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2005年12月09日

憲法改正

 先日の山拓の「大連立」発言をみても、政治の世界では確実に改憲の方向へむかっているとおもわれる。筆者はもちろんそれに危惧を感ずる者だが、一方たしかに憲法には不備がいろいろあるのも事実である。

昨日の購入
 太宰治全集(1) ちくま文庫
 ミラン・クンデラ「生は彼方に」
 ガルシア=マルケス「愛その他の悪霊について」
 佐伯啓思「「アジア的価値」とは何か」「「欲望」と資本主義」
昨日の読了
 西修「日本国憲法を考える」 B

 本書の著者は保守的な立場に立つことをあきらかにしており、改憲の肯定が本書の主張であることはあきらかなのであるが、たしかに本憲法の問題点をあきらかにしてくれているのも事実である。とくに著者の政治的主張が鮮明にあらわれていない部分ではその批判は説得力をもって聞こえるのだが、最高裁の批判の部分で「靖国への公金支出は一般の国民感情からして妥当」などと述べている部分は、たんに著者がそう思い込んでいるだけに過ぎず、本書の価値を貶めている。
 改憲は必要だが、与党や民主党がいうような改憲の方向性が正しいのかどうかは別のもんだいである。諸外国では国家を愛し、国民としての義務を果たすように教育を方向づけ、また憲法にその旨をはっきり明記しているところはすくなくないのは事実だ。しかし、それをそのまま日本に当てはめてよいのかどうかは大いに疑問である。それよりも、国家や政府への信頼の念を国民が持ってこなかった(し、今の与党への高支持にもかかわらず、事態は変わっていないと考える)ことを念頭に入れると、結局国家が国民を自分たちの利益のために使役できるよう変えようとしている、という批判は当然だし、憲法改正の前に国民の信頼を得るような実績を積んでゆくことのほうが先であろう。
 何よりも、国民は憲法改正よりも財政再建、真の構造改革を望んでいるのは世論調査をみても確かなのだから。

2005年12月10日

帝国

 新しい眼鏡を慣らすのにちょっと大変。

昨日の購入
 スウィフト「ガリヴァ旅行記 」(今さら・・)
 トルストイ「少年時代 」「青年時代 」(同上
 オリバー・サックス「色のない島へ」
 マックス・ウェーバー「職業としての学問」(高校生の時読んで以来)
 チャルマーズ・ジョンソン「アメリカ帝国への報復」
昨日の読了
 大嶽秀夫「日本型ポピュリズム」 B
 藤原帰一「戦争を記憶する」 B 「デモクラシーの帝国」 A

 「デモクラシーの帝国」の評価はちょっとアマイか。彼の持論である「国連中心主義」については、最後の結論でちょっと触れてある。アメリカという「帝国」の暴走を止めるには、迂遠ではあるが国連というお飾りの強化しかない、という彼の分析は、一面正しいのだろうが、土佐弘之がいうように、支配的な言説(共同幻想)を変えてゆく努力がその根底に必要とされることについては一言欲しかった。
 というか、具体的な国連強化の方法についての提言がないのは減点だろう。
 
 なお、いうまでもないが、この「帝国」についてのふたつの書籍、「帝国」と「マルチチュード」は必読の本だ。また触れる機会があるであろう。

2005年12月11日

おじさん的思考

 この二日間ebookoffは当たりであった。

昨日の購入
 田村俊子「木乃伊の口紅・破壊する前」
 加賀乙彦「フランドルの冬」
 大庭みな子「三匹の蟹」
 フランツ・カフカ「夢・アフォリズム・詩」
 中沢新一「ブッダの夢」  
昨日の読了
 エミール・ゾラ「ナナ」 B
 内田樹「おじさん的思考」 A

 内田の評価は高すぎるか。彼の意見を全面的に支持するわけではないが、ものを考えるときの基本的な思考のルール(のひとつ)を提示してくれているということで、わたくしは彼の著書をたかく評価している。もともとホントウに自分のちからでオリジナルな思想を提示できる人間などごく少数しかいないはずだし(天才という人種ですね)、われわれは他人の思考(あるいは欲望の形態)を借りて話をする以上は、その基本的なルールとか構造について知っておいた方がスムーズに生きられるというものだ。
 さらに、内田氏の著書の基本的なスタンスは、「他者とのコミュニケーションを円滑にする」ところにおかれていることは見逃せないとおもわれる。

2005年12月12日

面倒

 なかなか面倒で本屋に行けずにいる。

昨日購入 なし
昨日読了
 内田樹「期間限定の思想」 B 「疲れ過ぎて眠れぬ夜のために」 B

 「おじさん的思考」をAにしておいて、この二書をそれより低くランクするのはちょっとヘンなのだが、内容がほぼあの本と同じということで。
 それをいうなら、内田の本は、はじめて文庫化された「ためらいの倫理学」(角川文庫)の焼き直しがほとんどということになるから、実際にはあの本を一冊読めばそれで十分なのかもしれぬ。

2005年12月13日

憲法改正(2)

 なかなかメガネに慣れずに、常に首筋が凝っている状態で日々過ごすのはたいへんだったりする。

昨日購入 なし
昨日読了
 「憲法論争」NHK編 B
 内田樹「ためらいの倫理学」 A

 「憲法論争」は内閣法制局長官をながく務めた林修三氏と江藤淳氏、色川武大氏、そして憲法学者の小林直樹氏をゲストに迎えたかなりむかしの討論会。ただ、ここでの議論が30年経った今でもそのまま通用してしまうのはいかがなものかと。つまり、今の憲法改正(改悪?)にかんする議論の論点は、もうそのくらい前に完成していた、ということ、これは気をつけておく必要があろう。つまり、論点自体は出そろっていたけれども、日本人は全体としては「改正」という選択肢を選ばなかった、ということだ。それが賢明な選択であったのか、そうでなかったのかをまず検討すべきではないだろうか。
 内田樹の代表作はやはりこの一冊にとどめを指す、というべきだろう。換言すれば、本書以降の著作はほとんどこの本の焼き直しである。これは著者自身もはっきり意識していて、「読者が期待する内容を繰り返すのがファンサービスというもの」だと明言している。逆に、著者のファンでないかたには本書一冊で十分だ、という意味だろう。

2005年12月14日

食傷

 久しぶりに本屋へ行ったら、サイードの「戦争とプロバガンダ」の完結編(というか、彼の死によって自動的に完結してしまった)と、「想像の共同体」のベネディクト・アンダーソンの新刊が出ていた。内田樹の新刊もあったが、さすがに食傷したのでもう購入しないことにする。

昨日の購入
 「人権について」 みすず書房
 「宮沢賢治全集7」 ちくま文庫
 「聖書(旧約聖書続編つき)」 日本聖書教会
 「コーラン(上中下)」 井筒俊彦訳
 ヴァルター・ベンヤミン 「パサージュ論2〜5」
 エドワード・サイード 「ペンと剣」
 大澤真幸 「恋愛の不可能性について」
 大嶽秀夫 「再軍備とナショナリズム」

 どうして今さらバイブルとコーランを買ったのか、彼の心理状態は謎である。

昨日の読了
 西谷修「戦争論」 C

 何をいいたいのかほとんど不明な本だ。フランス知識人の言説の引用に終始している観があり、それが戦争とどう繋がるのかまったくわからない。

2005年12月15日

佐伯啓思氏

 わたくしは佐伯啓思氏の著書をたかく評価している。べつに、「新しい歴史教科書」などに好意的なスタンスである彼の政治性を買っているわけではなく、著書の分かりやすさ、説得力、明確な論理構成などを好ましく思っているだけである。現代社会の諸問題の解決策として彼が念頭に置いているアメリカの共同体理論への接近という部分では意見を異にするが、そこに至る問題の分析はきわめて正鵠を得ていると考えている。大澤真幸氏もいいのだが、少々思弁的にすぎる(また思考が弁証法的すぎるのも欠点)。

2005年12月16日

眼精疲労

 慣れるために無理をして近距離用の眼鏡をかける時間を長くしているせいか、極めて疲れやすい。昨日も早々に寝てしまった。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 田中克彦「ことばとは何か」 B

 田中克彦氏は社会言語学者である。つまり、ことばと政治との関係にとても敏感な感覚をもつ学者である。本書では1/3くらいが言語学史、つまり、言語史・・ことばの歴史ではなくて・・言語学史、つまり言語が学問的にどのようにとらえられ考えられてきたか、という観点からの考察に充てられている。この議論を通じて、たとえば旧ソ連における少数言語の扱いといった定番のトピックを特に取り上げなくても(取り上げられているが)言語学研究自体の政治性が十分理解できるようなしくみになっている。
 また、現在、地球上には約6000の言語があるが、あと一世紀以内に約半数になってしまうのだそうだ。

 田中氏の本はどれも興味深いが、本書ははじめて読むには少々むずかしいかもしれない。

2005年12月17日

サイード頌

 昨日の購入
 E.サイード「オスロからイラクへ」 みすず書房
 佐伯啓思「隠された思考」 ちくま学芸文庫

 サイードの新刊(もちろん、著者はすでに亡くなっているので、訳者によってまとめられたアンソロジーというたぐいの本だが)が、発売後すぐに古書(わたくしが購入したのはおそらく新古書)として市場に出回っているのはいったいどういうことかと思う。本書に限らずみすず書房の本は新古書も含めて古書が豊富に入手できるが(筆者はほとんどみすずの本をふつうの本屋で購入したことがない)、学術書という性格のつよいものがおおいこと、定価が高めであることが関係しているのであろうか。
 まあ、ともかく、サイードの本はたとえ読まなくてもすべて買いだろう。
 佐伯啓思氏の文庫本は、たまたま店頭でみつけた。300円だったけれども、たぶん絶版だからお買い得であった。

