過してみて、筆者はあらためてザイル装備の必要性を感じたのであった。「ザイルはロッククライミングの必需品というのではなくて、安全登山のための道具である」という言葉は、真実であると思った。

 最低限、懸垂下降ができるくらいの知識は持っておいた方がいいだろう、このような山域に臨むのであれば。


 さて、八丁峠からは坂本へ下りるのだが、途中、林道と出会うところからのルートがわかりにくい。あとから思えば地図を確認すれば容易にわかるのだが、雨が降っていたこともあって、筆者はそのまま林道を下り、志賀坂トンネルの入口、林道の終点でタクシーを呼んだ(こんなところでも携帯が通じる!)。そこからさらに四キロ歩いたところでタクシーに遭遇。そこから西武秩父まで9,440円の出費であった。げに、登山とはカネがかかるスポーツなり(ゴルフ並みである)。


2008年05月07日

源次郎岳&患者学

 GWの最終日、いろいろ検討した揚げ句、「ひとに出会わなそうな山」ということで、南大菩薩の源次郎岳にした。アプローチは塩山の駅から直接である。

 あずさ3号で塩山まで。遅い朝出である。塩山駅前で、バス停に並ぶ大量の登山客を目撃するが、どうなら西沢渓谷へ行くひとびとのようだ。

 車道はブドウ畑の中を登ってゆくが、途中で地元のおじさんに「どこ行くの?源次郎?」と尋ねられる。そうだと答えると、「だいたい四時間くらいだな」とのこと。地形図をみるからに、小さな上り下りが多そうで、いちおう五時間を見込んでいた。手持ちの登山地図ではそうなっている。

 車道が終了し、登山道に入る。当然道標などはない。入口のところ、ちょっとした展望台になっていて、南アがきれいにみえる。

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 地図からこの道で正しいだろうと確認。少々小枝やヤブがうるさいが、道はしっかりしており、とても踏み跡とは言えない。立派な登山道である。途中で北のほうからの道と合流、そこから先はヤブもほとんどなくなるが、かなり傾斜が急な登りとなる。そこからほどなくして恩若ノ峰である。ここで少々休憩。

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 そこからは明瞭な登山道となる。ほとんど迷うところはない・・・はずだが、恩若ノ峰の手前の指導標を見落とし、北側の尾根に入ってしまう。地図を確認すると、北へ向かうルートは存在しないはずである。強引に西側の尾根に降りてゆくと、そこに登山道があり、一安心。そこから後は迷う場所はありえない。

 しかし、途中で地形図のどこを歩いているのか確認ができなくなってしまった。急な登りがあるはずなのに出てこなかったり、ある地点からほとんど下りがなくなるはずなのに、いつまでも登りと下りが続いていたり、で、方向は正しいことはまちがいないとしても、現在地点を見失ってしまった。今考えれば、これは地形図上の登山道を信用したためであろう。登山道は尾根に沿っているが、微妙に尾根を巻いていることが多いために(だから印象と比べてずっと楽な行程だった)上り下りが地形図と合わないのだ。

 で、突然平らな地点に差しかかる。「源次郎平」とあり、源次郎岳が眼前に望める。え・・・こんな早い時間に着くはずじゃなかったのに。

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 ここから先は一気の登りである。かなり急。ほぼ1時間ほど、駅から四時間ちょっとで到着した。予想よりもかなり早い到着である。しかし、恐ろしいことに、こんな地味なコースなのに(途中展望はほとんどない)すでに二組の登山者に出会っている。あなどるべからずGW。

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 ここからは日川尾根に出るところまでじゃっかん登りあり(ここで三組目の登山者に会う)、日川尾根に出たところが小ピークになっている。あれ? ここから北に抜ける尾根道があるはずなのだが・・その小ピークの尾根は東西に延びている。東の尾根には踏み跡すらない。しかたがないので西に向かい50mほど歩くと、そこから北に向かう尾根があり、指導標があった。

 そこからほぼ真北に向かい、しばらくすると北東の方向へずっと道(踏み跡とは言えない)は続いている。ほどなく林道に出会う。ここで、四組目の登山者に出会う。こんな遅い時間から源次郎岳に登るのは、帰りが辛かろうに・・・まあ、塩山の駅に直接出れるから、中央線の終電までに駅に着けば、理屈の上では帰宅可能だが。

 筆者が持っているガイドブック(もう二十年ほど前のものだ)によれば、この日川林道から焼山沢真木林道の嵯峨塩館(鉱泉宿)に抜ける道が踏み跡同然でひじょうにわかりにくいとのことだが、指導標もあったし、道も明瞭で迷いようがないものであった。で、嵯峨塩館に到着。風情ある旅館だ。左に見えるのが日川林道への登山道。

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 この時点で14:30である。ここから一時間ほど歩くと、甲州市営のバスのある天目バス停に着く。そこから16:28に甲斐大和駅行きのバスがあるはずであった。

 ところが、バスがない。次発は17:06である(唖然)。しかも、ここには公衆電話がなく、携帯の電波も通じない。けっきょく、甲斐大和駅まで二時間で走破し、予定よりも一本早い(もし16:28のバスがあるとして)電車に乗ることができた。

 いま、この原稿を書くために、あらためて甲州市のホームページを見ると、バス時刻が訂正されている。きっと、筆者らと同じように、バスがなくて困った誰かが甲州市に苦情を言ったのであろう。4月1日からバス時刻が変更になったのなら、GW前にちゃんと更新しようね>甲州市。


昨日の読了

 現代思想誌3月号「患者学」 ?

 例によって、社会学の研究者たちにとって格好の題材であるALS(筋萎縮性側索硬化症)という、病気全体のなかではごく少ないパーセントを占める神経難病が不釣り合いに考察の対象となっていることは、もうこの雑誌のスタンスから読む前にわかっていることではある。

 が、、、筆者がおもうに、医療はひっきょう国民が「どのくらいのコストを費やしてもいいのか」ということに、ある程度のコンセンサスが生じて、はじめて政策的に成り立つものである。「弱者、高齢者切り捨て」というが、ではそのような弱者、高齢者を救済するために、なんぼのコストがかかって、そのコストをどうやって調達するのか、それは共産党がいうように、防衛費や「思いやり予算」を削って実現可能ではなく(そのためにはまず日本がアメリカから独立しなければならないが、それを実行に移すだけの度胸と成算がどの政党にもあるとは思えない)、消費税のような間接税を増税することで賄うことが妥当であると思われる。すると、今の日本の医療制度の長所である、抜群のコスト・パフォーマンス(WHO認定第1位)が失われ、北欧型の高負担・高福祉国家へ近づくことになる。

 つまり、現在の日本は、医療に関しては新自由主義、あるいはリバタリアン国家なのであり、そのローコストを支えているのが、人件費の安さ(医師も安いが、それ以上にパラメディカルの給与が国際比較でべらぼうに安い)なのだ。若いときに税負担が軽く、自由な生活が送れるなら、そのツケは老後に回ってくる勘定になる。それはそれでひとつの国家の方針としてあってよい。要は、良質のサービスは安価では買えない、その当たり前のことが理解できるかであろう。

 そういった筆者のスタンスからすれば、「患者学」で唱えられているさまざまな試みは、けっきょく物的・人的資源を消費することになる、というみかたをせざるを得ない。すると、医療資源は有限であるからして(それは高負担社会になっても同じことだ)、結局は資源のうばいあいという結果を招くことになる。つまり、適切な資源配分の問題というところに帰着してしまうような気がしてならない。資源配分の問題であれば、救急救命におけるトリアージ、救命可能性があるところに資源を重点配分する、というように、何かの基準を持ってその配分を決めなければならない。ALSはすでに難病に指定されており、また疾患が特殊であるだけに注目されやすく、行政的には優遇されている疾患である、というのが筆者の認識だ。難病に指定されていない難病、患者数がすくなかったり、すぐ死んでしまったりして患者会が政治的な力を発揮し得ないような、そんな疾患の患者は、注目度がひくいだけにより必要な資源が配分されていない可能性がある。そういう可能性を見落とした議論は、やはり筆者には納得できないのだ。

2008年05月11日

冒険

 なぜアイルトン・セナはスピードにこだわり続けたのか。なぜ植村直巳は次々と過酷な場所を求め続けたのか。そんな著名人の名を挙げなくとも、毎年多くのひとが危険度の高い場所にゆき、多くのひとが遭難している。危険だとわかっていたら、そういう場所には行かなければよい。イラクやアフガンで人質になったり殺されたりした事件の時にもそう思ったひとは多かったはずである。

 冒険家と外国で拉致されたケースを同等に扱うことには無理があるかもしれないが、そもそも人間の本性は無難に生きることを拒否する性質のものであるらしく、筆者には思われる。明日が今日と同じように過ぎる、そんな生活が望ましいのであろうが、程度の差こそあれ、日常性から離れた時間/空間がなければ、ひとは生きてゆけない。そして生命に危険が及べば、それだけ非日常の程度は強まる。日常的に、非日常を生きているようなひとびと(レーサーとか冒険家とか)にとっては、より苛酷な条件をみずからに課してゆかざるをえない状況がふだんからあるのであろう。


 と、前置きはこのくらいにして、こんかいは谷川岳に行ってきた。この時期は残雪期であり、気象状況の特異な上越国境に位置するこの山は、2000mにわずかに足りない標高の山でありながら、GWを過ぎても多くの雪渓が稜線上にも残っている。

 上越線で高崎から水上まで移動する。沼田を過ぎるまでは、まったくふつうの春山にみえたのが、後閑(ごかん)までくると、突如上越国境の山々が望見できる。標高は今までみえた山とさほど変わらないのに、冠雪がすごい。うーむ、あそこを登るのか。。。

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 谷川岳に登る一般ルートは、群馬県谷川岳登山指導センターによれば、以下に挙げる四つあることになっている。さて、筆者はどのルートを選んだであろうか。

1)天神尾根
2)西黒尾根
3)厳剛新道
4)いわお新道

 1321mの天神平までロープウェーで上ってしまう1)を筆者が取るわけはない。2)の西黒尾根が最も正統的なルートだが、こんかいは見送った。ではどのルートから? じつはここには出ていないルートから登ったのである。それは、途中までいわお新道と同じルートを取り、つまり谷川温泉から谷川沿いに二俣まで溯行し、そこから中ゴー尾根を登るというルートである。

 どうしてこのルートを選んだか? それは、このルートが最もクラシックなものであること(地元ではふるくから使われていたらしい)、もうひとつは南面であり、しかも上部は痩せ尾根なので、残雪がすくないのではないか、という期待を持っていたことである。そして、それはなかばは当たった。

 じつはこのルートで最も危険だったのは、谷川温泉から二俣までの、観光客も登ってくるという渓谷沿いのルートであった@_@ 水上から谷川温泉まで載ったタクシーの運転手さんも、「谷川は増水していて大変らしいですよ」と言っていたのだが、たしかに河原を歩く部分は結構使えず、岸辺の高巻きを余儀なくされる部分がおおかった。それだけでなく・・・

 どうも足元が不安定だなあ、と思いながら、両手で木を掴みながら歩いていたら、突然地面が崩落した! 必死で枝を握りしめる筆者。一瞬、宙づりになった。ガイドブックによれば、この道は観光客も来る遊歩道なのだとか。でも、全行程で一番危険な場所はここだった。後続のみなさん、道を崩落させたのはわたくしです。ごめんなさい m(o)m

 で、再び河原に降りる。しばらく進んで、そろそろ二俣もちかいかなと思う場所で、増水のために進めない箇所に行き当たった。ううむ・・・高巻きも出来そうもないし、川の中を渡るしかなさそうだ・・・とみると、ちょうど雪渓が川をまたぐように架かっていた。意を決して、そおっと雪渓を渡る・・・5mくらいの距離である・・・雪渓のなかばで崩落した@_@ というわけで、後続のみなさん、あの場所は徒歩で徒渉するしかありません。深いので裸足で渡るしかないですね・・・筆者は登山靴の片方を浸水させました。

 谷川の河原からみた谷川連峰。おそらく万太郎山へ向かう尾根か。

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 で、やっとのことで二俣まで来た。ここまでで1時間半。ずいぶんかかった。

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 ここからちょっとだけ沢に沿って進み、河原に出てヒツゴー沢を渡り(地図には伏流とあるが、いまの季節はしっかり水流がある)、中ゴー尾根に取りつく。いきなり鷹の死骸があり、プリミティブな雰囲気だ。異様に傾斜が急で、まるで松の木登りをしているような気持ちになる。なにせ、1200mを4kmで登るのだから、当然か。平均傾斜角は30度ちかい計算になる。檜洞丸や大室山で鍛えておいてよかった。。。

 しばらく登ると1000mの地点で展望台につく。これは俎嵓(まないたぐら)の幕岩であろう。

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 1300mを超えると最初の雪渓がある。崩落させないように、慎重にアイゼンを噛ませるが、傾斜が急だと、フラットに足を置いているつもりでも、じゃっかん滑る。ここで筆者はピッケルを持ってこなかったことを悔やむ。万一滑落したら、ピッケルないと止まらないぞ。それにしても、どうして足跡が皆無なのだろう? GW後なのに・・・誰も中ゴー尾根からは登っていないということなのだろうか??

 しばらくして完全に道が雪渓に覆われている場所に到達。これは危険だろうが進むしかない。万一の崩落あるいは滑落のときでも、たぶん助かるであろう場所を選んで、慎重に進む。基本的には木の枝が露出している場所を繋いで移動することになる。GW後の谷川岳、当然トレースがあると思っていた筆者の甘い考えは見事に粉砕された。まさかルートファインディングが必要とは・・・

 このあたりでようやく天神平が見えてくる。でも、天神尾根に登山者がみえないのは気のせいか?? 誰かひとりくらい人影が見えてもよさそうだが・・・

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 岩場はほぼ鎖なしで行ける。ガイドブックには「下りに使うのは岩登りの熟練者に限られる」などと書いてあるが、これなら筆者クラスでも下りでいけそうだ。補助ロープはあったほうが楽だろうけれど。

 で、1600mを超えると、最初のもくろみ通り、雪渓はほぼ消滅。尾根道をふつうに歩くことになり、アイゼン不要となった。1700mを超えると傾斜はぐっと楽になり、肩の小屋もはっきり見えてくる。

 で、ようやく万太郎山への縦走路に合流。ここからはもうまもなく山頂だ。風がつよい。右手から中央にカーブしてゆくのが万太郎山への縦走路である

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 ようやくあこがれの山頂に辿り着いたのは、出発からちょうど六時間後。まあまあのペースであったと思われる。トマノ耳からオキノ耳を望む。

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 これで、筆者はほとんど終わったと思ったのだった。あとは天神尾根まで二時間の下山だけ、のはずだった。天神尾根にトレースがないことはまず考えられないからだ。しかし。

 熊穴沢の避難小屋まではそこそこ快適な雪稜歩きだった。しかし、そこから後は、延々と尾根の北側をトラバースしてゆく道が、ことごとく雪渓に覆われていたのである。つまり、いつ雪崩れるかもしれない傾いた雪渓を、水平に進んでゆくことになる。滑落は慎重な足運びで避けられても、崩落は時の運である。この季節にあの斜面は崩れないのかもしれないけれども、夏までのどこかで崩落するのであろう。やはり、天神尾根と言えども、残雪期は一般ルートとは言えなかったのである。むしろ、中ゴー尾根のほうが安心して登れた。

 天神平ケーブル駅に到達したのは16時30分。「お客さんが最後ですね?」の質問には、はい、そうだと思います、と答える。かくして、この日最後のケーブルの客として、天神平を後にしたのであった。


 さて、次のターゲットは・・・

2008年05月17日

リベンジ

 先日、とっても恥ずかしい理由で(詳細は書けません)山登りを断念したので、きょうはリベンジしてきた。上落合橋から八丁峠に出て、八丁尾根を両神山まで縦走、その後すぐに大峠・白井差峠への分岐(ロープが張ってある)から、さらに西側へ下山するルート(ここにも立ち入り禁止のロープがある)へ下山。何がびっくりしたって、八丁尾根の東岳の山頂にたくさんの人が! ここはバリエーションルートといってもよい岩稜・鎖場の連続する場所なのだが、どうしてそんな場所に還暦を過ぎたような高齢者がたくさんいるのだろうか・・・・・おまけに中双里バス停から延々五時間かかるはずの大峠ルート(梵天尾根)にも多数の登山者が! さすが百名山、恐れ入りました・・・・・

先日の購入

 シュレーディンガー「生命とは何か」岩波文庫
 「日本の百年8 果てしなき戦線」
 カール・シュミット「パルチザンの理論」
 大岡昇平「小説家夏目漱石」以上ちくま学芸文庫
 花田清輝「復興期の精神」
 森敦「酩酊船」以上講談社文芸文庫

 シュミットの「パルチザンの理論」、古本で持っているけれども、復刊に際して買い直した。

先日の読了

 「現代思想誌四月号 アントニオ・ネグリ」青土社
 大澤真幸「不可能性の時代」岩波新書 B

 「現代思想」を読んで最も参考になったのは、ネグリの入国拒否をした国は世界中にふたつしかないという事実を知ったこと。そして日本以外のもう一国とは、いわずもがなの国である。日本の外務省は、そのもう一国からの指示を忠実に守ったか、機嫌を取ろうとして右へ倣えした可能性が高い。何度も同じことを言うが、「国の誇り」がそんなに大事ならば、過去の悪事を隠ぺいしたり正当化したりするのはやめて、独立国になることからはじめるべきだろう。
 というか、それができないトラウマが、「南京大虐殺はなかった」とか「沖縄の一般住民の集団自決に日本軍は関係していない」といった、見当違いの方向へ転じている隠れた(公然の?)理由なのだろうけど。

 大澤のこの本は、極力彼の得意な弁証法と逆説を抑えて書いてある。どこかで筆者の書評でも読んだのだろうか(笑)。内容は、さまざまな雑誌に発表したものの加筆が中心で、一貫した話の流れを欠くところもある。
 内容的に注目されるのは、以前に書いたバラバシ「ネットワーク理論」のなかでも触れられていた「すべてのアメリカ人は友だちの友だちというかたちで五人以内で繋がっている」という議論を紹介し、そこから、利益・圧力団体によらない新たな共同体の可能性を示唆しているところである。
 しかし、筆者がおもうに、日本において、友人の友人という繋がりを通して成立した巨大な悪い実例があるのではないか。大澤の議論は、それを知ってか知らずか触れずに通しているように、筆者には思われた。

2008年05月24日

追悼山行

 恩師が急逝された。

 十年間親しく謦咳に与った、唯一の弟子ともいえるだけに、たいへんショックを受けたのだが、急遽予定を変更して、妙義山へ行ってくることにした。なぜなら恩師は上州の出身だからである。

 妙義山へ行くにはまだ腕の筋力トレーニングをしないといけないと思っていたのだが、時間がないのをカネで解決するのがオトナの流儀ということで、ふたつのツールを準備して備えることとした。ひとつは、以前から持っているキャラバンのGK-26という軽登山靴。これには、クライミングで有名なファイブ・テン社のステルスソールという、フリクションのよいラバーが採用されている。もうひとつは、ハーネス(猿股みたいなもの)であり、これにスリング(短いロープの輪)とカラビナ(金属の輪)を使って、鎖にビレイ(確保)を取れば万が一の転落の保険となる、という読みであった。


 かくして西上州へ。コースは、金洞山から白雲山へ縦走するという、表妙義の最難関ルートである。
 松井田の駅から登山口の中之岳神社へタクシーで到着。

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 轟岩という岩陵へちょっと寄り道してから、金洞山に向かう。金洞山は東岳、中之岳、そして西岳の三つの山から成る。そして、西岳の隣の稜線には星穴岳が、金洞山の東側には金鶏山がある。西岳には登山道はなく、金鶏山は下の道路への落石防止のため、星穴岳は危険なため登山禁止になっているという。ところが・・・

 中之岳神社からは関東ふれあいの道が、中間道(安全な周遊路)に向かって伸びている。これを途中までゆき、中之岳の稜線に乗るところでこの道と分かれる。その付近に、「上級者でも転落死亡の危険あり、引き返せ」という標識が四、五もある。そんなことはわかっているって・・・しかし、この看板群が筆者を遭難の一歩手前に追い込むことになる。

 しばらく進むと地図上で「稜線のコル」と書いている部分へ到達する。ここに、左(北西)に向かうルートがあり、トラロープで「立ち入り禁止」とある。筆者はこれを先ほどの警告看板群と同様のものとみなし、ロープをまたいで先に進む。「こんな警告ばかりでうんざりだな・・・」という思いであった。

 そこからまもなく岩壁を登る箇所に到達した。ロープは張ってあるものの、ルート探しがむずかしそうだ。しばらく考えていると、うしろで人の声がする。みると、かなり年季の入ったおじさんが「奥から斜に登ればいい」とアドバイスをくれた。

 「どちらまで行かれるんですか?」と聞かれ、「縦走する予定です」と答えたのだが、その時まだ筆者はこの質問の意味がわからなかった。この岩壁を登り、もうちょっと進むと岩峰の頂上に出る。先ほどのおじさんのほうが早そうだったので、筆者はここで地図を取りだし、写真を撮って場所を確認する。よくわからなかった(この原因はあとで記す)。

 下りにかかると、かなしやばそうな、半分崩れたような急坂に出て、ここで先ほどのおじさんにまた出会う。「どこまで行くんですか?」と再び聞かれたので、「鷹戻しから白雲山のほう」と答えると、おじさん曰く、「こっちは星穴岳だよ!」 @_@

 (たぶん)西岳からみた星穴岳

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 おじさんに礼を言って先ほどのトラロープまで戻る。たしかに、ここから右(北東)へ向かう、明瞭なルートがある。これが中之岳に登る正規ルートである・・・しばらく進むと中之岳に到着。ここから東岳、相馬岳と縦走するが、東岳への登りとそこからの下り(鷹戻し)が最も危険な場所とされている。

 しばらく下ってまた登りになると、垂直に近い二連の鎖場がある。これが危険マークのついているところだが、この鎖では筆者もさすがに身の危険を感じ、カラビナを鎖にかけ、慎重に登って行った。ここは滑りやすく、全ルートで最も緊張した箇所であった。

 ほどなく東岳に到着、そしてここからの下りが有名な「鷹戻し」、死亡事故が数多く出ている箇所だそうだ。全部で50m、たしかに高度感はあるが、足がかりも豊富でまったく危険を感じなかった。従って、鎖にビレイを取る必要も感じなかった。

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 鷹戻しを過ぎてしばらくすると相馬岳の頂上に着く。ここで昼食。

 かなり疲労を感じてはいたが、西岳へ往復のロスを入れても、予定時刻よりかなり早く到着していたので、何とか頑張って白雲山まで縦走を決定・・・と思いきや、どこのピークも同じようなかんじなので、白雲山のピークがどこか見落とす。地図で確認すると、どうやら頂上を巻いて通過してしまったかんじである。

 さて、ここからの下山路に二箇所危険個所があるはずである。一箇所のポイントは難なく通過。たしかに、25mx2ルンゼ、鷹戻しに比べるとグレードは低い。しかし、白雲山への登りは、鎖がほとんどない、岩壁の直登がいくつかあった。交通の便を考えると中之岳神社から妙義神社へ縦走した方がいいのだが、難易度はこの逆コースのほうがたかそうだ。

 ようやく奥の院へ降りる30mの鎖に到達。慎重に降りてゆくが、足がかりは豊富。おまけに途中で休める段差がいくつもある。ここもビレイをすることなく、鎖だけで降りることに成功。降り立った場所には樹齢数百年の立派な杉の大木と、洞窟があり、その洞窟の中に妙義神社の奥の院があった。ここで、恩師の冥福を祈った。

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 こんかいの反省は、事前に地図読みをしていかず、分岐でしっかり間違った道へ行ってしまったことである。登山地図は、1/25,000のものにしても、地形がよみづらい。ちゃんと国土地理院の地図を買って、きちんと地図読みを事前にしてゆかねばならない。今回のコースは危険度の高い(妙義山は今や谷川岳を凌ぐ、全国一の遭難多発地区だそうだ)コースであったが、筆者はまったく遭難する気がしなかった。でも、今思うと、あの星穴岳に向かったおじさんには、恩師が会わせてくれたような気がしている(あの時間に、鷹戻しから逆コースで星穴岳方面に向かう登山者など、滅多にいるわけがない)。

 逆に、ハーネス、スリング、カラビナのセットはほとんど出番がなかった。でもそんなものだろう。いざというときのバックアップがあるというのは安心だ。それよりも、今まで大して履いていず、何となく愛着も感じられなかったGK-26だが、これは乾いた岩場では絶大なフリクションを発揮した。「妙義山スペシャル」と名付けてもよいのではないか。両神山八丁尾根コース、赤岩尾根・大ナゲシ、そして妙義山のような西上州岩陵コースではこの靴が最強だろう。さすがに、夏といえども八ヶ岳や北アルプスへ履いてゆくのはちょっと不安があるが・・・重登山靴に慣れている筆者からすれば、あの底のぺらぺら感はやや不安をかんじた。


先日の読了
 アントニオ・ネグリ「アントニオ・ネグリ講演集(上)(下)」ちくま学芸文庫 C

 何を言っているのかわからない箇所が結構ある。講演でこんなことを言われて理解できる聴衆がどれだけいるのだろうか・・・もっとも、イタリア語、英語あるいはフランス語と日本語の構造のちがいの問題かもしれないし、単に翻訳がわるいだけかもしれず、詳細不明である。マルチチュードを巡るネグリの最新の考え方を理解するのは適当な本かもしれないが、一般的には「帝国」「マルチチュード」そして計画されている次の書物を読むだけで十分ではないだろうか。この二冊を読了してなおかつネグリに惹かれるかたは読んでもよいかもしれないが。

 本書でも展開されているマルチチュードというものに対するネグリの考え、そしてその問題点については、余力があったら再び取りあげてみよう。

2008年05月26日

ボルダリング

 登山というのはきりがないスポーツである。それは、難易度とお金(歩くだけでカネのかからないスポーツというイメージがあるが・・・)の両面でそうなのである。

 春秋の里山を散策するだけならどうということはなくとも、だんだんとまず体力的にハードなところへも行ってみたくなる。奥多摩や丹沢なら雲取や表尾根などがそれに当たる。すると、天気が良く空気が澄んで眺望のよい冬にも行ってみたくなる。少しはスリルのある岩陵も登ってみたくなる。登山道のはっきりしないバリエーションコースに、地図を片手に行ってみたくなる。といったように、キリがなくなるのだ。そして最後は冬の一ノ倉で滑落死ということになる(大げさ)。

 自分で一定のところで線を引くという作業がどこかで必要になってくるように思われる。筆者の場合は、取りあえず「一泊が必要なところへは行かない」というのが事実上の歯止めとなっているのだが、「安全登山のためにザイルが必要」という主張は、そもそも安全でない山にいくことが前提となっているから、技術が伴えばそれだけ危険度の高い山行を選ぶことになるのは分かり切っている。原子力が開発されれば必然的に爆弾に応用されるのと同じ理屈だ。

 というわけで、「岩場を安全に歩くため」にボルダリングジムを初体験してみたのだが、はじめから岩場へ行かない方が賢明な選択肢であることは言うまでもない。

 はじめて行ったボルダリングジムは女性の比率が高く、びっくり。それもあるが、道具を使わないボルダリングであっても、誰かと行ったほうが楽しいのだ。ましてや、パートナーによるザイル確保を前提としたロープ・クライミングでは(これもやった)誰か友人と一緒に行かない限りできないのだ。

 結構岩場は歩いてきたはずなのだが、いちばんやさしい課題で墜落してしまったのは結構ショックだった。これまでの歩き方を反省しなければならないのかも。あとは、自宅あるいはジムでの筋トレも必須だろう(ボルダリングは必ずしも筋力第一のスポーツではないが)。


最近の読了
 サミール・オカーシャ 「一冊でわかる科学哲学」岩波書店 B

 例によってこのオックスフォード出版の翻訳物は質が高い。日本で言うと岩波新書みたいなものだろうが、最近の新書は粗製乱造の気味があるのに対し(たとえば最上俊樹氏の本のように、高いクオリティを保っているものもあるが)、このシリーズのほうが全体としての質は上であろう。

 ポパーの「反証可能性」やクーンの「パラダイム」、そしてアラン・ソーカルが提起した「サイエンス・ウォーズ」まで、歴史的なことも押さえているし、科学哲学が何を対象にしているのかをコンパクトにまとめている。

 ただし。

 読了してなおかつ筆者は、「科学哲学は何の役に立つのだろう?」という思いを禁じえない。

 歴史的にみて、あるテクノロジーが発明されてしまうと、その倫理性は省みられることなく、かならず誰かが臨床応用してしまう。もちろん、これは倫理の問題で、科学哲学が問題にする、正当性の問題とか、観察可能性の問題とかとは異なるわけであるが、そもそもが知的遊戯のひとつである科学について、さらにその哲学性について検討するという学問は、知的遊戯を山車にして遊んでいるわけで、やはり筆者はさらなるむなしさを感じてしまう。せめて、先に挙げた科学の臨床応用の倫理性についての歯止めをかけるような正の作用があってくれたらいいのだが。

2008年05月31日

雲取山日帰り&フーコー

 こんかいから、山の記録のほかに、書評のこともタイトルに加えることとした。


 深田久弥の「日本百名山」に唯一東京から選ばれている山、それが雲取山である。しかし、2ちゃんねるの書き込みにもあったが、「雲取山は古来埼玉県固有の領土」であるという観念を筆者も持っている。もちろん、雲取山をめぐるルートは三条の湯経由、鴨沢、富田新道、石尾根、長沢背稜と東京都側のほうが圧倒的におおい。埼玉からアプローチするルートは一本だけである。にもかかわらず筆者が埼玉固有の領土と感じるかは、以前にもちょっと触れたが三峰神社の存在が大きい。この三峰とは、妙法が岳、白岩山、そして雲取山だという。そしておそらく雲取山は修験者や三峰神社の信者が信仰のゆえに登った山であって、すると埼玉県に属するという意見が説得力を持ってくる。

 ゆえに筆者は東京都側からのアプローチは「邪道」と感じてしまう。すると、三峰神社から尾根縦走のコースを取るしかないが、このコースを取るに当たって決定的な変化が生じている。それは、大輪から三峰神社へ通ずるケーブルカーの廃止である。これによって、三峰神社へは、秩父湖経由のバスでアプローチするしかなくなり(もちろんタクシーの使用は可能だが)著しくその有用性を減じてしまった。

 では、埼玉側から登るときは、前日に三峰神社宿坊へ泊まるという方法しかないか? 否。荒川の源流のひとつである大血川の近くに大陽寺という古刹がある。ここから妙法が岳〜白岩山〜雲取山の縦走路へ出ることができるのだ。こんかいはこのルートを使うこととした。

 秩父鉄道の三峰口からタクシーで20分、約2500円ほどで大血川渓流釣場に到達する。ここからさらに林道を使って上まで行くこともできるが、途中で大陽寺に寄ることもできる、ここから歩きはじめるルートを選ぶ。渓流釣場の標高は600m、ここから縦走路の霧藻が峰に出るが、その標高が1500m。つまり、縦走路に到達するまでに900mの標高差を登ってしまわなければならないハードコースである。

 天気はあいにくの曇り、コースには霧がかかり、時々雨がぱらつく。30分ほどで大陽寺につくが、なかなか趣のある寺だ。ここから広葉樹の落ち葉と石がごろつく道を上ってゆくが、それほど大変ではない。約二時間で霧藻が峰に到着。命名者の秩父宮のレリーフがあったはずだが、発見できず。ここで小休止。

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 地形図ではここから前白岩山への登りがとてもきつそうで、ガイドブックなどにもそう書いてあるのだが、地形図から受ける印象よりは割と楽に登ることが出来る。おそらく大室山のように急斜面の直登ではないからだろう。霧藻が峰から雲取山までのコースは埼玉県の何かのコースになっていて、実によく整備されている。何の心配のない道であるが、このところ道なき道を辿ってきた筆者にはなんだかちょっと物足りない。

 前白岩山を過ぎ、白岩山で休憩。雨足が強くなる。

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 白岩山の標高は1921m、あまり雲取山と変わりがない。ここからはしばらく平坦な道が続く。芋ノ木ドッケで長沢背稜への道を分け、しばらくすると登りになり、雲取小屋へ着く。ここにある標高1830mのトイレは、東京都最高峰だそうだ。

 ここから約200m登ることになるが、それほどきつい登りではない。かくして、釣り場を出発してから約五時間の行程で雲取山頂へ到着。コースタイムは通常六時間以上、ここまでは順調である。

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 ここからはひたすら単調な下りを鴨沢まで降りてゆくことになる。コースタイムは三時間半ほどだが、バスの時間もあり一気に駆け降りる。おかげできょうは膝の痛みがひどいが(あまりこういうことをやってはならない)、二時間半ほどで鴨沢へ下山。でも、ほとんどがザレた荒涼地か植林地のトラバース道で、ここを登りに使ったらうんざりするようなコースだ。その点三峰口コースは平坦なプロムナード、岩場、原生林とバラエティに富む道で、展望もそれなりにあり、楽しめる。やはり、雲取山は埼玉県の山なのである。


最近の読了
 ガリー・ガッティング「フーコー 一冊でわかる」岩波書店 B
 堀辰雄「菜穂子」岩波文庫 B

 このフーコー概説書は極めて手際よく整理されている印象を受ける。彼の仕事でもっとも影響力のある部分は「系譜学」であり、これを押さえている(「臨床医学の誕生」「狂気の歴史」「監獄の誕生」)のはもちろん、アガンベン、そしてネグリによって政治的にも追求されている「生政治」の概念も説明されている。フーコーが最晩年のテーマにした「性」についても触れられているが、「自己のテクノロジー」についての言及がなかったことが惜しまれる。いずれにせよ、フーコーの仕事について知らないひとが最初に読む概説書としては秀逸だろう。しかし、筆者にとっては特に目新しい情報はなかった。

 筆者は堀辰雄のファンであるが、最後の大作「菜穂子」よりは、やはり「風立ちぬ」「美しい村」により惹かれる。こんかいこの「菜穂子」の解説で気付いたのは、彼が1953年、つまり戦後まで生きていたということだ(戦争が終わる前に死んでいたと思っていた)。ということは、彼が1940年の「菜穂子」で筆を断ってしまったのは、単に健康状態の悪化では説明できない部分があるのではないだろうか。

2008年06月07日

芭蕉月待ちの湯&希望と憲法

 冬に登り残した、道志の菜畑山〜今倉山〜二十六夜山の、後半のルート、すなわち道坂隧道手前の林道から今倉山〜赤岩へのコル(西ヶ原)に出て、そこから二十六夜山へ縦走するルートへ行ってきた。カメラを忘れたのでとくに掲載する写真はない。