昨日の読了
 佐伯啓思「アダム・スミスの誤算」 PHP新書 B

 佐伯氏は著書がおおいが、独立しているものとしての読書は可能であるものの、じっさいには他の著書との関連性があるものが多いため、連作として捉えるのが妥当である。つまりこの評価は単独のものではなく、他の著書をも含めた評価であると考えて頂きたい。

2005年12月18日

反グローバリズム

 昨日は仕事をいろいろ押し付けられて不快だった。その反動というわけでもないが、なにもジュディス・バトラーまで買わなくてもよかったかもしれない。

昨日の購入
 J.バトラー「触発する言葉」 岩波書店
 国木田独歩「欺かざるの記」 講談社文芸文庫
吉田裕「日本人の戦争観」
 前田愛「近代読者の成立」
 小関智弘「大森界隈職人往来」
 大塚久雄「欧州経済史」 以上岩波現代文庫
 A.ソルジェニーツィン「仔牛が樫の木に角突いた」「一九一四年八月」「チューリヒのレーニン」
  以上新潮社

昨日の読了
 佐伯啓思「ケインズの予言」 PHP新書 B

 これは昨日書いた「アダム・スミスの誤算」の続きであり、ここでの主張は「アダム・スミスもケインズもグローバリズムに全面的に賛同したわけではなく、むしろそれにより失われるもの=国内経済の安定性を危惧していた」というもの。その読みが正しいかどうかは原著に当たらねばなるまい。
 モノやヒトの移動という点のグローバリゼーションと、金融グローバリゼーションを分けて考えることはよい発想だと思う。そして、金融グローバリゼーションは一国内の経済を不安定化させ、着実な産業への投資を疎外するという議論にも全面的に賛同できる。ただ、それを防ぐ解決策として、佐伯氏は「伝統的なものへの回帰」という保守主義をなかば戦略的に提唱するのだが、この部分についてはさらに検討する余地があると思われる。佐伯氏は小林よしのりや西尾幹二のような単純なナショナリストとは区別して考えねばならない重要な論者だと考える。

2005年12月19日

民度がひくいのはわるくない

 年末を迎えて何となく忙しい。ことしは去年とうって変わって厳冬のようだが、これも温室効果の影響だろうか。

昨日の購入
 カレル・チャペック「山椒魚戦争」 ハヤカワ文庫
 水田洋「アダム・スミス」 講談社学術文庫
 井伏鱒二「人と人影 」「晩春の旅・山の宿」 講談社文芸文庫

 チャペックにかぎらず、ロシア・東欧の作家のテキストには、すべからく検閲というもんだいが絡んでいるようである。

昨日の読了
 佐伯啓思『新「帝国」アメリカを解剖する』 A

 佐伯氏にとっては「アメリカとは何か」という問いは結構切実のようで、数年前にも「アメリカニズムの終焉」という本をものされている。本書も、単なる数あるアメリカ論とはちがって、現代日本の抱える諸問題に直結するようなかたちで「アメリカ」や「自由」が論じられているので、たいへん参考になるだろう。
 さて、小泉自民党の政策が、アメリカ的な文脈における「新自由主義」であることは論をまたないが、その「構造改革」なるものが本当に必要なのか、それは「ワールド・スタンダード」であり、そういう方向へ政策を進めていくことが妥当でかつ必要なのかどうか、そういう根元の部分ではまったく論議されていないことは周知のことと思う。一般の有権者にとってはそういうことはむずかしすぎ、そして政策への支持を決定するのは電車の吊り広告やテレビの三分間報道によるしかない、というのが実情なのだろうか?
 こういった衆愚政とかポピュリズムとか、政治の質をわるくするといった問題は古典的であり、すでにギリシャ時代から議論されているが、決定的な解決策はみつかっていない。有権者の学習能力を上げて政治に関心をもたせるようにしむければいいのだろうか。わたくしにはそれは決定版となる解決策とはならないように思われる。その理由は、「民度のひくいところに民主主義は育たない」という結論に陥ってしまうからである。これは同語反復だ。というのは、「民度が低い」ことを前提として、投票というシステムに基づく政治制度を構築したのが民主主義というしくみではなかったのか、と思うからだ。
 投票に基づく政治制度はうまく機能しない、ということを前提としたシステムづくり(例えば、アメリカにおいて三権分立が厳密に決められているのは選挙民への不信がその前提となっている)が必要なのではないのだろうか。

2005年12月21日

自由からの逃走

 予定がなくなってしまったのでだいぶ怠惰な一日となってしまった。とはいえ、冊数でいうと三冊こなしている。これは、ほとんど読了寸前であったものの最後の数十ページを読むことによって得られた数字である。

昨日の購入
モーム「要約すると」  新潮文庫
ルース・ベネディクト「菊と刀」 
飛鳥井雅道「明治大帝」 以上講談社現代文庫
マックス・ヴェーバー「職業としての政治」 岩波文庫

 「菊と刀」は今は亡き社会思想社の教養文庫版で持っているが、紙型の痛みが気になるので、新しく出た講談社版に買い替えることにした。それを言ったら、買い替えたい本はたくさんあるのだが。

昨日の読了
 佐伯啓思「人間は進歩してきたのか」 PHP新書 A
 ソルジェニーツィン「収容所群島1」 A
 エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」 S

 佐伯氏の本は、京大の教養学部で「現代文明論」として講義している内容をまとめたものだということである。この本が優れている理由は、現代文明を考える際には歴史認識が必要であり、その歴史認識をどのように作ってゆくかという方法論が述べられていることである。佐伯氏の認識はかなり鋭くまた正しいものだとは思うのだが、その具体的内容自体に共感できなくても得るところはおおいと思われる。
 ソルジェニーツィンの大作、その第一巻である。「収容所群島」は、スターリンが築いたものだというのがわれわれの一般認識であろうが、実は革命が生じた直後からその非人道的な状態は生じていたのだ。ソ連の全体主義体制をスターリンひとりの責任として片づけてしまってはならない。また、冷戦終了後、ソルジェニーツィンの存在感はますます落ちているものとおもわれるが、かれの著書の現代性はなおもうしなわれていないと筆者は信じている。
 フロムの著作、はじめてS評価を与えた本である。筆者の持っている版で111刷! 堂々のロングセラーである。訳者はあの日高六郎氏だ。もちろん、ナチス・ドイツの成立にかんして、ハンナ・アーレントに先立つ重要な貢献であるわけだが、古典の名にふさわしく、現代の「共依存」に通ずる概念を提出していることに眼を惹かれる。というよりも、「共依存」の概念の提唱者としてフロムの名は刻まれるべきではないのか。アンソニー・ギデンズの「親密性の変容」も、これを下敷きのひとつとして書かれているのでは。
 ということで、まだ読んでいない方は是非一読を。

2005年12月22日

共同体理論

 昨日も宴会だった。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 佐伯啓思「20世紀とは何だったのか」PHP新書 B

 本書は「現代文明論」の下巻であるが、上巻に比べてやや落ちる。「現代社会は必然的にニヒリズムに陥るように進んできた」ことの論証であるが、駆け足で急ぎすぎた感がある(ほとんどフロムとアーレントからの引用で決着がついているような気がする)ことと、「共同体的なもの」への帰属感を重視するという彼の年来の主張はごくさらっと触れられているだけで、この部分にかんしての論証がない(これは本書の性格からすればある意味当然の処置で、著者がわるいわけではない)からである。
 まあ、上巻だけ買う人はいないと思うけれども、いいのかな。

 やはり、マッキンタイアの共同体理論はかじっておいた方がいいのかな?

2005年12月23日

大家

 内科のある分野の大家(日本で指折りとされている人物)が外来でみていた方を病棟で担当することになった。詳しく書くとバレてしまうので勘弁していただきたいが、ほんらいこうすべきだと言われているわりと最近の手法を使わずに、伝統的な方法で管理していたようなのだが、それがうまくいっていないどころか、危険な方法であることはわたくしにはあきらかなようにみえた。
 大家であることは、最新の治療技術につうじていることも条件だと思うのだが、年配の医師のなかには、修行時代に習得した技術に固執し、あたらしい技術を知ってはいても自分では導入しないケースもみられる。今回もそうだと推測された。
 医師において(どの職業でもおなじだと思われるが)知識と経験のバランスというものはむずかしくかつ興味深い問題をはらんでいるので、また機会があればそれに触れてみたいと思う。

昨日の購入
吉本隆明「宮沢賢治」ちくま学芸文庫
「坂口安吾全集5」ちくま文庫
大澤真幸「虚構の時代の果て」ちくま新書

 筑摩書房の文庫・新書ばかりになった。以前、ほとんどこの出版社の書籍には注意を払っていなかったが、さいきん購入するもののかなりがこの出版社のものになってきている。とくに、学芸文庫は多少高額ではあるが岩波文庫と並んで学術的価値のある古典が多数収録されているので(絶版がおおいのが残念だが)好感が持てる。ながく続けていただきたい企画であるとおもう。

昨日の読了
 なし

 「隠された思考」に四苦八苦している。

2005年12月24日

ドゥルーズ/ガタリと経済学

 眼鏡店へ行ってきたのは「眼鏡のはなし」で書いた通り。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 佐伯啓思「隠された思考」 B 「時間の身振り学」 C
 竹内久美子「遺伝子が解く! 男の指のひみつ」 B

 竹内久美子は、アカデミックな学者(友人のA氏のように)は嫌うようだが(アタリマエか)、読み物として楽しむ分には罪がなくて(そうでもないか?)いいんじゃないかと思う。だめかな。
 「隠された思考」は、経済社会学、というより、経済哲学の本である。この本の主張は、結局「経済成長が善とか、数理的に処理された経済学が学問的とか、それ自体ひとつのイデオロギーなんじゃないの?」という、至極アタリマエの主張。しかし、その当たり前の主張は、「自由化、グローバリゼーションに適合した国内経済構造の再構築(改革、と彼らは言っている)は当然だ」とのたまう竹中平蔵その一派には馬耳東風であることもまた事実だ。経済政策はすべからくイデオロギー性をもつものなのに・・
 いまさらながらに気付いたのは、浅田彰がドゥルーズ/ガタリの紹介者として、当時の日本のアカデミズムに颯爽と登場した背景。いわゆるポストモダニストのなかで、経済学(というより資本主義社会)をまともに取り上げていたのはドゥルーズだけだったのね(ボードリヤールみたいな二流の論者を別にすれば)。ここで佐伯氏はポストモダニズム経済観を攻撃しつつ、この著作自体ポストモダン的に響く。どうしても、あるイデオロギーを批判しようとすれば、その著作自体相手の立脚点を受け入れざるを得ない、というアポリアからは抜けられないらしい。それが、本書をつまらなくしてしまっているのもじじつである。

2005年12月25日

クリスマス

 だからといって何も特別のことはない。
 そういえば、昨日ソルジェニーツィンの自伝「仔牛が樫の木に角突いた」が届いたが、かれの本はほとんどすべて新潮社が版権を持っているのだった(そして現在だいたい絶版になっている)。これはどういうことかというと、きっとソ連崩壊以前は反ソ感情を煽るために政治的に使われたということではないのか? そしてソ連崩壊後、お役ご免となって絶版にしてしまった、と。新潮社の政治的な性格をかんがえればありそうなことに思う。しかし、気の毒なのはソルジェニーツィン本人。「ソ連の反体制文学者」というレッテルを貼られてしまえば、ソ連崩壊後は読まれなくなるのは当然ではないか。文学的価値から言っても、トルストイ・ドストエフスキーと並ぶ、ロシアが生んだ最大の文学者なのに。
 心ある方々には、是非「イワン・デニーソヴィチの一日」そして有名作「ガン病棟」の一読を勧めたい。とくに「ガン病棟」の文学的手法には少々驚かれることと思う(この手法が徹底されているのが「煉獄の中で」である)。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 佐伯啓思「現代社会論」 C
 エーリッヒ・フロム「人間における自由」 C

 両方ともわるい本ではないのだが、ただ面白くない。前者はあまりにもポストモダンの影響がつよすぎる。80年代の本、というかんじ。後者は「自由からの逃走」の続編としてかかれたようだが(そしてよく読まれているようだが)、「人間にとってよい生活とはあくまで相対的なものである」というポストモダン的なテーゼに対する反論を延々としてある本なので、やはり飽きてくる。ナチスから命からがら逃げたフロムとしては、「絶対悪、絶対善は存在する!」といいたいのはわかるのだが。

2005年12月26日

接着剤

 さすがに、四冊読むと、眼より頭が疲れる。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 佐伯啓思「「シュミレーション社会」の神話」日本経済新聞社 C 「現代日本のリベラリズム」講談社 B
 フロム「精神分析と宗教」 東京創元社 B
 内田樹「映画の構造分析」 晶文社 B

 内田の映画論は、そもそもハリウッド映画が嫌いだということでどうしても好評価は与えられない。いい本だけに気の毒ではあるが。
 佐伯啓思氏の著作は、アマゾンで見る限りたかい評価は与えられていないようだ。これも不思議なことだが・・坂本多加雄氏亡き後では、保守派論客としては最もまともだと思うのだが、かれの歴史認識や経済観などがたぶん反感を買っているのだろう。このように、左派と右派を結ぶ「接着剤」になるような貴重な人材を生かせないのはもったいないとおもう。

2005年12月27日

収支バランス

 あきらかに購入する本のほうが読了する本よりも多い・・何とかしなければ。
 いま、ebookoffが1200円以上お買い上げで送料無料キャンペーンをやっている。おそらく、1500円から2000円へ送料無料の基準を引き上げたので、売り上げが減ったためだろう。以前、トヨタのgazooとタイアップしていたときに、送料を買い上げ金額にかかわらず無料にするために、トヨタのTS3 cardに入ったのだった。
 とうぜん、通販の場合送料は大きな問題になる。ebookoffのような大手の場合、bookoffの店舗は各地にあるのだから、店舗で受け取れば送料無料とするとか、何冊かストックしておいてまとめて送る(2000円以上とか)と無料にするとか、いくつかのシステムを考えればいいのにと思う。一日のうちで2000円以上購入しなければいけないというのは負担だ。狙いを付けた本をブックマークしておいても、翌日までに売れていないという保証はないし、確実に抑えておきたい絶版本などは、当然発見次第購入する以外の方法はないのだ。

昨日の購入
 「野上弥生子短篇集」岩波文庫
 カレル・チャペック「ダーシェンカ」新潮文庫
 川田順造「無文字社会の歴史」 岩波現代文庫
 ミハイル・バフチン「ドストエフスキーの詩学」ちくま学芸文庫
 井伏鱒二「鶏肋集・半生記」「漂民宇三郎」講談社文芸文庫
 サマセット・モーム「魔術師」ちくま文庫

昨日の読了
 佐伯啓思 「現代日本のイデオロギー」講談社 B

 佐伯啓思氏の本を(処分するために)まとめて読んでいる。このように、同一の著者(とくに思想家)の本をシリアルに読んでいると、かれの思考の流れが読めてきて面白い。佐伯氏の特徴は、デビュー作の「隠された思考」から、ほぼその思考スタイルが一定していることである。ほとんどブレがない。つまり、どの著作を読んでも、その主張が一貫しているということだ。このブレのなさには敬意を表したい。
 また、おもしろいのは、時代を下るにつれて、だんだん表現が平易になってきているということだ。これは、著作というしごとになれてきたためか、単行本から新書に活躍の場が移ってきたことで(これは知名度が上昇して新書の世界でも売れる作家と見なされるようになったということだと思われる)わかりやすくすることを迫られたか、いろいろな原因が考えられる。そして、これはすばらしいことだと思うが、表現を平易にしたことで、内容が決して落ちていないのだ。
 そのような佐伯氏の変貌がかいま見れるのは前作と本作の「現代日本」二部作である。これらは両方雑誌その他への寄稿をまとめたものだが、そのような著書はえてしてまとまりを欠くものだ。しかし、両作とも一冊の著書としてたいへんまとまったものであることには評価をあたえたい。

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許しと寛容

 わりとさいきん、法曹(検察)志望という有名大学の学生とちょっとだけ話す機会があった。一事で万事を察するのはかなりむりがあるとおもうが、現代の学生気質がこうであるならば、筆者としてはこんごの法曹界にかなりの危惧を感じざるを得ない。
 本人の言をしんらいすれば、法曹一家の出だという。父親は著名な検察官らしい。その意を次いで自分も検察官になるのだというのだが、「弁護士はどうですか」と振ってみたところ、「罪のある人間の弁護など絶対にしたくない」という返事。この時点で会話を打ち切った。なぜなら、糾問主義ではなく、弾劾主義を採用している日本国憲法=近代刑事訴訟法学の基本理念をこの人物がまったく理解していないことがわかったからである。
 糾問主義とは真実追究主義であり、戦前の日本の刑事システムはこちらを採用していた。これは、裁判官は原告、被告人と共に、犯罪の「真実」を追求する、という考え方である。弾劾主義とは、裁判官はレフリーの役目をし、真実追求は行わない。被告人は無罪であるという仮定から出発して、原告=検察側が有罪を立証しない限り、有罪の判決は出されない。このように、刑事訴訟法においては被告の「無罪推定」は出発点である。先ほどの発言からは、まずこの人物が「有罪の推定」から出発していることが推定される。
 さて、世の中にたくさん悪事はある。そして、悪事を行う人間は悪人と考えられている。しかしこの考えは正しいのだろうか? 盗人にも三分の理というが、筆者は世間のすべての人間は犯罪者になる可能性があると考えている。なので、悪を弾劾することとは別の次元で、その罪をどのように裁くかという段になった際に、可能な限り量刑を軽くした、という古代の中国の故事には共感するところがおおきい。
 おそろしいのは、自らが絶対に間違わない、正義である、というところから、悪を懲らしめるというヒーロー気取りの法曹人だ。対審の場においては無罪推定が場を支配するが、検察がしごとをはじめるときのスタートラインも決して「被疑者有罪」ではない。「ヤメ検」という用語がある。これは、検察官を辞めたあとに弁護士に転職することであるが、じつは検察官と弁護士のしごとには質的にあまり差はないのである。何がいいたいかというと、仕事の質的な差、というよりも、被疑者(被弁護人)に向かう精神の姿勢はほとんど同じであるといってよい。つまり、よい検察官はよい弁護士になれなければならないのである。筆者が冒頭の人物の姿勢に多いに危惧を覚えたのは、そのことに対する思いがまったくみられなかったことによる。
 自分も犯罪を犯すかもしれない弱い人間かもしれない、自分も間違いを犯すかもしれない、自分は正しいと確信しているが、それは自分の思い込みに過ぎないのかもしれない、そういう謙虚な自己省察の出来る人間は、他人に対して寛容な態度をとれるし、また他人の過ちを許せるようになる。弁護士としてだけではなく、筆者が検察官に臨むのは、そのような資質の人物なのであるが、これはあまり適当な意見ではないのであろうか。

2005年12月28日

スピード

 さいきん、読書のスピードがめっきり落ちた。もともと、新書なら30分から一時間で一冊、通常の単行本では易しいものなら一時間くらい、1000ページくらいのふつうの本なら四、五時間で読みきってしまってしまったものだ。それが、このところ、一日で300ページ程度のものを一、二冊がやっとになってしまっている。この原因については思い当たることがいくつかあるので、また項を改めてかこうと思う。
 もっとも嫌いなもののひとつは「床屋へ行くこと」である。いま、QBハウスというアメリカンスタイルのチェーンができて、カットのみ十分でやってくれるので、利用している。昨日、新年を迎えるにあたって切っていたのだが、男性よりも女性の理髪師さんのほうが、なぜか乱暴な気がしているのは、わたくしだけだろうか?