 林道から西ヶ原までの道は、ときどき急登があるものの、特別問題はなく、一時間ほどで到着。ここから赤岩までは二十分ほどである。展望のよい赤岩から小さな頭稜をいくつか超えて、林道を横切ると二十六夜山である。ここの山頂はなぜだか蠅が異様に多い。早々に退却、上戸沢への下山路を取る。ここから1時間半ほどで戸沢の「芭蕉月待ちの湯」に到着。ここは地元のひとたちの憩いの場になっているようである。

 ここから帰りは赤坂駅まで一時間車道を歩いたが、途中で野生のタヌキに遭遇。動物園以外ではじめてみたよ・・・むかしはタヌキ汁にして食べていたんだね。

 このコース、三時間ちょっとで、新宿から谷村町までの電車賃と、谷村から道坂隧道手前までのタクシー運賃を使うにはもったいない。せめて道坂隧道から今倉山に直接登るルートか、やはり菜畑山からの縦走にすべきであろう。冬、西ヶ原から二十六夜山まで一気に行ってしまうんだったとちょっと後悔。また、温泉の質、雰囲気だけでいえば、同じ道志でもここよりは杓子山下山口にある不動の湯のほうがおすすめである。


本日の読了
 酒井直樹「希望と憲法」以文社 A

 本書の姉妹書である「日本/映像/米国」には少々辛い点をつけたが、本書はいちおう合格点である。酒井氏の持ち味はその深い知識に基づく緻密な考究であり、その長所が本書にはよく出ていると考えられる。

 副題は「日本国憲法の発話主体」とあるが、後半はもっぱら米国=日本の、現在まで続く占領=被占領の共犯関係に光が当てられ、その共犯関係の戦犯として「体制翼賛型マイノリティ」という概念が呈示され、その代表的な人物として和辻哲郎と江藤淳のふたりがあげられ、分析される。この後半を読まないと、前半の「米国の占領政策から生まれたはずの、しかし米国の帝国主義的な支配を裏切るツールと化してしまった日本国憲法」という論旨は理解しにくいかもしれない。

 最後にあのライシャワーのメモが翻訳されて載っており、この内容が本書の考察のひとつの根拠となっている。ここに要約を書いてもいいのだが、是非本書を手に取って、この部分だけでも一読されたい。「国の誇り」とか民族主義的になればなるほどアメリカ帝国主義にからめ捕られてゆくという逆説が、大澤真幸のような逆説の論理ではなく、順接論理で説明されてゆくのは、読み手に対する強い説得力を持っている、と筆者には思われる。けっきょく、酒井氏の論理からすると、日本に真の独立をもたらすものは、ネグリの「マルチチュード」ということになるように思われる。本書にはネグリのネの字も出てこないのではあるが。

 しかし、大澤真幸氏の新刊、さすがに筆者はもう買う気は失せている。

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2008年06月14日

ミドリ岩&大岩

 西上州へは現在三本の鉄道が通じている。北の吾妻郡には吾妻線が、中央部の安中市は碓氷峠の手前まで(かつては軽井沢まで通じていた)信越本線が、そして南部には上信電鉄が走っている。上信電鉄は、近代日本の紡績業に名を残した富岡を経て、ねぎとこんにゃくで知られる下仁田で終点となる。下仁田からはほぼ真西に向かって国道254号線が、そして南西には南牧川沿いに県道が延びている。

 下仁田は各種登山の基地である。特異な岩峰を多数有する妙義山や航空母艦様の荒船山などが下仁田からアプローチ可能である。先ほど述べた県道を南下すれば下仁田町から南牧村に入り、ここには妙義山を彷彿とさせるような、尖った岩峰を多数みることができる。それらの代表的なものが、ミドリ岩と大岩だ。ここにアプローチするには、県道を村役場からかなり入った、勧能集落に到達する必要がある。勧能ー下仁田間には、後で触れるように南牧村が地元のタクシー会社と提携して、乗合バス路線を運営している。しかし、朝の登山に適した時間には、このバスはない。下仁田駅からタクシーを調達することになるが、下仁田駅前には平和タクシーという会社の営業所があって、ここから拾うことが出来る。しかし、土日などは、あらかじめ予約をしておくのが得策なようだ。

 ここから約四十五分、5,000円ほどで勧能集落からさらに奥に入った、三段の滝入口へ着くことができる。ここは村が整備した遊歩道があり、三十分の歩行で西上州随一の滝を見学することが出来る。

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 ここから川の左岸(右側)にある登山道へ進む。ちょっとわかりにくいがどうということもなく、しばらく進むと二子岩への分岐部に着く。ここに指導標あり。

 かなりの急登だが、しばらくすると沢沿いに進むようになり、傾斜はやわらぐ。地図上では左側の尾根に取りつくようになっているから、そのつもりで注意して進むと、「三段の滝<-->ミドリ岩」の標識。筆者はどうもこういう標識類に惑わされることがおおい。こんかいも、標識の左側に明瞭に延びている道を見落として、標識が示している(ように見える)直進するルートを取った。道は不明瞭だが識別可能で、尾根へほぼ一直線に登る急登である。こんな急な道は先日の大室山以来である。ここを下りに使うとたいへんだろうな〜(この時点では別のルートで下山するつもりだった)と思いつつ進んでゆくと、尾根に出て、道は急に明瞭となる。しばらく痩せた尾根を進むと木々沿いにミドリ岩が見えてくる。

 そのまま尾根を進み、ミドリ岩=大岩分岐でミドリ岩側に進む。南側から岩に登るのだが、最初はロープなしには登れないほどの垂直な絶壁である。ホールドもあまりなく、腐りかけたロープ(あとどのくらい持つのだろうか・・・)を頼りに何とか登り着く。

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 あとで見るとロープの基部は半分枯れた木の枝であって、ぞっとするような状態である。しばらくして再度の岩場。ここも頼りないロープが数本掛けてあって、さすがに全部切れることはなさそうだ。ちょっと安心してロープに体重を託し、進む。ほどなく頂上。南牧村が一望できる好展望だ。

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 大岩=ミドリ岩分岐まで戻り、こんどは東に直進。途中で小ピークに出る。ここからはミドリ岩、大岩の両方が望見できる。

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その小ピークからほぼ尾根を忠実に辿ると岩場に出る。ここには鎖もロープもないが、手がかり・足がかりは豊富で、慎重に足を運べばまず転落の可能性はなさそうだ。ここを登り切ると大岩の頂上だ。

 ここからは東へさらに尾根を伝うバリエーションルートで下山するつもりでいた。尾根はよく踏まれていて、途中のピークまでは迷うところはない。ここから南側に斜面に踏み跡があるが、方向が違うため(ルートは東側から北側の大岩基部へ回り込むはず)そちらには行かず、さらに尾根を東(正確には東南)へ進んだ。そこから下りとなるが、すごく古いテープなどは巻かれているものの、下行路を発見できず、あえなく敗退。大岩まで戻る。そこからまた来た道を戻って帰路、と思っていたら、どうやら登路とちがうルートを下ってゆく。しばらくすると「ミドリ岩<==>三段の滝」の標識まで来て、登路をまちがえていた(登れたには登れたが)ことに気付く。

 14:40発の勧能発の下仁田行き乗合バスに乗って戻ったが、この「乗合バス」、実態はマイクロバスであった。全部で十人ちょっとした乗れない、かわいいバスである。土日、大量の登山客が発生したら、対応できそうにない。土日は大型バスが走るのだろうか? 道の広さを考えると、それは無理そうで、マイクロバスはとても現実的な選択肢だから、それほど登山者は多くないのかもしれない。このバスといい、上信電鉄といい、なかなか風情ある乗り物で、充実した山旅を楽しむことができた。


 でも、出費は痛いな・・・東京=高崎の新幹線が往復10,000円、高崎=下仁田往復2,000円、下仁田=勧能がタクシーで5,000円、帰りの乗合バスが500円。もう当分西上州には来れまい。やっぱり、丹沢が一番安いな・・・(sigh)

2008年06月21日

裏妙義&今福龍太

 表妙義での散財の穴埋めをすべく、こんかいは裏妙義へ行ってきた。なぜ裏妙義なのか? それは、信越本線横川駅から直接歩けるからである。

 こんかいはカメラを忘れたため、かかった交通費だけ書いておくことにしよう。

上野 - 横川(往復)4,420円
普通列車グリーン券(上野 - 高崎片道)950円

 というわけで、上野 - 高崎間の新幹線往復8,820円(松井田までの運賃含む)+ 松井田〜中ノ岳神社、妙義神社〜松井田間のタクシー運賃7,000円(くらいだったか?)に比べるととても安価に済んだ。
 にしても、丹沢大山フリーパス1,480円には敵わない。やっぱり夏は丹沢で沢登りしかないな。


先日の購入
 今福龍太「ミニマ・グラシア」岩波書店
 小田実「『難死』の思想」岩波現代文庫
 イザベラ・バード「日本奥地紀行(下)」講談社学術文庫
 「日本の百年9 廃虚の中から」ちくま学芸文庫

 そもそも、今福の代表作「クレオール主義」をまだ読んでいない。

2008年07月06日

利尻岳登山

 まず、次の質問を考えてみてほしい。

1)筆者が持っていった装備の中で、利尻岳登山に不要と思われたものは、どれか。
 a)簡易トイレ b)登山ストック c)レインウェア d)サポートタイツ e)帽子

2)逆に、筆者が持っていかなかった装備の中で、必要だと痛感したものは、どれか。
 a)ピッケル b)ヘルメット c)ザイル・ハーネス d)スパッツ e)GPS

 利尻岳には登山道が三つある。そのうち、東南の鬼脇から登るものは上部の崩落が激しく登山禁止となっている。主な二つは北側の鴛泊から登るもの、西側の沓形から登るものである。筆者は当初沓形から登り、鴛泊に下りるコースを考えていた。鴛泊に下りるのだから、宿泊は鴛泊にちかい宿にした方がよいと考えたのは浅はかだった。利尻島の宿は鴛泊と沓形に集中していて(前者は利尻富士町、後者は利尻町となり、自治体が異なる)、ほぼどの宿も登山口までの送迎を行っているのだが、それぞれ最寄りの登山口までしか送迎はやってくれない。しかも、宿の主人曰く、

「朝早いとタクシーは呼べないよ」

 がーん・・・東京近郊なら前もって予約しておけばどの時間でも可能なのに・・・

 というわけで、鴛泊コース往復となってしまった。後から考えれば沓形に宿を取っておけば、沓形登山口まで送ってもらって、帰りは鴛泊コースから下山し、町まで歩いてバスで帰る、という帰路が取れたのであった。

 利尻岳はきれいな独立峰である。裾野は傾斜が緩いが、高度を上げるに従って傾斜は急となり、25,000分の1地形図を見る限り、七合目以降は結構等高線が詰まっている。しかし、登ってみると、地図をみた感じよりは楽に登ることが出来る。

 朝四時半頃に鴛泊の登山口に到着。ここでおにぎりを食べて出発。しばらくは沢沿いに進み、それから尾根を巻く道なので、あまり展望はない。六合目あたりから尾根に乗り、鴛泊の町や礼文島が視野に入ってくる。

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 道は登山者が多いために抉られている感じで、潅木のあいだを縫って歩くような感じだ。ハイマツも結構ある。八合目に長官山という小ピークがあり、これを頂上と勘違いしてがっかりするパーティもあったようだが、それはちゃんと地図を読んでいけばわかることだ。

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 このへんまでに中高年者のグループをかなり抜かしてきたが、この山はほんとうに高齢者の山である。平均歩行時間九時間ともいわれるこの山、だいじょうぶなのだろうか?

 八合目を越えるとザイルが要所に出てくる。通常の山ならあり得ない箇所であり、つくづくよく整備された山だと感心する。この山があるために両自治体共に潤っているわけだから、事故でも起こされたら困るのはわかるが、いくらなんでも手を入れ過ぎだろう。九合目に着くと標識に「ここからが正念場」と書いてある。頂上は目前なのだが、ここからの道は崩壊がひどく、特に下りは危険な道となる。

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 でも、転倒はありえても滑落は絶対にあり得ない場所なので、その点は安心できる。慎重に足場を探してゆけば決してむずかしい道ではない。けっきょく、頂上に到着したのは朝の九時前で、ゆっくり歩いた割にはコースタイムよりだいぶ早く着くことができた。

 ここからは下山であるが、さきの崩壊箇所を慎重に下ってゆく。ここはまったくストックが役立たない場所であり、さりとてほかの場所は道の左右に潅木が生えている箇所が多いために、むしろ両手は木を掴むために空けておいた方がよくて、筆者がおもうに、この山ではストックはまったく無用の長物である。むしろ、足元をよく見ていると、登山道に張りだした潅木にアタマをぶつけることがとても多く(筆者は十回以上やってしまった)、むしろ必須と思われたのは、ヘルメットであった。ちなみに、この山に登るためには、簡易トイレの持参は義務づけられている。道は明瞭であるためGPSは(たとえホワイトアウトしても)不要。スパッツは小石が入ることを防げるかもしれないが、蒸れるため長時間の歩行では靴擦れを増強させるだけであろう。全員がスパッツを付けているという信じられない登山会がこの山にもいたが(あんなに暑いのに)、あれで一人も靴擦れができなかったらどうかしている。

 で、結局十三時くらいに登山口に到着。だいぶ時間が余ってしまったので、ポン山〜姫沼というハイキングコースへ足を伸ばすこととする。このハイキングコースの終点が、ちょうど宿にちかいところにあるからである。ポン山、姫沼ともに利尻岳がよく観察できる。

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 どうのこうのと、結局宿へ着いたのは四時過ぎ。いくらなんでもあのハイキングは蛇足だったか?

2008年07月19日

甲武信岳&HIROSHIMA

 そう、"On The Road"でひとつ指摘しておかなければいけないことがある。主人公=作者のSal Paradiseは、とても異性に憶病である。そして、天性のBeatnicであるDeam Moriarty(これって筆者はシャーロック・ホームズの終生のライバルであるモリアティ教授を連想してしまうのだが、、、もうひとりの登場人物、Carlo Marxはもちろんカール・マルクスであろう)に対する異様なまでの執着は、主人公(たぶん=作者)が同性愛者であったことを示唆する。まったく、この主人公の女性に対するchickenぶりは読んでいて腹が立つ。

 さて、こんかい前日泊まりの日帰りで甲武信岳に行ってきた。一般的には日帰り不可能と言われているが、そんなことはない。
 新宿22:00発のかいじ121号に乗ると(この電車の始発は新宿ではなく、東京駅である。要注意!)23:27に塩山に到着する。甲州タクシーさんの営業所は、駅の南側にあり、ここの仮眠施設を利用させて頂くことにした。宿泊費も浮くし、また設備も畳八畳くらいの十分な広さがあり、冷蔵庫、布団(筆者は利用しなかった)も完備と大変ありがたいものだが(本日ひとり駅前ベンチで仮眠しているひとがいたそうである)、蚊がいることと光や電話の音で睡眠に適した環境とは言えないことを覚悟してゆく必要がある。一般的にはアイマスクと耳栓の使用を勧めたい。筆者はコンビニでビールを二本買って飲んではみたものの、結局眠れず(甲州タクシーさんの責任では決してない)。

 で、三時半にタクシーを予約。西沢渓谷入口に着いたのは四時。工事中でここより先の林道へは入れなかった。さすがに四時ともなればあたりは暗闇なので、ヘッドランプを装着する。谷沿いに軌道跡を登る旧道もあるが、深夜登山なので尾根沿いの徳ちゃん新道を登ることとした。二時間半くらいすると旧道と合流するはずで、その地点が登り行程の半分になるはずである。

 四時半頃から徐々に白みはじめ、五時前くらいにはほぼヘッドランプの必要がなくなった。しかし、二時間半経っても旧道との合流地点に到達しない。これは見逃したか、と思っていたら、三時間経過後にいきなり破風山=甲武信岳分岐に出る。えっ! ここは、奥秩父縦走路上に出たことを意味する。ガイドブックや地図では、ここまで五時間かかることになっている。いったいどうなっているんだろう・・・

 埼玉出身である筆者が、以前から登ろうと思っていた、埼玉県の最高峰である甲武信岳は、本当に素晴らしい。それは、原生林が手付かずで残っているからである。標高の低いところはクヌギやブナなどの落葉樹林が、そして登山道の中途にはシャクナゲのトンネルが、そして2000mを越えると植林ではない針葉樹林が出現する。埼玉県でここまでの原生林が残っている山は、おそらく甲武信岳とあとは和名倉山(白石山)くらいではないだろうか。

 この合流部より程なく甲武信小屋、そして山頂へ着く。時間は朝の八時にもまだなっていない。これなら、前夜泊しなくても、余裕で日帰りできたよ・・・しかし、どうして山頂はあんなにハエのたぐいが多いのであろうか? それだけが唯一の欠点である。おちおちおにぎりも食べられない。

 帰りは千曲川(信濃川)源流を訪ねるコースにする予定だったが、時間が予定よりも大幅に余ったために、武信白岩山を経て十文字峠に至るコースに急遽変更した。このルートも原生林に恵まれたコースである。一部に岩稜があるものの、おおむね土と木の根を中心とした登山道であり、所々に倒木が横たわっているという、いかにも奥秩父らしいルートである。この雰囲気は、熊倉山や雲取山では得られないものがあると思う。道は明瞭、指導標完備で、初心者でも迷うことのない道である。ただ、少々体力を要するかもしれない。一般的に一泊が無難なのだろう。

 結局、バスの起点である梓山に着いたのは、十二時四十分。予定よりも一便早いバスに乗ることができた。でも、東京着は、五時を回るのではあるが。

昨日の読了
 小田実「HIROSHIMA」講談社文芸文庫 B

 単一の主人公を持たず、ネイティブ・インディアンや黒人、そしてもちろん日本人という、アメリカ社会におけるマイノリティを登場させ、彼らが彼らなりの立場で原爆投下に関与していた、ことを描く作品と言っていいのだろうか? 小田はそれらマイノリティも尊重すべきだという立場を、政治的のみならず、作品の内部でも示していると思われるから、そう読んでしまうのはちょっとアイロニカルに過ぎるかもしれない。しかし・・・原爆が製造され実験され実用に供されるに至った過程で、それに関与した人間の数は膨大で、しかも生活上の必要から、心ならずも(いや、多くは原爆が何かという認識すらなく)それに関与してしまったことを、果たして責めうる道義的に潔白な人間は存在するのだろうか? 悪にも、その悪によって生計を立てている人間は存在し、その悪を潰すことによって取り残されるひとびとに適切な補償を行う、という政策を取るには、その悪(例えば自衛隊とかね)はあまりに巨大過ぎるようにも思われるのだが(たとえば、憲法第九条に従い、自衛隊を解散し、災害救助および海外平和医事活動派遣部隊のみに縮小し、国内の軍需産業をすべて潰すとして、それによって失われる雇用を創出することなど、ほんとうにできるのだろうか?)。

2008年07月26日

不運な山行

 先日は、初心者が一緒だったので、谷川岳の西黒尾根から登り、天神尾根からロープウェイを使って降りる、という軟弱コースだった。ロープウェイがあるため、若者の姿が多くみかけられたが(なんかちょっと違う気が・・・)、驚いたのは、登山ウェアに身を固めた(この暑いのに例によってスパッツまで付けていた)若い女性ハイカーが、アイラインを書きマスカラをつけていたことだ。いくら性能がよくなってきていると言っても、多量に汗をかけば剥がれてくるって・・・。そういうひとはたとえば谷川岳ならばロープウェイ以外のコースを登ることは眼中にないのであろう。今までナチュラルメイクの女性登山者しかみたことがなかった筆者には目からうろこ(というのか??)であった。

 さて、今回は、季節列車のムーンライト信州を使って、奥秩父の金峰山・瑞牆山への夜行日帰りプランを考えていた。が、さまざまな不運と失敗によって果たせなかった。
 甲府の駅に2時過ぎに着き、そこで昇仙峡の先、黒平の甲府市の森林浴広場へタクシーで向かうはずだった。が、運転手共々林道を間違え、かなり手前から支線へ入ってしまう。また、ここの広場からさらに林道を通って、登山道の取り付きにはいる部分が分かりにくい。その入口以外には一切道標などはない。結局、せっかく朝四時過ぎに着いていながら、この登山道からの出発は朝の九時。まったく夜行で行った意味がなくなってしまった。おまけにこの林道での彷徨の最中、デジカメを壊してしまう。ので、今回は写真はケータイのみ(まだ落としていない。そもそも、甲武信の写真もまだ現像していない。。)

 この黒平コース、登山地図には実戦で記載されているが、尾根への取り付きが終わって防火線へ出てみると、いきなり踏み跡は消滅。ヤブを漕ぎながら地図とコンパスを取りだす。結局、地図に記載してあるコースとは異なった場所を歩いたようだが、途中で薄い踏み跡へ合流。どこへ向かっているかわからないので、とりあえず北=金峰山の方向へ向かっていることを確認しつつ歩いた。地形がちょっと複雑なので、途中からどこを歩いているのか不明瞭になってしまったのだが・・・

 1770付近で林道と交錯するが、この南東から北西へ向かう道は舗装こそされていないが、クルマも通れるりっぱなものである。この林道をさらに南東に追うと歩いてきた林道に接続されているので、道を追う上でよいメルクマールとなると思われる。しかし、歩いていた筆者は、この林道とクロスした時点での場所がわからなかった、というのは、恥ずかしい話である。

 1692付近を走る登山道は、この1770ちかくで新たに北東へ向かっている登山道に接続し(つまり筆者が歩いてきた登山道だ)、地図によるとここから谷沿いに上向し、しばらくトラバースを経た後、神子ノ沢を横切るが、この付近からは道は明瞭になる。しかし、突然マーキングが途切れ、道を追うことが出来なくなる。しかし、諦めずに歩いていると、いつしかマーキングの続きを発見して、明瞭な登山道を追うことが出来る。ここからまもなく水晶峠である
。じつは、筆者はこの時点で水晶峠はとっくに通過していると思い込んでいたため、たいそうびっくりした。

 水晶峠からは御室川(青線で書いてあるが枯れ沢である)沿いにしばらく上行し、ほどなく市営の御室小屋に着く。無人の避難小屋のようだが、荒れていて使用はむずかしそうだ。ここまで林道から登山道への取り付きから二時間ほどである。しかし、繰り返すが2万5000分の1地図と、コンパスは必須である。

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 ここからなぜか登山地図では破線で書かれている。ルートの辿りにくさ(一部はもう道形すらわからない)から言えば、当然ここより前も破線で書かれるべきである。さて、ここからの1/25,000地図の等高線の詰まり具合をみてみよう。等高線から想像できるくらいの急登である。筆者が今まで経験した二大急登は丹沢の大室山カヤノ尾根(北東尾根)と谷川岳の中ゴー尾根であるが、この金峰山の南尾根(黒平方面)はその二つに匹敵する急登である。しかもこの尾根のよいところは、随所に岩場や鎖、梯子があってスリリングなこと、さらに所々で金峰山頂上の五丈岩が望見でき(これは他のコースではだめなはず)、また県境尾根や辿ってきた黒平方面の展望もよいこと、である。結論からいえば、金峰山へ登るならぜひこの尾根からの登山をお勧めしたい。ほかのコースに比べて、やや時間と体力を消費することが若干の欠点ではあるが(筆者は荒川沿いの黒平町の集落、1100地点から歩いたことになるため、標高差1400mを登ったことになる。標高1200mと書いてある森林浴広場まではタクシーで上がれるため(夜間割増運賃で甲府駅から約10,000円)そこからなら1300m差である)黒平小屋からのあの二時間を経験するだけでも価値がある。

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 林道で余計な五時間を消費したため、瑞牆山は諦めざるをえなかった。大日岩経由での下山時刻が16時、ここからタクシーを呼んだところ、「50分かかります」(!)と言われて眼を丸くした。たまたま、瑞牆山荘で翌日の登山までゆっくりしていた関西からの二人組のおじさんが話し相手になってくれたので、ビールを飲みながら登山談義に興じ、幸い退屈せずに済んだ。クルマで両神山へ行くということで、コースを聞かれたので、上落合橋から循環コースが取れますよ、雲取山ならば三条の湯や鴨沢は避けて、日原にクルマを置けば富田新道〜長沢背稜のコースがいいですよ、とアドバイスした。下山したときに「大弛からですか?」と聞かれたので、「いやあ(標高2360mの)大弛からでは登山になりませんから」と答えたら、大きく頷かれた。百名山ブームのためか、メジャーな山にどんどん楽な登山ルートが開拓され(利尻岳のように構造上不可能なところもあるが)、楽なルートがメジャーなルートになっているのを聞くと(ひょっとしたら金峰山も大弛からが最多!?)、所詮ブームなどそんなものだろう、と思う。こんかいの黒平ルートのように、一番よいルート(だとおもう)でありながら、ほとんど登られていない好ルート、好山岳がたくさんあるのだろう。

 瑞牆山を省いてしまったので、次回は信濃川上から小川山を経て瑞牆山に達するルートを選択することになろう。

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2008年08月09日

夜行日帰りの功罪

 もちろん原則は避けるべきです。それは・・・

1)概日リズムを崩す
2)人間にとって一番アブナイ時間(明け方)に行動することになる
3)熊や有害動物(クルマなど)に遭遇する可能性がある

 からです、もちろん。

 新宿22:00のあずさ121号に乗ると甲府に23:42に到着する。ここから小淵沢行きの終電に接続し、0:38に小淵沢へ着くことができる(この季節だと、特別運行のムーンライト信州を利用することも可能だ)。この列車を利用するときに注意すべきなのは、「新宿発」ではないことである。このかいじは東京発だ。だから、自由席で座りたいときには東京あるいは四ッ谷から乗るべきである。もっとも、立川あるいは八王子で確実に着席することはできる。

 小淵沢の周辺で適当な仮眠施設はない。駅のログハウス風の待合室を使うか(シーズン中は結構一杯になってしまうそうだ)、歩いて1時間近くかかる「道の駅 こぶちざわ」の無料休憩所を使うかである。こんかいは、前者を利用した。しかし、注意しなければならないのは、改札でひとが消えてしまうため、Suicaを利用したときに出札処理ができないことである。これには注意を要する。

 仮眠後小淵沢駅を出たのが二時過ぎ。そこから登山口である観音平まで歩くことになる。途中で道の駅に寄り、缶ジュースを飲みトイレを済ます。なお、駅の周りにコンビニなどないので注意する必要がある。観音平までは歩いて三時間半くらいであるが、この間はヘッドランプはあったほうがよい。しかしなくても歩ける。天文ファンご用達の八ヶ岳山麓ゆえ、星が大変綺麗でなかなかロマンティックである。

 観音平でトイレを済まし、「延命水」(なかなかよい名前だ)の水場で補給をし、出発。熊が出るということなので熊よけの鈴を付ける。ここから開けた雲海まで一時間。ここで少し仮眠を取り(歩いているときにひどい頭痛に襲われた)、次の押手川へ向かう。ここまでは地図でみるよりずっと緩い感じの登りだ。押手川で青年小屋への道を分け、頂上への直登コースを取る。ここからは若干傾斜がきつくなるが、地形図から想像するよりは緩い。ただ、頂上まではコースタイム一時間二十分ほど、もう着いたんじゃないか、とたびたび期待を外されるので、ゆっくり登った方がよい。青年小屋の宣伝看板「冷たいビールやかき氷が待っている」(かき氷はともかく、ビールなんか飲んだら下山できなくなるって・・・あとは、経験上気圧の低い山の上で飲むビールは、なぜか美味しくない。下山してから飲むのが最上である)を過ぎると程なく頂上だ。荒涼とした感じの場所だが、釜無川を挟んだ南アの鳳凰三山、白峰三山や権現岳、赤岳といった八ヶ岳主稜の展望がよい。

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 ここから青年小屋を目指して降りる。青年小屋は権現岳への稜線のコルに立っていて、ここのベンチで休憩を取る。ここのバイオトイレの綺麗さは筆者がみたうちでも一、二位を争う。使用料百円は良心的で、ここならもっと取っていいんじゃないかと思う。ここからの権現岳へ向かう稜線はなかなか魅力的な場所だ。森林帯を抜けると八ヶ岳らしい岩陵帯になり、過ぎてきた編笠山や青年小屋、行く手の権現岳、そして左手には阿弥陀岳(赤岳は奥まっていて雲のため同定し難い)だろうと思われる山並みの展望が素晴らしい。ノロシバを過ぎてギボシへ向かうここ、ちょっとみると「登れないんじゃないか」とおもうが、北側のエッジは切り立ったガケになっているけれども、稜線はうまい具合にわりとなだらかで、登山道もむりなく付けられている。この登りはなかなか楽しい。ギボシの頂上は巻いて過ぎ(権現岳側から直登ルートがあるようだ)、権現小屋を過ぎキレットへの分岐を過ぎ、程なく権現岳である。直射日光が照りつけると、さすがに暑くて昼食を取れるような場所がない。仕方なく下山路の三ツ頭方面へいくらか歩いてゆくと、潅木で日が遮られている場所を発見、昼食となる。

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 ここから三ツ頭を経て前三ツ頭に着くと、ここから左側の尾根を落ちてゆく急降下の下りだ。ここは登りにとるととんでもなくきつい(傾斜は30度以上ありそう・・)と思ったが、西丹沢でも谷川岳でもこのくらいの傾斜はあるのだ。短時間で距離が稼げることを考えるとわるくないかもしれない。それよりもここまですでに八時間以上歩いてきて疲労が出てくるときに、この下りは相当きつい。足を痛めないように休み休みゆっくり降りてゆくが、それでも駅に着いた時には足裏と足指をかなり痛めてしまったようで(何度か捻挫しそうになったし)、このような場所では重登山靴に軍配が上がるようだ。

 天女山の駐車場に着き、タクシーに電話をすると「出払っていて二十分以上かかります」とのこと。やむなく甲斐大泉まで徒歩ということになったのだった。

 なかなか楽しいコースだったが、やはり仮眠を十分に取らなかったため、自覚的にはかなりきつかった。次は権現岳からキレットを経て赤岳へ至るルートを考慮中である。先日のリベンジである小川山〜瑞牆山は暑そうなので、天候の涼化を待ちたいとおもう。

2008年08月18日

荷が重い

 文字通りの意味である。

 テント山行の予行演習として、本番に担ぐのと同様に一式背負って八ヶ岳の観音平へ向かう。23時過ぎ、ヘッドランプのみの明かりを頼りにテント設営。地面は駐車場だったのでペグは打たなかった。
 暑い・・・入口を開け、メッシュにする。しかし、だんだんと気温が下がってゆく。0時過ぎには入口を閉めるも、1時頃にはだんだんと寒くなってきたため、シュラフを取りだす。何だか2時くらいに団体が下山してきたような声が聞こえたのだが、あれは空耳だったのだろうか? ペグを打たなかったのでテントは強風でずれるし、まったく眠れない。4時に目覚ましを掛けるも、起きる気にならず、5時過ぎにクルマが次々と到着、ここでテントを撤収して朝食を食べようとするが、食道で支えてしまって(筆者にはときどきあることだ)どうしても食事が通過しない。唾液は嚥下できないし、どうしようもなく苦しくなりここで十数分消費。結局歩き始めたのはほとんど6時ちかくになってしまった。

 ここから南八ヶ岳遊歩道を東上する。6時半頃に甲斐小泉からの道と合流。ここを右、つまり甲斐小泉方面へ向かえば八ヶ岳神社、左に向かうと目指す権現岳となる。当日の目標は、10時までに権現岳に到着すれば(本来は4時起きすれば9時には着くはずであった)そのまま気レット越えをして13時頃に赤岳に着く予定であった。

 が、いつも荷を軽量化しているせいか、しんどくて仕方がない。水を3kg背負っていたのでこれを捨ててしまいたい衝動に駆られるも、じっと我慢した。じっさい、これから水を2kg消費してしまうことになる。焦らずゆっくり歩くこととする。見通しの利かない樹林帯が続く。しばらくすると尾根に乗り、先日降りた甲斐大泉への尾根が見えてくる。そこからまもなくヘリポートへ着く。

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 そこからやがて尾根の左側の見通しがよくなってくる。編笠山の全貌がはっきりしてくる。

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 木戸口公園を経て三ツ頭へ到着したのが9時34分。権現岳への到着は結局10時20分過ぎになって、目標の10時には届かなかった。この時点で赤岳まで行くのは天候の急変も考えられたため断念、ここから先日の逆コースでギボシ、ノロシバと過ぎ、青年小屋に向かう。

 青年小屋からの押手川までの下りが非常に辛く、急にスピードが落ちてしまった。もともと下りは得意ではないが、このところ下りになると途端に足の疲労が出て、スピードが極端に落ちるということが続いている。どうしてなのか、ずっと考えていたのだが、それは膝の痛みが出てからのことであることに気付いた。下りの着地の際に関節それ自身に頼ることなく、なるべく四頭筋を使って衝撃を吸収するような歩行をしているため(またそうしないと膝を痛めるという恐怖感があるのでどうしてもそうなってしまう)、四頭筋への負担が非常にかかっているのであろう。これはトレーニングを繰り返し(心肺機能ではなく、筋力の問題だから)克服するしかなかろう。同じように荷を負うと苦しいのは、心肺機能のためではなく、これも筋力不足のせいであろう。

 押手川からは傾斜も緩やかになり、富士見平への道を分ける雲海までは30分程度。ここからも何とか無事下山することができた。

 さて、着々と準備中である。

2008年09月15日

御礼

 東京へ帰ってきました。

 忘れないうちに、出会ったかたがたへ御礼申し上げます。

 羅臼岳の木下口から一緒に登った美人の単独行の方、下山後ウトロバスターミナルまでお送り頂き、翌日斜里岳でもお会いした高知大ワンゲルOBの方。
 北日高の伏美岳頂上でビールや漬物で景気付けして下さった地元山岳会の方、タクシー会社に電話をかけて下さった「千呂露の会」のかたがた。
 旭川西神楽公園キャンプ場で楽しい一夜を過ごして頂いたManika & Robiさん、そしてDianeさん。
 南ア深南部の小無間山避難小屋でコンロを貸してくださったおじさん、登山口から小屋まで二時間で登ってしまうアナタは超人です@_@
 飯豊の朳差岳で焼酎を振る舞って下さった佐藤さん、またどこかでお会いしたいものです。大変親切にして下さった御西小屋管理人のおじさん、そして三国岳からの下山後いいでの湯、喜多方のラーメン屋「赤レンガ」、そして郡山駅まで送ってくださった藤原さんと関根さんのご姉妹、本当に助かりました。

 水野晴郎ではありませんが、「いや〜、山って本当にいいものですね!」

 写真を含む詳細はまたのちほど。

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2008年09月20日

9月17日 - 9月19日 地獄の池口岳山行

 さて、まずこれから行こう。

 9月17日東京を出発、豊橋で飯田線の特急「いなじ」へ乗り継ぐと、水窪(みさくぼ)駅に到着するのは9時34分である。あらかじめ予約してあったタクシーで(前日、「権現橋まで」と伝えると、「ああ、山ですね」と言われた)白倉林道の入口まで入る。ここにはゲートがあってそれから先は一般車は入れない。ここに登山カード入れがある。この地点だと思われる。