昨日の購入

 「一冊でわかる 感情」「一冊でわかる 古代のイギリス」岩波書店
 斎藤純一「自由」岩波書店 思考のフロンティア
 「ロールズ」「ウィトゲンシュタイン」「ドゥルーズ」講談社 現代思想の冒険者たちセレクト
 「ミリンダ王の問い(上)(中)」平凡社東洋文庫
 ケインズ「貨幣改革論・若き日の信条」中公クラシックス
 大岡昇平「野火・ハムレット日記」岩波文庫
 サン=テグジュペリ「星の王子様」ちくま文庫
 マッキンタイア「美徳なき時代」みすず書房
 レヴィ=ストロース「レヴィ=ストロース講義」平凡社ライブラリー
 立松和平「春雷」河出文庫
 シュレージンガー「アメリカの分裂」岩波書店
 エリ・ヴィーゼル「夜・夜明け・昼」みすず書房

 今回の購入書籍についてはかんたんな解説をしておこう。まず、「一冊でわかる」シリーズは、イギリスのオックスフォード・プレスから出版されている、新書みたいなシリーズ。それぞれのテーマにつき、専門家がまとまった解説を書いている。わりとわかりやすい。「思考のフロンティア」シリーズは、岩波が誇る左傾知識人が抽象的テーマに基づいていろいろ書いている。両方のシリーズについては内容のいかんを問わず購入するようにしている。講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズも、内容に出来不出来もあるが、現代思想を概観できるよいシリーズである。これも、セレクトシリーズといって、ハードカバーからソフトカバーに変わって、廉価になったもので出たときに購入することにしている。「ミリンダ王の問い」下巻を買わなかったのは単に在庫がなかったからだ。中公クラシックシリーズも、全部読んでおきたい本ばかりだ。ただし、本によっては訳がよくないものがあり、注意が必要。「星の王子様」は新訳らしい。なお、別の出版社から辛酸なめ子氏によるこれも新訳が出ている。マッキンタイアはアメリカのコミュニタリアン(共同体主義と訳される)の代表。いわゆる保守主義といってよい。レーガン=サッチャー(=小泉純一郎)の新自由主義には反対する立場をとる。最後のエリ・ヴィーゼルは、プリーモ・レヴィと並んで、アウシュビッツの生存者の代表。ホロコーストを主題にした作品をいくつも書いている。このふたりとも、自殺というかたちで生にピリオドを打ったのは、たぶん偶然ではない。

昨日の読了
 フロム「夢の精神分析」東京創元社 C

 特に読む必要もないだろう。

2005年12月29日

「比較の亡霊」ゲット

 仕事納めの前日で何かと忙しい。

昨日の購入

 ガルシア=マルケス「青い犬の目」福武書店
 白川静「中国の神話」中公文庫
 大橋俊雄「法然」講談社学術文庫
 ベネディクト・アンダーソン「比較の亡霊」作品社

 アマゾンの中古でゲットした。

昨日の読了
 佐伯啓思「現代民主主義の病理」 B
 フロム「愛するということ」紀伊国屋書店 B
 内田樹「子どもは判ってくれない」洋泉社 C

 佐伯氏のこの著書も、相変わらず短い論説をまとめた論説集なのだが、一冊の本としてちゃんと読める。この論説のぶれのなさ、主張の一貫性には相変わらず感心する。もっとも、それがその主張の妥当性を担保しているわけではないことはきちんと指摘しておこう。
 「愛するということ」の主題は、「愛は技術である」、つまり、生まれつき人を愛するということはできず、愛のためには絶え間ない自己修練が必要だ、ということにつきる。しかし、その主張なら、本を読まずともおおくのひとはもう知っていることではないのだろうか。
 内田氏の本、べつに内容がわるいわけではない。さすがに三冊以上読むのは飽きる。「ためらいの倫理学」と「レヴィナス 愛の現象学」の二冊を読めば十分か。あと、「街場のアメリカ論」かな。

2005年12月30日

仕事納め

 仕事納めで16:00から納会があった。しかし、勤務時間中にアルコールを出すというのはいかがなものか。せめて、17:00以降にするのが筋というものだろう。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 アマルティア・セン「貧困の克服」集英社新書 A

 ちょっと評価がアマイのはいうまでもなくセンに対する好感が原因である。ご存知かとは思うが、あえて再確認すると、アマルティア・センはインド出身(現在のバングラデッシュ)、イギリスで活躍中の経済学者。「哲学と経済学を結合した」ということで、アジア出身者としてははじめてノーベル経済学賞を受賞。有名な業績としては、「飢饉はかならずしも凶作とリニアに因果関係をもつわけではない。民主政治の確立している国では、凶作が起きても飢饉は起こらない」ことを、歴史的・実証的に証明したことが有名。
 この本は、日本を含む四箇所で行われた講演の記録。センの主張は「人間の安全保障」というもの。わが国でも金子勝などによって「セーフティネット」というタームはかなり知名度を上げてきたとおもわれるが、センのこのことばはたんに経済的なセーフティネットのみを指すことばではなく、たとえば日本国憲法にそくしていえば、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」という25条の生存権にくわえて、19条、20条の思想・信仰の自由、13条の基本的人権の尊重、そして何よりも26条の「教育を受ける権利」に重点をおいていることであろう。グローバリゼーションじたいをセンは否定はしていない。しかし、グローバリゼーションによって、タイのバーツ危機のように、大幅な為替の変動によって最も低所得な階層が大打撃を受けることのないよう、福祉を充実させると同様、初等教育に力を入れて識字率を上げることを経済の底上げとしてたいへんに強調している。また、エマニュエル・トッドどうよう、識字率の上昇が出生率とたいへん緊密に逆相関していることにも注意を喚起している。
 このようなセン経済学の恰好の入門書としてお勧めできる好著だ。

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2005年12月31日

コスタリカ

 昨日、たまたま花田清輝の「新編映画的思考」を探していて、上田文庫というネット古書屋さんを見つけた。探していた「テロルの現象学」とか「幻想を語る」とかもあったので、一緒に注文する。返信がたのしみだが、えてしてこのようなところは、更新が遅れがち(売れたのにまだ在庫があるように表示されている)ことがあるから、ちょっと心配。しかし、新年を迎えて、探求本が見つかったので、ちょっと嬉しい。

昨日の購入
 笠井潔「テロルの現象学」ちくま学芸文庫
 岸田秀「幻想を語る(Ⅰ・Ⅱ)」河出文庫
 ちくま文庫「坂口安吾全集 02,04,11,12,13」
 花田清輝「新編映画的思考」講談社文芸文庫

昨日の読了
 ノーム・チョムスキー「覇権か生存か」集英社新書 B

 労作だ。Aにしてあげたい。しかし、英語話者独特のジョークが日本語では冴えない。原文で読むとこの違和感はないのかもしれない(とくに肯定と否定が逆になっているところ)。また、読んでいるうちに、「アメリカの犯罪はよくわかったから、じゃあどうしてそうなるの? どうすれば改善できるの? ぼくたちは何ができるの?」という疑問が湧いてきてしまうのだ。また、アメリカの犯罪的行為によって、たしかに日本も恩恵をうけている部分があることも無自覚ではいけないだろう。
 国連総会での投票行為でコスタリカが合衆国に同調することがおおいらしいことがこの本から伺えるが、この国は「警察はあるが軍隊を持たない国家」であることで、左の論者からも絶賛されている。しかし、その「軍隊をもたない平和」が、ある軍事大国に実質的に隷属することで達成されているとしたら、それはわれわれがよく知っているどこかの国に酷似していないだろうか。

 実質を知らずにかたちだけみて称揚するのはよくないと思う。。。

2006年01月01日

ベーゼンドルファー

 昨日は日直で病院に一日缶詰めだった。しかし、何もなし。
 家に帰ってからは、グルダのベートーヴェンや、バックハウスのブラームスを聴いて過ごす。作曲した方も、演奏した方も、音楽の価値や力を信じられた頃はよかったのかも、と思う。
 もはや、音楽に理念や価値があるとは信じられてないだろうから。
 ところで、前からベーゼンドルファーが使われなくなった理由を調べたいと思っていたのだが(第二次大戦前はベーゼンドルファー弾きがおおかった)、どなたかご存知ないだろうか。

昨日の購入
 十川幸司「精神分析への抵抗」青土社
 モーム「アシェンデン」「アー・キン」ちくま文庫 「お菓子と麦酒」「ジゴロとジゴレット」新潮文庫

 「精神分析への抵抗」は版元絶版なのだが、たまたま本日池袋の話題の書店「ジュンク堂」に在庫があるのを発見、ネットで登録して押えた。年が明けたら取りに行こうと思う。

昨日の読了
 御厨貴「オーラル・ヒストリー」中公新書 B
 家永三郎「一歴史学者の歩み」岩波現代文庫 B

 ほんらいは、トンプソン「記憶から歴史へ」などの、オーラル・ヒストリーの専門書を読むべきだろう。書棚にはしまってあるが、まだ手が回らない。家永三郎については戦後の基本人物のひとりなので、好悪を問わず抑えておきたい。

 ところで、明けましておめでとうございます。でも、何がおめでたいのかよくわからない。

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本の物質的魅力について

 読者はウェブ出版や電子書籍を購入されたことがあるだろうか。筆者はない。他人のブログを読まないのは、内容のこともあるが、液晶画面に表示された文字を読むのが好きではないという事実のほうがおおきい。電子ブックにしても、モノクロの液晶画面はやはり見にくいし、活字のアナログ感に比べて液晶のデジタル文字は、フォントの個性も文字自体の鮮明さも本に劣ると思う。やはり白い背景にくっきりとした黒い活字、という組み合わせは、眼の疲れやすさからいっても遥かに液晶に勝るのではないかと思われる。
 筆者は、本の装丁は内容の理解度に反映してくると考えている。つまり、まったく同一の内容であっても、文庫本とハードカバーの背表紙本では、頭の入り方がちがってくるのではないか。これにはいろいろな理由が考えられる。読む側の精神の問題(ハードカバーだと気合いが入る、とか)、ハードカバーは重くて持ち歩くのがたいへんなので、自宅でしか読まない、とか、値段がたかいのであまり買わず、買ったものはきちんと読もうという動機がある、とか、さらに活字や段組みの違いからくる読みやすさ、など、さまざまな原因がそこには関係していそうだ。
 というのは、筆者の場合、やはりあまりよい印象をもたなかった本には、文庫で安いつくりのものが多かったりするということがあり、その傾向には前から気付いていた。前からよいイメージを持てなかったのは新潮文庫だが、ソルジェニーツィンの一連の文庫本を入手して驚いたのは、この時代(昭和末期)くらいから以前とちがう活字を用い出したため、非常に鮮明に文字が読めることである。また新潮文庫は本のページ数に比べて本の厚みがない、つまりあまりよい紙質を採用していなかったわけであるが、これらの本は意外に経年劣化(ヤケ)がすくない。というか、きっと新潮のほかの本から比較するとかなりよいために、過大評価をしてしまっているのかもしれない。
 さいきん、かなりハードな値段付けをする文庫がおおい。具体的には平凡社ライブラリー、ちくま学芸文庫(ちくま文庫も高め)、講談社文芸文庫、そして岩波現代文庫の四つである。講談社学術文庫もここに入れてよいかもしれないが、昔から追っているとそれほど高くはない。
 平凡社のものは紙質も装丁も丁寧だ。活字は比較的大きく、ゆったりと組んであるためによみやすい。内容も含めて気に入っている文庫だ。ちくまはかなり組みかたが詰めてある。活字自体はそれほど小さくないために、文字間が接近している。紙質はそれほどよくない。講談社文芸文庫は、これらの中で紙質が最も劣る。十年程度でヤケが発生するようだ。おまけに旧かな・旧漢字を採用していないため、一部の作品では文学的香りがかなり損なわれている。「文芸」を謳っているのに、これはないだろう。最後は岩波だが、最もC/Pがわるいだけあって、活字の質も紙質も最もよい。おそらく中性紙を使っているのではないか。まだ歴史が新しいだけあって経年劣化についてはわからないが、二十年くらいは大丈夫そうな印象を受ける。あの岩波のペダンティックな独特の活字(これについては好き嫌いが分かれると思われるが、筆者は好きである)が堪能できる。
 筆者がよく購入する出版社としてみすずがあるが、古いものは活字がかすれ気味であまりよろしくない。さいきんの本で素晴らしいと思ったのは、ネグリ/ハートの「帝国」(以文社)だ。ここの出版社の本は装丁もしっかりしていて、活字は極めて鮮明度がたかく、読みやすい。もちろん、内容も定評ある本だが、この物質的魅力には抗し難いというのも、筆者の好感のひとつの理由だったりする。

2006年01月02日

もう西洋崇拝はやめてほしい

 東京は厳寒だった。一日家に籠って何となく過ごす。賀状が何通か来ているが、頂いた方々申し訳ないです。今年も一通も書いていません。不義理ですね。

昨日の購入 なし

 ebookoffは三日までお休み。

昨日の読了
 佐伯啓思「「アメリカニズム」の終焉」TBSブリタニカ A
 斎藤純一「思考のフロンティア 自由」岩波書店 B
 仲正昌樹「「不自由」論」ちくま新書 B

 続編の「「帝国」アメリカを解剖する」も素晴らしいが、この本もすばらしい。アメリカにおける「アメリカニズム」は終わりを迎えているが、その思想は全世界に広がって戻れない道を開いてしまった、という考察。現代の世界についての刺激的な論考。
 「自由」のほうは、例によってすくないページ数でよくまとめたとおもうが、この手の題材に必ず登場するのはアレントやフロムといったユダヤ系の思想家にしても、アイザイア・バーリンの「自由論」にしても、ナチスの全体主義への批判的考察からはじまっているのが定番。最大の不満は、どうして日本の軍国主義下における自由の抑圧を題材にして、戦後日本における「自由」思想の変遷と、現代日本の「自由」について考察をおこなわないのだろう、ということ。何も、ナチスドイツだけが自由を抑圧したわけではないのに、日本人のオリジナルな考察がないのはやはり変だ。
 仲正氏の本はたいへん面白い。しかし、よく読んでみると、全体にまとまりを欠く。各議論の面白さに比べて、一冊の本としての主張がみえにくいのである。よくもわるくもポストモダン的といえよう。また同様に、日本人の著書の引用は、独自な思想の提起というより、誰かの受け売りまたは応用がほとんどだ。日本人の学者は「誰々研究家」ではなく、自分独自の論考を書き続けて名を挙げることはできないのだろうか。これは大学の慣行にも問題があるのだろう。

2006年01月03日

世界で一番売れてる本の書評

昨日の購入 なし

 ebookoffは三日までお休み。

昨日の読了
 ディラン・エヴァンズ「1冊でわかる 感情」岩波書店 B
 ピーター・サルウェイ「1冊でわかる 古代イギリス」岩波書店 C
 エーリッヒ・フロム「疑惑と行動」東京創元社 C
 内田樹「私の身体は頭がいい」新曜社 C
 佐伯啓思「貨幣・欲望・資本主義」新書館 B
 篠原資明「現代思想の冒険者たちセレクト ドゥルーズ」講談社 C
 内田樹「女は何を欲望するか?」径書房 C

 「貨幣・欲望・資本主義」のことは、かなり前から知っていた。佐伯氏の代表的著作といっていいであろう。第一章から読み始めると、古典を踏まえた的確な分析が相変わらず光る。これはわるくてもA、ひょっとしたらSを進呈してもいいかなあ、と思っていたら、第六章で失速。ここでラカンを引用し、最終章でドゥルーズ/ガタリを引っ張ってきたらその時点でゲームオーバーだと思う(厳しい?)。「ラカンの「対象α」に当たるのは、経済学では貨幣である」という指摘は、現代思想好きの諸兄には受けるかもしれないが、ラカン理論(の存在自体)を認めない筆者は、そういう議論の持って行きかたに賛同するわけにはいかない。必然性のないところに話題性づくりまたは紙面を稼ぐ目的で比較的長大なラカン理論の解説を挿入するのは納得がいかない。ここで萎えた。よってBに格下げ。
 ましてや、ドゥルーズまで持ってくるんじゃ、浅田彰と同じじゃん。

 今日読んだ本はダメなのが多かった・・・

聖書の書評
 ユダヤ教徒であるエーリッヒ・フロムは、「旧約は権威主義的で、新約は人道主義的である」として、新約をたかく評価している。しかるに、日本人で非キリスト教徒(だよね?)であるスイスのSamson氏が旧約を買っているのは興味深い。

2006年01月04日

二日酔い

 泡盛の飲み過ぎでかなり気持ち悪い。今日は新年早々当直だというのに・・・
 午前中の外来はかなり辛かった。

昨日の購入
 佐藤優「国家の自縛」産経新聞出版
 島田雅彦「ヒコクミン入門」集英社

 「国家の自縛」って、産経からの出版だったのか・・・買わなきゃよかったかも。

昨日の読了 なし

 しかし、言い訳を書いて置こう。「ドゥルーズ」とは対照的に、「ウィトゲンシュタイン」はかなり面白かった(が読了できず)。こういった思想の入門書は、著者が読者に「読んでもらおう」という意欲を持っているかどうかで、全然面白さがちがう。自分が専攻しているある学問を、平易なことばで入門者に伝えられないとしたら、その人間の知性にはかなり問題があると考えている。逆に言えば、筆者は医療のことであれば、かなり基本的な部分からわかりやすく書く自信はある(前に入門書を書こうという企画が来たことがある)。機会があればやってみたい。

2006年01月05日

初仕事

 外来で、インフルエンザがちらほら出てきている。昨年と違い、ほとんどA型(たぶん香港型)だ。タミフルの備蓄がすくないため、A型にはシンメトレル(アマンタジン)を使用してくれとのこと。ああ・・
 新年早々の当直で、早速の死亡確認・死亡診断書の作成があった。こりゃ、新年から縁起が・・

昨日の購入 なし

昨日の読了
 梅原猛・吉本隆明・中沢新一「日本人は思想したか」新潮文庫 B
 エミール・ゾラ「ジェルミナール(上)」岩波文庫 ?

 ゾラはぜんぶ読了したときに評価をしたいと思う。「日本人」は、この三人の誰かに興味があるかたにとっては面白い本、「日本の思想」について概観を得たいと思うひとにとってはつまらない本だろう。梅原猛が非常に饒舌な印象を覚える。脳死論議の際のこのひとの議論をみるかぎり、哲学者として優れているとも、論理的思考力に長けている、とも思えないのだが(要するに脳死臨調の委員としては不適切だった!)。

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2006年01月06日

よい入門書とは?