 ここから延々と林道を歩く。この地点の標高はだいたい870mくらいと思われるが、ここから朝日山への登山道黒沢山への登山道を分け、さらに進むとここで西股沢を渡ることになる。この地点の標高が1350mくらい。随分林道だけでも高度を稼いだことになる。さらにもう少しだけ進むと、東俣沿いに進む林道との分岐があるはずである。

 ここで筆者は分岐に気付かず、延々と進むとここで林道が終結していることがわかった。ここには「白倉林道終点」という碑が建っている。ここでGPSを取りだし現在位置を確認しようとしたら、何とGPSに地図が入っていない(!)。前回の処理の時に地図を消去してしまったらしい。ここでGPSが無用の長物となった今、自らの地図の読図能力に頼るほかない前途を思って暗澹としたが、仕方がないのでバックする。この地点には国土地理院の地図には記載がないが、中ノ尾根山への登山口がある(浜松北高校登山部の道標がある)。ここで中ノ尾根山へ変更しようとも思ったが、とりあえず先の橋のところまでは戻ることを決意した。

 そして、橋が見えてきたこの地点、たしかに西俣に沿う林道はあったのである。しかし、崩壊していた。「元林道があったところ」といったほうが正確である。なんせ、往路には気付かないくらいのシロモノである。地形図の明瞭な林道の記載を信じてはならない。

 この崩壊した林道を注意深く進む。じつは全コースの中で、この林道通過が最も危険な部分である。一日目の宿泊先で水が得られない可能性を考えて、4Lの水を途中の沢から汲む。20kgの荷を背負うと崩壊箇所のトラバースで谷底へ引き込まれそうになるが、雪道をキックステップで歩く要領で、危険な部分は高巻きする。そうこうしているうちにいよいよ林道が歩けなくなったので、西俣の河原に降りる。ここから河原歩きとなるが、当然道があるわけでもなく、独力で通れそうなところを見つけて通る。しばらく進むと、マイクロバスと乗用車が放置されている部分に着くが、どうやらそのあたりが林道が終結していた地点らしい。ここから先に進んでほどなく西俣の右岸(進行方向左)に尾根への取り付きがあるはずである。そこにはガイドブックによると「ケルンが積んであり、道標がある」はずであるが、当然そんなものはない。途中でケルンと赤テープに出会うが、その地点では取り付きは確認できなかった。

 ガイドブックにはこのあたりに取り付きがあるように書いてあるが、筆者には発見できず、またこの尾根が登れるとも思えなかった(考えてみれば筆者が選択した場所よりも、この場所のほうが容易だったのだが)。結局、西側(画面左側)の沢の右岸(画面左)のどこかから取りつけば、最終的には白倉山から東に延びる尾根のどこかへ出られると推測。おそらくこの地点から強引に登り始めた。

 これが全行程中いちばんきつかった。なにせ、登山道もなく、尾根でもない山の斜面を、最大45度ちかい傾斜のところスズタケと樹木を頼りに強引に登ってゆくのである。何度もずり落ち、擦り傷、ひっかき傷多数。しかし、登り始めてすぐ空が見えてきて、あと50~100mくらい登ればどこかの尾根に出ることは確認できた。でも、スズタケや樹木、そして岩が邪魔をしてなかなか先に進めない。ここで雨が降ったらさすがにアウトであったが、何とか天候には恵まれたのが救いであった。

 ここから2時間くらいかかっただろうか、どこかの支尾根に出た。ここからは獣道が利用できた。さらに1時間くらい進むとかなり立派な尾根に出た(たぶんここではないだろうか)。この時点で18時を過ぎ、日が暮れかかってきたため、この地点でビバーク(というほど悲惨ではないが)を決意。ここで一日目は終了した。

 翌18日は天気が崩れるのがわかっていたため、6時に出発。ここの小尾根には古いリボンがあったけれども、ホントに登山道なんだろうか? あまりに急峻だし、踏み跡は獣道と区別がつかなかった。しかし、ここから県境の尾根道にはそれほど時間はかからなかった(2時間くらいだろうか?)。しかし、これからは雨の中を延々と歩いてゆくことになる。前日、強引に尾根に取りついたのは、翌日雨の中あの急峻な尾根を登るのは危険と判断したからである。しかし、あの河原歩きが必要だったことを考えても、この判断はいちおう正しかったようである。

 この県境尾根も踏み跡は薄く、あまり獣道と区別がつかない。しかし、さきほどの小尾根よりはじゃっかん踏み跡は明瞭だし、尾根に沿って付いている以上は、人間が踏んだものと考えてよいだろう。しかし急峻な登りであってもそのまま登っていくような厳しい道である。しかし、ほとんどが笹藪の中を進む道であり、雨のせいもあってレインパンツを履いても靴の中が水だらけになってしまう。場所によっては背の高さほどのスズタケ密集地の中を邁進するところもあり、通常の登山道を快適に進むのとはわけがちがう。ほとんどヤブ漕ぎである。そこを何とかがんばって進むと、三又山に出た。ここには浜松北高校の標識がある。

 これでルートが間違っていなかったことが証明されたわけである。一安心して、北東へ向かう尾根道へ入る。中ノ尾根山からの縦走路が合流して少しは道が明瞭になるかと思ったが、相変わらずの超薄い踏み跡かつヤブ漕ぎは変わらない。ここから尾根を忠実に辿ってゆくと、鶏冠山の南峰に着く。ここにも立派な標識がある。

 さて、ここではてと困ってしまった。進路は北である。ほぼ東へ延びる支尾根は容易に確認できるが、北へ延びる尾根がわかりにくい。ひとつは尾根ではなく急峻に落ちていってしまうでっぱりなので、東尾根にほぼ直角に張りだしている尾根が進路らしいのだが、この尾根に乗って地形図の通り北西の小ピークに登るとここはガケになっており、この北峰とのコルに降りることはむずかしそうなのである(しかしこのガケの上にはリボンがあり、ここをルートと考えて通過した人間もいるようなのである。本当なのだろうか)。ガイドブックをあらためて読むと、「岩場の寸又川側を巻くが北峰との鞍部に降りるまでかなりの急下降」と書いてある。しかし筆者は今回軽量化のためにガイドブックは持っていかなかったし、そもそもガスが出てきて北峰の場所が確認できなかった(鞍部までは見えた)。いちおうコンパスによると降りた尾根は正しいらしかったが、尾根伝いに行けないとなると、どのように到達したものか、途方に暮れてしまった。

 そのとき一瞬ガスが晴れて北峰の場所と小ピーク、鞍部との位置関係があきらかになった。北峰に鞍部以外の場所から登るのはムリ(例えば、いったん谷に降りて再度登り返す)そうにみえたが、この場所(地形図ではわからないが、ここは沢状の急峻なガレ場になっている)まで降りて、ほぼ真西の鞍部に登り返し、そこから北峰へ行くことはできそうである。あとからガイドブックを見るとそのようにルートがついているような書き方をしてあるが、そのようなものはもちろん存在しない。独力で地形を読みルートを模索するしかなかった。ここが最も通過に苦労した場所であった(しばらく行きつ戻りつして悩んでしまった)。

 鶏冠山北峰まで出れればあとはあまり苦労する場所はない。ここからほぼ真北に向かって降りるとこの地形図の通りに次第に尾根のかたちがはっきりしてきて、東のほうに尾根は向かうようになる。このあたりが笹ノ平と呼ばれるキャンプ地で、水場もあるようなのだが、一面笹原であり標識も池も確認できなかった。長野県側に寄り過ぎていたからかもしれない(静岡県側にあったのかも)。ここからだらだらとした登りにかかり、しばらくは小隆起を登っては降りるという繰り返しになる。ガイドブックによるとこの鞍部もキャンプ可能であるということだが、はっきりしたキャンプの跡は確認できなかった。このあたりに絶好の水場があるということで、かなり気をつけて慎重に探したのだが、ガイドブックにある「水音」も「沼津かもしかACの標識」も発見できなかった。改めてガイドブックを読むと「2150mで急な登りにかかる前」とあるので、この地点と思われるのだが、筆者には確認できなかった。事前にもう少しガイドブックをよく読み込み、地形図と合わせて慎重にポイントを確認してゆく必要があったようだ。しかし、「水音が聞こえる」とあったが、そんなものはなかったぞ。降雨のせいだったのか?

 水場に気を取られて、妙に長い登りが続くし、高度計の標高も上がり過ぎているなと感じていたら(2300mを超えていた)、辿り着いたピークには「池口岳南峰」とあった@_@。

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 がーん・・・水場を通り過ぎてしまったわけである。この「下り2分、登り3分」という水場を当てにしていただけに(それでもこの時点で1Lの水は持っていた。前回の大無間山で懲りたためである)、喜びよりも焦りが先に立った。この池口岳南峰もこれから辿り着く北峰も山頂には広場がありよいテント場になっているが(本来はテント禁止だけれども)水場はない。水場は、池口岳北峰から西尾根に降りてゆく途中のザラナギ平か、筆者が向かおうとしていた光岳方向の尾根にある鹿ノ平しかない。ここは迷わず池口岳ジャンクション(通常登降の対象となる西尾根と、加加森山を経て光岳に向かう尾根との分岐点)に向かい、明瞭な標識が立っているこの部分を右に降りてゆく。池口岳南峰までの獣道同然のような現れつつは消える(もちろん道標などは一切なく、赤テープもほとんどない)道に比べて、南峰から北峰へ向かう道はきわめて明瞭であり、同じような明瞭さで加加森山へと続いてゆく。つまり、加加森山を経て光岳に向かうこのルートはほとんど一般ルートであり、かなり利用されているようだ。驚いたことに、鹿ノ平に着いたところには水場を示す標識があるだけではなく、そこから水場までのルートが、点々と赤テープでマーキングされていたことだ。つまりこのルートもこの水場もかなりの利用者があるということで、三又山〜鶏冠山〜池口岳のこのルートとは比べ物にならない、ということになる。ほとんど一般コースのような道だ。

 笹ノ平で水を十分確保しテントを張る。翌朝、台風情報を確認する。御前崎沖まで来ているとのこと、天候の急変が予想されたため、下山を決意する。朝テントを撤収し、加加森山とは逆の、ジャンクションの方向へ向かって歩き出す。道が登りというだけではなく、どうもかなりダメージが来ているようである。そりゃ、20kgの荷を背負って強引に斜面を突破したり、前日も10時間くらいヤブを漕いでいるわけだから、当然である。ここから随分と長い道のりに感じた。それも当然で、昭文社マップをみても、池口岳北峰からテント場のザラナギ平までが2時間、ザラナギ平から黒薙の頭までが1時間、そしてここから登山口までが2時間と書いてある。つまり、下山だけで五時間かかる計算なのである。筆者が鹿ノ平を出たのが朝の六時、登山口へ到着したのが十一時過ぎだから、疲労困憊にも拘らずほぼコースタイムで着いているのは、ちょっと意外であった。

 下山路、黒薙の少し手前側から池口岳を臨む

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 この下山路も「南アルプス深南部」の雰囲気を持っている場所であり、特にザラナギ平までの上部の苔むした原生林と笹原、そして点在する鹿のヌタ場だけでも魅力の一端を味わえるのではないだろうか。黒薙の頭を超えると、進行方向左は原生林、右は松や杉の植林、という樹相になってしまい、ちょっと残念である。面切平から下は確かに植林には絶好の平坦場となっている。ここからの下りも、どこまで下れば下山できるのだろう、という、深い山の雰囲気を持ったままであるが、唐突に登山口が出現して終わる感じである。さらにここから林道を30分くらい歩くだろうか、降りてゆくと最初の人家が見える。この山の所有者である遠山家である。ここから携帯電話でタクシーの配車を依頼する。

 登山口に池口岳周辺の概念図があり、ここから登る人はこれによって山域がよく把握できるだろう。

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 「登山」や「ハイキング」をしたという印象はなく、アドベンチャーゲームに興じたような、そんな印象の登山であった。ここまで地図読み、地形読み、ルートファインディング、そしてヤブ漕ぎが必要であった登山は筆者にははじめてであったが、そういう意味では大変勉強になり、また自信に繋がる登山となった。ただし、やはりGPSはあったほうが安心であろう。光岳と繋げなかったのは残念だが、逆に池口岳経由のルートは安心して登れることがわかったのは収穫であった。しかしこの池口岳、一般ルートとされている遠山家あるいは西登山口からの往復登山だけでも、コースタイムで行き6時間10分、戻り5時間を要する手ごわい山である。日帰りをやってやれないことはないが、一般的には山頂(推奨できないが・・・)またはザラナギ平(ここに荷をおいて山頂まで往復する)にテントを張り、一泊二日の予定を組むのが無難であろう。また、筆者のように、南尾根から登ろうという場合は、寸又川左岸林道からアプローチするか(しかし寸又峡温泉からの林道歩きだけに二日を要する)、あるいは白倉林道を終点まで進み、そこから中ノ尾根山に先に登ってしまい、尾根伝いに三又山に北上する、というコースのほうが、あの崩壊した林道と尾根の取り付きがわからないことを避けられるので、賢明かもしれない(しかし寸又川左岸林道も同様に崩壊している)。

2008年09月29日

8月26日-9月2日

 これだけ時間があればどこへ行きたいか? 海外旅行という選択肢はあった。個人的には短期の海外医療ボランティアを考えていたが、希望に沿うようなものはみつからなかった。また一年以上前から計画をしていないとだめなようだ。というわけで、まずは北海道から。

 8/26(火) 羽田 -(AirDo)- 女満別空港 -(斜里バス) - ウトロ温泉バスターミナル -(斜里バス) - 岩尾別 -(徒歩) - 岩尾別温泉・ホテル地の涯

 羽田でとんでもないミスをしたことに気付く。携行品のなかに禁止品がふたつ入っていた。ひとつはガスボンベ。もうひとつは熊よけスプレーである。ここは意を決して「問題ありません」と荷物を預けるときに申告する。なんとそのまま女満別まで飛んでくれたようだ。これが旭川空港だったらX線検査で引っかかるところであった。

 熊よけスプレーを搭載したザックを背負って、岩尾別から温泉までの長い距離の車道を歩く。沿線には鹿の親子がのんびりと草を食んでいるのがいくらでも目撃される。岩尾別温泉は、無料の露天風呂である。ただし脱衣場などはないので、それなりの覚悟で来なくてはならない。でも日本人、外国人のカップルがバスタオルを巻いて入っているのを目撃。ここには鹿のみならず熊も入りに来るようで、上流の温泉は進入禁止となっていた。

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 8/27(水) 地の涯 - 弥三吉水 - 極楽平 - 銀冷水 - 羅臼平 - 羅臼岳 - 地の涯 - ウトロ温泉バスターミナル - 知床斜里駅 - 清里町駅

 ホテルを朝五時前に出発する。ホテルのすぐ近くにある木下小屋(自炊・ランプ小屋)のところに登山届を記帳する冊子が置いてあるが、そのところで札幌からクルマを二日間かけて運転してきたという単独行の女性と出あう。大きなグレゴリー(だったと思う)のザックを背負っていて、筒型ではなくキスリングに近いザックだったので、かなり古いものだろう、年季が入っているということである。どこまで行くのか聞いて見ると、やはりピストンや羅臼へスルーするわけではなく、硫黄岳への縦走の予定だということだ。テン場は硫黄岳の火口にするということだから、かなり歩くことになる。とりあえず、テント泊の予定が筆者ひとりでないことにちょっと安心する。

 午前中は天気がよいとは言えなかったが、羅臼岳の尾根に乗る展望台から知床五湖が臨めた。彼女とは歩行速度がほぼ同じだったので、抜きつ追いつかれつつしながらほぼ一緒に登っていった。羅臼平に着く頃には天候が悪くなってきたため、雨具を着用する。そこから羅臼岳頂上までは比較的すぐなのだが、頂上付近は岩場となっていて、雨および激しい風のためちょっとだけ危険な状態で、テント泊の重量を背負っているため、慎重に足を運ぶ。羅臼岳の山頂に着いたのは午前九時であった。知床半島をはじめ北方領土が一望できる大展望台のはずが、何も見えない。

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 ここでラジオで天候を確認して、予定通り硫黄岳まで縦走するか、縦走をあきらめて下山するかを検討した。とりあえずこの時点では縦走するつもりでいたが、羅臼平に降りる途中の岩清水の水場(羅臼岳で唯一煮沸の必要がない水場)で水を補給していたところ、例の女性がやってきて、下山を考えているという。もし筆者一人で縦走する場合、これで人間に逢う確率よりも熊に遭遇する確率のほうが遥かに高いことが明白となった。

 最終的な決断は羅臼平の分岐ですればいいのだが、天候が悪いこと(雨だけでなくガスでほとんど視界が利かない)、縦走してもほとんど「行ってきた」というだけに終わってしまう(本来この稜線の眺めはとてもよいらしい)ことを考えて、下山することにした。彼女によると羅臼側の登山路はあまり整備されてなく、天候が悪いと危険個所もあるということだったので、おとなしく斜里側に降りることとした。妙齢の女性とふたりでテント泊をするという愉しみもなくなったし。というより、そのリスクが彼女をして撤退させた理由なのかもしれない!?

 さて、降りてみると、そこからの交通がない。宿(地の涯)に聞いてみると、客を迎えにゆくクルマがあるので、それに乗ってもよい、という返事だったのだが、そのホテルのフロントで、何と若いハンサムな男性が、適当な場所まで送っていってもよい、という申し出をしてくれたので、ありがたく厚意に甘えることとした。まだ行き先を決めていない(!)ということだったので、ウトロのバスターミナルまで一緒にゆくこととする。車中でいろいろ話をしたのだが、彼は高知大WVのOBで、現役時代は大雪山や日高の縦走なども経験したそうだ。さいきん行ったのは岩木山だか八甲田山とかで、そのちょっと前には富士山にも行ってきたそうだ。特別なコースから行ったのかと思ったのだが、そうではなくて彼女が希望したからだという。筆者が思うに、このような爽やかでハンサムな男性ばかりなら日本はこれからも安泰であるし、彼女は果報者であると思ったものである。

 次は斜里と阿寒を考えている、ということだったので、ひょっとしたら再会できるかも、と思いつつ、厚意を謝してウトロで別れる。ここから知床斜里の駅まではバスである。知床斜里からはJRで清里町駅までゆくことになる。前もって予約してあった民宿に、本日泊まれるかどうか問い合わせ、OKということなので清里町まで電車で移動、投宿した。はっきりいって民宿はいまひとつであったが、どちらせにせよ登山のための一泊ということであきらめる。

8/28(木)民宿 - 三井登山口 - 斜里岳 - 清岳荘ルート(旧道) - 清岳荘 - 民宿 - 清里町駅 - 釧路駅 - ホテル

 斜里岳への一般ルートは清岳荘(せいがくそう)を経由して沢沿いに登る旧道であり、帰りは小滝の連続する部分を避けた新道を通って清岳荘へ戻る新道である。さまざまな理由から自治体(清里町)もこのルートを推奨しているようだが(今や百名山ブームで斜里岳は清里町にとっては大変な観光資源となっているのだから)、なるべく一般ルートを通りたくない(笑)筆者は、はじめからこのルートを通る気がなかった。そこで、民宿に、「タクシーを四時に呼んで欲しい」と頼んだのだが、「清里町のタクシーはそんな早い時間にはないよ〜」とあっさり言われて困惑。どうやら、斜里岳はマイカー登山か、マイカーを持たない登山者は前日のうちに清岳荘へ泊まって、そこからアプローチするのが定番となっているようだ。さて、困った。。。

 そこで民宿の人が助け船を出してくれた。詳しくは書けないが、世の中いろんな方法があるものである。そこで何とか足を確保し、三井の登山口へ五時くらいに到着。話によると、やはり三井から登る登山者は「百人にひとり」だそうで、筆者のような偏屈者もそこそこいるようである(滅多にいない?)。登ってみて、どうして三井からの登山者が少ないのか、よくわかった。

 最初は樹林帯である。ここが一番やばそうな場所で、大動物が移動している足音が聞こえるが、鹿だろうと思うようにする。しばらくすると、涸沢に出る。1時間くらいはこのザレた沢(水はない)を遡行してゆくことになる。あまり人間が通った形跡はない。そして、沢に赤いテープで通せんぼがしてあって、ここから本格的な登山道へ入ってゆく。

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 ここからは気持ちの良い原生林を歩くことになる。最初は落葉樹主体であるが、徐々に北海道特有の針葉樹林になってゆき、最後はハイマツ帯である。ところどころで後方へ視界が開け、奇麗に並んでいる田畑の向こうにオホーツク海が一望でき、たいへん気分が良い。ハイマツ帯に突入するころから、登山道のヤブ化がはっきりするようになってくる。低木やハイマツをこいでゆくようになるので、それだけでもここが手入れをされた一般登山道ではないことがわかる。

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 ハイマツ帯へ入ると前方へ斜里岳の頂上へ向かう稜線が見えてくる。展望はきわめてよいルートである。ハイマツ帯が尽きてくると今度は岩稜である。痩せた尾根を慎重に進む。ロープやコンクリで固めたウィンチの残骸がある。最後の急登は崩れやすい岩稜で、ちょっとだけ注意が必要である。ここから頂上まではまもなくだ。

 頂上で、ルートのどこかで(たぶんハイマツ帯で)パタゴニアのシェルを置いてきてしまったことに気付く。しかし、いまさら戻ることはできない。帰りに約束したクルマの時間があるし、戻るのはちょっと大変なルートであったからである。仕方なくここから清岳荘ルートへ下山をはじめる。このルートがいわゆる正規の登山道であり、登ってくる多くのひとたちに遭う。登山道は次第に沢化してゆき、新道を分ける分岐のところあたりからははっきり沢下りとなる。そこでわかったのだが、ここ旧道はそこそこ整備されているとはいえ(昔はもっと鎖やロープがあったそうだが、取り外してしまったそうである。よいことだ)、まったく下山でこのルートを使うことは想定されていないのである。この日は降雨の後であり、沢は増水し、下りに使うには危険なルートとなっていた。正規のルートを大きく外れなければ降りられない箇所もあり、スリップ可能性の高い箇所は無数であった。しばらくすると、昨日の彼が上がってくるではないか。挨拶をし、再び別れる。

 清岳荘は、ここを登山口としない人間にはわかりにくい場所にあり、約束していた迎えのクルマと入れ違ってしまう。携帯で連絡を取り合い、何とか民宿へ戻る。電車まで時間があったため、清里町内を少し散歩をする。この日は、JRで釧路へ移動、ホテルに投宿する。

 どうして三井コースが非推奨ルートかというと、1)熊の出没がある 2)一時間の河原歩きがある 3)上部でちょっと危険な岩稜がある 4)時間がかかる などの理由があるが、おそらくそれよりも清岳荘ルート旧道が、小滝をみながら沢沿いに上がってゆくという、ビジュアル的に受けるルートであることのほうが大きいだろう。しかしだ。ほんとうに山登りが好きな人間ならば、三井ルートのほうが魅力が大きいと思う可能性がたかいように、筆者には思われた。美しい原生林、バックに広がる広大な北海道の大地、正面に頂上が展望できること、スリルのある岩稜帯と、多彩な斜里岳の魅力を知ることができる。この山に一度だけ登るのであれば、筆者は登りを三井コース、下りを旧道(ただし、雨の日はそれなりの危険あり)に取ることを勧めたい。おまけに、登山者が少なく静かであるという特典すらあるのだ。

8/29(金) 釧路駅 - 阿寒湖畔 - オンネトー - 国設野営場

 斜里岳では荷物は民宿へ預けて登ったので通常登山であったとは言え、羅臼では長時間20kgの荷を担いでいたため、少々疲れが出ていた。阿寒湖畔までは阿寒バスの高速バスで移動。この日のうちに雄阿寒岳へ登ることも可能であったのだが、取りやめてオンネトーへの周遊バスに乗ることにする。オンネトーは訪れる人の少ない、美しい湖である。この湖畔にある野営場にキャンプを張り、一夜を過ごす。この日も雨であった。

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8/30(土) オンネトー野営場 - 雌阿寒岳 - 雌阿寒温泉 - オンネトー - 阿寒湖畔 - 釧路駅 - 帯広駅 - 伏美岳登山口駐車場(野営)

 テントの外を走り回るキタキツネに目を覚ます。テント内に荷物を留置し、軽装で雌阿寒岳へ向かう。この山は森林帯(たしか、下部は植林であったように思った)を抜けたあとの、ダイナミックな噴煙が魅力なのであろう、上部は完全に森林限界上の砂礫と岩稜の世界である。はじめに阿寒富士に登ったのだが、あの砂礫のなかでも育つ草花があることに驚く。この山、名前の通り富士山に登山のパターンが似ている。登りは砂の滑りやすいジグザグ道なのだが、帰りはその砂の中を快適に降りることができる。富士山と同じなのである。

 ここから雌阿寒岳までは吹き上げる噴煙の音とイオウの匂いをかぎながらの登山となる。頂上は有毒性のガスで長居できる場所ではないので、すぐさま下山にかかる。残念ながら、この日は例の好青年には遭うことはできなかった。雌阿寒温泉からオンネトーまでは、途中までは車道を、そこからはオンネトー沿いの周遊コースを歩く。雰囲気のよい道である。

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 テントを撤収し、次の目的地である日高へ向かう。帯広駅からはタクシーである。本来は、伏美岳登山口の近くにある避難小屋へ泊まるはずだったが、夜間のことで場所が確認できず、駐車場のところに野営することにする。二組の団体がテントを張っていて、マイナーな山なのにとちょっと驚く。

8/31(土)伏美岳登山口 - 伏美岳 - ピパイロ岳 - 伏美岳 - 伏美岳避難小屋

 テントを撤収し、出発。二組の団体のうち、大人数のほうはもう出発を終えており、もう1組のほうはまだテントで寝ていた。ここの登りは結構きつい。途中で「何合目」という表示を何度か見るが、いつまで経っても頂上に着かない印象だ。植林されている気配はなく、原生林が広がっている。展望は悪天のためよくない。山頂付近はハイマツに低木が重なっていて、低木が紅葉していてハイマツとの組み合わせはちょっと珍しい光景だと思った。

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 途中で「行けるところまで行く」という地元のハイカーに抜かされたあと、頂上で団体さんに遭う。やはり地元の方のようで、「九合目と頂上で熊に遭ったのできょうはここで引き返す」とのことであった。漬物と果物、そしてビールを振る舞われる。勇を鼓して次の目標値、ピパイロ岳を目指す。ここからの道はかなり荒れている印象だったが、あとで知ったことだが、このルートは地元の山岳会のかたがたが二十年を掛けて整備したルートだそうだ。それまではピパイロ岳には沢を登るしかルートがなかったそうである。しかし、あのルートは登山地図実線のルートではない。ヤブ漕ぎもあり、ふつうは破線で記載される道である。いや、北海道ではあの程度では実線とみなされるのだろうか?

 明瞭だがかなりの悪路を悪戦苦闘のすえピパイロ岳に辿り着く。ここからさらに稜線を日高の盟主、幌尻岳に向かって進む予定であったが、疲労困憊していて、とてもムリと判断。引き返すことにした。人影絶えたピパイロ岳と伏美岳の山頂では、ナキウサギがその愛らしい声と姿を披露してくれていた。山中で野営するつもりだったが、途中の水場に降りてみても水のある気配がない。しかたなく、もときた道をがんばって降りることとする。何とか避難小屋に辿り着いたものの、携帯も通じず、タクシーを呼ぶ手段もない。約束した帰りのタクシーは三日後である。

 水を沸かしながら駐車場に置いておいたストックを取りにゆき、小屋に戻ったところ、五人ほどの団体が小屋を使っていた。これには少々驚いた。こんな夜更けにどこから降りてきたのだろう?? 聞いてみると、沢登りの帰りのようである。先ほどの水場の件について聞くと、「あれは皆が使っている水場だよ。もっと降りないといけない」と教えてくれた。札幌の沢登りの会のメンバーであり、彼らにタクシー会社への連絡を頼んだ。この晩はこの避難小屋で寂しく過ごす。ここで、筆者は致命的なミスをしてしまったことに気付く。あの熊のうようよする日高の山中に、熊避けスプレーを置いてきてしまったのだ。これは、北海道の山の神が、もうこのくらいにしておけ、と言っているのだな、そう思うことにした。

8/31(日)伏美岳避難小屋 - 釧路駅 - 旭川駅 - 神楽岡公園キャンプ場(野営)

 当初、新得からトムラウシ温泉へ行く予定であったが、断念、釧路駅まで戻り、バスで旭川まで移動。当日の飛行機は高いチケットしか残っていなかったため、翌日の飛行機を押さえて、旭川で一泊することにした。飛行機待ちでホテルへ泊まるのも癪なので、市内で野営することにした。

 神楽岡公園という広大な公園が市街地ちかくにあり、ここに野営することにする。旭川の西武で食料品と酒を買い込み、バスで公園まで向かう。北海道の晩夏はキャンプの季節ではなく、家族連れの姿はなかった。野営していた外人さんに話しかけられる。携帯用のテントマットが機能しなくなったので、入手できる場所を知らないか、というのだ。旭川市内の登山用品点を教える。それからはもう一組(こちらは単独)で野営していた外人さんと宴会である。スイス人カップルとアメリカ人であり、いろんな話をして盛り上がった。一番楽しかったかもしれない。

 彼らはともに40歳を超えており、スイス人カップルは一年間で世界中を、アメリカ人は三ヶ月で日本を、それぞれ自転車でバックパックして周るということであった。「パキスタンで市場へ行ったんです。そうしたら、店のひとが果物を振る舞ってくれる。『お金払っていないよ?』と言ったら、そこから去ってゆく見知らぬ人を指して、『あの人が払ってくれてるよ』。パキスタンって、そんなふうに旅人を歓待してくれる国なんです。テロとの戦いをしなきゃ行けない理由が理解できませんね。」彼らはともにインテリであり、市井に生きる庶民ではない(たぶん)。しかし、40を過ぎて、安定した仕事を放棄して、こんなふうに世界中を放浪できるというのは、自信もさることながら、やはり生き方の問題なのだろう。人間がいずれ死んでしまう存在なのだとしたら、自由に生きたいというのがどうして許されないのだろう? 日本では、このようなドロップアウトを決して許さない風土がないだろうか? 死とみずからの生き方について、真剣に考慮をしてみる必要があるように思われた。

 そういえば、さすがの彼らも「くさや」は食べられなかったのだった。

9/1(月)旭川駅 - 旭川空港 - 羽田空港

 彼らと一緒の朝食を終え、旭川駅から空港へ向かう。さすがに、ザックのX線検査もあり、携帯用コンロをチェックされる。そこから、たくさんの思い出と少々の疲労を抱えながら、東京へ空路を戻ったのであった。

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2008年09月30日

9月4日-9月9日

 以前からの希望であった、コアな登山者のあこがれの地と言われている、南アルプス深南部へゆくことにした。

 まず、南ア深南部とはいかなる地であるか説明しておこう。中部地方、日本の屋根と言われるいわゆる日本アルプスは、三つに分類されている。松本盆地より北、大糸線の西側に位置するのが後立山連峰、その西側、黒部川を挟んで対峙するのが立山、そして後立山連峰よりも南に位置する槍・穂高連峰が北アルプスである。そこから南下し、木曽川(中央線)と天竜川(飯田線)に挟まれているのが中央アルプス、天竜川の南側、富士川の西側という広大な地域にあるのが南アルプスである。

 南アルプスは、北部と南部に分けられる。鳳凰三山や白峰三山、甲斐駒ケ岳といった山々を擁する北部と、塩見岳、荒川三山、赤石岳という、ちょっとアプローチに時間のかかる南部に分けられる。南アルプスの南限は、赤石岳から南下する山陵上にあるピーク、光岳ということになっている。この光岳から東、西、南にそれぞれ稜線が伸びているが、このあたりの山々が深南部ということになっている。また、大井川を挟んで南アの東側に位置する、笊ヶ岳を盟主とする、いわゆる白峰南嶺も含んで考えられることもあるようである。

 この地域の何がいったいそんなによいのか? 3000m級の山もないし、したがって高山植物のお花畑が広がっているわけでもない。入山までのアプローチはやたら不便だ。頂上からの展望はないか、あっても平凡である。よって、この地域の魅力は、山それ自体ということになる。山それ自体とは何か? まず、とにかく人がいないことだ。アプローチが悪い上に山小屋もほとんど存在せず、しかも派手な売りがないということは、入山者を少なくすることに効果的である。また、光岳〜加加森山〜池口岳の稜線より南側は、大井川源流原生自然環境保全地域に指定されており、ほとんど放置されているもとい、人間の手が入っていないというところがポイントである。

 では、「原生の自然」とはいったいどのようなものであるか、が今回の視点である。

9/4(木) 東京駅 - 静岡駅 - 金谷駅 - 千頭駅 - 寸又峡温泉 - 沢口山 - 寸又峡温泉

 出発前日に寸又峡温泉の宿へ電話。「明日から泊まれますか?」と聞いたところ、ちょうどシーズンも一段落して、明日から休みになるという由。ほかの旅館へ聞いてくれるということなので、連絡を待ったが、光岳荘という旅館が大丈夫だということで、そちらにする。今回の最終目的地は光岳、そして余力があればそこから南ア南部への大縦走(光岳〜赤石岳〜荒川三山)をもくろんでいたので、縁起のよい名前だとちょっと喜ぶ。

 朝一番で静岡に停車する新幹線へ乗車し、金谷まで東海道線に乗り換え、そこから大井川鉄道で終点の千頭までゆく。千頭から寸又峡温泉までは一時間弱のバスである。これで十一時過ぎには温泉へ到着するので、そこから時間を無駄にしないためには、寸又三山といわれる深南部の玄関の山々のどれかに登るのがよい。この中で一番容易に登れるのは沢口山であるから、さっそく荷物を預けて向かうことにする。

 歩いていると、何だか変なものが登山道上で蠢いている。足元を見ると靴下にもひっついているようである。悪名たかいヤマヒルである。こいつをはがしはがし進んでゆく。登山道じたいは平凡で、整備も比較的行き届いていて、「どこが原生の自然?」というようなかんじである。ただ、さすがに植林はほとんどない。途中で「シカのヌタ場」に遭遇するが、別になんということもない感じである。歩き始めて三時間弱で山頂へ着く。展望もない。