 今年は本はあまり買うまい。なぜならもったいないからだ。買った本のうち、二度以上読む価値のあるものはあまりない。しかも、筆者は本に書き込みをしない人間なので(重要なフレーズはエディタで記録しておく)、別に図書館で借りたり読みに行ってもいいのだ。それをしないのは、買った本でないと読まない、またいつ読むかわからない、という、基本的に筆者が怠惰な人間であるという事情に寄っている。つまり、自分の性格のために、多額のお金を本に投入していることになる。まあ仕方ないだろう。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 羽生善治「簡単に、単純に考える」PHP文庫 B
 飯田隆「現代思想の冒険者たちセレクト ウィトゲンシュタイン」講談社 B

 羽生氏のように、ある分野の一流の人間の対談は、どんなものでも読む価値はあると思われる。
 飯田氏の本、非常に面白い。なぜなら、読者に読ませよう、と心がけていることがわかるし、自分がウィトゲンシュタインを理解できていない部分を隠さないし(「私にはわからない」と解説本で書くのは勇気が要ることだ)、逆に理解できていると著者が感じている部分については「それはちがうだろう」とクレームを付ける。ようするに、かなりウィトゲンシュタインを批判的に(というより、主体的に)読み込んでいることがわかる。
 しかし、もんだいなのは、読了したときに、いったいウィトゲンシュタインが何をいいたかったのか、読者にはよくわからない、ということなのだ。ゴメンナサイ・・・

2006年01月07日

日本経済超小論

 さいきん、インフルエンザと、ノロウイルスによるとおもわれる胃腸炎が爆発的にふえている印象を受ける。やはり、この厳冬がえいきょうしているのだろうか。さむくなると、ノロウイルスの寿命が伸びるらしい。一度ノロとおもわれる胃腸炎には感染したのだが、また外来をやっているときにうつされたらしく、どうも調子がわるい。内科医にとって、外来での感染症の罹患はほぼ必発である。これも、お役人さんやマスコミ関係者のしらないことである。
 いうまでもなく、筆者はマスコミは大嫌いだ。人間的にも、ロクな人間に当たったためしがない。

昨日の購入
 オリヴァー・サックス「タングステンおじさん」早川書房
 ピエール・ブルデュー「話すということ 言語的交換のエコノミー」藤原書店

昨日の読了
 エーリッヒ・フロム「悪について」紀伊国屋書店 B
 佐伯啓思「成長経済の終焉」ダイヤモンド社 B
 佐伯・中西・筒井・吉田「優雅なる衰退の世紀」文藝春秋 B

 フロムの本書の買いはただ一点、ナショナリズムとナルシシズム・マゾヒズムとの関連を指摘していることに尽きる。
 「優雅なる衰退の世紀」は、京大保守系四教授の対談。「保守」というこの意味は、イギリスの保守主義にちかいものだ。筆者は必ずしも彼らの論調には賛成しないが、己を知り敵を知る上でも一読の価値はある。筆者は、日本のリベラルは国家を軽視し市民(NGO)を持ち上げすぎだとする彼らの主張には賛成だが、さりとて彼らが(特に日本という)「国家」を信頼しすぎていることにはやはり首肯できない。日本政府は、敗戦後、国民の信頼を得る努力を怠って来つづけた、と思っているからである。政府、というより、与党自民党だろうか。accountabilityの不足、というと、あのウォルフレンと同じになってしまうので、イヤなのだが。また、三権分立のシステムがわるく、悪用されている。これは法システムの欠陥というべきで、改正がひつようだ。
 「終焉」ははっきり言ってちゃちい本だ。紙質もわるいし、内容もあっという間に読了できるようにできている。想定されている読者が「週刊ダイヤモンド」の購読者なのだろうか、佐伯氏の長所である広く深い古典教養は封殺され、他書からの引用は戦後のジャーナリストのものがほとんどである。経済学者ではケインズが広く引き合いに出されている。
 佐伯氏の本をはじめて読まれる方にとっては本書は恰好の入門書であろう。なにしろあっという間に読める。そして、この本の主張もすぐに了解されるはずだ。ひとことでいえば新自由主義批判である。つまりグローバリズムに適合するような経済政策を日本政府が取ることへの批判である。
 わたくしが論じてみようと思っていることは、本書が書かれた時点で日本経済が低迷を続けていた、という事実にかんして、この本の内容を生かしつつ、復活し始めたと考えられている日本経済と株高についての再検討である。景気回復はどうして生じたのだろうか? 小泉改革が有効になってきたのだろうか? 否、である。おそらく、アメリカで生まれた経済理論のひとつである、合理的期待形成仮説から導かれる結論、すなわち、「改革により日本経済は生まれ変わる」ことに対しての期待が形成されたことによる、業績の好転だ。つまり、経済政策それ自身よりも、日本経済に対する信頼感が醸成されるかどうかのほうが重要なのである。そして、それは株価にかんする場合、さらに直結していると考えられる。現在の日本の株高の原因のひとつはこれにあるであろう。
 ということは、経済政策が実質的に効いてくる時期、つまり、現在から数年経過した時点で、もうすでに兆候の出ている貧富の格差の開大、年収500万以下の世帯の増加、などの、有効需要の減退をまねくという弊害が出てくると、「期待」なるものが消失し、再び株安・不況が訪れる可能性もあるというわけだ。ただ、そうなると、円安が構造的になる可能性があり、輸出中心の製造業に関してはある程度好調を維持することも考えられるけれども。
 さらに、人口の減少・ニートの増加などによる、労働人口の減少は、必然的にGDPに対してマイナスにはたらくだろう。佐伯氏のいうとおり、経済成長を前提とした社会構築は、もうムリなのではないか。

ラディカル・オーラル・ヒストリー

 ある友人が、惜しくも亡くなった保苅実氏の同級生であったとのこと。

 保苅氏は、一橋大出身の文化人類学者だ。卒後、オーストラリアであのテッサ・モーリス=スズキ氏のもとで、アボリジニの歴史研究に携わっていた。唯一の著作として、「ラディカル・オーラル・ヒストリー」がある。実は、ここで書評を書いているdaepodongなる人物は筆者である。もともと、アマゾンの書評のアマゾンによる検閲に腹を立てて、自前でサイトをつくろう、とおもったのが、このブログをはじめるきっかけであった。
 この本はある意味革命的な意味をもっている。それは、ポストモダン的史学に対する強烈なアンチテーゼであることがまず挙げられる。背景をかんたんに解説しておく。ヘーゲル/マルクスによって大成される近代的史観とは、どこかに唯一絶対のただしい歴史なるものが存在する、というものだ。神の史観、ともいえる。しかし、人間は完全無欠の存在ではないゆえに、同一の歴史的事実に向き合ったばあい、その事実を実地に体験したばあいですら、ひとりたりとも同一の「歴史認識」を示すことはない。わかりやすくいうと、明日関東大震災が生じたばあい、その震災につき、被災者のひとりひとりはことなった事実認識をしめす、ということだ。しかし、そのような異なった歴史認識は、人間が神でないゆゑであって、「大震災」じたいは、ひとつしかない、というものである。一見、しごく当たり前にみえる。
 ポストモダニズム史観はこのような「神の歴史」を排斥する。つまり、そもそも前提として、ただしい歴史的事実などというものは存在しない、というものだ。これは徹底した相対主義であり、一世を風靡した「実証主義的史観」、つまり、ただしい歴史なるものを厳密に追い求めてゆく、という歴史哲学に対して、それを否定したものとかんがえてよい。つまり、これはあるいみニヒリスティックな相対主義だ。歴史とは各人の頭のなかにしかないし、それはひとりひとり異なっているものだ、というものだからだ。すべてを認めるかわりに、すべてを受け入れない史観、ともいえる。
 この史観に立ったばあい、ふたつの反論が予想される。ひとつは、アウシュビッツや南京大虐殺に関連する「歴史の記憶」問題。つまり、「アウシュビッツはなかった」「南京大虐殺は行われなかった」という主張を、ポストモダニズム史観は排斥できない。客観的な歴史というものがありえないのなら、いくら実証的な資料を挙げようと、その史観を覆すことはできないからだ。つまり、「すべてでっちあげだ」というひとことの前には、論証は力を失ってしまう。そして、この問題と自らの研究に関連があることを保苅氏は認めながら、この論点に対しては「興味がない」と言い切る。筆者は、むしろこの論点にじつは興味があるが、それはまた別の場所で述べることにしよう。
 保苅氏が力点を置きたかった第二の論点は、アボリジニの歴史観を「神話」としてではなく、「歴史」として受け入れるにはどうすればよいか、ということである。実証主義的史観を採らないのであれば、われわれが史実として認識しているオーストラリア史と、アボリジニの伝承がことなるばあい、いままでは「神話」として受け入れられてきた。しかし、保苅氏はそれを「アボリジニによる歴史」と捉えるいじょう、紹介者であるかれは、どうやってそれが「神話」ではなく「歴史」であると信じられるのか。これは、現代人にとってはかなりのアポリアである。
 かれが示唆しているのは、じっさいに生活・行動を共にして、アボリジニの歴史認識がかれらの生活のなかからは自然なものであり、違和感なく、必然的な存在であることを受容してゆくしかない、ということである。つまり、精神的にというだけではなく、肉体的にもアボリジニに近接して、生活を共にするということをしない限り、<じぶんが>これが歴史であることを信じることはできない、ということになる。信じることができなければ、「アボリジニはこういう歴史観を持っています」という、彼らの<神話>についての報告に陥ってしまうのだ。
 筆者の意見では、この第二の論点は、第一の論点と無意味ではない。つまり、意見を異とするひとびとの主張は、自分のスタンスでは完全に理解することは不可能だ。そういった意見を持っているひとびとの生活に触れ、じっさいに共同体験を積み重ねていくうちに、自分と異なる歴史認識がどうして必要なのか、どうしてそのような認識を持つようになったのか、を理解できるようになるだろう。単なる「対話」だけではなく、生活に基づく理解が、対話する前の条件になるのではないだろうか。
 これにかんするはなしを別のところで読んだ記憶がある(仲正昌樹氏の本だったか)。アメリカで激しく論争のもととなっている、プロ・ライフ(中絶反対派)とプロ・チョイス(中絶容認派)のひとびとのあいだの話である。この論争は、これをめぐって殺人事件まで起きているくらい、深い断絶がかれらのあいだにある。到底、単なる話し合いでは妥協点は見いだすことは不可能だ。ある研究者は、まずかれらのあいだに、意見の違い以前に、激しい敵意が存在していることに着目した。つまり、お互いは、意見の異なる人間を「悪魔」とみなしているのだ。話し合いの前に、まずその敵意を取り除くことを目的として、その研究者は両派のひとびとに共同生活をさせたのだ。その結果、おたがいみずからの信念を変えることはなかったが、少なくとも相手が「悪魔」ではなく、ふつうのひとだということを認識できた、ということである。
 対話の前に信頼関係を築いておくことは必要だ。それは対話をはじめる前提となる。このことは、今の研究で示唆されるわけであるが、その後の対話で歩み寄ることはできないのではないか、という疑問が湧いてくる。ここで保苅氏の研究が意味を持ってくることになる。共同生活を長く続けるうちに、どうして「他者」がそういう信念を持つようになったのか、そしてその信念を持つことがかれらの生活にとって自然でかつ重大な意味を持っている、ということがわかってくると、共同生活を続けて「他者」が「他者」でなくなってくるに連れて、そのライフスタイルに合った価値観、人生観を受け入れてゆくことが予想される。そういうかたちで、共同体内の意見の相違が吸収されてゆくという可能性を保苅氏は示唆しているのではないか。
 もちろん、これはルソーの「一般意志」にも通じる、ファシズムへの傾斜の可能性を内包していないわけではない。異なる共同体にその発想を生かしてゆけるのかどうかは、ひとえに人的交流の可能性のなかにあると考える。
 しかし、このような優秀な研究者が志なかばで世を去ってしまったことは、本当に痛恨事である。この本が一人でも多くの読者に読み継がれることを祈りたい。

2006年01月08日

インフルエンザ?