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 この日はそのまま下山、温泉を楽しむことにする。

9/5(金) 寸又峡温泉 - 前黒法師山 - 寸又峡温泉

 沢口山ですっかり深南部をなめた筆者は、三山のうち一番登山がハードだという前黒法師岳を目指すことにした。でも実は、この山からさらに西へ向かう黒法師岳(二百名山でもある)のほうが、本格的な深南部の山と言えるのだ。地形図にあって登山地図にない道よりアプローチすることにした。さらに行程をちょっとだけハードにするために、寸又川にかかる夢の吊り橋まで降りることにした。寸又峡温泉の標高が530mくらい、夢の吊り橋が450mくらいのところにかかっていて、100m弱の標高差がある。

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 ここを渡り、寸又川右岸林道へ入っていく。ゲートがあり進入禁止となっているが無視して進む。途中でバイクの男性に追い越される。おそらく終点の千頭ダムまでゆくのだろう。こちらは途中の湯山発電所から尾根への取り付きを探す。発電所が作った作業用の林道入口があって、登山道でないのはわかっていたのだが、どうせ同じことだろうと取りつく。

 ここからがきつかった。ほどなく尾根上へ出たものの(ということは、地形図に書かれた登山道のはずなのだが)登山道と言えるものはなく、ただ営林署の杭と金網があるだけであった。シカしか登らないと思われる急登を木を頼りに登ってゆく。いかにも軽そうに登っているように見えるシカの足跡が悔しい。急登を登りきると林道に出るのだが、ここから急に道がよくなる。いかにも正規の登山道という雰囲気である。展望はないが、原生林の中を淡々と進んでゆくと、やがて山頂に出る。この山は沢口山とちがい、ヒルはあまりいないようである。

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 もと来た道を林道まで戻る。林道から少し入ったこの地点あたりに、地形図にはない明瞭な道が南に降りていて、こちらを使うことにする。この道にかんしては登山地図のほうが正確である。地形図のこの分岐も筆者には確認できなかった。

 さて、林道へ降りてみると、崩壊後の工事中とかで通行止めになっている。あとで宿の人に聞いてみると、前黒法師岳は「林道崩壊のため登山禁止」になっているという。最初に正規の登山道を採らなかったために、それがわからなかったのだ。もっとも、崩壊部分には工事用の鉄板が渡してあって、難なく通ることができた。なお、向い側の鉄板の下にうずくまっている黒い物体は、カモシカである。

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 ただ、前黒法師岳も、特に山深いという印象もなく、たしかに原生林に囲まれた山ではあったが(最初の尾根だけは植林)、野生の匂いが特に濃いというかんじでもなく、いったい何が「深南部」なのか、よくわからなかったのだが・・・

9/6(土) 寸又峡温泉 - 寸又川左岸林道 - お立ち台 - 大無間樺沢登山口(テント泊)

 ここからは光岳登山口を目指して二日間の林道歩きである。寸又川林道には左岸と右岸の二つがある。右岸林道は千頭ダムまでと短いが、全面舗装である。左岸林道は無舗装であるが、歩きやすい。車両は原則進入禁止だが、千頭ダムからまもないお立ち台は、トイレやベンチが用意されており、ここまでバイクなどで入ることはいちおう考えられているようであった。前の二日間は荷物を宿に預けて軽装で登ったためか、テント泊の荷が重くて仕方がない。歩き続けてようやく大無間の樺沢登山口に到着する。ここで、バイクのツーリストの人たちに会う。登山者ではなくこの林道をバイクで走ることが目的であったようで、道の状態を問うと、小根沢橋より上では何ヶ所か崩壊箇所があって、通過にはよほど気をつけないといけない、ということであったので、予定を光岳登山口から大無間山登山へと切り替えた。そこで、大無間山から尾根伝いに光岳まで縦走するか(すごく大変だと思うが、やってられないことはない)、井川湖の入口にある田代まで通り抜けて、そこから畑薙湖までバスで上がるか、を考えた。

9/7(日)樺沢登山口 - 大樽沢ルートへの合流点 - 鹿の土俵場 - 三方窪 - 山方嶺 - 三隈池(テント泊)

 林道ですら重く感じた荷が軽くなるはずもなく、まず寸又川へ流れ込む樺沢から水を2L汲み、ザックへ入れる。大無間山山頂から少し下ると水場があるはずなので、そこに期待をしたのだが、これが悲劇のはじまりだった。地形図からもわかるが、最初の取り付きはかなりの急登であるが、踏み跡は薄いとはいえ明瞭だった。薄暗い樹林の中を登ってゆくと、やがて大樽沢からの道に合流した。このあたりはまだ踏み跡は比較的しっかりしていたが、しばらくすると北側が崩壊して開けた場所にでる。このあたりが鹿の土俵場で、笹原の中を踏み跡とけもの道が交錯する深南部独特のパターンになってゆく。ここから笹原に覆われた森林帯に入ってゆくが、まさにうっそうとした感じである。樹木は多く針葉樹で、苔がびっしりと取り付き、倒木も多くみられる。まさに手入れをされていない原生林という感じである。このあたり踏み跡は多くは北側の斜面を巻いてゆく。しばらく進むと標識のある三方窪であるが、このときは疲れと悪天もあって、「まだここまでしかきていないの??」という感じであった。コースタイムはここまで3時間半くらいであるが、朝六時頃出発してもう正午は過ぎていたはずである。ここから三方嶺までの登りもきつかった。「踏み跡薄し」と登山地図には書いてあるが、特に迷うような場所もなく(所々ルートが不明瞭な場所もあったが、そういうときは稜線をたどるようなかたちで上に上がると、たいがい踏み跡を発見できた)、三方嶺まで辿り着くことができた。ここからは明瞭に北側に延びる尾根があり、ここを入ってゆくと大根沢山、信濃俣を経て光岳へ縦走することができる。

 さて、ここで記憶がさだかでないのだが、北側の尾根を避け、東へ直進すればよいのだが、なぜかここで道迷いをしてしまう。じっさい、この北側の尾根ははっきり視認しており、こちらに入らないようにと東側に道を取ったはずなのだが。今あらためて地図を見ても迷うような場所でもないと思うのだが、どういうわけかこの三方嶺から延びるどこかの支尾根に入ってしまった。またその支尾根にはご丁寧に赤テープがあったから、降りた(登った?)人間が過去にいたことはたしかなのであるが。おかしい、と気付いたのは、ここから先は一度ゆるやかに登ったあとで、大無間山への猛烈な登りになるはずなのに、どんどん下っていったからである。GPSで確認したところ、稜線から外れていってしまったことがあきらかになった(記録を消してしまったので、どの支尾根に入ってしまったのか確認できないが、「ここを降りてはいけない」と認識していた北側の尾根に入ってしまったのかもしれない)この辺から雨足が強くなり、また飲み水の欠乏が顕在化してきたことから、これはまずい、と思い始めた。しかし、まずは何より落ち着くことと考え、場合によってはその場所で雨宿りのあと、ビバークも考えた。雨足が若干弱くなってきたところで、まずは水の得られる可能性のあるところまでは行こう、そう判断した。

 道迷いに陥ったときの基本は、「降りないこと」である。ともかくも上がること、そうすれば一度通った場所に出る可能性が強く、また地形も判断しやすいからである。この時の状態は雨の上ガスも出ており、現在地の確認も視覚上はしにくかったが、とりあえず上に登って小ピークに出たところ、三方嶺が確認できたので、やっぱりここであったようだ。

 三方嶺まで戻れば正しいルートを選ぶことは容易であり、どうしてここで迷ったのか今でもわからない。ここから三隈池まではすぐであった。肉体的のみならず、精神的にも疲労困憊のため、ここでテント泊を決意。もちろんここは本来のテン場ではないが、キャンプの跡もあった。水は、「飲めたものではない」とガイドブックにあったこの三隈池の水を煮沸して飲んだ。もちろん茶色く濁ってぼうふらが浮いているような水である。フィルターを使ったら、すぐに目詰まりしてしまったので、仕方なくぼうふらを一緒に飲んだ。

9/8(月) 三隈池 - 大無間山 - 小無間山 - 小無間山避難小屋

 三隈池から大無間山まではすぐである。最後は苔むした原生林帯の中を登ってゆく趣のある道であるが、水不足が深刻な筆者は楽しんでいる余裕などなかった。なにせ、今回の山行では、ほとんど写真を撮れていないのである。大無間山山頂で撮ったこれくらいである。

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 さて、ここから大無間山南尾根を少し入ると、水場があるはずである。たしかに、十分弱南下するとコルがあり、ここから北側の沢に降りれば、地形図上も水は得られそうである。ところが水場標識のところを下ってゆくと、途中から急なガレ場となっていて、ロープなしに降りられそうにない。無理して下ってみたが、途中から足場も危なくなってきて、仕方なく引き返したが、けっこう危ない橋を渡った。

 ここで水が得られないと、濁った水を抱えたままともかくも下山しないといけない。さすがに元来た林道へ戻る気力はなかった(こちらのほうがルートは短いのだが、あの林道を歩いて寸又峡温泉まで帰るだけの元気はなかった)。行程は長いが、小無間山を経て避難小屋へ向かうルートを取ることにした。小無間山までは、距離は長いが緩い登りと下りの連続で、道が格段によくなることもあり(こちらが一般ルートなのだ)あまり大変ではない。黙々と歩いているうちに、いつしか小無間山に着いた。こちらのルートでも、原生林に囲まれたこの山の魅力の一端には十分触れることができるように思われた。さいきんは二百名山ブーム(百名山を終えた中高年が次に目指す山ということ)で、こんなアプローチが悪くて展望のない山へも登山者が増えたようである。

 小無間山からは鋸歯と呼ばれる小ピークの連続となる。ひとつひとつのピークへは50m程度の登降を必要とする。その小ピークを三つ過ぎて、P4と呼ばれる四つ目のピークが、静岡市の避難小屋がある場所である。ここに着くと、何と先客がいた。六十絡みのおじさんであったが、何と小無間の登山口から二時間で小屋まで着いたと言う。翌日、筆者は下山で二時間半かかったというのに・・・

 水を飲もうとコンロを点火するが、火がつかない。何度かやってみてもだめである。仕方なく、おじさんに頼んでコンロ本体を借りて、自分のボンベに繋いで煮沸する。いろいろやってみて、自分のコンロで点火できるようになったので、おじさんに礼を言いコンロを返却した。もし誰もいなくて自分のコンロもだめであった場合、本当に渇してしまうわけで(食料も食べられないわけである)結果的には自分のコンロが使えたとは言え、本当に精神的にも助かった。

 極度に疲労していたため、ふたつの落とし物をしてしまったことに気付く。ひとつは天蓋に取り付けておいたトレランシューズである。こちらはもったいないが、山行に不可欠なものではない(林道を歩くときに履いてきたシューズである)。もうひとつはサイドのポケットに入れておいた雨具の上である。かなり深く突っ込んでおいたはずなのに、たびかさなるダッキング(枝を避けるため)でどこかへひっかけてしまったらしい。雨具なしにはさすがにこれ以上の山行は不可能だ。というわけで、小無間小屋からの撤退を余儀なくされたわけである。

9/9(火) 小無間小屋 - 田代 - 井川 - 千頭 - 金谷 - 静岡 - 東京

 小無間小屋から田代までは二時間くらいの行程である。ゆっくり降りて二時間半で田代へ到着する。ここには「いかなる日照りにも枯れたことがない」という神社の霊水があって、ひしゃくですくってたくさん飲んできた。田代のバス停で時間を確認してみると、筆者が到着した7時45分には、数カ月前のダイヤ改正からもうバスは行ってしまっていて、次のバスまで五時間ほど待たなくてはならないことがわかった。田代の民宿で温泉に入り、ビールを飲みながらバスを待った。もうひとつわかったことは、以前新静岡から田代を通って畑薙湖へ直通のバスがあったのだが、今年から廃止になってしまったことである。今は乗り継いで畑薙湖の入口までは行けるのだが、そこからかなり歩かなくてはならず、また南ア南部へのアプローチが悪くなったわけである。

 井川からは日本唯一のアプト式鉄道である、井川鉄道へ乗る。途中でアプト式の動力車の連結のため、長い停車がある。

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 千頭での大井川鉄道への接続の際、好都合にもSLに乗ることができた。しかし、煙が室内まで吹き込んでくるので、化学物質過敏を持つ筆者には少々辛かった。

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 金谷から静岡まで移動したときに、静岡市内で一泊し、雨具を調達して、たとえば安倍川源流部の山々(山伏、八紘嶺、七面山)に向かうことも考えたが、梅ヶ島温泉へのバス便が八時台とちょっと遅いのが気になった。けっきょく、帰京することにした。

9月12日-9月15日

 コアな登山者たちが好むエリアとしては、南ア深南部と飯豊 --- 新潟、山形、そして福島の県境にまたがる国立公園地帯 --- が双璧なのだそうだ。南ア深南部を体験した筆者として、次の選択は当然飯豊となる。

 問題なのはコース選択だ。飯豊を代表するコースとしては、山形県側から飯豊山荘を経て、石転び沢を遡航するというクラシックコースがある。このコースは最大45度ちかい傾斜の雪渓を登るコースで、アイゼン、ピッケルという冬山装備が求められる。難易度の高いコースである。こんかいは、縦走が目的であったこと、九月は雪渓を登るには不適な季節であること(ほとんど雪が解けて夏道となっている)より、石転び沢は選択しないことにした。

 飯豊の主峰である飯豊山と最高峰である大日岳をはずすわけにはいかない。しかし、一度の山行で飯豊の概略をつかむには、この長大な山稜を縦走するにしくはない、ということで、新潟県から入山し、福島県側に抜けるという大縦走をこんかいは計画した。

9月12日(金) 新宿 - 新潟 - 中条 - 大石ダム - 東俣コース - エブリ(朳)差岳避難小屋

 新宿発23:10のムーンライトえちごに乗り、4時51分に新潟へ着く。ここから村上行きの快速に接続がある。ほんらい、目指す大石ダムには、坂町駅から米坂線に乗り換え、越後下関駅からタクシーというのがいちばん近いのだが、坂町駅で米坂線への乗り継ぎが一時間以上開くために、時間節約のために中条駅で降りてここからタクシーで大石ダムまで向かうことにした。

 タクシーの運転手に聞いてみると、やはりここからはほとんどの客は飯豊山荘に向かうのだそうだ。また、今年は登山客が激減しているらしい。その理由は、ガソリンの値上げだろう、ということで、飯豊は基本的にマイカー登山ということらしい。大石ダムから東俣彫刻公園という場所まではタクシーが入れる。ここにゲートがあって、車両は進入禁止となっている。

 林道を登山口まで例により一時間程度歩く。しかし、途中に地元の方のものと思われる自動車が止めてある。どうやらあのゲートは手で開くようだ。途中で水をふんだんに(5L)汲み上げ、重くなったザックに難儀しながらようやく登山口まで着く。しかし今回はテントがないので若干軽く済む。テントを持って行かなかった理由は、このような事情による。もともと飯豊はテント山行が基本だった。しかし登山者の増加によって、テント設営による環境破壊が深刻となってきて、各自治体を中心に山頂付近または鞍部に避難小屋が設立され、これを使うように、ということになったようだ。しかし現実には、特に登山者の多いシーズン中は、避難小屋に客を収容しきれず、本来テント設営が許されていない場所にも張られているようである。

 登山口からの山道はよく整備されている。しかし、もともとの道の成立過程がおそらく猟師や山菜採りのひとびとが歩くことによる自然発生的なものであったためだろう、急登に対してジグザグに緩い道がつけられているような部分は一切ない。木の根を利用した自然の階段のような急な登りがほとんどすべてであり、それが飯豊全体で登りがきついといわれている理由のようである。主にアカマツを中心とする自然林であり、植林されたスギなどが一切ないのが嬉しい。ちょうど谷川岳の中ゴー尾根がこんな感じの雰囲気である。

 誰にも会わないと思っていたら、途中で猫!を連れたおじさんに会う。どうやら下山の途中らしい。しかし、どうしてこんな早い時間に下山なのだろうか・・・おそらく、あの林道の途中に止めてあった車の持ち主なのだろう。そして、かなり早い時間に入山し、エブリ差岳まで猫と一緒に往復したようだ。ううむ・・・

 このあたりからエブリ差岳へ向かう稜線がはっきり見えるようになるが、例によって天候が悪化してきた。ガスがかかり視界が利かなくなってくる。それでも前エブリ差岳へ向かう道がかなり長丁場であることはわかった。尾根上の小ピークにだまされないよう、笹のトンネルの中をゆっくり進むが、だいぶ疲れが出てきた。前エブリ差の頂上へ着いたときには疲労困憊の状態であったが、ここからエブリ差岳本山へのルートは、さぞ天候がよければすばらしいだろうなというルートで、残念であった。山頂付近は池塘になっていて、高山植物のお花畑がまだ少し残っていた。頂上付近は笹は少なく岩稜になっていて、その静かな頂上からわずかに下ったコルの部分に村営エブリ差避難小屋はあった。

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 まず小屋について最初に行ったのは、水の確保である(笑)。大無間で水についてひどい目に遭って以来、水場の有無にはひどく敏感になっていた。エブリ差ではその心配は無用であった。水場を示す指導標に従い、ガレ場を10分も降りると、小さなたまりに水が湧いていた。そこで十分に補給を済ませて小屋に帰ると、なかったはずのリュックが置いてあった。しばらくするとその巨大なリュックの主が小屋へ入ってきた。

 おそらく筆者より少し若いかなと思われる精悍な男性で、山登りを本格的にはじめたのは昨年からだという。もともとバックパッカーだったそうで、重い荷を担ぐことには耐性があったようだ。山の話、特に食料や登山ルート(同じ山でもどのように登るかが重要!)の話に花が咲いた。焼酎を振る舞ってもらったのも有り難かった。

9月13日(土) エブリ差小屋 - 頼母木小屋 - 門内小屋 - 梅花皮小屋 - 御西小屋

 じっさいに歩いてみるとわかるのだが、飯豊山塊の縦走の際は、なになに山といったピークよりも、そのピークあるいは鞍部にある小屋の存在がいろいろな意味で重要になってくる。エブリ差小屋からの縦走で言えば、次の泊まりを梅花皮小屋と御西小屋のどちらにするかがポイントである。

 中部飯豊の盟主、北股岳を過ぎないとその先は全然みえないよ、というのが、エブリ差小屋で一緒になった佐藤さんのアドバイスであったから、展望のことはあまり考えず、黙々と稜線を歩くことにした。どちらにせよ、例によって途中から雨模様となってきて、展望は期待できない。飯豊山荘から取り付く丸森尾根、梶川尾根を過ぎなければ、石転び沢の雪渓も視野には入ってこない。ところが・・・

 鉾立峰、大石山を過ぎ、頼母木小屋に着くと、無人のようでも有人のようでもあったが、沢からポンプで汲み上げている水は豊富にあり、まったく心配はいらなかった。ここからも頼母木山、地神山とピークを次々と越えてゆく。道はおおむね笹が中心であり、稜線上は樹木には乏しかった。門内小屋のところで数人の登山者に追いつくが、反対側に向かって歩いてゆく初老のおじさんと話をする。聞けば、門内小屋と頼母木小屋の管理をなさっているそうで、これから頼母木小屋まで雨の中を歩く、ということであった。ご苦労様です、と声を掛け合う。また、重い荷をしょっている別の男性は、筆者と同じ方向へ縦走するということだが、今日は梅花皮小屋に泊まります、ということであった。

 でも実はここから御西小屋は見えたのである。管理人さんだったかその男性だったか忘れてしまったが、小屋を指してあそこまで行かれるのですか、大変ですね、と言われたからである。そう、本当に御西小屋は、遙か遠くに見えた。じっさい、門内小屋から御西小屋までは、7kmくらいの距離がある。ここから門内岳を越えると、北股岳は目前である。

 途中で「眼鏡を落としてしまった」という男性に遭う。「北股岳の山頂で昼寝をしているときに無くしてしまった」ということだったので、山頂に着いたときに一緒に探すが、見あたらなかった。それから門内小屋、梅花木小屋の両方で確認したけれども届け物はなかった、ということなので、なくなってしまったのだろう。おそらく普段はかけておらず、読書のときだけかけるというような眼鏡なのであろう。

 北股岳山頂は天気がよければ眺めもよいのだろうが、先は長いし、悪天のため展望も得られず、早々に立ち去る。ここから梅花木小屋まではすぐだが、御西小屋まで進むかどうかをここで決めなければならない。時間はまだ二時前で、おそらく御西小屋までは四時頃には着けると踏んで、突き進むことにする。ここから石転び沢のコースを臨むことができるが、たしかに雪渓はほとんど消失しており、ふつうのコースになっていた。あれならアイゼンだけでも進めそうである。ここからの三時間弱は結構辛かった。何せ、小屋ははっきり見えるのだが、全然近づいてこないのである。もし筆者の記事を読んでこの縦走を考える方がいるなら、とにかくここからは焦らないことを強く念頭に置いていただきたいと思う。コースは夏道を取るが、ところどころある岩稜のトラバースは危険でもあり、ゆっくり足を進めることを心がけた。御西小屋が見えづらくなってくると、いよいよフィナーレである。矢印が小屋の場所。

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 御西小屋に辿り着いたのは四時前であった。佐藤さんが「小屋のおっちゃんはおもしろい人だよ」と言ってとおり、まず「エブリ差から? それはよく歩いたなあ。もしよかったらコーヒーでも飲まないか?」と勧められたので、ありがたく入れ立てを頂くことにした。「ここから歩いていった若者に会っただろ?」と聞かれたので、エブリ差小屋で一緒だった、と話すと、「そうか、よく歩いたな。俺がエブリ差まで行けって勧めたんだけどな。」とのことであった。例のごとく早速水場まで降りて清冽な水を汲んでくる。ここの水場はまず枯れないそうだが、「エブリ差の水場は、あそこの水は煮沸したほうがいいな」とのことだった。何でも以前はエブリ差小屋の管理もされていたそうで、「あれはいい山だろ? 日本二百名山だしな。」との意見には、まったく同意した。飯豊山塊の縦走中の一山としてだけ登るのはもったいない山である。

 小屋には先客が何人かいた。一階と二階どちらがいい? と聞かれて、とりあえずスペースのある一階にした。二階にも十名弱くらいが泊まっていたようだ。筆者の隣は京都府立大のワンゲルのひとたちで、黙々とジャガイモを切り、天気図をつけていた。非常にマナーのよいひとたちばかりで、やはり飯豊はいい山なんだな、と思いきや・・・・・

9月14日(日) 御西小屋 - 大日岳 - 御西小屋 - 飯豊山 - 本山小屋 - 切合小屋 - 三国小屋

 まず、朝早く荷を置いて大日岳を往復する。往路では誰にも会わず、復路がほぼ終わる頃になって数パーティに遭遇したが、いったいどこから来たのだろう? と不思議だった。御西小屋から来たはずはないと思ったのだが。

 御西小屋に朝八時頃戻る。親切な管理人さんに礼を言って、飯豊本山を目指して発つ。ところが、このあたりから急にパーティの数が増えだす。単に、日曜日だというだけではなさげな雰囲気である。この理由はあとで判明する。

 筆者にとっては、飯豊山は特別な山ではなく、あくまで飯豊連峰の一山、という認識であった(事実、この縦走のなかで、特にこの山だけが魅力的だ、とは感じられなかった)から、ちょっと意外な感じであった。むしろ、飯豊山に直接登れる唯一のルートであるダイグラ尾根が鋸のような稜線を際立たせているのが印象的であった。

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 ここを過ぎ、飯豊山神社のある本山小屋を過ぎると、岩稜歩きが中心となり、ちょっと雰囲気が異なる。ここから切合小屋まではむしろちょっとアルペン的な感じである。切合小屋が見えてくると、この小屋は今までの小屋と雰囲気がかなり異なることがわかる。ひとつは付近がキャンプ指定地になっていて、色とりどりのテントが見えることも関係しているのだろうが、にしてもどうしてここにだけこんなにテントがあるのだろう? さらに小屋に近づくと、水はじゃんじゃん出ているし、家族連れをはじめいろんなパーティでごった返ししている。今までの縦走から、飯豊は静かな山である、という筆者の印象はがらっと変化した。しかし、ここから午後三国山方面へ向かうパーティはあまりいないようであった。

 やがて三国小屋へ到着。例によって水場にゆくが、水場までの岩場が大変であったこと! ここは剣が峰と呼ばれて、昨年死亡事故も起きていたところらしい。

 小屋に入って、一階の隅を占めると、先に小屋に入っていた二人連れの女性パーティと話をする。ご姉妹で、地元出身ということであった。前日も三国小屋に泊まって、ここから飯豊山をピストン、きょうも三国小屋に泊まる、ということであった。このご姉妹から切合小屋の事情を伺う。雰囲気が異様だったのは、ここだけ食事を出す小屋だから、ということである。つまり、飯豊も他の百名山と同じく、格好の山岳ツアーの標的となっていて、食糧を背負わずに登るための基地として、この小屋が重宝されている、そういう事情らしい。何たることか。もともと飯豊の小屋は、テントを自粛してもらうためにできたものであるというのに。

 おまけに、前日同じように三国小屋に泊まった七人のパーティの振る舞いが酷かったらしい。夜中遅くまで騒ぐわ、早朝も大声を出すわといった傍若無人の体であったようだ。うまいこと言いくるめて、彼女たちはそのパーティを二階に追いやることに成功していたため、筆者も受けた被害は最小限に留まったが、たしかに一階にいても二階の奴らが好き勝手していることはよくわかった。最後の最後で、現代の登山事情をこのようなかたちで認識するとは。もはや飯豊も最後の牙城とは言えなくなっているのがわかった。いまや深田久弥の影響は悪い方へ甚大に及んでいる、といえるだろう。やはり、南ア深南部が残る聖域なのか。

9月14日(日) 三国小屋 - 疣岩山 - 巻岩山 - 弥平四郎登山口 - いいでの湯 - 赤れんが食堂 - 郡山駅 - 東京駅

 そのご姉妹に「下山路を決めていないのですが、どこへ行くのがいいでしょうね?」と相談したところ、「わたしたちと一緒に来たら?」と勧めてくれたため、ご厚意に甘えることにした。どの下山路を選んだところで、もうバスはないからタクシーを駅から呼ぶしかなかったのだ。一緒に弥平四郎の登山口を目指して下山する。下山路も、ブナの自然林の中を降りてゆく、なかなか雰囲気の良い道であった。かくして、この縦走も弥平四郎で収束することになった。

 お二人と一緒に、いいでの湯、そして喜多方の赤レンガ食堂に行き、温泉を浴びつつラーメンを食べる。ほんらい、下山コースにある山都町(現在は喜多方市に合併)はそばで有名なところらしく、そばを食べて帰るというのも正統な? やり方らしい。

 けっきょく、さらにご厚意に甘えて郡山駅まで送って頂いた。藤原さんおよび関根さん、本当にありがとうございました。

9月22日 - 9月26日

 このあまりに悲しかった山行については、あまり触れたくはない。筆者の得た教訓は次のようなものだ。

1)北海道では初雪からアイスバーン化してしまうため、一度でも雪が降ったらアイゼン・ピッケル必須と思ってよい
2)九月は、残雪が解けてしまうため、水場を融雪水に頼る地域(大雪山など)では、水が欠乏しやすく、縦走には最も適さない季節である

 というわけで、大雪山〜トムラウシ〜十勝岳の大縦走はおろか、十勝岳単独の登頂すらできなかったわけよ・・・

2008年10月05日

小川山/たそがれ清兵衛

 今の季節には、ムーンライト信州という季節運行の列車がある。これは新宿を23:54に出発し、甲府・小淵沢・茅野・岡谷・塩尻・松本などを経て、最終的には信濃大町・白馬に到着する夜行列車である。冬にはスキーという使い方が一般的だろうが、夏期にはそのかなりの人間が登山を目的として利用する。

 これに乗ると小淵沢に3:09に着くから、三時間程度仮眠して6:10発の小淵沢発小諸行きの小海線に乗車することができる。しかし、この列車は全席指定席であり(以前は自由席で超満員だった)なかなか予約を取るのがたいへんである。その場合、前日に小淵沢へ着くためには東京発21:45のかいじ号に乗り、途中で小淵沢行きの最終電車に乗ると、0:38に到着することになる。

 なぜそんな時間に拘るのかというと、小海線沿線からアプローチする八ヶ岳や奥秩父、そして佐久地方の山へクルマを使わずに登ろうとすると、どうしても小海線の始発に乗るためには前日のうちに小淵沢入りしておく必要があるからである。

 小淵沢にそんな時間について、どうするのか? 実は駅ホームに立派な待合室がある。電車を降りて、改札を出ずにその待合に直行、ここで寝袋を引いて寝る、というのが一般的なスタイルだ。じじつ、筆者が9月3日の夜ここに着いたとき、結局この待合室に五人の人間が寝ることになった。その他に駅舎の近くのコンクリートの床に四人が寝ていたようである。

 五人のうちひとりは3時に到着したムーンライト信州に乗り換え、結局残ったのは四人であり、その全員が小海線に乗った。そのうち、筆者ともうひとりは信濃川上で下車、ほかコンクリートの床で寝ていた四人も同じように下車。結局、六人が信濃川上発の村営バスに乗り込み、全員が終点まで乗った。

 終点の川端下は金峰山への登山基地である廻目平へ入る入口である。四人の高校生(あるいは大学生?)パーティはちょっと遅れ、筆者ともうひとりの男性が道路を歩いていたところ、後ろから4WDのワゴンが追いつき、停車。廻目平まで行くから一緒に乗らないか、という有難い申し出。礼を言ってクルマに乗り込む。同乗させてもらったことはあるが、クルマのほうが止まってきてそのように言ってくれたことはもちろんはじめてで、これは幸先よいスタートだなあ、と思ったのだが、その貯金を食いつぶしてしまうことになる。

 廻目平から小川山への登山道への取り付きはちょっとだけわかりにくい。この登山道には「カモシカ登山道」の異名がついている。なぜカモシカなのか? それはおいおいわかってゆくことになる。最初からもう奥秩父でも珍しくなった明るい原生林のなかを歩いてゆく、雰囲気のよいプロムナードである。尾根を避けるようにジグザグにうねった道で、谷川岳や飯豊山のような猟師や山菜取りによる自然発生的な道ではなく、あきらかに登山を目的としてつくられた道のようである。ときどき岩稜の上にルートが出て、金峰山方面の展望が開けてくる。尾根に出ると樹木はアカマツが主になってくる。

 徐々に傾斜がきつくなってくるが、「カモシカ登山道」の看板を再度見ると、そこからはいきなりロープが登場、今までの木々の中を歩いてきた道と明らかに雰囲気が異なってくる。

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 ここを超えるとしばらくは雑木のトンネルと岩稜を交互に歩くような道となる。岩は比較的大きいのが多く、傾斜も急なのでたしかに上がるのはたいへんだ(下山はもっと大変そう)。「カモシカだったら楽々登れるのになぁ」というのが、「カモシカ登山道」の謂れだろうか?

 崩壊した木橋をみると、正面に岩の小ピークを見る。ここは、木橋の左側にある岩のペンキ印にしたがって左に巻くのが正解なのだが、それを見落とした筆者は正面のピークに登ってしまう。しかし、その後のルートを見失う。いろいろやった揚げ句、元の崩壊した木橋の地点に戻れたのが三十分後。完全に、車道歩きを節約できた部分の時間は吹っ飛んでしまった。ここから先も岩稜歩きと低木(たぶんシャクナゲが中心で、シーズンには花が咲き誇るのだろう)のトンネルが延々と続く。これから解放されると今度は緩い樹林帯の登りとなる。こうなってくるともうすぐ頂上なのかなと思うが、そうでもない。本当の頂上までは結構ある。

 結局、道迷いで時間をロスしたこともあって、登山口を8:30前後に出発したのに、山頂に到着したのは11時過ぎであった。しかし、昭文社地図のコースタイムは3:40となっているから、それよりは早く着いたことになる。こんかい、シュラフやテントマット、コンロやクッカー、そして万が一に備えて(小川山と瑞牆山は岩稜なので)ロープ、カラビナ、ハーネスを持っていったので、背負った総重量は10kgは超えていたはずである。1.3kgx2の重登山靴を履いていったことを考慮に入れても、まあまあいいペースで歩いたのかもしれない。

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 山頂で、筆者とほとんど同じペースで歩いていた男性と話をする。こんかいは土曜日の山行であったにもかかわらず、また廻目平には大量の自動車とテントがあったにもかかわらず、小川山登山口から金峰山との分岐である富士見平小屋までに出会った人数は、たった五人だけであった。静かないい山である、小川山は。おそらくシャクナゲの時期さえ外せば。

 下山のときにまたルートを外してしまう。迷った揚げ句、山頂へ戻ると、往路のすぐ隣にもう一本道があって、こちらに入ってしまっていたことがわかった。頂上付近はちょっと注意が必要である。廻目平への分岐を左に分け、富士見平への道に入る。ここはなかなか快適な尾根道で、ほとんど不明瞭な箇所はない。途中、露岩の場所に出ると、金峰山や瑞牆山の展望がよい。むかしはこのルートは倒木が多く大変だったらしいが、よく整備されている印象である。ずっと原生林なのがまた嬉しい。よくみると、瑞牆山の向こうに南アルプスが望見できる。

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 八丁平で大日岩へのコースを分け、富士見平へ入ってゆく。この道も極めて明瞭、迷うところは湿地帯が登場する窪地くらいである。ここでコケを写真に収めているひとに出会う。富士見平へ到着したのは13:30。ちょっと時間オーバーである。13:00より早く着けば瑞牆山にも寄って帰るつもりだったのに。

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 ここから富士見平小屋を経て瑞牆山荘へ下る。山荘へ着いたのは14:18、14:20発の韮崎行きバスに滑り込みセーフであった。しかし、このバスで東京へ戻っても、18:00を回ってしまうのが悲しいところであった。小川山、地味だがなかなかよい山である。廻目平からカモシカ登山道のルートも岩稜が楽しめるし、富士見平からのルートを登路にとっても、ほのぐらい原生林は奥秩父的でこれも好ルートだと思う。ただし、よく整備されている道を好む向き(ところどころヤブ漕ぎ的な部分あり、また完全に明瞭という道ではない)、頂上や尾根の好展望を好む向き(部分的に展望はあるが、それがこのルートの魅力というわけではないとおもう)には向かない、つまり百名山ハンターなどには敬遠される山であろう。それがゆえに登山者にあまり恵まれない(それでも以前よりは増えているという話だ)のがこの山のよさであろう。

昨日の読了
 藤沢周平「たそがれ清兵衛」新潮文庫 B

 じつは今回、「地図を忘れる」という致命的ミスをやってしまったため、行き帰りの電車で眺めるものがなくなってしまった。ので持っていったこの本を読むしかなかった。
 たしか、帯には「映画化」とあって、どうやら新潮文庫のなかで、映画化された作品だけにそういう帯をつけて売っていたようなのだ(特に英語のペーパーバックなどにはよくそういう企画があって、日本人は映画を先にみる習性があるらしく、映画化された作品がよく売れるようだ)。べつに筆者は映画化に興味があったわけではなく、前からこの定評ある作品を読んでみたかっただけなのだ。

 この短編群の筋はほぼ似通っている。主人公はすべてうだつの上がらない下級武士であり、しかし卓抜した剣の腕前を持っている。それが事件にたまたま巻き込まれて、あるいは剣の腕を買われて、人を斬ることを依頼される。そして主人公は(ほぼ)無事に任務を終え、元の静かな生活に復帰する、というものである。

 読者の多くはその剣を振るう場面に喝采するのだろうが、不思議なことが二つある。ひとつは、任務を負えた結果、主人公は何かを得るよりもむしろ失うことになっていること、もうひとつは、人を斬った主人公はそれに関して何らの感慨も漏らしていないことである。前者によって、藤沢は悪を武力で解決することに全面的に賛意を表していないことがわかる。しかるに、たとえそれが上からの命令であり、悪を断罪する結果になるとしても、はじめて人を斬る主人公として、それに何らの後ろめたさも後味も表明していないことは、ある意味奇妙にも思われる。おそらく、作者の意図としては、何ら得るところなく終わった主人公の境遇に、そのあたりの機微を察して欲しい、ということであって、「剣の腕は人を救わない」というメッセージをそれとなく送るところに真意があるのかもしれない、とも思う。

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2008年10月21日

2ちゃんねると八ヶ岳

 筆者は2ちゃんねるが基本的に好きでない。インターネットを通じた「ワールドワイド
で匿名性が高い」コミュニケーションによって、それによらなければ生まれなかったであ
ろうプロジェクトが発足し、高い成果を挙げる(Linuxなど)といった喜ばしい出来事が
生まれている反面、国民、あるいは世界人類という、ひとりひとりが希薄な人間関係でし
か結ばれない、弱い紐帯によるコミュニティのなかでは、結局匿名性は不特定多数あるい
は特定少数へのやり放題の誹謗中傷を助長するだけになってしまう事態もあちこちで生じ
ている。2ちゃんねるはその代表的な温床であり、これによって廃業や自殺に追い込まれ
たりする不幸なひとびとがすくなからず存在していることを、この2ちゃんねるを利用し
ているひとびと、あるいは運営している人間(彼は民事訴訟で多数敗訴し、損害賠償請求
を課されているにもかかわらず、支払いにまったく応じていないそうだ)はどう考えてい
るのであろう。

 googleなどで検索をかけると、2ちゃんねるの記事はすくなからず引っかかってくる。
筆者が八ヶ岳に関する情報を収集しているときに、「八ヶ岳が嫌い」なスレッドというの
が引っかかってきた。当然、「八ヶ岳」が嫌い、ということは、登山が好きな人間の集ま
りであろう。こういう記事はおおむね無害であろうから、ちょっと読んでみた。面白いこ
とがいろいろ書いてある。代表的登山口である美濃戸口付近に駐車する人間たちのマナー
の悪さからはじまって、「登るならせめて諏訪側からじゃなくて、佐久側からにしろ」と
か、「杣添尾根を往復するのが通」とか、参考に(?)なりそうな興味深い記述もある。こんかい、こういった2ちゃんの記事の検証もかねて(嘘)八ヶ岳を実踏破してみることにした。

 すでに八ヶ岳、編笠山には二回、権現岳には一回登頂している。いろいろ考えたが、次のどちらかのコースに行こうと決めた。

a)佐久側から主峰赤岳に登り、阿弥陀岳を経由して(美濃戸を通らずに)美濃戸口へ降りるコース
b)杣添尾根を経由して横岳に登り、硫黄岳を経て夏沢峠あるいは赤岳鉱泉に降りるコース

 b)はまたの機会とすることとし、a)の赤岳に最初に行くことにした。

 新宿駅17:00のあずさに乗ると、小淵沢に19:01に到着し、小諸行き19:38の小海線に乗ることができる。21:36発小海行きの終電に乗るためなら、新宿19:00発のあずさでよい。19:38発の小諸行きなら、清里には20:02に到着である。この電車、19:10くらいにはもう小淵沢駅に到着するので、この車内で夕飯を食べた。清里は無人駅である。この広い待合室に寝袋を広げ、寝る。どうやら土曜日にもかかわらず、この日駅で寝たのは筆者ひとりだけだったらしい。小淵沢の駅なら週末にはかならず駅寝のひとびとがいるのに・・・

 4:00に起床、4:45くらいには清里を出発する。ここから美し森までは約1時間、ようやく空が白みかけてくる頃である。美し森には駐車場があって、二、三台クルマがあるが、ほとんど人はいない。ここで缶コーヒを飲み、トイレを済ませてまず美し森山に向かう。ここの頂上は展望台になっていて、清里の市街や八ヶ岳の展望がよい。目指す赤岳と思われる山頂に、灯が点滅しているのが見える。赤岳頂上山荘だろうか。ここから北杜市営のたかね荘、羽衣池を経て、スギの植林の中を歩いてゆくと、やがてスキー場のリフトが見えてくる。ここから数分進んだところが賽の河原と呼ばれるところで、展望が開けている。ここからは南ア北部と赤岳が望見できる。

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 明らかな尾根道になると、植林は消えてブナなどの原生林になってゆく。ここから一時間ほど歩くと牛首山という小ピークに着く。権現岳方面の展望がある。

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 この辺りからは割と平坦な道となる。ブナはダケカンバやシラビソなどの針葉樹の原生林に変わってゆく。扇山、2316mピークを過ぎると、正面に赤岳が立ちはだかるのを間近にみることになる。

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 ここからは手足を使った岩稜登りである。上部に行けば行くほど傾斜は急になり、鎖場も出現する。このあたりから昨晩赤岳頂上小屋に泊まったとおぼしきパーティとすれ違う。全部で十人くらいで、とても八ヶ岳の主峰を休日に登っているとは思えない静けさである。ここまでひとりの快速のおじいさんに追い越されただけで、同じ方向に登っている登山者はまったく見かけない。登ってきた牛首山の向こうに富士がうっすらと見える。この辺りから権現岳から赤岳に向かう、キレットを含む主稜線を臨むことができる。

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 右が登ってきた真教寺尾根、左が山梨県北杜市と長野県南牧村を分ける県界尾根である。その真ん中にみえるのが美し森の駐車場だ。

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 最後の岩稜のツメ。左上に主稜線との合流点の道標が見える。

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 清里駅を出ること五時間あまりで、ようやく頂上へ辿り着く。しかし、「弥栄」って、「すめらみこと、いやさか、いやさか!」という掛け声を思い出して、イヤなのだが。

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 頂上からの展望はさすがに素晴らしい。このところ好天に恵まれることがなく、ついつい一眼レフを持たずに登ってしまったのだが、遥かに北アルプスが望めるここには、やはり望遠は必須のようであった。さすがに日本百名山だけあり、山頂に来るとどこから湧いてきたのかと思われるくらいの人出であった。

 これは方向からすると北アルプスのはず。肉眼では槍ヶ岳らしい鋭峰が確認できた。

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 ここから阿弥陀岳へ向かう。遠くに見えるのは南アルプス。

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 一時間半弱で阿弥陀岳山頂へ着く。ここも360°の大展望だ。ここから阿弥陀岳北稜(御小屋尾根)を降りてゆくのだが、おそらく阿弥陀岳には行者小屋経由で登る人が多いらしく、御小屋尾根はそれまでの賑わいが嘘のように静かな尾根であった。それもそう、えらく足場が悪いのだ。筆者も急な下りで数回転んでしまった。土尾根なので危険はないのだが。

 諏訪の御柱祭のためのモミを切りだすという御小屋山で、筆者は道間違いをしてしまう。少し直進して御小屋山頂上から北西に下るところ、その手前の分岐で北のほうに道を取ってしまった。筆者が持っている1995年(!)のエアリアマップで、「財産区境界標識、踏み跡に入らぬこと」と書いてあるところである。この踏み跡に入るとどうなるか。地形からみて<<絶対に>>迷子になることはないはずの場所なのであるが、着いた先は筆者が通るまいと思っていた行者小屋・赤岳鉱泉からの下山口である美濃戸だったのである@_@

 1995年のマップでは、茅野からのバス終点である美濃戸口にゲートがあり、一般車はその先には進入できず、美濃戸口から美濃戸の登山口までは一時間の車道歩きが必要だということになっている。しかし、このゲートは開放され、今は美濃戸の登山口までクルマの乗り入れが可能になっているのだった。そして、それが美濃戸=諏訪側からのルートが八ヶ岳(赤岳)の標準ルートとなっている理由だったのである。

 例えばクルマを使って佐久側から登ってみよう。使える駐車場は美し森のそれと清里スキー場山麓のそれくらいしかない。このふたつを使って、真教寺尾根〜県界尾根の周遊コースを取ることは可能であるが、それには約十時間を必要とする。諏訪側から登れば、行者小屋からの周回コースで七時間くらいで可能であるし、行者小屋または赤岳鉱泉に一泊すれば、まったくムリのない登山が可能である。佐久側には適当な宿泊施設がない。登り始めたら山頂まで到達し、頂上小屋または展望荘に泊まるしかないのだ。要は、諏訪側から登った方がいろいろな意味で<<楽>>なのである。美濃戸の上高地を思わせる賑わいはそれが原因だったのだ。

 筆者はここから約30分くらいで美濃戸口まで徒歩で降り、バスを待った。何でも15:10発、19:00新宿到着の高速バスが新設されたそうだが、当日は予約客不足のため運行されなかったそうだ。しかし、バスを利用する人間はごく少数で(休日にもかかわらず全員が座れた)、マイカー登山が八ツの基本らしい。そして、皆アプローチが楽な諏訪側に集中する・・・2ちゃんねるの八ヶ岳非難はそれなりに理由があることだったのである。

 筆者もあの山頂(はまだよかったけど)と美濃戸の喧騒にはうんざりしたので、もう八ツには行かないかもしれない。硫黄岳と横岳には行っておきたいのだが、夏沢峠からアプローチするか、2ちゃんねらーのように杣添尾根を往復するか、どちらかを選ぶだろう。「荷物を軽くして楽に登りたい」ツアー登山客のように、安易な方向へ流れてゆくのは時代の流れなのだろうが、すると何のための登山なのだろう? 「テントと食糧を担げない人間は山に登るな」という意見は、筆者にはごくまっとうに思われるし、北海道でも飯豊でも、筆者よりもはるかに高齢のパーティが30kgを超えていそうなザックを担いで登っているのを目撃した。もう日本のかなりの山は高齢者を中心にしたツアー登山客に占領されつつあるが、それがイヤなら避難小屋がない山域にするか(南ア深南部!)、歩行距離が長くヤブっぽい難路(やっぱり深南部?)をルートに選ぶしかないのであろうか。ともかく、赤岳には諏訪側から登ってはならない、と筆者もおもった。

先日の読了
 Graham Greene "The Third Man/The Fallen Idol" B
 「日本の百年8 果てしなき戦線」 B

 グレアム・グリーンの小説、小説的な表現が多く、筆者にはむずかしく感じた。ただ、幸い文意の正確な把握はむずかしくても、ストーリーを追うことはできる。しかしそれができたとて、やはり彼の英語表現を正確に理解しない限り、文学としての妙味を味わうことはできまい。

 「果てしなき戦線」は大東亜戦争を描いた章であり、当然読みごたえがある。通常の戦記と違うのは、「なるべく庶民の感じ方、考え方を描こう」というこのシリーズ全体に共通する意図がみられることである。戦争を扱っている本としては大部とは言えない量なので、その視点のユニークさがなかったら平板に終わっていたかもしれない。

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2008年11月02日

南大菩薩縦走

 筆者の手元にある山と渓谷社の「アルペンガイド 奥秩父・大菩薩峠」(1985年刊)によると、湯の沢峠から南下する、いわゆる南大菩薩縦走は、健脚向きコースとなっている。ちょっと違うのではないか? 以前滝子山に登ったときに、南大菩薩連峰を眺めて、随分平坦だと思ったのだが、じっさいに踏破してみて、思った通りに平坦であった。

 甲州市のページによると、11月には大和地区の縦断線には増発便が出るということで、竜門峡入口までバスが出るというアナウンスがある。このバスの始発に乗るには、新宿6:00発の中央線に乗れば間に合う。で、8:15甲斐大和駅発のこのバスに乗り込んだのだが、なんとこのバスは竜門峡止まりではなく、上日川峠まで行くという。バスは二十人ほどが乗り込んで、全員が席には着けないという状況であった。

 連休の初日とはいえ、どうしてそんなに大量の人間が乗り込んでいるのか? その理由は明白である。日本百名山の一峰である大菩薩嶺(というより、大菩薩峠)に登るためには、通常塩山の駅から裂石の大菩薩登山口へのバスを利用することになるが、ここから上日川峠まで歩くと2時間を要するのだ。つまり、上日川峠まで直通のバスを使うと歩く時間が短縮できる、そういう理由である。そんなに歩くのがイヤなら山なんか来るなよ・・・筆者はそう言いたいのだが。

 筆者の感覚では(これを他人に強制するつもりは毛頭ないが)「峠」というのは、超えるためにあるのであって、登るためにあるわけではない。だから、どこどこの峠に行った、というのは、峠を越えて反対側に出るのが当然である。大菩薩峠で言えば、これはもともと塩山と奥多摩を繋ぐ甲州街道上の峠であったわけだから、塩山から奥多摩に抜けるか、その逆をやるのが「峠」にゆくことになると考える。筆者は二度大菩薩峠に行ったことがあるが、初回は裂石から小菅(奥多摩)に抜け、二度目は丹波(奥多摩)から裂石に抜けた。上日川峠から大菩薩峠に登ろうとするひとたちは、おそらく峠から大菩薩嶺に登り、裂石ちかくの「大菩薩の湯」で一浴して塩山に帰る、というコースを取る人が多いのではないだろうか。少なくとも、上日川峠から大菩薩へ登ろうという根性なし共が、小菅または丹波へ抜けようとするはずがない。筆者の基準からすれば、あのバスに乗り合わせた連中は唾棄すべきものであった。

 案の定、途中の「やまと天目温泉」で下車したのは筆者ひとりであった。これでここまでの1:40の車道歩きを省略できるのは大きい。ここから目指す湯の沢峠までは一時間(コースタイムは1:20)の林道歩きと40分の沢沿いの山道歩きを要する。やまと天目温泉に着いたのは8:20頃、そして目指す湯の沢峠に着いたのがちょうど10:00くらいであった。

 ここから大蔵高丸〜破魔射場丸〜大谷ヶ丸と辿る。コースタイムはここまで2:05くらい。大谷ヶ丸に着いたのは11:40くらい。ここで昼食を取って滝子山へ向かう。

 湯の沢峠の避難小屋

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 大蔵高丸より黒岳

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 大谷ヶ丸に登る途中で単独の男性に逢って、湯の沢峠までの道について尋ねられる。「二時間あれば十分着きますよ〜」と答えたのだが、彼によると大谷ヶ丸から滝子山までの道は、「ヤブっぽく、落ち葉で道が隠されてわかりにくい」とのことだったのだが、何のことはないとても明瞭な尾根道だったのだが、どういうこと??

 滝子山までの道筋は地形図とは異なり、登山地図のほうが正確である。直登するわけではなく、山頂までの道を左に巻いて初狩からの東尾根と合流してから山頂へ向かうことになる。山頂には十人ほどのひとが。

 滝子山より南大菩薩連嶺を臨む

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 さてここからふつうに初狩や笹子に帰るのは面白くないので、東側の尾根から帰ることにした。山頂からふつうは東に戻って、そのまま東へ直進すれば初狩駅、分岐を北に向かって白縫神社(これは鎮西将軍源為朝公の妻、白縫姫を祀る神社であるということ)から時計回りに下ってゆくと(最終的には山頂の南に出ることになる)笹子方面である。

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 山頂から別図のように黒線に従って下りると寂ショウ尾根だ。ここの分岐を確認して(寂ショウ尾根側にはマーキングがべたべた付いているので、よもや間違うことはあるまい。かりにコンパスがなくとも真南中央線側が見下ろせる)西へ直進する。1482ピークを過ぎ、先の尾根分岐点に来て、はたと迷う。西南の尾根にも下れそうなのだが、踏み跡がない。ここを下ってゆくと、すみ沢に降りることになるが、そのときにすみ沢が渡れないという事態になることを恐れた。西北の尾根ならすみ沢の徒渉は容易だろう、と踏んで、こちら(地図赤線)に降りることにした。ここにも踏み跡はないがしばらく降りると沢に出て、その沢沿いに降りてゆくとすみ沢との合流点に出た。そこからすみ沢の対岸の歩道に出て、沢なりに降りてゆくと登山口である。なお、地図上緑色で示した尾根にも赤テープがあったから、こちらにも降りられるのかもしれない。

 帰り、先日通過した寂ショウ庵への入口に「寂ショウ尾根はこちら」という新しい木の看板が掲げられていた。山頂から西へ降りるとき、二人の単独行(いずれも高齢者)とすれ違ったから(おそらく二人とも寂ショウ尾根から来たのだろう)、この尾根も一般ルートとして認知されることになったらしい。

本日の購入
 バリー・ファインスタイン「ボブ・ディラン写真集」P-vine Books
 仲正昌樹ほか「『先端医療』の落し穴」御茶ノ水書店
 アレンド・レイプハルト「民主主義対民主主義」勁草書房
 古井由吉「夜明けの家」 吉田健一「文学概論」講談社文芸文庫
 小熊英二・姜尚中「在日一世の記憶」集英社新書

 「ボブ・ディラン写真集」もちろん水着はない(とおもう)。

先日の読了
 「日本の百年 十」鶴見俊輔編 ちくま学芸文庫 B

 さて、このシリーズを振り返って、現代でも通読する価値があるかどうかについて筆者の意見を書いておく必要があるだろう。明治期以降の通史としては標準的な出来であり、特別このシリーズを選択する必要は、筆者にはないように思われる。明治期以後、あるいは戦後ということなら、定評ある中央公論新社の「日本の近代」または読売新聞社の「20世紀の日本」を勧めるだろう。

 このシリーズの特色は、なるべく「庶民」の視点での歴史を綴る、ということだったが、その試みはなかば成功し、なかば失敗したというのが筆者のみかただ。取りあげた題材がそのためにかなり偏ってしまったきらいがある。むしろ本書の面白いところは、「リベラル系の学者たちがみた左翼運動」を読めるところにあると思われる。当時、共産党・共産主義はある意味絶対的な力を持っており、しかも彼らはソビエト連邦に「政治的に」忠誠を誓わなければならない立場におり、だからこそ核反対運動のときに「アメリカ帝国主義の核は許されないけれどもソ連の核はプロレタリア革命を擁護するものだから正しい」というような、今からすると考えられない(原水協は今でもこの立場を堅持しているのだろうか?)主張がなされ、そのために反原爆運動が二分されたりもしたのである。そのような時代の雰囲気の中で、リベラル系のひとびとですら批判せざるを得ないような共産党のあり方がかいま見れるのはちょっと面白い。

2008年11月03日

筆者を待っていたものは

 11月3日は「晴の特異日」だそうで、絶好の登山日和となることを期待し、今回は以前からの懸案であった上州武尊(ほだか)山に行ってきた。

 ある山に登るときの、筆者のコース選択の基準は、以下のようなものである。

a)クルマ利用でないので周回コースやピストンはなるべく避ける。
b)甲武信や金峰に登るときの大弛のような安直なコースはいかない。
c)信仰登山の山であれば古くから登られているコースを選ぶ。
d)なるべく人の少なそうなコースにする。

 となると、上州武尊山に関しては、この基準を満たすコースはひとつしかない。川場村の旭小屋から川場尾根を登り、前武尊を経て武尊山に至るコースが往路、復路は宝台樹尾根の北側の沢(名倉沢)を降りて上の原に抜ける九時間コースである。

 上越線の終電に乗って沼田駅で降りる。駅員さんに聞くと、待合は施錠してしまうそうだ。だから駅の外で寝るしかない。コインロッカーもなく、盗難も心配なので服は着たままスピーピングバッグカバーのみ出して、ザックは足の下に敷くことにする。しかしやはり寒い! 結局寝袋にカバーを併用し、フリースからすべて着込むという方法で寝る。しかし、実は沼田の駅、終電のあとも「北陸」「能登」「あけぼの」といった夜行列車が通過するのだ。おかげで眠れず、やっとうとうとし始めた頃に、三時半に予約したタクシーの運転手さんが「お客さん・・・」と(omg)。

 四時二十分頃に登山口の旭小屋へ着く。しかし真夜中なので小屋は見えない。ヘッドランプと懐中電灯を頼りに進むが、どうも変だ。道を引き返して正しい登山道へ入ったときには四時四十分頃になっていた。しばらく進むと、「群馬修験」という名で書かれたプレートが。「鉄砲登り」とある。たしかにそこからは尾根をぐいぐい直進する登りであるが、これくらいは谷川岳でも飯豊でも丹沢(大室山)でもあったことで、別に驚かない。

 道はいつしかスギの植林からブナの原生林に変わっている。ようやくその頃夜が明け始めた。この季節、ライトなしで歩けるのは六時を過ぎてからである。前方で鳥の鳴き声のようなものがしつこくするので見ていたら、黒い物体が横切るのが見えた。カモシカであろう。不動岳に向かう登りからまた傾斜がきつくなるが、さほどでもない。七時には不動岳の上に立つことが出来た。

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 ここから前武尊までは「カニの横ばい」(どこかで聞いたような・・・)と呼ばれる難所もあり、基本的に鎖場である。距離は短いがなかなか進むことが出来ない。不動岳の標高は1750mくらい、ここから250m登って標高2040mの前武尊の頂上に着く。ここで八時ジャストである。ここで花咲または川場野営場のどちらかから登ってきたと思われる数名に遭う。筆者よりは長い距離を歩いていないはずだが、それにしても彼らも五時にはスタートしているはずである。

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 ここからは距離はあるものの標高差はほとんどなく、起伏の少ない道を頂上まで歩いてゆくだけなのだが、雪が溶けず根雪となって、一部氷結しており、アイゼンがないとちょっと危険な状態であった。ストックのゴムキャップを外し、氷に突き刺しながら慎重に進んでゆく。群馬修験の標識によれば「鳳の池」と呼ばれる小さな池が三つあるのだが、いずれも凍っていた。

 で、ようやく到着した武尊山の頂上付近で筆者を待っていたものは・・・

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 寄進された多くのかたがたには大変申し訳ないのだが、これ、あまりに趣味が悪過ぎないだろうか・・・もちろん、「ほたかやま」の「武尊」がヤマトタケルに纏るものであることは知っているが、これ、誰かがこの日本武尊像の横に立って、肩に手を掛けて「記念撮影」しても、その趣味の悪さを非難できないくらいの強烈なものであるように、筆者には思われた。

 頂上からの展望は独立峰だけあって素晴らしいが、見える山々は日本アルプスがすべて望見できる赤岳のほうが上だろう。赤城山、榛名山、妙義山、谷川岳といった群馬県の山々、そして燧ケ岳、至仏山、平ヶ岳、巻機山といった尾瀬や上越国境の山々がとりわけよく見える。

 さてここから下りにかかる。最初は行者ころびとよばれる急坂だが名前ほどではなかった。手小屋沢避難小屋の先で武尊神社へ降りる道と上の原へ抜ける道とに別れる。ここからが結構壮絶だった。上の原への道はあまり利用者がいないらしく、基本的に沢沿いをずっと降りてゆくのだが、最初はゴーロであり下ってゆくと道を沢が侵食している。おそらく武尊神社のほうはクルマでかなり奥まで入れるために、山道の歩行距離が長い上の原コースは嫌われているのだろう。結局、旭小屋から前武尊までの間、手小屋沢避難小屋から上の原登山口まで、ひとりも登山者には遭わなかった。今の登山がクルマ全盛であり、長い歩行距離を嫌っているハイカーが多いことのあらわれであろう。

 さて、こんかい、総歩行時間は九時間であり、結構なロングコースであったのだが、そのわりに何だか物足りない気がする。ひとつは、旭小屋の標高が1050mくらいあり(それでも上の原を除く他の武尊山へのどの登山口よりも低い!)、頂上までの標高差が1000mちょっとであったこと、岩場はちょっとだけあったものの、道じたいがそれほど趣のあるものではなかったこと、などが理由かもしれない。ともかく、日本百名山に数えられているわりには、かかった交通費や時間などを考慮すると、満足度は低かったように思う。たぶん筆者は別のコースを再訪することはないだろう。

 九時間コースで物足りないとすると、やはり丹沢主稜十三時間コースか、雲取山日帰り(往路石尾根、復路長沢背稜)しかないか。

 読書についてはまたあとで書こう。

2008年11月15日

武甲山縦走

 以前から歩き残していた、鳥首峠から武甲山への縦走コースへ行ってきた。

 飯能発7:10のバスに乗って、終点の手前、名郷で降りたのは8:20ほどである。飯能、東飯能駅でバスはほぼ満員となる。どうなることかと思っていたが、ほとんどの乗客は名郷で下車したものの、蕨山の方向へ。鳥首峠方面に向かったのは筆者一人だけであった。

 鳥首峠までは以前有間山〜日向沢ノ峰の縦走をしたときに歩いたコースであり、鳥首峠から今回は正反対(北)に行くわけだが、おそらく雰囲気は似たようなものだろうと思っていた。事実鳥首峠〜橋小屋ノ頭と、鳥首峠〜大持山〜小持山の尾根は奥武蔵らしい雑木林で、雰囲気はそっくりであった。

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 何事もなく十二時過ぎには武甲山へ着く。山頂は団体さんやカップルで大賑わい。休日に横瀬から登ると悲惨なことになりそうだ。鳥首峠からは、数組のパーティに出会っただけの静かな山行であった。

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 さて、帰りをどうしようか? 通常は横瀬(表参道)か浦山(裏参道)に抜けるのだが、持山寺跡を通って妻坂峠に抜ける道(寺跡コース)があるはずであり、こちらを通ってみようと考えた。古いガイドブックには「荒れている」とある。

 シラジクボの鞍部から右へ入る。意外によく整備されているが、植林の中の人工的なトラバース道で、歩いていて面白くはない。当然誰もいない。ずんずん30分くらい進んでゆくと、生川(表参道)に抜ける道との分岐に出る。ここからは当然「持山寺跡」へ向かって進んでゆく。ほどなく寺跡に着くが、ここからは公式には引き返すしかないことになっているが、「危険のため立ち入り禁止」の黄テープが張ってある向こうに道はあるようだ。少々の危険は覚悟のこと、無視して進んでゆく。運が良ければ妻坂峠に出るはずである。

 持山寺跡。松平長七郎にまつわる伝説があるそうである。

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 しばらく進むと木の桟道が崩落しており、「ははぁ、これが危険箇所かぁ」と思ったのだが、そんなに甘いものではなかったのである。さらに進むと道型は完全になくなった。はて、どちらに進んだものかと思っていると、青いテープがある。いちおうこれを信用して進むことにすると、腐った梯子が見つかる。どうやら昔はこれが正規のコースらしかったが、今は完全に廃道と化しているようである。

 それでも道型はほぼ見付けられる。所々道を見失うところがあったが、注意してみると問題なくみつけることができた。危ない箇所にはロープ(ただしかなり古いものだ。利用は自己責任で)も貼ってある。

 基本的には山の中腹を巻く道がほとんどで、尾根を乗り越すことも二回ばかりあったが、それから予期せぬ方向へ降りてゆく。ここ、妻坂峠に行かないんじゃないの・・・? 筆者が道を見落とした可能性もあるが、随所に古い梯子があるから、少なくともルートであったことは確かである。途中で沢に出て、そこをぐんぐん降りてゆく。ここもルートがわかりにくいが、降りれないところは大抵対岸に道があって、沢を何度か渡りながら降りてゆくことになる。武甲山を出てから二時間余りを経過して、ようやく林道に出る。古い道標があり、左横瀬駅、右武甲山、となっている。この林道、上部は武甲山の登山道へ繋がっているようである。降りてゆくと妻坂峠への分岐に出る。そこから程なく御岳神社の鳥居、つまり武甲山表参道であった。妻坂峠ではなく、生川に出てしまったのである。地図を見ると生川から南に支流が延びているが、この支流を下ってきたことになる。ということは、おそらく支流に出たときに、南側に登ってゆく登山道があったはずで、それを筆者は見落としたことになる。ちゃんと地図を読んでいたらわかったかもしれないが、今回はこの古い登山道の追跡がテーマだったので、仕方ないと思っている。それにしても、持山寺跡からのこの筆者が辿ったコースは勧めない。よほどルート・ファインディングと地図読みに自信がなければ、道を途中で見失う可能性が高い。まあ、見失ったところで、地形的にはあまり迷子になる心配もない場所なのではあるが。

 帰りは運の良いことに横瀬の駅で快速急行が立ち往生しており、それに乗ることができた。古いガイドブックでは、名郷から武甲山まで五時間二十分となっている。筆者は今回四時間弱で到着、かなりよいペースで歩くことができた。荷が軽かったからだと思われる(デジカメが1.5kg, 水が2kg, あとは食糧くらい、靴は例によってGOROのC-7、一足1.3kg)。

2008年11月24日

石尾根縦走

 東京都の最高峰、雲取山からは、いくつかの峰が延びている。西へ向かうのは、笠取山、将監峠を経て甲武信岳や金峰山へ連なる奥秩父縦走路である。北へ向かうのは三峰神社に終わる、昔からの表参道である。東京都側に延びている尾根はいくつかあるが、そのうちで顕著なものがふたつある。一つはいったん北へ向かい、芋ノ木ドッケから三峰神社へ向かう縦走路から分かれて東側の長沢山、水松山、そして酉谷山といった峰へ向かう、長沢背稜と呼ばれる尾根であり、もうひとつが鷹ノ巣山を経て奥多摩駅へ直接降りる尾根である。この尾根上には七ツ石山、六ツ石山という「石」を持つ山がふたつあるため、この尾根は石尾根と呼ばれている。こんかいの筆者の山行の目的は、この「石尾根」へ日帰りでゆくことであった。

 新宿を最も早い時間に出発しても、奥多摩の駅に着くのは7:20頃となる。この時間、例えば奥多摩の代表的な登山基地である東日原へ行こうとすると、土曜日ではバスは8:35となり(7:02には間に合わない)かなり遅い時間になってしまう。日曜日なら7:25のバスにぎりぎり間に合うのだが。土曜日、この時間に合うバスは30分発の小菅行きか50分発の峰谷行きである。しかし、峰谷からはどの山に登るにせよ、かなりアプローチに林道を歩くことになる。ので、選択肢は奥多摩駅から直接石尾根に乗り、行けるところまでゆくか、小菅行きに乗って適当なところからアプローチするか、である。

 大菩薩峠越えをするときに奥多摩側からの起点となるのが、小菅と丹波のふたつの村である。このふたつの村はそれぞれ小菅川、丹波川というふたつの多摩川の源流沿いにある。バスは奥多摩湖の深山橋までは共通の道を行く。深山橋を越えるとあとは小菅川に沿ってゆくため、石尾根からはどんどん離れてゆくことになる。よって、小菅行きのバスに乗って石尾根を目指すには、深山橋バス停で降りるのがよい。

 深山橋の先、奥多摩湖沿いには、小留浦、留浦、そして鴨沢という集落がある。鴨沢こそ、雲取山への最短アプローチとして知られる鴨沢コースの出発点である。このルートには筆者は二度降りたことがあるから、時間的な制約もあってここは避けることにした。筆者がこんかい選んだのは、国土地理院の地形図で破線で書かれている小留浦からのルートである。このルート、登山地図では「登山道でない小道」として書かれているから、どんなルートなのかはだいたい想像はついていた。

 深山橋バス停を降りて、そのまま端を渡らず西のほうに進んでゆくと、すぐに短いトンネルがある。そのトンネルを抜けてすぐ右側、山側へかなり急な、コンクリートで舗装された道がある。ここが登山道の入口である。ちょっと進むと小さな集落があり、数件の家があるが、実際に住んでいるのはほんの一、二軒だけのようである。ここから先は沢に沿って進んでゆくことになる。が、道はない。かすかな踏み跡が沢沿いに延びているだけである。ところどころかなり辿りにくい箇所もあるが、よくみると沢沿いに電柱が建っており、この電柱を追いかけるかたちで踏み跡があるようである。にしても、ふつうの登山道のような整備は期待してはならない。かなり時間がかかることは覚悟しておこう。

 一時間弱歩くと、地形図にあるように、800m付近で沢が三股になっている場所に出る。その真ん中の本流を遡ってゆくと、そこに広がっていたのは、インド的風景だった。

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 さらに進んだところの写真を、インドの写真と比べて欲しい。

ハイデラバード

廃寺

 人は住んでいないっぽい。

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 ここからさらに上に進むと、うち捨てられた集落があり、そこから数分で尾根上へ出ることができた。

 ここから先は特に迷うところはない。踏み跡は薄いが、尾根を直進してゆくだけである。わかりにくい分岐もない。途中で地形図にない林道と交錯して一瞬迷うが、林道は無視してとにかく尾根を直進すればよい。途中で、こんなものに出会う。

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 クマを捕獲して電波発信機を着け、ふたたび放すんだそうな。でも、そんなことを言われても、もう来ちゃったんですけど。

 クマが入っていたと思われるオリ。

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 しばらく進むと、赤指尾根の名称のもととなった赤指山に着く。展望はない。

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 ここから、峰谷への分岐を経て、石尾根縦走路までは一時間半くらいである。縦走路から十五分くらいで七ツ石山へ着く。展望はまあまあある。ここからは雲取山頂上が臨める。

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 が、、、筆者はここで昼食を取った後、レイテ湾を前にした栗田艦隊のように、ふたたび縦走路を反転してしまった。ここから雲取山までは一時間半ほどで着くというのに。

 が、謎の反転であったわけではない。筆者なりに計算したすえの結果であったのだ。ここから雲取山に行ってしまうと、日帰りで石尾根から帰ることは不可能になってしまう(絶対に、ということではないけれども)ことを恐れたからであった。

 ここからは小さな上り下りを経て、高丸山、日陰名栗峰といった無名の峰を経て、鷹ノ巣山へ至った。ここは大きなピークで、日原側、奥多摩湖側へ向かうルートが共にある。もしエスケープするならここである。しかし時刻は二時四十分ほど。まだしばらく尾根を歩けよう。六ツ石山まで歩いて、そこから水根に降りれば、奥多摩駅までのバス便は大量にあるから、そうしようと決めてそのまま進むことにした。

 ここからまもなく進むと、絶好の撮影ポイントがある。

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 その後は植林の中の人工的に付けられたトラバース道を主に歩く。このあまり愉快でない道を延々と歩いた先が六ツ石山である。この時点で三時四十分。ここから水根に降りるつもりであった。しかし、よく地図をみると、水根への下行路と、そのまま奥多摩駅へ向かう尾根とで、それほど時間に差はないように思われるのだ。さらに、途中から林道になるはずなので、日が暮れてしまってもそれほど危険はないように思われた。さらに尾根を進むことにした。