 高熱が出ているわけではないのだが、食欲もすぐれないし、微熱が出ているようでもある。腰が何もしていないのに(苦笑)おもだるい。さては、インフルエンザに罹ってしまったか。まいとし予防接種を受けているので、とくに今年流行のA香港型には免疫を持っているはずである。
 これから睡眠薬を飲んで寝ることにしよう。

昨日の購入
 カレル・チャペック「チャペックのこいぬとこねこは愉快な仲間」「チャペックの犬と猫のお話」河出文庫
 ミラン・クンデラ「不滅」集英社文庫

昨日の読了
 岸田秀「日本がアメリカを赦す日」文春文庫 B
 川本隆史「現代思想の冒険者たちセレクト ロールズ」講談社 B
 エーリッヒ・フロム「精神分析の危機」東京創元社 C
 仲正昌樹「お金に正しさはあるのか」ちくま新書 B

 岸田氏の本は、かれの著書を読んだことがあって、「岸田唯幻論」について予備知識があるかどうかによってちがってくるだろう。はじめて読む方ならA、知っている方ならCだろうか。よって、中間のBとした。
 「ロールズ」、これも、著者の「読ませよう」というサービスが見える本であり、好感がもてる。ロールズの考え方は、憲法学の考え方などにも深く影を落としていて、経済学と法学にも射程を持っている。経済学方面に「正義論」の考えを発展させたのがアマルティア・センである。よって、ロールズは、これらの分野に興味のあるひとびとにとっては落とせない思想家であろう。
 仲正昌樹氏、例によって結論はないのだが面白い本である。内田樹とちがい、扱っている分野がかれよりも途方もなく広いのだが、テーマがちがいすぎて飽きない。一部に根強いファンがいる模様である。また、政治的な立場はやや左寄りだが、リベラル左派を正当に批判しているところは好感が持てる。注目すべき論者とかんがえている。

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2006年01月09日

国家の自縛

 けっきょく、連休なのにどこにも出かけられそうにない。職業病といってしまってはそれまでだが、医師にせよナースにせよ、この時期にはかなりひんぱんに「はやりやまい」に感染する。そして、いまの日本の労働状況では、病気になったからといって、すぐに休暇が取れるわけではない。外来勤務など、職種を問わず補充がきかないこともおおく、感染したまま勤務しているのが大部分(たぶんほぼ100%)の病院の実態だろう。すると、必然的に「院内感染」がおきるようになる。富家恵美子の著作で有名になったこのことばだが、ある患者の病原菌を別の患者に運ぶ、というかたちの感染ではなく、患者からスタッフが(必然的に)感染し、それを別の患者にうつしている、というのが、このタイプの感染である。これを防ぐにはきちんと(強制的に)スタッフを休ませることが必要だ。そして、それを可能にするためには、人員に余裕が必要である。逆に、それだけの負担を国民ができないのなら、そのリスクは甘受してもらわなければならない。というのは、繰り返しになるが、この手の感染は、いくら手洗いをしようがマスクをかけようがワクチンを打とうが、防ぎようがないからである。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊國屋書店 C
 ハーバート・ビックス「昭和天皇(上)(下)」講談社 A
 佐藤優「国家の自縛」産経新聞社 A

 「昭和天皇」について書こうと思っていたが、それ以上におもしろいのが例の佐藤氏の「国家の自縛」である。さて、どこから書こうか。北朝鮮外交官の基本は、「金日成著作集」全44巻の読破だ、などという話もおもしろいが、やはり「国家」というものに対する佐藤氏の思想がもっとも傾聴すべきものだ。そこから外交にしても靖国問題の考え方にしても、すべてが出てくる。
 当然だが、筆者は彼の考えにすべて同調しているわけではなく、反対のぶぶんもおおい。ただ、例えば氏が「日本はイスラエルをもっと大事にすべきだ」などと書くときの、その理由をきちんと受け止めて、パレスチナ問題のみを理由に、即座に否定してしまわないことが大切だろう。つまり、イスラエルと友好を深めるべきだ、という意見を非難し、別の政策を取るなら、それによって損なわれる「国益」も含めてしっかり説明する責任(accountability)を果たす、ということがひつようなのだ。佐藤氏の主張は、その理由、根拠が明確にされていることにとても好感を覚える。こうでなくては議論は成立しないからだ。

 さて、この本、古本屋に売るのももったいないので、どなたかもらっていただけないだろうか。

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2006年01月10日

体調

 なかなか回復しない。やはりインフルエンザなのだろうか。腰痛と微熱、嘔気が取れない。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 青木保編「「アジア的価値」とは何か」TBSブリタニカ C
 エーリッヒ・フロム「愛と性と母権制」新評論 C
 佐伯啓思「自由とは何か」講談社現代新書 A

 例によって、佐伯氏の本は、バーリン、ロールズ、アレントなどの考察を、援助交際やイラク人質事件などと絡めて手際よくまとめている。共同体をつよく打ち出すその結論に賛同するかどうかは別の話として(筆者は同意しない)、読む価値についてはまちがいがない。昨日述べた佐藤優氏の著書についてと同じことが言える。
 しかし、どうしてこうも、思想的には右に属する論者の本の方がまともなのだろう・・・

2006年01月11日

昭和天皇とは何者か

 体調がわるく、むずかしい本が読めない。ということで、どうしても頭を使わないで済む歴史物になったのだった。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 ピーター・ウエッツラー「昭和天皇と戦争」原書房 A

 この時期、ビックスやダワーに続いて、昭和天皇関連の書籍が国内、国外を問わずいろいろ出たのだった。このはなしには興味があったので、何冊か集めている。そのなかで、ビックス「昭和天皇」は、昭和天皇こそが軍国主義を推し進めた黒幕だったという説に立つ。それに対してウエッツラーはもちろん批判的で、この本の主題をひとことで述べてしまえば、「昭和天皇は自分の(そして皇室の)保身こそが最重要課題だった」ということに尽きる。そして、それを昭和天皇自身の言行から証明するだけでなく、かれの受けた教育や、重臣たち(特に牧野伸顕)を取り上げることで間接的にも証明している。
 ビックスの本はきわめてジャーナリスティックで、小説的な面白さがある。それがピューリツァー賞を受賞した理由であるとおもわれるが、こちらは地味な実証的研究で、それだけにまた説得力がある。筆者としては、ウエッツラーに軍配を上げたいところだ。

2006年01月12日

露文とメタ思想

昨日の購入 
 ドストエフスキー「罪と罰(上)」(江川卓訳) 岩波文庫
荻原千鶴注釈「出雲国風土記」 講談社学術文庫
ガルシア=マルケス「エレンディラ」 ちくま文庫 

 「罪と罰」は、中村白葉訳、岩波の旧版しか読んだことがないのだった。
 ところで、ロシア文学は訳者に恵まれているとおもっている。ほとんど外れがない。面白いと思うのは、原久一郎や米川正夫のように、親子で露文に進んでいるケースがあることである。これは偶々ロシア文学の専攻者がすくないからだろうか?
 いずれにせよ、わが国でロシア文学の理解がすすんでいるのは、すぐれた訳者たちのおかげであるといってよいだろう。また、文学史的には、二葉亭四迷や内田魯庵らによって、同時代的に紹介がなされていた、ということも見逃せないとおもう。独訳や英訳よりもはやいケースもすくなくなかったのである。

昨日の読了
 岸田秀/竹田青嗣「物語論批判」青土社 A

 岸田秀の本は、かれの「唯幻論」に共感していれば、とうぜん外れはないと言ってよいが、この本は、対談者が現代哲学の紹介者として名高い竹田氏だけに、唯幻論の核心を突くような対談がおこなわれている。とくに明記すべき一節は、「思想というものは、その思想じたいの善悪よりは、「誰もがこれを信じてこれに従わなければならない」というメタ思想を含んでいるかどうかが重要である」というくだりである。つまり、マルクス主義であろうが天皇制であろうが、他の思想を許容するだけの寛容さを持っているのかどうかのほうが、その思想自体よりも重要だ、ということだ。この「メタ思想」という考え方は、銘記しておく価値があると思われる。

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2006年01月13日

モード論は退屈である

 ベック/ギデンズ「再帰的近代化」 を注文したのに、書店から何も言ってこない。入手に失敗した可能性が高いが、連絡が来ないのはどうしてだろう?