 予想通り尾根を下っている最中に日が落ち、辺りは真っ暗になった。しかし暗闇に眼が慣れてきたので、ヘッドランプは使わずに歩く。自然の中にいるような感覚が心地よい。結局、最後までライトは使わずじまい。奥多摩の駅に降りたのは五時半。三十分以上も無灯火で歩いていたことになる。

 さて、石尾根の筆者的評価は、どうなるだろうか。

A:とてもよかった。ひとにも勧めたい
B:それなりによかった
C:たぶん二度は行かないだろう

 とすると、Cである。理由は、道が人工的な感じが強いこと、植林された部分が多いこと、あまりにたくさんの人に歩かれていること、だろうか。前半の赤指尾根のほうが雰囲気もよく、また登山者も少ない(筆者はだれにも会わなかった)こともあり、お勧めできる。ただし、尾根までの沢道が崩壊していて危険個所もあることからすれば、万人向きではない。たぶん、峰谷橋のあたりから赤指尾根に直接取りつく道がありそうなので、そのほうがよいだろう。

最近の読了
 厳家祺・高皋「文化大革命十年史(上中下)」 B
 加々美光行「歴史の中の中国文化大革命」 C 以上岩波現代文庫

 読むならこのふたつはセットにするのがよいだろう。もちろん、「文革とは何だったのだろう」という興味が皆無なかたにとっては無駄な読書である。

 厳氏・高氏(ふたりは夫婦である)らの見解は、「文革とは毛沢東による劉少奇・鄧小平らの失脚を目的にした政治闘争であった」ということであり、ゆえに文革の歴史はその否定的な側面にもっぱら光が当てられている。実際、文革を推し進めた一派や革命小組の中でもイデオロギー的な違いはあり、毛沢東と林彪の確執からはじまり、紅旗兵同士で相争うという大規模な内紛が起き、何万という人命が失われたのみならず、貴重な文化財や近代化の基礎的な部分がかなり失われてしまったのである。よって、前者では、文革とはあくまで愚行であったという観点が貫かれているのもある意味当然であろう。

 しかし、葉群(林彪夫人)や江青(毛沢東夫人)といった、能力も政治感覚もなく、みずからを誇示することしか念頭になかったような人物が権力をたやすく握ってしまうようなシステムが異様であることは否定のしようがないものの、毛沢東がいかに耄碌していたとはいえ、権力闘争だけが目的でそれほどの政治的な愚行を犯したというのは、おかしいのではないだろうか。むしろ、毛沢東はすでに国家主席として揺るぎない名声と権威を勝ち得ていたわけだから、それほどの愚行を行う動機は、ほかにあったのではないだろうか。そのような史観のもと、文革の肯定的な意味を探り出してみたのが加々美氏の著作である。すると、毛沢東の「永久革命」的な意図が透けて見える、というわけである。厳・高氏の著作は文革を描いたものの中では定評あるものだが、その欠けている部分を補うのが加々美氏の著作である、ということになる。

 にも拘らず後者の評価がCなのは、単独で読んだ場合、あまりに学術的な色彩が強いからである。つまり、文革について一定の歴史的な知識がなければ、本書はほとんど理解不能である。単独で読める本ではないのである。

2008年11月25日

体脂肪が落ちるトレーニング

 表題の本を買った。ちなみに、このような「実用書」は、筆者は「購入した書籍」のなかには含めていない。筆者が体脂肪を落とすトレーニングをしたい理由は、「減量」にある。筆者の身長は171cmで体重は約60kgだが、体脂肪率が20%近くあるため、体が重いのだ。筋肉量が少ない、いわゆる隠れ肥満に近い。おそらく今の筋肉の量だと体重は58kg(二十歳頃の体重)が適正かなと思っている。

 九月のテント山行で大変だったのは、何しろザックが重かったこと。重いザックを担いで歩くことは苦痛ではなかったのだが、肩に荷物が食い込むことには閉口した。三角筋や僧帽筋という肩の筋肉が薄いために、骨に荷が食い込む思いをした。とにかく、減量ならびに重いザックを長時間担げるために、筋量が欲しいのである。

 で、よいトレーニング方があればと思い。「阻血トレーニング」などで著名なこの著者の本を買って、やってみた。ネタバレになるのでこのトレーニング法の骨子は触れずにおくが、短時間でこれほど疲れるトレーニング法があるとは、思いもよらなかった。一日十分、週に二日から三日でよい、ということだから、しばらくやってみようと思う・・・

先日の購入
 レヴィ=ストロース「神話論理IV-1 裸の人 1」みすず書房
 F.ローゼンブルース「日本政治と合理的選択」勁草書房
 今福龍太「群島 - 世界論」岩波書店
 深田久弥「日本百名山 新装版」新潮社
 パーサ・ダスグプタ「一冊でわかる 経済学」岩波書店
 行方昭夫編訳「モーム短編集(下)」
 荒このみ編訳「アメリカの黒人演説集」
 ヴァールブルク「蛇儀礼」以上岩波文庫
 ウィリー・ハンセン/ジャン・フレネ「細菌と人類」中公文庫
 グリム兄弟「完訳グリム童話集2」講談社文芸文庫
 服部文祥「サバイバル!」ちくま新書
 Ernest Hemingway "A Farewell to Arms"
 Charles Dickens "A Christmas Carol"

 ついに「日本百名山」買ってしまった。あはは。
 「アメリカの黒人演説集」、どう考えてもバラック・オバマを当て込んだ企画だろう。最も、本書に収録されている演説のうち、筆者が最も興味を惹かれるのはオバマでもキング牧師でもなく、もちろんマルコムXである。
 「蛇儀礼」、購入動機は文化人類学への関心ではなく、訳者があの三島憲一恩師だったからである。
 「サバイバル!」副題が「人はズルなしで生きられるのか、とあるが、そもそも登山において、国土地理院の地形図とコンパスを使うことだって「ズル」だろう。そしてそもそも地図がなければ、つまりどこそこに山がある(このルートを辿ったらここに着くはずだ、という推測)という情報がなければ、そもそも登山というスポーツは不可能である。だから、地図を片手にしている時点ですでに「ズル」と筆者は考えている。それに、登山口まで交通機関を使うことだって、厳密に言えばズルだろう。自宅から歩いていないからである。だから、筆者的にはGPSも特殊調製食品もすべてOKである。ただし、登山ツアーだけは許せない。
 ディキンズ、もうすぐ師走だし、ね。

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2008年12月07日

サバイバル登山家

 この著者に関する否定的な感情を抜きにして評価を下すのはむずかしい。

最近の読了
 服部文祥「サバイバル登山家」みすず書房 ?

 まず著者の提唱(?)する「サバイバル」登山じたいについて。必要最低限(と著者が感ずる)装備のみで山に臨み、食糧は可能な限り現地調達し、電池で動く装備は持っていかない、という登山スタイルである、ということだ。そもそも、装備を一切使わないナチュラルな登山というものがありえない以上(登山靴を履かずに現地でわらじを編めばフェアか?)、近代装備をどこまで使うかは程度の問題であって、何を使えばフェアじゃないかを決定するのは自分であることになる。食糧をすべて背負ってゆくのと、釣りなどで現地調達することとのあいだで、どちらが生態系に負荷をかけ自然破壊を促進するか、それは明瞭ではないだろうか。以前にも書いたが、筆者じしんは近代装備フル活用は大賛成であって、それで少しでも遭難の危険が減って他人に迷惑がかかることが減ればいいことではないか(だからといって他人に荷を担がせるのは筆者の感覚でも「フェア」ではないと思う)。

 また文章としての面白さを追求した結果かもしれないが、どうしようもなくエゴイスティックな人間像が浮かんできてしまう。遭難するのは勝手だが、遭難が発生したときに誰にも迷惑をかけないことは不可能なのである。「遭難したときは救助に来なくていいから。ほっておいて」と言えないのが現代社会であり、今の日本なのである。そこを「身に付けるものが少しでも少ない方が自然に近づける」ということで、フェアだと感ずるということを優先するような登山をするという考え方にはとても抵抗を感ずる。

 友人や身内だけではなく、現代社会の中でひとがひとり生きていくためにはさまざまな無名の人間の恩恵を受けているはずである。そういう感覚がこの著者にはとても希薄なように感じてしまう。すると、本の面白さは別として肯定的な評価を下すことはちょっとできないのである。

2008年12月13日

一冊でわかる経済学

 近年、ドーキンスやE.O.ウィルソンなどの著書の影響もあるのか、ますます筆者は「遺伝子決定論」に傾きつつある。これは、「遺伝子がすべてを決める」と言ったらそのとおりなのだが、その前段階の説明として、以下のよく指摘される事実を挙げ、その解釈として「遺伝子と環境の不一致」という仮説を説明したいと思う。

 いわゆる生活習慣病では、「生活習慣が悪い」という説明がなされる。では、これはいったい誰にとって、何にとって悪いのだろう? もちろん、個体としてのそのひとの生命において悪い、ということである。ということは、もう少し突き詰めて考えてみれば、人間という個体にとってよい、とされる生活が別に存在し、もともと人間はそういった環境(生活)のもとでうまく生きてゆけるようにプログラムされている、ということになる。

 具体例を挙げよう。むかし、人間にとって塩分は貴重だった。なので、塩分をより保持しやすい個体は、他の個体よりも長生きし、自然選択されて生き残ることになった。そういった個体にとっては、おそらく一日の塩分摂取量は5gやそこらで生きてゆけるように、ナトリウムの再吸収能が発達していることになる。しかるに、現代のように塩分に不自由しない時代においては、過剰摂取になり、そこから高血圧が発症することになる。つまり、そういう個体の塩分の適正摂取量は、遺伝子でプログラムされていることになる。

 これらは比較的理解しやすく、説得力のある議論だが、筆者が試みたいのはそこから一歩踏み出した議論である。つまり、身体ではなく、社会の構造や機能にまで「遺伝子決定論」を当てはめてみたいのである。具体的な言い方をすれば、適正な塩分の量が決定されているように、「従来人間にとって望ましい人間関係の構成や社会のあり方は、遺伝子によって決定されている。否、より正確な言い方をすれば、ある特定の人間関係の構成もしくはある社会構成のもとで人間は適切に生きられるように、決定されている」ということである。

 抽象的な言い方が続くが、筆者が言いたいのは次のようなことだ。たとえば"politically correct"という言葉に代表されるように、皆が望ましいと考えるようなある理念的な状態が理論として存在する。曰く、民主主義が最良の政体である、曰く、両性の平等は人間にとって本質的であり、社会進出や家庭の中のあり方についても平等でなければならない、など。

 しかし注意したいのは、もし筆者の行動仮説が正しいとすると、このpolitically correctな思想と、人間にとって望ましいあり方、つまり、そういうあり方のもとで、生きやすいように人間がプログラムされてきた、そういうあり方は、一致しない可能性がある、ということだ。たとえば、人間は子孫を残すために家族制度を構築してきた。そして、子供の養育が必要だという大義名分のもと、女性は家庭に縛られてきた。フェミニストたちはそれはよくない状態だとみなし、保守派は従来の道徳観念から家庭が家にいることは子供の福祉の点からも望ましい、と主張する。おもうに、現代にまで残る、理性的に考えると理不尽な制度のなかには、種の存続上不可欠なものが入っていて、それを意識的ならびに無意識的に人間が存続させてきた可能性は、ありうるのではないか。遺伝子的に望ましいとプログラムされているかどうかはともかく、人類が脈々と受け継いできた迷信や不合理な社会制度を、不合理だから即廃止、という結論を出すのは、少々早計かもしれない、と思う。不合理な制度が存続してきたことにはそれなりの合理性を認めるべきであって、やはり人類という種の保存に何らかの役に立っていたり、またはそういう制度のもとで人間はうまく機能するような、遺伝子の作用にその制度が合致している、という可能性も否定できないからである。ひょっとしたら、「結婚は女性にとって絶対に必要だし、結婚したら家庭にこもって家事と子育てに専念する」というのが、"genetically correct"であり、またそれを古代人は知っていて、受け継がれてきた習慣なのかもしれないのだ。

 よって、理念的な正しさ、をバックに、旧来のさまざまな制度を廃止、改良することは、まったく理性的・合理的な行為に見えながら、人類の種としての寿命を結果的に縮めてしまうことは十分にありうるのである。

先日の読了
 パーサ・ダスグプタ「一冊でわかる経済学」岩波書店 A
 服部文祥「サバイバル!」ちくま新書 ?

 このような入門書に「A」評価はいかにもそぐわないが、それだけ本書が画期的な構成を持っているということである。従来の経済の入門書は、ミクロ、マクロ、公共経済学、という三本立てで書かれることが多かった。定評あるサミュエルソン、マンキュー、スティグリッツ、そしてクルーグマンもそうなのではないか。本書はむしろ厚生経済学、環境経済学といった、従来の経済学では傍流であったけれどもその現代性から注目を浴びている分野を大胆に中心に据え、しかも近年のトレンド、「持続可能な経済成長」に一章を割いて論じている。それだけでも十分に新味があるのだが、論述の進め方に、アフリカとアメリカに住む少女を一人ずつ取り上げ、どうして彼らの住む世界がそれほどまでに違うのか、をさまざまな歴史的・社会学的な切り口も含めてみてゆく、という斬新なスタイルを取っている。筆者じしんもとても勉強になったし、経済学にとっつきにくさを感じている読者にこそ受け入れられるであろう。R.D.パットナムが主張した、経済成長に大きく関係してくるファクターである「信頼」や、以前書評を書いた、新制度派経済学の主張の主眼である「組織」についてもきちんと押さえられている。一読して決して後悔しないこと請け合いである。

 相変わらず服部氏の本、読んでいてたぶんとてもおもしろいと思うのだが、筆者には著者の身勝手さが鼻について仕方がない。どうして国立公園内で動植物の採取や無断キャンプが禁じられているのか。どうもこの著者には、人間が集団生活(社会生活、と言った方が適切か)を送る上である決まり事が必要だ、という感覚がとても希薄なのだろう。雷鳥を撃って食糧にしてはいけないのは、それによって家族が路頭に迷うから、では決してないのだ。

トレーニング山行

 きょうは定番の丹沢・大倉尾根から、塔ノ岳~丹沢山~蛭ヶ岳~檜洞丸という、いわゆる丹沢主稜を歩く積もりであったが、塔ノ岳の時点で疲労していたこと、天気が思わしくなかったことより、そのまま下山、つまり大倉尾根のピストンとなってしまった。カメラ二台に軽アイゼン(まったく不必要だった)や水4Lを積んで重量負荷がかかっていたこともあるが、筆者がこの尾根に弱い理由がふたつある。ひとつは登山者が非常に多いこと。筆者は他の登山者がいると自分のペースが崩れる方である。登山のはじめで必要以上にペースを上げてしまう傾向があるのだ。もうひとつはこの尾根の特性である。階段が非常に多く、疲れる。あの階段を上りきるともう先へ進む意欲がなくなってしまうのだ。

 筆者の好みは丹沢ではやっぱり檜洞丸、大室山といった西丹沢が好きであり(自然林も多いし、登山道も人工的でない)、どうも東丹沢はつまらない。いま東京近郊でも考えているルートがいくつかあるが、もし丹沢を選択するなら、もう東丹沢にはゆくまい。

2009年01月04日

九鬼山の謎

 今年の登り初めは道志山塊の北西端、九鬼山とした。理由は、駅からのアプローチがよいため遅出できること、道志山塊はだいたい歩いてしまった(メジャーな山で残しているのは鹿留山くらい)からである。

 7:30新宿発のあずさに乗ると、8:34大月発の富士急線に接続する。九鬼山には二駅目の田野倉または三駅目の禾生で降りるのだが、まず田野倉で数名のハイカーが降りた。その中の幾人かは西の高川山へ行く可能性があるが、禾生で降りたひとたちはまず九鬼山へ行く可能性が高い。禾生駅では十人を超える大量のハイカーが下車した。このひとたちと一緒に歩くのはまっぴらなので(もちろん筆者のほうがどんどん先行すれば何の問題もないが)少し冒険してみることにした。地図を見ていて、このグリーンの尾根から取り付けないかと思っていたのである。

 で、この神社のところ辺りから取り付きを探してみたのだが、ちょっとむずかしそうだ。なので、地図に破線のある盛里のところから登ってみることにした。しかし、ここにある破線の道はみつからず、ここより先の農家のところから山に突っ込んでいる舗装路を利用することにした。すぐに道はふたつに分かれているが、直進せずに点線路の尾根に向かうようにした。

 しかし、道はない。道の残骸らしきものが時折見かけられるが、すぐにヤブに埋もれてしまう。前日にさんざん迷ったあげく購入したpatagoniaの新しいジャケットはもう傷だらけ(大げさ)である。この山域はスズタケではなく、つる性の植物や潅木、バラなどが多くて、なかなか大変なのである。

 750mくらいで道は緩やかになり、地図に示す通り大きく左へ曲がるのでそれと知れる。ここから50~100mくらいで左から上がってくる大きな尾根と出会うはずである。たぶん、ここには道があると予想していた。850mのところで尾根に合流するが、道がない。あれ? しばらく進んで尾根の左側に出ると、そこにはしっかりした踏み跡があった。札が頻繁にかかっており、「杉山新道」とある。自宅に戻って登山地図を確認してみると、一般ルートのようである。筆者が持っている二十年くらい前のガイドには当然ない道で、地形図にもこの道は記されていない。

 ともかく筆者の予想が的中したことに満足してそのまま先へ進む。ほどなく高指方面へ向かう尾根道と合流する。この道を右に向かうと高畑山〜倉岳山〜矢平山という前道志山塊の縦走路である。この道、いかにもトレーニングコースとしてよさそうだ。左に向かうと田野倉から登ってくる道と合流し、その場所が「富士見台」(富士見平だったか?)と名付けられ、大量のひとたちがご飯を食べていた。

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 九鬼山の頂上はこれといった特徴のない場所であった。

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 さてこれからこの図の青線に沿って縦走するのだが、水色の稜線に沿って朝日小沢までの下りもできそうな気がする。ここから札金峠〜馬立山〜沢井沢ノ頭〜菊花山と縦走し、直接大月の駅に降り、かいじで東京に戻った。全行程五時間ばかりの軽い山歩きであった(前半のヤブ漕ぎはやるまでもなかったが)。

2009年01月12日

敗退

 山域は書かないでおこう。

 7:30頃、某駅から乗車したタクシーを離れ、集落の入口に降り立った。こんなかんじである。この右側の車道(?)に入ってゆく。

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 茨をかき分け進んでゆくと、民家に出会う。しかし、この集落はもう無人となっているようだ。

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 ここから林道はずっと左のほうへ進んでゆくのだが、地形図によればここで右に上がる踏み跡を探さねばならなかった。事前の地図の読み込みを怠ったために、林道をさまよい、道なき道を辿らねばならず、大幅に時間を損してしまった。

 しばらくゆくと、尾根と尾根のあいだに大きな伐採地に出会う。ここには鹿よけのフェンスが張ってあって、抜け道がない。このフェンスは3mくらいあって、越えるのがたいへんそうである。結局、木の切り株に立ち、そこから足を踏みだし、落ちるようにして(いや実際に落ちた)フェンスを越えた。

 対岸の尾根。

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 ここから、筆者は自分の位置を誤認してしまう。しばらく進むと山の神が出てくるが、本来はここから先へ進まなければいけないところ、正面は岩稜で左右は切り立った斜面で一見越えられそうにないために引き返してしまったのである。しかし、実はこれが正しいルートで、ここをどうにかして越えるしかなかったのである。

 積雪の中、危険なトラバースを選ぶか、岩稜を登りきってガケを降りるかを決断しなければならなかった。しかし、何よりもこのようなバリエーションルートを選ぶのであれば、せめて補助ロープを持ってゆくべきだった。

 こんかいはむなしく中途敗退。次回は20mの補助ロープを持って再度トライするつもりである。

2009年01月18日

大平山

 東京の山である。さて、どこにある山だろうか? この質問に即答できるひとは、かなりの山オタクである。正解は、三峰から雲取山へ至る稜線上の芋ノ木ドッケから長沢山や酉谷山といった、いわゆる長沢背稜という尾根が延びているが、そこから秩父側にわずかに外れた尾根上にある一峰である。浦山川を挟んだ対岸の大持山あたりからよく見えるようである。

 この山に登るためには、長沢背稜の七跳山から尾根伝いにゆくのが最も簡単だ。しかしそれでは登る意味がない。この山は、東京では珍しい「登山道のない山」なのだから。この山の南側を走る天目山林道から細久保谷の枝沢沿いに遡行(といっても沢登りではなく沢沿いに付いている作業道を利用)したり、浦山大日堂の近く、川俣集落から明瞭な道を登る人が多いようだ(どうしてそんな道があるのか? 調べてみると、どうやらこの尾根筋に大ドッケと呼ばれる山があり、そこに福寿草の自生地があることで有名になっているらしい)。筆者は、こんかい同じく浦山の栗山集落から延々と尾根を歩くこととした。少しでも長く歩きたいためである。

 土日の西武池袋線の有料特急のレッドアロー号は、最初の二便は所沢発である。計算してみると西武新宿発5:17の各駅に乗れれば所沢発6:11のちちぶ61号に乗れることになる。

 当然、車内はガラガラだ。池袋始発にした方が客は増えるだろうに。これに乗ると7:07に西武秩父駅に到着するから、ここからタクシーを拾って(ちょっともったいないけれど)浦山口駅から浦山ダム・秩父さくら湖(新しくできたダム湖である)の方向へ向かうことになる。

 念のため、同じコースを辿るかもしれない方のために書いておくと、バス停でいうと「栗山入口」で降りた方がいい。「栗山」からでも集落内へ入る車道に入れるが、地形図で言うと650m付近にある送電線の鉄塔から尾根に乗るのではなく、550m付近の鉄塔で尾根に乗りたいのだ。そのためには、集落に上がる前にどこかの巡視路に早く取りついてしまったほうがいい。集落の上手に社があり、そこから尾根を辿ってゆくとこの550mの鉄塔に着く。そこからは尾根をひたすら上がってゆくだけだ。

 途中で例の伐採地に出る。画面左側のピークが栗山(813.9m)である。

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 栗山の頂上。何もない。

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 ここからしばらく進むと岩稜があり、ちょっと見にくいが山の神が祀ってある。この右手に岩が聳えている。前回は、ここが通過不可能と諦めてしまったのだが・・・

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 よくみると、この山の神のところをまっすぐ前方(岩からみると左側)に降りて、岩を巻く手があった。先日は、そもそもここが正しいルートではないのではないか、という疑念があって、早々と諦めてしまったわけである。実に間抜けであった。で、後ろを振り返ってみると、道は岩稜に向かってまっすぐ延びている。実は、正しいルートは、そのまま岩に登ってしまうのであった。そこにはガケはなく、安全に下に降りられる。このあたり、まったく道がないわけではなく、おそらく地元の方や、森林を巡視する営林署の人、あとは好事家が時々通るわけである。

 こんなかんじのところを通る。だが、あまり展望はない。

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 1100mくらいからだんだんヤブの中となってくるが、しっかりトレースがついている。もちろん人間のそれではなく、このあたりにはかなり大量のシカが生息しているようだ。フンも多量にあるし、ありがたいのはきちんとルートを辿ってくれていることである。いや、おそらくこのあたりの道は登山道ではなく、シカの獣道なのかも知れない。ただ、尾根を挟んで左(あるいは右)が植林、反対側が自然林、という奥多摩によくありがちなパターンのため、やはり巡視路なのかもしれない。

 この右側の山が大平山かもしれない。

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 ここから、雪に足を取られながら、シカのトレースに導かれながら、ようやく大平山に到着。展望もないし、誰もいない。先週降雪があってから誰も訪れた形跡がない。

 ここから長沢背稜目指して一路。大クビレの鞍部に降り立つ。ここには天目山林道が走っているが、この大量の足跡、よくみるとほとんどが人間のものではない。

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 ここからは七跳山に出て、長沢背稜を三ツドッケ目指して歩くだけである。この縦走路、尾根を外してつけられており、ほとんど起伏がない。ここだけ歩くならあまり面白くない道である。わざと縦走路を外して尾根を歩いたりしてみたが、やはり疲れる(笑)。

 ハナト岩からの展望。左に見える一番高い山が雲取山、右端が酉谷山だろうか。

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 せっかくなので三ツドッケに登ってみる。

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 さて、あとはひたすら下るだけである。一杯水避難小屋に着いたのが14:45くらい。ここからヨコスズ尾根を駆け降り、東日原へ着いたのがほぼ16:00。結局、休憩の時間も含めて八時間半歩いていたことになるが、筆者と同じコースをなんと五時間強で歩いてしまった御仁がおられるようだ。いくら積雪期の登山だったり、余計な荷を背負っていたり、寄り道をしたりしたとは言っても、無雪期にどのくらいの時間で同じコースを歩けるかというと、六時間を切るタイムで歩く自信は、筆者にはないな・・・トレラン靴を履いて、荷を極力軽装にすれば、七時間は切れると思うけれども。

#甲武信に登ったときは、自分でもどうしてあんなに早く登れたのが不思議だったけれども。

 

2009年01月25日

杓子山ふたたび

 以前、稜線を90度まちがえて登ってしまった、杓子山へのリベンジである。計画は、富士急の東桂駅から延々と北尾根をたどって杓子山頂上を経て、もし時間が許せばそのまま鹿留山から石割山へ縦走し、山中湖畔の平野へ降りるという計画である。

 もうすっかりおなじみとなった四ッ谷4:51発の総武線で高尾まで行き、そこから大月行きの電車に乗り換えると、大月で6:53の電車に接続する。これに乗ると7:17に東桂の駅に着くことができる。
 ここで準備を整え、出発。鹿留川沿いの車道に入り、馬場のバス停のところで山道に入る。はっきりした指導標がある。
 この道は非常に雰囲気のよい道だ。自然林が多い。道も手入れはされているが、さほど人工的に付けたかんじではない。途中で標高が上がり、道が凍ってきたので、軽アイゼンを付ける。

 二時間弱で最初の目的地である倉見山に着く。三ッ峠、富士山は雲に覆われ、見えない。行く手の杓子山が巨大に見える。

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 ここから道は悪くなるが、踏み跡は明瞭で、道を外すことはありえない。しばらくすると寿駅への分岐に着き、そこから道は向原峠まで下りに入ってゆく。向原峠こそが、前回通過するはずだった峠である。感慨深いものがあった。

 ここから道はやせ尾根の急斜面を上がってゆく。ちょうど谷川岳を彷彿とさせるような感じの道だ。両手両足を使っての登りである。斜面は同様に凍っているために軽アイゼンは外さずにいたが、必ずしも必須とはいえない。眼前に杓子山は見えるのに、なかなか近づかない。ようやく巨大に頂上が見えるようになってからが長かった。頂上近くの尾根はやせている上に手がかりが少なく、積雪下においては登りはまだしも、下りにこのルートを取るのは相当危険であると思われた。できればロープを携行したほうがよい。

 やっとの思いで到着した頂上、もし11時を回っていなければ予定通り鹿留山へ向かうつもりであったが、時間は既に12時近い上に、雪まで降ってきた。予定を変更して、大明見へ向かう尾根の大縦走をやるつもりでいた。ところが・・・

 空前の漢字ブームの折り、ここは「がりょうてんせいをかいた」と書きたいところである。さて、みなさま、漢字で書いてみましょう。

 正解は、

「画竜点睛を欠く」

 である。ポイントは、「晴」の時が、「睛」となることだ。意味は、よいこのみなさまは各自国語辞典で調べましょう。

 筆者はここで間抜けなことを二つやってしまう。ひとつは、尾根はほぼまっすぐ西へ向かっているにもかかわらず、途中で南に向かう枝尾根に入ってしまったこと、もうひとつは(これが致命的なミスなのだが)富士吉田の1/25,000地図を忘れてしまったことである。「御正体山」と「河口湖東部」は持ってきたのに・・・GPSは持ってきて、しかも電源を入れてあったのだが、何となくGPSをみるのは正解をこっそり盗み見るようなもので、気に入らないのである。

 けっきょく、途中で作業用の林道に行き当たり、出た先は(想像はしていたが)不動の湯へ向かう車道であった。そこから不動の湯経由で下吉田駅に着いた。ところが・・・

 電車が1時間ない、のである@_@

 仕方なく高速へ向かった。三十分に一本、新宿への高速バスが走っているのである。だが・・・
 停留所に着いたら、バスが立ち去ったところであった。幸い、座席に空きがあり、次のバスに乗って新宿へ戻った。

2009年02月01日

待機

 きょうは絶好の登山日和であるにもかかわらず、自宅待機を余儀なくされている。理由は、あえて書くまでもあるまい。じっと家にいるのも能がないので、新調したランニングシューズを履いて、一周約5kmのお堀端へ行ってくることにする。

 桜田門に着くと、色とりどりのウェア、シューズを履いた老若男女が思い思いに走っている。山のように中高年がメインというわけでもなく、むしろ山よりも年齢層が若い。女性の一人走りも結構いるようで、お嫁さんを探している殿方はここで走っているうちに、何かが起きるかも知れない。

 筆者のランニング歴はほとんどないが、もう一年以上登山トレーニングを続けているいじょう、簡単に抜かされるわけにはいかない。桜田門から大手町〜パレスホテル〜北の丸公園〜半蔵門〜桜田門と反時計回りで回って、大体25分くらい。このコースは5km弱だから、だいたい九倍するとフルマラソンのタイムになる。このまま走り続けられれば、四時間を切るタイムになるのであるが・・・まだ修業が必要である。


 本が・・・なかなか読めない。面白くないというのもあるが。

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2009年02月04日

マラソン

 走りはじめてみると、ランニング、ジョギング、マラソン(これらはどういうふうにちがうんだろう? マラソンだけは明確に距離が決まっていることはわかるのだが)といった種目、登山よりもずっと体に悪そうだ。どう考えても、アスファルトの路面に体重をもろに乗せるようなことをして、膝によいわけがない。山登りのほうが、下りはともかく、登りでは膝への負担がすくない。また、ここで展開されているような、ストックを使って膝への負担を軽減するという技も使えない。あまりふだん運動をしていない中高年がいきなりはじめるスポーツとしては、走ることほど不適切な運動はないように思われる。一年以上継続して山に登ってきた筆者ですらそう感ずる。すくなくとも、スクワットをしっかり一ヶ月以上やるとか、何らかの予備段階を経ないと走るのはむりなのではないだろうか。

昨日の読了

 安部公房「終わりし道の標べに」講談社文芸文庫 B

 埴谷雄高は(この小説と似たような、観念的な作品の作者ではあったが)本作品に、未来の大小説家をみたという。しかし、筆者には、とてもそのようなことはみえない(正解を知った今でさえも)。いわく、小説を読むこと、味わうことは簡単だが、評価することは簡単ではない。筆者は、自信を持って云々することのできるいくつかの作品を除いては、沈黙せざるを得ないのであろうか。

2009年02月08日

森のほっとスポット

 久しぶりの長丁場の登山であった。

 まずは、この写真をごらん頂いたほうが早い。縮小してしまうとわからないと思うので、原寸ではないが大きなサイズで載せている。

 甲斐大和の駅から(この絵のように、国道212号は通過せず、山の尾根を笹子雁ヶ腹摺山のほうへ向かって登る)笹子峠を経て、カヤノキビラノ頭〜大洞山〜摺針峠〜ボッコノ頭〜大沢山〜清八山〜笹子駅という長丁場を歩くトレーニングコースである。

 最初に筆者のコースタイムを挙げておこう。例によって、靴は一足1.3kgの重登山靴、荷は10kg弱背負っている。すべてテント行のためのトレーニングである。

 甲斐大和駅 7:18 - 笹子雁ヶ腹摺山への分岐 9:01 - 笹子峠 9:08/9:16 - カヤノビラキノ頭 10:18 - 大洞山 10:32 - 摺針峠 10:42/10:49 - ボッコノ頭 11:28/11:32 - 大沢山12:04/12:18 - 三ッ峠縦走路 13:18 - 清八山 13:38/13:51 - 笹子駅 16:00

 歩行時間8:40, 歩行距離22kmのロングコースだ。標高差はたかだか1000mだが、上り下りが多いので、累積標高差はかなりになると思われる。

 高尾6:14発の松本行きが、東京から甲斐大和へアクセスする最も早い電車である。これに乗ると7:12に甲斐大和駅へ到着する。ここで万端整えて出発する。笹子峠へは地図の国道ではなく、2万5000分の1地形図にある、送電線沿いの道を歩いてゆく。この道への取り付きはちょっとわかりにくいが、地形図とはちがい、寺院の脇の道を上がってゆき、舗装道路と交叉して畑へ上がってゆく小道があるので、そこを行けばよい。最初の送電線の鉄塔がみえるから、そう悩むこともないだろう。

 しだいに高度をあげてゆくと、笛吹川の支流である日川の、さらに支流である笹子沢川を挟んだ対岸の山々(大沢山や二本木山であろう)の向こうに、冠雪した山々が見えてくる。白峰三山か、白峰南嶺であろう。

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 くだんの地図では、車道を上がっても2時間40分かかると書いてあるが、この静かで雰囲気のよい道を歩いているうちに、二時間もしないうちに笹子雁ヶ腹摺山への分岐へ着いてしまった。ここには指導標があり、迷うことはないだろう。笹子峠へは右へ下ってゆく。甲斐大和への道を一本分けるとすぐ笹子峠へ着く。ここにも立派な指導標が立っている。

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 ここからカヤノビラキノ頭まで1時間半とあるが・・・

 ここから先の道はややヤブが被っているが、おおむね良好である。それほど人の訪れはなさそうにみえる。水源林の巡視道のようだが、植林されていない場所もあるようだ。ここはマイナーなルートであるようなのに、山頂の標識があったり、ベンチが置いてあったりして戸惑う。さらに、そのベンチのところ、道は右へ直進するのだが、左側の尾根にも明瞭な踏み跡があったりして、ここに指導標を置かなくてよいのだろうか、とちょっと思い。

 樹間から、笹子雁ヶ腹摺山が望見できる。

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 しばらくすると、笹子峠へ登るときにずっと見えていた、右側の尾根が正面に見えてくる。ここの尾根に達するまでは、見えているだけに心理的にちょっと時間がかかる。しかし、だいたい一時間で着いてしまう。

 ここのカヤノビラキノ頭に着いて、ようやくこの(不十分ではあるが)整備の理由を知る。「森のほっとスポット」という事業計画の一環で、ここにハイキングコースを作ろうというものだったようだ。しかし、筆者は、この試みは成功しないと思う。なぜなら、一日で歩くにはあまりにもロングコースだからだ。

 ここまでは、そしてここからはずっと尾根を辿る。ずっと遠くに特徴ある電波塔が見える。三ッ峠山の頂上のそれである。あそこまで歩くのかと思うとちょっとげんなりする。大洞山までは指呼の間である。さらに下ってゆくと摺針峠に着く。ここは笹子と御坂をむすぶ峠である。ここで大休止。

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 ここから先の道はちょっとだけ心細くなる。実は何本か右の御坂側に降りる明瞭な踏み跡があるのだが、そちらへ降りてはならない(たぶん)。踏み跡は薄くともずっと尾根道を歩いてゆくのが正解である。上り下りを繰り返しているせいか、ちょっとくたびれてくるが、登りはゆっくり焦らないようにする。地形図をきちんと読んでゆけば、細かい頭稜の出現も予期できて、精神的にも疲れなくなるだろう。

 三ッ峠から西へ伸びる、節刀ヶ岳、黒岳といった、御坂山塊の山々が(だよね?)遠くに望まれる。

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 予定時間をまた少々上回って、ボッコノ頭へ着く。ここにも御坂へのエスケープコースが示されている。ここから降りてゆく道は、とても静かな、素敵なプロムナードだ。

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 大沢山までの道も大差ない、痩せた尾根を辿ってゆく、気分のよい道である。所要時間1時間とあるが、30分強で着いてしまう。大沢山の山頂に立つ標識は、いっけん何の変哲のないものにみえるが、、、

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 こういうものをみたときには、かならず裏へ回ってみるものである。

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 富士山はすっかり雲の中である。

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 送電線の巡視路を外れて、三ッ峠〜清八峠への縦走路へ向かうと、道は急に悪くなる。急峻な痩せ尾根を、木の根に捕まりながら登るという、このコース唯一の危険個所が出てくる。このあたり、当然指導標などは全くないが、尾根上を歩くのはこのルートしかありえないので、迷う心配はないだろう。途中、女坂峠を過ぎると、左に変電所が見えてくる。疲れた人は、ここから変電所方面へ降りることもできる。このように、随所にエスケープコースがあるのも、このルートの特徴である。

 やっとの思いで縦走路へ辿り着く。コースタイムは1時間10分、筆者のようにあえぎながら登っても、1時間で着くことができる。

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 ここから八丁峠経由で清八山へ行くこともできるが、あまり意味があるコースでもないので、まっすぐ清八山へ向かう。ここで大休止。帰りの方策を練る。

 清八峠から本社ヶ丸までは40分の距離、そしてそこからまっすぐ笹子へ降りるルートがあるはずであった(いま調べてみたら、どうやら何本もあるようである!)。しかし、自信がなかったため、ここから東電の東山梨変電所への道を素直に降りた。ここまではほとんど雪をみかけなかったが、ここは北面の尾根であり、人の訪れもそこそこあるために、道は踏まれて凍結していた。四本爪軽アイゼンを装着したがそれでもしっかり食い込まない。仕方なく滑らないようにゆっくり歩いていたら、後ろから男性が軽やかに追いつき筆者を追い越していった。みるとカジタの(たぶん六本爪以上の、八本か十本だろう)アイゼンを装着している。いつもは持ってくるアイゼンを無精して置いてきてしまったことが悔やまれた。

 それでも、笹子駅まで公称タイム2時間25分のところを2時間ちょっとで何とか駅に到着することができた。ここで、筆者の歩いたコースの公称タイムを合算してみると(笹子峠までのルートは異なるものの、車道を歩く方が恐らく早いであろう)

 2'40'' + 1'30'' + 1'30'' + 1'00'' + 1'50'' + 2'25'' = 10'55''

 となる。このコースがポピュラーにならないゆえんである(笹子峠まではタクシーが使えるから、そうすれば8時間15分となり、丹沢の三峰コースや秋川の戸倉三山並みのコースとなるが、笹子峠までのあの山道を歩かないのはいかにももったいない。このコースの積極的な意味は、笹子峠と摺針峠というふたつの峠を経て、笹子駅へ向かう峠越えだからである。

 さらにこのコースの致命的な欠点を最後に挙げて締めくくろう。それは、

「指導標があるのに、地形図が絶対に必要」

 というところである。繰り返すが、昭文社の登山地図ではなく、国土地理院の2万5000分の1地形図である。このコースは最初から最後まで尾根道を歩き通すコースであるが、頻繁に頭頂で向きを変える。また枝道も多く(多くは尾根から下る道なので、尾根を外さなければ迷わないかもしれないが)自信を持って歩くためには地形図で現在地の確認が必要である。事実、筆者はそうした。

 コース自体について書いておけば、これは素晴らしい散策コースだ。筆者のように重登山靴は相応しくなく、軽登山靴あるいはトレランシューズで、なるべく軽装で散策すれば、人影もほとんどなく、静かな山行を楽しめよう。季節は、たぶん今の時期がベストではないだろうか。またコースを変え(笹子から本社ヶ丸へ登り、そこから逆コースを辿るなどして)訪れてみたい、よいコースなのであった。

2009年02月22日

先週の話(1)

 ということは、読書についても書かねばなるまい。まずは山登りのメモ。

 朝方は天気が崩れるという予報と、呼び出しがあるかもしれないということから、とっ
ておきのコースをこんかい使ってしまった。

 高尾の駅から北へ向かうと北条氏照の居城であった八王子城址があるが、そこから西へ向かい裏高尾の堂所山へ接続する山稜を北高尾山稜というが、高尾駅の南側、ほぼ高尾山と並行して西へ走り、眼下に津久井湖をみながら大垂水峠を経て、同じく裏高尾山稜の城山へ接続する尾根を南高尾山稜と称する。標高300-400mの丘陵の連なりであり、軽いハイキングに最適であり、高齢者がたくさんたむろしていることが予想された。今回は、ここをトレランなみに軽装でスピード登山するという趣向である。

 高尾の駅へ着いたのが10:30。登山としては異例の遅い到着である。さすがにこの時間にザックを担いでいる登山客の姿はみない。おまけに地図を忘れたことに気づく。というかんじで、取りつきをまちがえた可能性もあるのだが、たぶん初沢川に沿った道路から、256mのピーク(たぶんここが「こんぴら」と思われる)への道に入ることができた。ここからは30分足らずで高尾山口への分岐である四辻へつくことができる。

 ここからは細かいアップダウンだが、なるべく小走りを心がける。城山湖の近くの364mピークが草戸山で、「町田市の最高峰」らしい。地図で確認したが、ここまで町田市の領土が伸びていることを知って驚いた。ここで11:40くらい。高尾駅から一時間強の行程である。

 さすがにだんだん疲れてきて(あとはなるべく巻き道でずるをしないようにと心がけていたこともあって)ペースが落ちてくる。420mの分岐から以降は「関東ふれあいの道」になっている。494mピークくらいまでは、このコース随一の展望を誇り、津久井湖が眼下に見下ろせる。あとは大垂水峠を経て、一丁平の鞍部へ向かう一直線の登りである。この裏高尾の縦走路に出たのが13:40くらい。三時間ちょっとで高尾駅からここまで来たことになる。

 ここから後は高尾山を経て高尾山口に抜けるだけである。ロープウェーなどは使わず、稲荷山尾根を降りることにする。ここを三十分くらいで下ると、高尾山口に着いたのは14:40くらい。約17kmのコースを約四時間、時速4kmだからそれほど速くはないが、いつもに比べれば快速のペースで山行を終えたのであった。

2009年02月24日

東海自然歩道を歩く

 東海自然歩道とは、昭和49年に完成した、関東から関西を結ぶ一大自然歩道である。一時はかなり脚光を浴びたようだが、今ではハイカーにその名を知られるだけとなっているようだ。

 起点は高尾山口である。ここから裏高尾山稜を辿り、相模湖へ降りてゆく。そこから裏丹沢、すなわち丹沢主脈コースの焼山〜黍殻山を経て、犬越路へ抜けてゆく道である。犬越路からは甲相県境を西へ縦走して行くが、その尾根の途中に、今回の目的地のひとつであった菰釣山がある。

 菰釣山は秘峰である。この山に登ることが困難である理由が、そのアプローチの難さにある。西丹沢側から登ろうとすれば、畦ヶ丸から城ヶ尾峠を経て山頂へ到達するというロングコースになるから、日帰りは容易ではない。菰釣山から下山する適当なバスルートがないから、山伏峠を経て平野へ降りるのが最短コースとなってしまう。では、裏丹沢、つまり道志川沿いからアプローチしたら、どうか。それが今回のテーマである。

 マイカーを使わず道志川沿いの神地の集落に行く現実的な方法は、月夜野発7:50の富士急山梨バスに乗るしかない。そして月夜野にこの時間に着くには、相模原市三ヶ木の神奈中バスターミナルを6:55に出るバスに、そしてこのバスに接続するには横浜線橋本駅を6:20に出るバスに乗るしかない。東京から橋本へこの時間に着こうとすれば、京王線や小田急線を使う方法は無効で、東京駅4:39始発の総武線に乗り、八王子で5:53発の東神奈川駅行きへ乗り換えをすることになる。菰釣山が秘峰であるゆえんである。

 八王子で横浜線に乗り換えると、ハイカーらしきザックを抱えるひとびとをちらほらみかける。あれっ、と筆者はおもう。横浜線沿線にはハイキングに適当な山などないはずなのだが。橋本に到着して、それらのひとびとはすべて降りる。そして、すべてが三ヶ木行きのバスターミナルに並んだ。納得。彼らはすべて丹沢・道志方面へ行くひとびとだったのだ。

 三ヶ木行きのバスに乗ったハイカー達は、全員終点の三ヶ木で降り、そのまますべてが月夜野行きのバスに乗り継いだ。そのうち一人が青野原で降り、三人が焼山登山口でおり、ひとりが西野々で降りた。彼らはすべて裏丹沢 --- 丹沢主脈を登るひとびとだ。残る四人が終点の月夜野で降りて、富士急バスに乗り継いだ。そのうちふたりが大栗で降り、ひとりが和出村で降りた。このバス路線で行ける最もきつい山は西丹沢の盟主、大室山なのだが、そちらへ向かうひとはいなかったようだ。筆者は中神地で降りたので、最後のひとりがどこで降りたのかは確認できなかったのだが、想像はつく。たぶん、終点長又の手前、御正橋で降りたのだろう。ここは御正体山へ登る最短のルートである。けっきょく、西丹沢へ向かったのは、筆者ひとりであったらしい。

 中神地からのアプローチはわかりにくい。筆者が降りるバス停を間違えたのかも知れない。南へ伸びる林道に入ればいいだけの話なので、向かう方向へ明瞭である。途中で鳥ノ胸山へ向かう分岐を分けて、この林道は延々と続き、結局「道志の森キャンプ場」という巨大なキャンプ場サイトへ到着する。ここで、三ヶ瀬川の東沢へ向かう林道を分け(この道は城ヶ尾峠へ向かう)、西沢に沿う林道歩きが続く。ここはかなり奥までクルマが入れるようで、500円の料金を払えば駐車も問題ないようだ。西沢も東沢もこの「道志の森キャンプ場」のサイトだらけで、このサイトのためにもっぱら林道が整備されたようだ。西沢で最奥のサイトを過ぎると道は未舗装となるが、これはこれで横浜市の水源林の管理用林道となり、よく整備されている。要はここはほとんど林道歩きで、登山道を歩くのは、林道終点から尾根までのたかだか500mほどに過ぎない。あっけなく尾根上の避難小屋に着いてしまうから、この山だけを目的に道志側コースを選ぶなら、拍子抜けであろう。もしそのつもりなら畦ヶ丸からのコースを選択すべきだ。

 避難小屋からはわずかの歩きで菰釣山山頂に着くが、こうでなくてはならない。

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 山頂には先客がひとりと、途中で追い抜いた、西沢から途中までマイクロバスで来たとおぼしき集団だけで、静かであった。ここから山伏峠方面へ東海自然歩道を辿ったのは筆者だけのようであった。この尾根はほとんど植林がなく、ブナの自然林の中を気分のよい稜線漫歩が楽しめるであろう。

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 その気分よさのまま山伏峠との分岐に来てしまう。ここから当初の予定では山伏峠を経て石割山へ向かうはずだったのだが(そしてそのほうがよかったのだが)諸般の事情で高指山へ向かうことにする。眼下に集落を眺め、右手に石割山の山体を視野に入れつつ、テニスコートと民宿に占拠されている観のある平野へ向かう。運悪く、新宿への直行便は行ったばかりで、15時25分発の平野発新宿行きの高速バスにて帰京した。

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2009年03月08日

大持山・小持山

 さいきん、ある理由で登山コースの変更を余儀なくされることが多い。せっかく所沢発西武秩父行きの始発特急に乗っておきながら、接続の三峰口行きの秩父鉄道電車に乗り遅れるというちょんぼをやってしまったため、どうしようかと思案していたが、浦山口の駅から直接歩けるこのルートにしようと思い当たった。地図をみてもらえばわかるが、小持山には武甲山からの縦走路のほか、浦山から直接登るルートがあるのだ。一般的には、秩父さくら湖沿いの集落である武士平からのものが有名だろうが。

 浦山口から高ワラビ尾根への取り付きだが、当然指導標はない。2万5千分の1地図を片手に推測するしかない。道路からコンクリの石段を上がると、そこから道は判然としない。このルートは、進めるというだけではっきりした道はないので注意が必要だ。しかもルートはかなり急で、骨が折れる。しかし登りに使う分には明瞭で、わかりにくい分岐など一切ない。途中でクマのものらしき多量の糞塊をみる。

 途中の伐採地から武甲山がよくみえる。ここからしばらく登ると、ほぼ直角に曲がることになる。

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 ここからまもなく武士平からの一般ルートに合流し、道はぐっとよくなる。しかし道なき道に少々疲れ、小持山に着く前に、見晴らしのよい露岩上で休憩してしまう(1160mのピークからさらに東に進んだ小ピークだろう)。この時点で12時近くになっているのにちょっと驚く。大持山から妻坂峠〜武川岳〜山伏峠〜伊豆ヶ岳〜正丸の大縦走を考えていたからだ。予想以上にこの道なき道に時間がかかってしまった。

 この少し手前で撮影した写真。大平山へ向かうときに通った伐採地がみえる。

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 露岩から撮影した大持山の尾根。奥に見える尾根が下山に使う尾根である。

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 ここからほどなく小持山に着く。当然ながら武甲山がよくみえる。

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 大持山頂上付近。霧氷が美しい。

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 ここからはほぼ西南にまっすぐ降りる。足跡も多数あり、迷うことはないだろう。高ワラビ尾根に比べてこの西(南)尾根はよりポピュラーなルートなのだろう。何せ降りたところが浦山大日堂近くなのだから。

 注意すべきは、1142mのピークである。ここを直進(右)すると793mの小ピークを経て、二つの送電線鉄塔の巡視路を通って浦山大日堂の手前のバス停である渓流荘前に着く。ここを左に進むと鉄塔のある732mのピークに着くが、ここを南進し、次の小ピークで巡視路が示す通りに右に折れるのが正解である。この尾根は地形図を見ると左に折れるのが本筋に思われるが、こちらを選ぶとガケに出て下に降りられないことになるので注意が必要だ。正解の右を選ぶと、浦山大日堂からちょっと先へ進んだ巡視路の入口に出るから、ここを登りにとっても問題はないだろう。

 この西南尾根、植林もあれば自然林もあり、人工的なところもあれば自然な部分もある。ただし高ワラビ尾根に比べて道は随分としっかりしている。それだけ通行人が多いのだろう。しかし、えらい急な箇所が多いので、登りに取るときはゆっくり登られたい。

2009年03月11日

熊倉山~酉谷山

 熊倉山は前回のリベンジである。西武秩父から御花畑への乗り継ぎに失敗してしまったので、こんかいは遅刻しないように慎重に急ぐ。それでも、三峰口に着くのは7時50分頃である。

 熊倉山には、通常白久からの城山コースと林道コース、武州日野からの日野コースが一般ルートとなっている。そのうち現在は日野コース(かな? 前回は、たしか城山コースが通行止めとなっていたが・・・)が通れないようだ。三峰口からはバリエーションルートの聖尾根コースを歩くことになる。筆者は登山地図の破線路または「登山道でない小道」や、2万5000分の1の地形図にあって登山地図にない道を選んで登ることが多い。この聖尾根コースも、途中までは地形図にルートが乗っている。このルート、地形図に道が記載されているだけあって、さすがに前回の高ワラビ尾根とはちがって、いちおう道のかたちをしてはいた。しかし、尾根の上にはどうみても数時間前にされたとしか思えない大量の糞(クマ以外にあり得るだろうか?)があったりする。

 尾根に出るまでの沢沿いの道はやや不明瞭。地形図の道とは違ったところを歩いてしまったようだが、いずれにせよ出るべき尾根は明瞭なので、ルートを外しても問題はなかろう(じっさい筆者は外した)。当然、指導標はほとんど皆無。しかし迷うような分岐はなく、ほぼ一直線である。

 地形図をみればわかるように、細かいアップダウンを繰り返しながら進んでゆく。途中、802mピークを越えたあたりから、赤、黄、白テープに加えて、やたらとロープが目につくようになる。比較的あたらしいトラロープもあるが、多くは年代物のザイルである。強度もわからないので、なるべくさわらないようにして歩く。右手は荒川を挟んだ対岸がよく見える。おそらく妙法が岳へ向かう稜線なのであろう。左手に時々見えるのは、たぶん谷津川コースの稜線である。

 上部は植林も少なくなり、落葉樹に針葉樹を交えた、奥秩父的な道となる。この尾根のクライマックスは、最後の1307mピークを越える道である。ここは急峻な岩場となっていて、頂上を巻いて通るのは不可能であり、何とかここを越えなければならない。ロープが渡してあるが、古いもので体重を預けるのは不安である。しかも足場はなかば崩壊している。おまけに、よくみると、そのロープのうち一本は、なんと倒木に巻かれていた。倒木の強度は十分そうではあるが、万が一ずるずる落ちたら一巻の終わりである。結局、筆者はここはロープを使わず、その倒木に体重をかけ、ルートから外れて結構強引に登ったが、この危険箇所があるがゆえにこのコースは一般にはお勧めしがたい。パーティで登る場合は、ひとりが登ったのちに、新しいロープで確保してもらいながら登るべきであろう。筆者が読んだ山行記(「バリエーションルートを楽しむ」新ハイキング社)ではここは「ロープに従って」普通に登れるとなっているが、これは2006年5月のものであり、その後ここの足場が崩れたのかもしれない。

 ここさえ越えてしまえば、一般ルートの谷津川林道コースと合し、あとは三門の広場を経て熊倉山へ登るだけである。

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 さて、ここからが問題であった。筆者は、もし11時までに熊倉山山頂に着くようであれば、そこから一気に奥多摩・長沢背稜の酉谷山まで縦走してしまい、東日原に抜けるつもりであった。しかし、着いたのは11時40分。ここで昼食を食べて、下山するつもりであった。なんせ縦走で結構疲れていたのである。みると、津川コースおよび日野コースとは反対側の南の方向へ、かなりの足跡が通り抜けている。この南へ抜ける道は、長沢背稜・酉谷山への縦走路である。筆者はこれを見てちょっと意外だった。このルート、最後まで歩ききるのはなかなか大変だし、すると酉谷山にある避難小屋で一泊し、翌日雲取山へ登るか、長沢背稜を延々と東側に下り、川苔山を経て奥多摩へ下るというコースなどが考えられるからである。筆者じしんは途中までを辿り、蝉笹と呼ばれる地点で北東の宗屋敷尾根へ抜ける予定であった。「バリエーションルートを楽しむ」によると、ここには進入禁止を意味するロープが張ってあるらしい。

 しかし、蝉笹だと思われる尾根の分岐部でもロープは見当たらず、そのまま南へ下ってゆくと、あきらかに宗屋敷尾根と思われる尾根が望見できた。尾根を下がりすぎてしまったらしい。もうこうなっては蝉笹へ戻るのは面倒だから(十分くらい歩けばいいのだが、引き返すのは何となく気に入らない)思ったよりこの縦走路の進みがよいので、そのまま酉谷山へ向かうこととした。時間切れが気にはなったが、酉谷山からの下山路は途中から林道となるからヘッドランプを付ければどうにかなるだろう、と思って直進した。やはり、他人の記録など当てにしてはいけない。事前に地形図をきちんと読み込んでいなかった筆者の責任である。

 酉谷山へ近づくにつれて、奥秩父的な風景が奥多摩的、というより、長沢背稜的な雰囲気に変わってゆく。ここは長沢背稜とおなじように東京都水源林の巡視路になっているらしくて、スズタケはよく刈られているし、それほど通るひとは多くなくよく踏まれているとは言いがたいが、不明瞭なところはまったくない。雪はそれほど多くはないが、酉谷山の手前の頭峰への登り、そして酉谷山への登りはきつく、滑り落ちて効率がわるいため、アイゼンを装着した。しかし雪は凍っているわけではないから、アイゼンは持参しなくてもだいじょうぶである。さいご、わずかな上りにえらい時間をかけて(一年前の御正体山への登りを思いだした)酉谷山へ到着したのは、もう十五時になろうという時間であった。

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 山頂からの展望はないはずなのに、なぜか小川谷側は伐採されて、天祖山方面が見渡せる。

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 ここからは辛い道である。どうして酉谷山が単独の山としてはあまり人気がなく、雲取山からの縦走路の一山としてしか登られないのか。それはひとえにこの日原への下り(あるいは登り)の単調さにある。山頂からはしばらく一杯水への縦走路を辿り、鞍部から避難小屋のある下方へ降りてゆく。避難小屋の手前で長沢背稜縦走路を横切り、避難小屋を通過してひたすら小川谷の支流に沿って下降してゆく。しばらくすると旧酉谷小屋である。

 ここからも単調な下りが続く。その単調さは谷に沿っての延々たるトラバースになってさらに加速される。ここを上りにとろうと下りにとろうとちょっとうんざりするような場所である。やっとの思いで小川谷林道との合流点に達する。ここで17時前にどうやら到達できた。

 むしろ、あとの林道歩きのほうが気が楽なくらいである。ここも延々と6km林道を歩き、終点の日原鍾乳洞からさらに東日原まで3km弱車道を歩くことになる。

 では、この林道歩きは退屈だったか? なかなかどうして、こんなものと出会うこともあるのである。

kamoshika

2009年03月24日

日光女峰山

 厳冬期から残雪期に入ろうとしているきょうこの頃、12本爪アイゼンとシャルレのピッケルのおろしをどこでやろうかと思案していた。谷川連峰のどこかでもいいし、もうちょっとお手軽なのは八ヶ岳、それも北八ツ(たとえば蓼科山)でもよかった。女峰山にしてみたのはちょっとした冒険である。

 女峰山、お隣の男体山と比べてポピュラリティがなさげである。日光連峰から男体山と奥白根山が百名山に選ばれているというのがその理由であろうか。女峰山は日光の駅から直接登れるという「お手軽さ」があるのが好まれていない理由なのだろうか?(笑)

 二社一寺という日光の名所、二荒山神社・東照宮と輪王寺を指すが、地図で確認すればわかるとおり、これらは女峰山の山麓に位置する。女峰山への代表的なルートである黒岩尾根は、輪王寺行者堂から登山道がはじまっているのも、この山はもともと回峰行の対象として存在してきたことを意味する。

 さて、まず話は23:26日光着の終電からはじまる。降りると駅にはタクシーがたむろしている。乗らないか、と駅員さんから念を押されたので、乗らない、と答えると、じゃあタクシーのひとには帰ってもらいますよ、と言われた。こういう駅ではJRとタクシー会社は良好な関係にあるらしい。あいにく、当日は駅舎の改良工事に当っていて、一晩中がたがたやっていたし、ペンキの匂いもけっこうした。しばらく駅の外で寝袋にくるまって寝ていたが、途中でちょっと場所を変えたが、やはり日光は寒い。眠れずうとうとしていたが、体位を横向きに変えたところ、結構これが快適で1時間くらい睡眠を取ることができた。気付くと2:50くらいで、もうこの時間で起きることにした。

 装備を撤収して簡単な朝食を食べ、まず二社一寺へ歩く。日光街道を西へ歩いてゆき、大谷川を渡るとそこで道路が二又に分かれるが、そのまま正面が日光山である。歩いてゆくと燈が点灯し、見張られているようでちょっと気持ちが悪い。暗がりに何か蠢くものをみつけたが、よくみるとシカである。神域なので安心して草を食んでいるのだろう。そのまま拝観順路に沿って歩いてゆく。東照宮の前まで来たところで左折し、二荒山神社の中へ入ってゆく。

 地形図をよくみないとわからないのだが、実は登山道は二荒山神社の境内にはない。いったん南の門から境内の外へ出て、西へ向かわなければならない。すぐに左手に大猷院廟(家光の墓所)があるから、そちらへは入らずに右手の方向へ、二荒山神社の塀に沿って進んでゆく道がある。そちらを登ってゆく。途中からそこは石段になってゆき、左右に杉の巨木が並んでいる。真夜中にヘッドランプのみで歩くのはちょっと怖い道である。十分ほど登ると、そこにあるのが輪王寺行者堂である。ここまでの間、指導標は一切ない。

 輪王寺行者堂には「女峰山登山道」を示す札が建っており、ここからは迷うことはない。杉の植林のなかをどんどん上がってゆく。途中で林道に交叉するが、ここで夜が明けてきた。ここから先もゆるやかな植林の道である。平坦な杉林〜雑木林が続く。笹原のあいだから遠く女峰山が望まれた。

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 途中で「稚子ヶ墓」を過ぎ、しばらくすると見晴らしのよい台地に出て、日光市内を俯瞰することができる。

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 1300mを超えると雪が出てくる。朝のことゆえ、凍結していてちょっと危険である。ストックを使えば通れるものの、大事をとってアイゼンを装着する(ちょっとおおげさ)。結局アイゼンは着脱を繰り返さなければならなかったから、ストックで歩いた方が合理的であった。

 1350m近くで右手に小さな沢が流れており、ここで水が補給できる。このルート中唯一の水場である。左手には男体山が見えてくる。

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 ここを超えると徐々に道は傾斜を増してゆき、長い樹林帯を離れて岩稜帯に入ってゆく。八風と呼ばれる場所である。

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 ここから本コース第一の目標である黒岩まではまもなくだ。黒岩到着8:30。まあこんなものであろう。ここで、全距離の3/4を歩いたことになるが、黒岩の標高は1913m。さらにここから500mを稼がねばならない。

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 ここでアイゼンを装着。最初は急登であるが、けっこういやらしいトラバースが続く。途中で男体山が望めるスポットがある。

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 左に見えるのは中禅寺湖だ。トラバースにうんざりしたところでようやく唐沢小屋へ到着。ここで10:00である。

 唐沢小屋の標高は2240mほど。2483mの女峰山頂上まではたいした標高差ではないが、ここからの上りは急で、足を踏み外せば滑落してしまいそうな場所が続く。大げさかもしれないが、ピッケルをダガーポジションに持ち替え、手がかりを確保しながら慎重に登る。ようやく疲れがしんどくなってきた頃に頂上がみえてきた。11:00到着。疲労がなく、雪がなければ30分弱でゆうに到着できる距離であろう。

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 頂上からは360度の展望が広がる。右から、小真名子山、大真名子山、男体山である。

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 ここからは脱兎のように降りる。途中、唐沢小屋のところで、西南尾根を下るルートに変更しようかと思ったが、誰も通った形跡がない。雪も深く、カンジキが必要であった。いちおうカンジキは持参はしていたが、下りで雪の深いルートを取ることは危険と判断して(小心者なのである)もときた黒岩尾根を引き返すことにした。結果的にはそれで正解であったと思われる。下山したのは16:00前、だいたい休憩時間を入れて12時間歩き通したことになる。

 途中で出会ったひとは六人。一般ルートとはいえ、通常は一泊が必要なコースゆえ、積雪期にはあまり人影をみないのであろう。しかし、なんと下山時に、輪王寺行者堂の境内でテント泊しているカップルがいた。神をも恐れぬ所業とはこのことであろう(許可を取っているとは思えなかった)。

2009年04月11日

恐怖体験

 またやってしまった・・・「三国志」読んでいて変だと思ったのだが、これで同じ本を買ってしまうことを何回繰り返したことになるのだろう?(「太陽の男たち」は意図的にやっているのだが)頭の検査を受けた方がいいっぽい。

 さて気を取り直して今回は筆者の山登り人生で最大の恐怖体験の話をしよう。

 一日の恵みを大きくすべく、なるべく前泊できるときは前泊するようにしている。そしてその場合は、可能な限りテント泊にしたい。なぜならば民宿などはお金もかかるだけではなく、時間の調整がやり難い(あらかじめ何時に着いて何時に出るということを伝えておかねばならない)。避難小屋は山の雰囲気が味わえてよいが、同室者がいると何かと気を遣う。筆者が撞着する時間は丑三つ時くらいになるので、起こすのは気の毒である。

 今回、前回のリベンジを果たすべく、奥多摩駅に到着したのはほぼ0:00。終電よりも1時間早い到着である。しかし、いくらなんでもこの時間に泊めてくれる宿はあるまい、ということで、密かに目をつけていた場所にツェルトを張ることにした。それは、石尾根縦走路に入る前に通過する、小さな神社の境内である。ここに〇時半頃に到着し、ツェルト(簡易テント)を張った。

 寒いせいか、すぐに寝られない。三時間くらい仮眠が取れれば、ヘッドランプを付けてそのまま登山に入る予定なのであるが・・・

 神社の境内にテントを張ることは当然認められていない。大部分のテントサイトでは、管理料を徴収している。地代を払わなければいけないわけだが、筆者はそれを省いてしまった。管理料に相当する賽銭を入れておけば、こんかいの悲劇は防げたかも知れない。わずかなお布施を怠ったばかりに、筆者は神の怒りをまともに受けることになる。

 いまだ眠れず呻吟している筆者の耳に、午前二時頃、ありえない音が聞こえてきた。何と、神社の神殿の扉が開き、神がその姿を現したのだ(ブルブル)。どうやら、筆者のテント設営は、神の怒りを招いてしまったらしい。

 何だかがさごそとひとしきり音がしたのち、辺りは再び静かになった。恐怖の余りテントに篭って寝た振りをしていたのがよかったのだろうか。しかし、神の怒りを招いたと知った今、この恐ろしい場所に留まるわけにはいかない。ツェルトを直ちに撤収し、まだ夜も明けやらぬまま、次なるテント設営地を求めて、石尾根を進むこととした。石尾根は、奥多摩駅から続く、雲取山への縦走路である。平将門伝説を持つ山々である。六ツ石山、七ツ石山という山があるために石尾根と命名された。「将門馬場」と命名された場所もあるし、三ノ木戸(さぬきど)も将門の配下が砦を築いた場所らしい。

 三ノ木戸山を超えた辺りで平らな場所を見つけ、そこで横になってうとうとしてみるが、一番寒さの厳しい時間帯ゆえに厳しそうである。夜も白んで来そうだったので、鷹ノ巣山の避難小屋まで行ってみることとする。石尾根縦走路は、忠実に尾根を辿るわけではなく、可能な限り山腹を巻いているため、最小限の労力で歩くことができる。尾根上の道も防火帯につくられているわけで、植林の中を歩くということもあり、非常に人工的な感じがする。以前、筆者が推薦しないと書いたゆえんである。でも、さすがに鷹ノ巣山と七ツ石山の山頂はちゃんと踏むことにした。鷹ノ巣山の避難小屋に着いたのが七時半くらい。ここで、一時間余り仮眠を取り、出発。ここまで来ればあとは七ツ石山を経て雲取山頂まではわずかである。

 結局、雲取山頂に到達したのが十一時過ぎであった。筆者は、下山時には芋ノ木ドッケを経て、長沢背稜に入り、天祖山を経て日原に下るという壮大なプランを立てていたのだが、さすがに十一時到着ではむりであろう。筆者は今まで二度雲取山に登っていて、いずれも三峰山経由で鴨沢に下山している。ので、鴨沢に下ることだけは止めようと思っていた。では、いずれのルートを下山に選ぶべきか? よく利用されている下山路としては三条の湯を経て後山林道経由で御祭に降りるルートであろう。でも、ここはいずれ登山路として利用する可能性があるため、今回無理に選ぶ必要はないと考えた。もうひとつの候補は富田新道であり、こちらは登山口まで長い林道歩きを必要とするため、今回下山路として利用するのは適当であると判断し、富田新道経由で降りることとした。

 雲取山への登山路として、三峰からのルートはよく整備されているし、鴨沢ルートは最短ルートのため道は単調だがよく踏まれている。また石尾根は防火帯に設けられた明瞭な道である。唯一、長沢背稜を経由するルートだけが雲取山の「山深さ」を感じさせてくれるものであろうが、長沢背稜縦走路も石尾根と同じく、山頂は踏まず、山腹に付けられた巻道が中心であり、人工的な感じのする道である。

 ところが、富田新道はこのどれとも違う、雲取の魅力を呈示してくれるすぐれたルートである。まず、全ルートを通じて、奥多摩の山の宿命である「植林」とは無縁であること。全ルートが原生林を通過するのである。しかも前半(山頂近く)はコメツガ、シラビソといった常緑の針葉樹林、もう少し下るとダケカンバやブナ林となり、樹相も多彩である。またルートも人工的な感じはあまりしない。もと雲取山荘の名物管理人だった富田治三郎氏が開いた道である。上部は野陣尾根という小雲取山から派生する尾根を通過する。ここが素晴らしいのである。歩行者も少ないらしく(恐らくクルマを使わないと長時間の林道歩きを強いられるからであろう)、喧騒の鴨沢ルート・雲取山頂からは想像できないほど静かで、雲取の山深さを実感できる好ルートだ。もっとも、後半、唐松谷へ降りる部分では、多少強引な道のつけ方もあり、あそこを登りに取るのは辛かろう。下山のルートとしてお勧めである。

 大ダワ林道との合流点より吊り橋を渡り、唐松谷林道まではまもなくである。ここから一時間ばかりの林道歩きの果てに、天祖山表参道登山口に到達する。ここからは日原鍾乳洞まで、日原林道を3,40分ばかりの舗装された林道歩きとなる。

 あいにく東日原発のバスを逃してしまい、奥多摩からタクシーを呼ぶこととする。二十代とおぼしき青年であり、地元の出身で自分でも渓流釣りをやるそうだ。林道に多数のクルマを見かけたことを話すと、「それは登山、釣り、山菜取り、写真撮りのいずれかでしょう。怪しいひとはいませんでしたか? 結構、自殺しにやってくるんです」とのこと。『神』の話をしたところ、さいきん、奥多摩にも一人のホームレスが住み着いたとのこと。しかし神社は無数にあるのに、よりによってあの小さな神社に寝泊まりするだろうか? やっぱりあれは、ホームレスではなく、神の降臨だったのである。
(あとで写真アップします)

2009年04月14日

帰らざる夏

 雲取山について少し補足しておこう。この山は、登山コースが多数取れることが特徴である。筆者的評価を☆の数にて表すことにしよう。

1)秩父鉄道三峰口から三峰神社あるいは大陽寺を経て、白岩山〜芋ノ木ドッケ〜山頂へ至る、三峰コース ☆☆☆
2)後山林道から三条ノ湯を経て、北天のタルから奥秩父縦走路を経て山頂へ至る、三条ノ湯コース ☆☆
3)鴨沢から七ツ石山にて石尾根に合流し、小雲取山から山頂へ至る鴨沢コース ☆
4)奥多摩駅から六ツ石山、鷹ノ巣山、七ツ石山と尾根伝いに山頂へ至る、石尾根コース ☆☆
5)日原から唐沢谷林道を進み、唐沢谷から野陣尾根を経て、小雲取山から山頂へ至る、富田新道 ☆☆☆☆
6)唐沢谷林道から富田新道を分け、大ダワ経由で山頂へ至る、大ダワ林道 ☆☆☆
7)酉谷山から水松山、長沢山を経て、芋ノ木ドッケにて三峰コースと合流する、長沢背稜コース ☆☆☆

などが代表的なものである。その他、細かいバリエーションにはキリがない。

 この中で筆者がお勧めするのは、三峰コース、長沢背稜コース、そして富田新道である。三峰コースは、白岩山を過ぎると奥秩父的な原生林の中を行くようになり、うっそうとした雰囲気がいかにも好ましいし、コースもよく整備されている。雲取山にはじめて登るひとが選択するコースとしてふさわしい。長沢背稜は人気が少なく、奥多摩らしからぬ深山の気が漂う。ただしコース自体は水源林の巡視道であり、山頂を巻くトラバース道が大半で、面白みには欠ける。富田新道は、唐沢谷へ降りる下半分は平凡な道であるが、野陣尾根は下部がブナの、上部は針葉樹の原生林であり、利用するひとも少なく、静かな山歩きが楽しめる。七ツ石山以降の石尾根コースの喧騒に比べると雲泥の差である。

 筆者はおもう、山が重要なのではなく、コースが重要なのだと。たとえば、以前に記した金峰山、南尾根から登るのと、大日小屋から登るのとでは、かなり山に対する印象は異なるだろう。谷川岳にしたって、ロープウェーを使って天神尾根から登るのと、中ゴー尾根を登るとでは、同じ山とは思えないほどの表情のちがいがある。北海道・斜里岳に至っては清里コースと三井コースとのちがいといったら・・・


最近の読了
 加賀乙彦「帰らざる夏」講談社文芸文庫 B

 加賀乙彦自身が陸軍幼年学校の出身であったという。その経験がどのように本作品に活かされているのかわからないのだが、本作品の主題は極めて明瞭である。幼年学校の在校生が卒業することなく敗戦(終戦と呼ぶのは欺瞞的だ)を迎えてしまったあとの「不適応」を描いた作品である。
 テーマが明瞭であるだけ、文学作品としての評価は、どうだろうか。小説として面白く、筆者の狙いは明瞭であるけれども、文学はもっと余剰の部分や矛盾する部分を内部に含んでいてもよいのではないか。そのあまりのわかりやすさに「文学としてはどうよ?」という気が起きなくもない。ただし、断っておくが、ここで筆者が呈示したテーマは現代においてもなお重要であることは認めねばならないし、優れた作品にはちがいないのだが。

2009年05月01日

なぜ天祖山へ登らないのか?

 そういえば、A.W.クロスビー「史上最悪のインフルエンザ」(みすず書房)ずっと読んでないなあ・・・持っているのだから早く読むべきかもしれない。


 単独で登山の対象となる奥多摩の山はほとんど登ったことになる。秋川筋では戸倉三山、浅間尾根、笹尾根くらいを行けばいいだろうし、奥多摩三山は多摩川流域からも秋川流域からも既に登った。するとあとは石尾根から雲取山という日原川南面の尾根筋と、川苔山から日向沢ノ峰を経て、酉谷山〜長沢山〜芋ノ木ドッケへ終わる、日原川北面の長沢背稜ということになる。

 この山域でよく登られるのは、石尾根では鷹ノ巣山と七ツ石山からの雲取山(鴨沢ルート)であり、長沢背稜では川苔山(通常は長沢背稜には入れないが)であり、蕎麦粒山、仙元峠、三ツドッケ、酉谷山といった山々はあまり登られることがない。特に、長沢背稜から少し外れたところにある大平山、小川谷林道を延々と遡らなければならない酉谷山は、東京にありながら秘境的な存在になっている。このふたつの山については、すでに述べた。

 天祖山は、「隠れた名山」ということになっている。この「隠れた」という意味は、unknownという意味だけでなく、hiddenという意味でもある。日原からこの山を望むことはできない。石尾根側から見ても一目でわかるピークではなく、長沢背稜側からみてある特徴のためにようやくわかる程度である。

 中央線(総武線)の始発に乗ると、奥多摩駅7:25発の東日原行きのバスに乗ることができる。新緑の時期、GWにはこのバスは満員となり、増発便が出ることすらある(こんかいは出た)。その大半はザックを抱えた中高年者で、これらのひとびとは半分以上が川乗橋で降りる。川乗橋からはバリエーションルートである鳥屋戸尾根を伝って蕎麦粒山に直接登れるルートもあるが、おそらく大半のひとは川乗谷経由で川苔山へ向かうのであろう。残りは終点の東日原で降りるのだが、おなじく大半は稲村岩尾根経由で鷹ノ巣山へ登ってしまう。しかし、東日原は三ツドッケ(ヨコスズ尾根)、酉谷山(小川谷林道)、そして天祖山・雲取山(日原林道)への登山基地でもあるのである。

 天祖山、標高も鷹ノ巣山と変わらない。にもかかわらず敬遠されている理由は、1)アプローチに林道を1時間歩く 2)長沢背稜に抜けると時間がかかり、通常はピストンとなる ということだろうか。特にピストン登山となると、林道歩きが合計二時間となるからそれが嫌がられている理由なのだろうか。もったいない話である。しかし、そのおかげでこの山の静けさと自然が保たれているとしたら、それは天祖山にとっては幸運なことなのかもしれない。

 登山口に着いたのが8:45頃である。一組のカップルが同じように東日原から日原林道に入り、孫惣谷(まごそだにと読むようだ)林道との分岐点、八丁橋で天祖山の登山道には入らず、そのまま日原林道を西へ入っていった。こちらは筆者が先日通った唐沢谷林道や大ダワ林道へ通ずる道である。つまり、彼らは雲取山へ登っていったことになる。

 出だしはかなり人工的な感じの道である。つまり水源林巡視のためにあとから付けられた道であろう。しかし天祖山は奥多摩きっての信仰の山であり、むかしからの登山道があるはずである。しかしこの道、人工的に付けられたにしてはわるくない。というのは、この山は植林がほとんどないのだ。ブナを中心とした雑木林の中を、地形図通りかなりの急登で高度をたちまちかせぐ。尾根に乗るとロボット雨量計があり、おそらく昔からの道と思われる自然なかんじの登山道となる。なにせ、植林は高度をもう少し上げたところでヒノキがちょっとだけ現れるだけで、昔ながらの奥多摩の自然林の雰囲気が豊富に残されている。

 1時間ほどで大日神社へ着く。作業のひとたちがつかっているような小屋である。この山で面白いのは、神域になるとそこだけ杉が植えてあることで、樹齢から見てわりと近年の植林だと思われるのだが、好ましい雰囲気である。ここにはあと2.6kmという表示があるが、ほぼ1時間程度で山頂に着くことができる。山頂には天祖神社が厳かに鎮座している。展望はない。

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 ここで昼食を食べようとするが、忘れたことに気付く。ひもじい。非常食を食べて凌ぐことにする。

 ここからは梯子坂のクビレと呼ばれる、旧裏参道との分岐点まで、北上しつつひたすら下ることになる。手前にこれから辿ってゆく長沢背稜が望見できる。ここまではかなり急な下りだが、梯子坂のクビレからあとは、長沢背稜的な平坦な道となり、それほどきつい登りではない。ここまでに一人の登山者を追い越しただけで、誰にも会わない。静かな山であるが、なぜか山頂が騒がしい。その理由はのちほどわかることになる。

 長沢背稜では二人の登山者に会う。ひとりは男性で、出会った時間から考えて、おそらく雲取山で一泊するのであろう。もうひとりは四十前後の女性の単独行であったが、なんとトレイルランニングをしていたのである。ということは、そのまま雲取まで走り、その日のうちに下山するのであろう。恐れ入った。

 滝谷ノ峰と呼ばれる(タワ尾根ノ頭とも呼ばれているようである)タワ尾根への分岐路、タワ尾根を示す目印は、ない。しかし、左雲取山、右酉谷山を示す木の立派な案内板があるので、すぐ気づくだろう。おおらかな感じがするタワ尾根へ入ってゆく。ここから先はやや道が不明瞭であり、できれば地図とコンパスの携行を勧める。ほぼ天祖山の尾根と平行に走っているし、迷うところはないようにも思われるが、一部不明瞭な箇所があり、自信を持ってルートを選択するためにはそれらが必要だ。

 タワ尾根は天祖山の尾根と同じで自然林が豊富で魅力的な尾根である。しばらく進むと、何とモノレールが。モノレール沿いの老木が切られてしまっているのを見ると、心が痛む。利用価値はなさげなのに、どうして伐採するのだろうか。幸いにしてモノレールはまもなく右の枝尾根へ消える。しかしそのあたりがもっとも迷う場所である。ウトウの頭と呼ばれるピークを過ぎると、よほど道は明瞭となる。この山頂にはウトウ(善知鳥)の絵標識があるはずだったが、みあたらなかった。誰かが撤去したのだろうか。展望はやはりよくないが、ときどき木々のあいだに天祖山の無惨な姿がみえる。そう、天祖山は奥武蔵の名山、武甲山と同じく、全山石灰岩でできており、採掘の対象になってしまっているのである。つまり、山頂のあの騒がしさは発破の騒がしさなのであった。

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 ここから先は山頂の標識がいくつもある篶坂ノ丸を過ぎると突然道は明瞭となる。標高1007mの一ツ石山までは意外と早く着くが、ここからあとが大変だった。なんせ日原鍾乳洞まで500mくらいの標高差を一気に降りるのである。つまり、タワ尾根は最初に急登があり、そこからは緩やかな登りとなっているのだ。この尾根を登る/下る方は、事前に地形図を見てイメージを作っておくのがよいだろう。

 結局、14:50の奥多摩行きのバスには間に合わず、前回と同じように日原林道の入り口(日原鍾乳洞バス停の折り返し点)からタクシーを呼び、同じく天祖山へ登ったというおじさんをナンパして、タクシー代を節約しつつ、登山談義で車中を過ごしたのだった。


最近の読了
 マイケル・オーシェイ「一冊でわかる 脳」岩波書店 B

 まあ、こんなものだろう。これくらいは知っておきたい。

2009年05月08日

北朝鮮 飢餓の政治経済学

 さいきん思うのだが、人生は短く、芸術は長い。"ART" は、日本語の「芸術」だけを指すわけではないことは周知のことだろうが、いろいろなことに興味を持ち試してみる、首を突っ込んでみる、ことはますます時間的制約を受けるようになってきている気がする。それは本業に時間を取られるという意味だけではなく、残された時間が年々短くなってきているのを実感するようになってきているのだ。ひっきょう、本で言えば「古典」を読むのが一番効率が良い、というあまりにも自明な結論に達してしまう自分に覇気のなさを感じてしまう。これは、例えば音楽においても同じで、いろんなジャンルのいろんな音楽家がいるのだけれども、バッハ(と、特定してしまう)の音楽を聴くのがいちばん割に合うのかと思ってしまう。割、というのは、かけた時間に応じてこころが癒される密度、ということであろう。といいつつも、CSN&Yの "Déjà vu" とか、Carol Kingの "Tapestry" などを聴いてしまう自分がいるわけだけれども。

最近の購入
 臼杵陽「イスラエル」岩波新書
 鶴田知也「コシャマイン記/ベロニカ物語」講談社文芸文庫

 佐藤優(「獄中記」)が、岩波現代文庫に収録されてしまうようでは、もう終わりだと思った(岩波書店が? 佐藤優が?? 社会が??? 国家が????)。

最近の読了
 ステファン・ハガード/マーカス・ノーランド「北朝鮮 飢餓の政治経済学」中央公論新社 B

 この本の帯でアマルティア・センとジョセフ・スティグリッツのふたりが推しているのをみて買ってしまったのだが、内容からするとそれは当然といえば当然だった。本書はセンの有名な飢餓にかんする理論(飢餓は飢饉から起きるわけではなく、穀物の適切な分配がなされないことが原因である)を援用して書かれているからである。
 北朝鮮に関する分析、各国およびNPOの援助の実態、そしてそれを踏まえて適切な食糧援助はどのようになされるべきであるか、ということに関する政治的な提言、という順番で本書は成り立っている。内容は想像できる通りである。唯一本書の目新しい指摘は、いかなるかたちの食糧援助であっても、北朝鮮の市場経済を育てるという働きはあり、その結果体制の崩壊に繋がりうる、というものくらいだろうか。なされるべき援助についての提言もごく妥当なもので、本書の分析および結論に異論はほとんどみられないだろう。
 ということは、わざわざ一読する必要もなさそうだ。しかしそれなりに面白く読めるから、買って読むことを止めはしないが、筆者なら別の本を選びたかったな、とちょっと思う。

2009年05月10日

安倍奥

 登山をするひとたちは基本的に金持ちか、ほかに金をかける趣味がないか、どちらかである。特に首都圏在住であれば、奥多摩や丹沢といった近場の山に飽いた(あるいは違う地域の山に魅せられた)ひとたちは、マイカーあるいは公共交通機関を用いてそれらの山へ向かう。

 もし登山にランキングをつけるならば、「費用対効果」は外せないと思う。わざわざ金と時間を費やしてそこまで行く価値がどれほどあるか、それは考えてみてもよいポイントであるように思われる。特に、筆者のように基本的に日帰りをせざるを得ない状況に置かれているならば。

 で、今回のお題は「安倍奥」である。安倍川がどこに注いでいるかを知らないかたはいないであろうが、その源流がどこであるかを正確に言い当てられるひとは少数であろう。筆者もそうであった。
 安倍川を上流へ遡ってゆくバス路線がある。しずてつジャストラインの「安倍線」という路線がそうであり、その路線の中でもっとも源流に近い路線、その終点が「梅ヶ島温泉」である。ここは安倍奥の山々への登山基地としても名が知られている。
 安倍奥の山々でもっとも標高が高いのが、今回紹介する「山伏(やんぶし)」であるが、安倍川の源流地帯と言えるのは、もっとも北方に位置する八紘嶺(あの八紘一宇のはっこうだ)や大谷嶺といった山々である。国土地理院の2万5千分の一地図、「梅ヶ島温泉」にほぼおさまる範囲で安倍奥の山々は存在するが、ちょうど八紘嶺を頂点に、逆U字型にこれらの山々は配置されている。

 山伏は、どうやら静岡市民にとっての「里山」であるようだ。この山の登山口には停車スペースがあって、静岡ナンバー以外にもさまざまな地域のクルマが並んでいたが、もちろん最多は静岡である。そして筆者が登ってゆく途中で、ピストンしてきた帰りと思われる登山客に数名遭遇した。そして筆者が思うに、この山はそのような登り方がふさわしいように思われる。よって、もし静岡あるいはその近県に在住していて、クルマが使える環境にあるならば、いい意味で手頃な山であろう。

 筆者のような首都圏在住、クルマを使わない組にとってのネックは、静岡駅発梅ヶ島温泉行きの始発時間に間に合う新幹線がないことだ。解決策は、前の日に静岡入りして一泊するしかないように思われるが、するとコストはますますかさんでしまう。新幹線の往復運賃が約10,000円、バス運賃が往復で約3,000円、そして一泊して10,000円もかかろうものなら、25,000円の大名旅行となってしまう。
 これを少しでも節約するために、JR東海バスが運行している「ドリーム静岡・浜松号」という夜行バスがある。これは東京駅バスターミナルを夜遅くに出発し、静岡駅に4:30頃に着くというものである。もちろん、寝られない。それは覚悟の上である。

 静岡駅の中で寝ることはできない。駅員がやってきて、外に出てくれと言われるからである。寒い季節は簡易テントやシュラフが必要であろう。あるいはインターネットカフェでバスの始発を待つ必要がある。さすがにタクシー運賃を10,000円を超えて出すのは痛すぎる。

 さて、梅ヶ島温泉行きの始発バスに乗って、途中の赤水バス停で降りるが、8:40頃の到着となる。帰りのバスは休日午後だと15:50, 18:00梅ヶ島温泉発の二便しかないから、十分気をつけてコースのペース配分を考える必要があろう。バスを降りてから延々と林道を歩く。途中で新田バス停からの道路に合流し、ほどなく大谷崩れへの分岐に出る。ここから山伏登山口には左の道を取るが、未舗装となる。

 ようやく登山口である。たくさんのクルマが止まっている。ここからは谷沿いの道を緩く上がってゆく。夏などは涼しくてよいだろう。道はまるで奥多摩のように整備され尽くしている。それも「里山」のイメージを喚起するひとつの理由である。おそらく静岡市が整備に熱心なのだろう。

 水場は、蓬峠へ出るまでは随所にある。峠の直前、適当なところで給水しておくとよいだろう。名水百選にも選ばれている安倍川源流の水だから、わるいはずがない。途中にはコップが備え付けられている水場もある。

 蓬峠で稜線上に出る。ここからは大谷嶺や八紘嶺、すなわち大谷崩れの全貌が見渡せる。しかし、木がじゃまをして、あまりphotogenicではない。

 ここまでかなり飛ばしてきてちょっとばて気味。暑くてかなり汗をかき、ハイドレーション・チューブを持ってこなかったこともあって、水分と電解質の補給も不十分だ。ここまでの道についてだが、かなり人工的な印象だ。おそらく、沢沿いの道も、ワサビ田の耕作者や営林署のひとたちが作った道だろうし、急斜面を巻いてジグザグに付けられている道も同様で、自然の踏み跡のようなものをこの山に求めてはならない。

 蓬峠を越えてからも、基本的に道はなるべく稜線を歩かないように、効率よくつけられている。とはいえ、さすがにこのあたりから植林もなくなってきて、ブナ(かな?)の巨木が時折みられるのも美しい。

 傾斜が緩くなり、笹が増えてくると、もうすぐ山頂である。途中で南からの縦走路に合流し、そこからはほんの数分の距離である。

 山伏山頂。笹原に囲まれた静かな山頂。富士や南アルプスが美しい。

 とりあえず、疲れたので続きはのちほど。

2009年05月13日

安倍奥(2)

 筆者の発見を書いておこう。

 筆者は、従来首都圏からの安倍奥日帰りは、クルマを使わないかぎり不可能だと思っていた。というのは、東京発に限定すれば、6:30のこだま631号が静岡に停車する最初の新幹線であり、これだと到着が7:53になってしまうからである。だから今回は深夜バスを使ったのだが、よく調べてみると、じつは午前7時に静岡に到着することは可能であることがわかった。気付いてみれば、コロンブスの卵のような話ではあるのだが。

 新横浜発の新幹線があるのをご存知だろうか。6:00発のひかり493号がそれである。この列車は6:41に静岡に停車する。あとは、6:00に新横浜へ到着する電車があるかどうかだが、5:00発の渋谷発東横線始発に乗り、菊名で横浜線に乗り換えれば可能である。

 次は、これを使って七面山日帰り縦走をやってみたいのだが、トレランスタイルでないとむりだろう。七面山登山口17:35のバスに間に合わねばならないからである。もっとも、この地域には身延山久遠寺があるから、タクシーはいつでも拾えるのだが。


 山伏山頂からは遠くに富士や南アルプスが望める。ここからは稜線を大谷嶺、八紘嶺、
安倍峠と縦走してゆく予定だった。新窪乗越まで来たところで時間を確認。1時半であり
、ここから安倍峠への縦走路を取った場合、梅ヶ島温泉18:00の終バスに間に合う自信が
なかったことと、天候が崩れ気味であったことより、大谷崩への下山を決意。急なガレ場
の下りを駆け下りて、15時過ぎに赤水バス停に着いてしまう。

 こんかいはロングコースを歩くつもりが、寝不足のせいか、暑くて予想以上に水分や電
解質を喪失したためか、ペース配分を間違えたためか、それとも単なる体力不足のためか
、果たせなかった。七面山への日帰り縦走でリベンジしたいところである。

最近の読了
 尾崎喜八「山の絵本」岩波文庫 B
 安川茂雄「谷川岳に逝ける人びと」平凡社ライブラリー B

 両方ともに山の本である。尾崎喜八のほうは・・・二重の意味で驚かされる。ひとつは、彼の山やそこで出会うひとびとに対する鋭い感受性とその飽くなき好奇心(地形や動植物に対するそれも含めて)であり、もうひとつは彼がクラシックを口ずさみ油絵を思い起こす、という典型的な西洋的教養人であることである。今こんな文章の書き方をしたら、時代遅れの西洋崇拝者かsnobな人間と思われるのが落ちだろう。
 また、昭和初年当時山をやっていた人間誰もが繋がっていた事情が垣間見れる。「霧の旅の会」という名前は、今では小金沢連嶺の名付けの団体としてしか知られていないと思うが、尾崎も含めて有名な登山家はだいたい所属していたようなのだ。
 さらに、もうこの頃から登山がレクリエーションとして一般化しつつあったことが伺える。その俗化の傾向を尾崎は憂いてはいるが、そうすると今の便のよさと道の整備のよさ、安全さをよしとする風潮はいったい何なのだろう。

 安川の本も、上越線が開通して谷川岳が大きな変化の波に去らされてゆくさまが伺える。どうして谷川岳がこんにちのようなメジャーな存在になったのかというと、学生を除けば当時の勤労者は土曜日の夜から日曜日の夜までしか登山の時間が取れなかったのであって、夜行日帰りできるこの山域が格好の挑戦の舞台となったという事情があったようだ。週休二日が定着した昨今では考えられない事態である。逝ってしまったひとびとに対しては、、、登山を愛する者として、心からの冥福を祈るのみである。

2009年05月17日

天使の蝶

 ノーベル財団はさまざまな政治的な考慮をしたのちに受賞者を決定していることは、日経businessに連載されている伊東乾氏の記事にも詳しく触れられている。ノーベル文学賞でいうと、ギュンター・グラスの受賞(正確には受賞後の告白)が問題視されたことは記憶にあたらしい。ノーベル財団のほかの失敗としては、エリ・ヴィーゼルのそれが問題なのではなかろうか。むろん、ホロコーストの体験者としてのその著作に問題があるのではなく、無条件でイスラエルの政治姿勢を支持するそのことに対してである。

 現在、ホロコーストは、もはやエスニック・クレンジングへの警鐘として作用しているわけではなく、「ホロコースト産業」の成立や(そういえば「ショアー」のクロード・ランズマンも、イスラエルの無条件支持者だった)、イスラエルのパレスチナ人迫害を正当化するものとしてしか作用していないように思われる。

 アメリカにおけるイスラエルのロビイスト(アメリカ国籍を持つひとびとをも含む)の活動について見聞していると、現在の日本の医療をめぐる論争(とくに、死因究明にかんする第三者機関の設立について)を思い起こさせるものがある。それは、「声が大きいひとびとが世論を代表しているものと思われがちである(というか、扱われがちである)」という悲しい事実である。声を表立ってあげないひとびとは、あることを決定するそのプロセスから疎外されて当然である、それが民主主義のシステムであろうか? ふだん特別な関心がなくともその決定によって大きな影響を受けるひとびとの意見を取りこぼさないような、政治のシステムは構築できないのだろうか。

 さすがにこの雨では山は静かである。相州大山から南下し、蓑毛越から善波峠に縦走し、鶴巻温泉か秦野に直接抜けるコースを想定していたが、都合で早く戻らなくてはならなくなり、結局日向薬師から大山山頂を経てケーブル駅に降りるというふつうのコースとなった。コースタイム4時間15分を3時間で一気に駆け抜けた。

先日の読了
 プリーモ・レーヴィ「天使の蝶」光文社古典新訳文庫 B

 レーヴィはエリ・ヴィーゼルとは対照的に、イスラエルの占領政策については常に批判的であった。結局、かれはホロコーストとは関係なしとは思えない理由で自殺を遂げてしまうのだが、生前はホロコースト生き残りの証言者としてとともに、化学者として働きながら小説を書き続けた。
 この短編集を読んでみるに、化学者としての眼や思考が反映されていることはもちろんながら、笑ってしまうような落ちの中にも、人間の生についての、ほとんど死を免れないような状況で生き延びたひとにしか持ちえない、独特の視点があるように筆者には思われた。
 もちろん、それはプラセボ効果にすぎないのかもしれないが。

2009年05月24日

男体山&青木昌彦

 全国に男体山と名のつく山はいくつかあると思われるが、有名なものは日光男体山と奥久慈男体山のふたつであろう。前者は深田久弥の「日本百名山」にも選ばれている。二荒山神社の神体としても有名であり、古来信仰登山の山であった。順番として、筆者は妻である女峰山へ先に登ってしまったため、夫としての立場がなかろう、ということから、今回その埋め合わせをすることにした。諸事情で早く帰京しなければならなかったことから、今回はスピード登山となった。

 前日、浅草発の東武日光線最終の区間快速で新栃木に入る。ここには一件だけビジネスホテルがあるようだが、どうせ始発は5:14だし、例によって通路で寝ることにする。雨も入らず快適だが、一晩中煌々と電気が点灯されており、うとうととしかできなかった。

 4:40に起きてマットその他をかたす。暑かったので寝袋は必要がなかった。日光行きの始発に乗るとちょうど6:00頃に日光へ着く。これが湯元行きの始発バスに接続することになっている。しかしわざわざ新栃木から日光へゆく電車に乗る物好きもいないから、始発バスは筆者ひとりしか乗らなかった。

 いろは坂を越え、中禅寺温泉バスターミナルで時間調整ののち、二荒山神社前バス停で降車。ここから男体山はちょっと見えるだけであるが、いろは坂からその雄大な姿を望むことができる。

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 始発のバスに乗ったのが筆者ひとりとは、朝早い時間には誰もいないのかと思いきや、いるわいるわ、前にも後ろにもひとがうじゃうじゃ。結局何人追い越したろうか・・・

 ひとが多いことを除けば山はわるくない。後ろには常に中禅寺湖が見えるし、左手に白く冠雪しているのは白根山である。その向こうには越後の山々がみえるはずである。道は基本的によく整備されているが、踏まれてできた道、というかんじで、機械掘削系ではない。社領なので、当然植林もない。自然林である。これで百名山でなければ完璧にちかい。

 日光白根山と戦場ヶ原

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 道は五合目を越えたあたりから徐々に傾斜を増し、大きな石が増えてくる。八合目を越えると緩やかになり、赤褐色の溶岩のような砂礫が増えてくる。全体的に急登であるが、谷川岳のように「よじ登る」というかんじではない。道は効率良くつけられ、悩む箇所は皆無。地形図でみるよりはずっと傾斜は緩やかに思える。そうして、三時間ほどで山頂である。なにやら、武尊山でみたような・・・

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 まあ、ここは神領なのだから、よいのだろう。

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 この山に必携なのは、ストック二本組である。筆者は下りは苦手なのだが、登りタイムが三時間、下り1時間半、とかなり速いペースでこなすことができた。ぜひもってゆくとよいだろう。また、この時期に残雪は、ない。おそらく山開きの時に除去しているのではないだろうか。

最近の読了
 青木昌彦「比較制度分析序説」講談社学芸文庫 A
 田部重治「わが山旅五十年」平凡社ライブラリー B

 画期的といわれた青木氏の「経済学における文化人類学的あるいは進化論的な手法の応用」というテーマは、一時非常に脚光を浴びたのだが、今はその理由はわからないが下火になってしまっているようだ。筆者は以前からどういうものか知りたいという希望を持っていて、この手ごろな入門書が文庫に収められたことを機に読んでみることとした。
 ようはゲーム理論がこの理論の誕生にも大きな役割を果たしていて、ほんとうにゲーム理論は戦後のさまざまな学問分野を変えてしまったのだなあと感心することしきり。
 テーマはさまざまに分かれているが、基本的な視点は、あるモデル(例えばアメリカのそれ)にすべての世界が収斂してゆけば良い、というグローバリズム、自由化賛成論者の単純さとはちがい、ある社会システムが生まれたことには所与の条件のちがいと、それなりの合理性を持って出現してきたことが、論理的に分析され、比較される。そうしてその成果をベルリンの壁崩壊以後の中国や東欧・ロシアへ当てはめてみたり、現在の日本の経済政策について具体的な提言を行ったりして、そのある程度は成功しているように思われる。
 筆者には十分納得のゆくアプローチであり、いまでも十分に活用できる手法だと思うのだが、どうして人気がなくなってしまったのだろう?

 日本登山界の重鎮である田部氏の回顧録。ほんとうによく歩いている。大正から昭和初期の登山がどのようであったのか、よくわかる。現代は、自然破壊を嘆く田部氏の時代からはすでに遠く離れて、登山は完全に観光化され、アプローチが悪いの道が整備されていないだのと文句を言われるような時代になってしまった。「数馬の一夜」などは、もはや望めないのだろう。いつになったら、多くの登山人が、自分たちが登っているところは、飼いならされた、整備された自然であって、手付かずの自然とは無気味さ、暗さ、恐ろしさを内包しているところなのだと気付くのだろうか?

2009年06月14日

大菩薩トレイルランニング

 前に書いた七面山トレイルランニングが、雨天(というより、雷)によって断念せざるを得なかったため、比較的近場で、悪天時のエスケープルートが取れるコースを物色していた。無難なのは、戸倉三山〜笹尾根とか、奥多摩三山縦走とかかもしれないが、かねてから歩いていなかった大菩薩をめぐるコースにしようと思った。それが、牛ノ寝通り逆走である。

 逆走とはどういうことか。牛ノ寝通りとは、大菩薩峠から南に延びる小金沢連嶺に向かう縦走路の途中、石丸峠から東へ向かう尾根筋のことである。榧ノ尾山から東側は、ほとんど起伏のない、MTBでのオフロードサイクリングやトレイルランニングの格好のゲレンデとなっているのだが、ここに小菅側から到達することは、時間的に厳しい。東京4:58発の中央線(総武線)各駅停車に乗ると、奥多摩に7:17に到着となる。すると、小菅に着くのが8時を過ぎてしまう。昭文社エアリアのコースタイムでは、石丸峠までが5時間30分、大菩薩峠までが6時間となっている。大菩薩峠着が14時なら、歩けないことはないのだろうが、するとそこなら2時間40分をかけて裂石の大菩薩登山口まで歩かねばならず、バス停到着が17時近くとなってしまう。

 ところが順走なら、上日川峠あるいは福ちゃん荘までタクシーを使うことができるから、時間を大幅に短縮することができる。塩山側の登山口である裂石の標高が約900m、上日川峠のそれが1550m、そして福ちゃん荘に至っては1700mであり、1897mの峠との標高差はほとんどないに等しい。これに比べて小菅は650mくらいであり、2057mの大菩薩嶺との標高差は1400mであり、首都圏近郊の山ではかなりのものである。

 では、そのハンディを克服するには? 答えは、「走る」である。

 小菅の登り口は川久保バス停を選んだ。ここからの取り付きはちょっとわかりにくい(筆者が注意してみていなかっただけかもしれない)。バスを降りたら、すぐにバスの進行方向左側の小道に入るのが正解なようである。ここからは、ひたすら植林のなかを登って行く。途中までワサビ畑がある。この急登がゆるむのが田元橋からの分岐を合わせるモロクボ平である。ここまで約40分弱。ここからは緩い登りになるが、尾根に乗るので気分はわるくない。やがて植林から自然林に林相は変わってゆく。次のターゲットは主稜線に合流する大ダワであるが、その前、ふたたび小菅からの道を合わせると、ほとんど平坦な道になってゆく。大ダワ到着が9:40頃。順調な滑り出しである。

 ここからはほんとうにトレランコースである。MTBの轍のあともある。ここからはほとんど走ることができる。1430mの榧ノ尾山までは一気呵成の走りである。

 さて、ここからは石丸峠を目指してひたすら登りである。丹波からの最後の登りに似ている(当たり前か)。走ることはあきらめ、早足で歩いてゆく。時々、左側の展望がある。が、このコース全般にいえることだが、あまり展望は期待できない。

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 左が牛奥ノ雁ガ腹摺山、右が小金沢最高点と思われる。

 きつい登りをなんとかこなして、ようやく11時10分に石丸峠。ここは、草原だった。。

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 ほどなく大菩薩峠。大菩薩嶺がわからみた、峠。

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 大菩薩領は展望なし。そのまま丸川峠へと下る。さすがに大菩薩嶺を越えると大量の人はいなくなるが、それでも下山するひと、登ってくるひと、いつもの山に比べて、それなりにおおい。峠付近には、若い女性のグループもちらほら。登っていて楽しい山だ(笑)。丸川峠着、0時30分。

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 ここからはガイドブックによると(三十年くらい前の・・・)「稜線に付けられた道が雨に抉られて歩きにくい悪道」となっているが、そうでもなかった。しかし、急なため、ランニングには適さない。滑らないように慎重に降りてゆこう。裂石の大菩薩登山口に13:10に到着。日曜日を除いて13:20発のバスが利用できるため、これに乗って戻った。しかし、東京に到着するのは、それでも16時を回ってしまった。

2009年06月20日

七面山縦走

 渋谷の駅にタクシーで5時に間に合うように乗りつけると、菊名で横浜線に乗り換え、6時発の広島行きひかりに乗ることができる。すると、7:02発の梅ヶ島温泉行きのバスに接続できる。このバスの終点、梅ヶ島温泉までは、約二時間のゆっくりした道のりである。終点に到着するのは8:50。登山の出だしとしては、少々遅い時間となってしまう。

 山と渓谷社の「アルペンガイド」では、この八紘嶺〜七面山のコースタイムは9時間50分、一泊コースとなっている。これは、梅ヶ島温泉で前泊または早朝のバスで温泉入りし、七面山敬慎院で一泊することが前提となっている。これを、8時50分からまともに歩くとすると、登山口へ到着するのは、18時40分となる。それほど非現実的な時間ではないが(後半の下りが敬慎院の参道となるため、比較的安全度は高い)、ちょっときつかろう。また、東京へ帰るのがこの時間ではとてもむずかしくなってしまう(後述)。

 では、どうするか。「走る」という解決策いがいには、ない。


 バス停を降りるとすぐに車道を直進する。けっこう斜度のある道である。ほどなく、左側に取り付きを見つけることができる。もっとも、ここを歩かな