昨日の購入 なし

昨日の読了
 仲正昌樹「日本とドイツ 二つの戦後思想」光文社新書 B
 鷲田清一「最後のモード」人文書院 C 「ちぐはぐな身体」ちくま文庫 C 「モードの迷宮」ちくま学術文庫 C

 「日本とドイツ」は仲正氏の本にしては珍しく(?)まとまった本だが、前半の「歴史論争」「国体論争」に比べて、後半の「マルクス」「ポストモダニズム」はちょっとつまらない。というか、マルクスの受容と現代思想論争が、戦後責任とどう関連しているのかが見えにくいとおもしろくないだろう。
 まあ、日本とドイツの戦争処理について手軽に概観するにはよい本だと思う。
 鷲田の「モード」シリーズをぱらぱらめくってみたが、退屈だ。何が退屈かというと、そもそもモードじたいが退屈であるし、モードを哲学者が取り上げた、というだけで肯定的にも否定的にも周りが反応する、その陳腐さも退屈だし、いろいろな社会現象、文化が取り上げられ尽くしたからといって、モードという一見浮ついたものに走るというその発想も退屈だ。また、筆者は「身体論」なるものぜんたいも、また退屈だと考えている。身体論で論じられていることは、スポーツや宗教の修行などのトレーニングを行っているひとにとってはほとんど自明のことだし、そうでなくてもみなが知っていることをわざとらしく考察してみるもの嫌らしい。ようは、モードにせよ身体論にせよ、哲学や思想というものの衰退を象徴するできごとである、ということで、モードを取り上げたというだけで周りが一斉に賛同する、というのは、権力的なものを感じてしかたがない。ここ(12/31)で取り上げたように、「褒めなければいけない」という無言の圧力を感ずるのだ。ああ退屈。

2006年01月14日

ブルジョア対談

ベック/ギデンズ「再帰的近代化」而立書房、ゲットに成功していたらしい。

昨日の購入 ブルデュー「社会学者のメチエ」「構造と実践」藤原書店

昨日の読了
 姜尚中/森巣博「ナショナリズムの克服」集英社新書 C
 ジョン・ダウアー「増補版 敗北を抱きしめて(上)」岩波書店

 ダウアーの本、じつは持ってはいたが、ずっと読んでいなかったのだった。上巻だけ読んだかんじでは、アメリカではピューリツァー賞を受けたかもしれないけれども、特に目新しい事実も、刺激的な論考もなく、高評価は与えられないかんじ。つまり、本書が出版されるまでに、本書に記載してあるような事実は、すでに日本人研究者(五百旗頭真など)によって明らかにされている、ということである。
 さて姜/森巣の新書、これが問題だ。以前、アマゾンの書評で、「ナショナリズムと無関係ではない、日本人であることからの受益をそのまま肯定しておいて、ナショナリズムを否定するのは、百年早いのでは」と書いたのだが、二度目の読書では森巣氏の露悪的な発言にむかついて仕方がなかった。ようするに、20歳くらいから海外を渡り歩くということじたいが、日本のような恵まれた国家いがいのひとびとにどれだけ可能だというのだろう? また、「国境を越えて自由に行き来する」ことじたいが、語学力その他の特殊なスキルを要求していることに無感覚なようだ。つまり、難民の無制限な受け入れを主張するのはいいけれど、彼らに日本語の習得をすべて義務づけるわけにもいかないだろう。それでは日本いがいの国で生きていくためには役に立たないから、世界語としての英語を学習させるとしても、では世界中から日本へ移民しにきたひとびととコミュニケーションができるよう、日本人を全員バイリンガルに教育する、とでもいうのだろうか。つまり、ネグリ/ハートの「マルチチュード」を称揚するのはいいけれども、「国境を越えて行き来」できたとしても、ことばの能力や高度なスキルを持っていない限り、単純労働者として企業に利用されるだけなのだ。それでも、出身国にいるよりマシ、という論理なのかもしれないが。
 つまり、姜氏も森巣氏も、国境撤廃、反ナショナリズムというのが、ある意味強者の理論であることを完全に看過している。これは大問題だ。まして、オーストラリアのリゾートで、ワインと海の幸をたのしみながら議論する、などということが、ここでの対談の中身と掛け離れていることに気付かないのも鈍感すぎる。
 読んでいて吐気を催す本だ。これでは日本が二大保守政党化しても仕方ないのではないか。

2006年01月15日

転売

 仕事でこき使われて疲れた。天候もよろしくない。

昨日の購入
 ジェーン・オースティン「エマ(上下)」岩波文庫
 エミール・ゾラ「制作(上下)」岩波文庫
 十川幸司「精神分析への抵抗」青土社
 ピエール・ブルデュー「自由 - 交換」藤原書店

 十川氏の本、やっとアマゾンの古書で入手した。ebookoff、7:15からの10分間が勝負というのはちょっときつい。でも、30分経つとめぼしいものはなくなってしまっているのだ。転売している人間がいるのだろう。

昨日の読了
 姜尚中/テッサ・モーリス=スズキ「デモクラシーの冒険」集英社新書 C
 大澤真幸「虚構の時代の果て」ちくま新書 B
 ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて(下)」岩波書店 B
 A・ソルジェニーツィン「収容所群島2」 A

 これも、「ナショナリズムの克服」とおなじで、はじめて読んだときにはそれなりにいい本だとおもったのだが、読み返してみると議論の甘さ、雑さが目に付く。たとえば、グローバリゼーションに対する異議申し立てとして、知的所有権と貧富の格差にかんして、南アとブラジルが行ったAIDS治療薬のジェネリック化にかんしてだが、これは国民国家なくてはできなかった政策だと言えるのではないか。
 また、もっと重要なのが、定住外国人に対する選挙権付与のもんだいだ。これは、原則的には賛成せざるを得ない。しかし、いまの日本でこれをやるとどういうことが起こるか。
 某政党の大躍進である。某政党の基礎票を成している某学会という宗教団体は、日本の定住外国人の大部分を占める在日朝鮮人に早くから食い込んでいるからだ。そして、某学会の加入員は、自律的な投票が不能であることは、いままでの選挙から実証されている。つまり、政策にかかわらず、某学会と関係のある某政党へ機械的に投票するのだ。
 それはデモクラシーの結果として、やむを得ないのか? つまり、「民主化が進むために政治がより民主的でなくなる」ことがわかっていても、民主化を進めなくてはならないのか?
 某学会は、会員を積極的に法曹界に多数送り込んでいる。その結果、某宗教を信仰する裁判官や検事が着々と増えていき、おそらく某学会に対する訴訟の結果にはおおきく影響を及ぼすようになりつつあるだろう。われわれは、裁判官を忌避(ある裁判官の偏向を理由に、裁判官を変更して欲しいという訴え)することができるが(刑事訴訟法、民事訴訟法)、どの裁判官や検事が某学会の会員であるかを容易に知ることはできないし、またそれが忌避の原因として認められるかどうかもわからない。さらに、忌避理由であるかどうかを審査する裁判官が某学会の会員である可能性もある。これはどうしようもない、合法的なファシズムではないだろうか。
 そのような某政党の躍進がみえていて、定住外国人の選挙権付与に賛成するのは、筆者としてはおおいに抵抗がある。それならば、現状の非民主的な制度を継続した方がいいのではないかとおもうのだ。
 また、さらに、「国籍を取得しないで選挙権を得よう」という彼らに対して、素朴に疑問を感ずる国民の存在も無視はできないだろう。かれらのばあい、国籍取得になんら法的な問題があるわけではないのだから。

 大澤氏の著書は、著者独自の概念である「第三者の審級」(著者は明記していないのだが、オリジナルはエマニュエル・レヴィナスから借用したのではないか)を用いて、オウム真理教の分析を行っている。著者の思想に興味のある方にとっては格好の入門書である反面、筆者が大澤氏の最大の弱点と感ずる弁証法的思考、というより、易学的思考(「陰極まって陽になる」)がふんだんに用いられているところが、本書を独立の著書として考えた場合の弱点になるだろう。「もっとも遠い他者とは自分である」というような発言には、レトリカルな妙味はあるものの、社会学的な分析として、あまりに思弁に偏ったものではないだろうか、と思われる。9.11をあつかった他の著書でも、「テロリストは実は遍在している」というような言い方をするところは、哲学的思弁としてならばともかく、社会学者としてはちょっと、の感もある。

 ダワー氏の有名な著作、アメリカでたかい評価を得たのはわかりすぎるくらいわかるのだが、やはり通して読んでみると、すでに周知の事実が手際よく整理されている、という印象上のものを出ない。
 逆に、戦後占領史について、はじめて本を読まれる、という方にとっては、よい著作かもしれない。筆者にとっては物足りなかった。

 「収容所群島」第一巻(第一部・第二部)読了。巻末に訳者の木村浩氏がふたつのことを述べている。ひとつは、この訳業が、親交のあった原著者からの直接の依頼を受けてなされたこと、もうひとつは出版と同時に文庫に収められたのも原著者の要望によるもの、ということである。それを考えると、絶版にしてしまった出版社の責任は大なるものがあろう。他の出版社からの復刻が希望される。

2006年01月16日

Gimp

 本日は、MacOSXで動く、DNGフォーマットの画像を扱えるソフトウェアを調べていたのだった。
 adobeのページによると、GIMPでも扱えるように書いてあるのだが、少なくとも安定版である2.2.10では扱えない。開発版の2.3系列では使えるようになっているのかもしれない。
 調べたところ、現在Macでこれが扱えるソフトは、adobeのphotoshopシリーズの他は、定番のGraphicConverterと、国産のSILKYPIX、そして今度Appleから発売されるiLife'06に含まれるiPhoto6くらいしかないのだった。
 iPhoto6の機能はあまり期待できないから、実質的な選択肢は四つ。

1)Photoshop Elements 3.0
2)GraphicConverter5.7.5
3)SYLKYPIX 2.0
4)他のソフト(SYLKYPIX 2.0のフリーバージョンなど)で取り込みだけして、GIPMで処理

1)は、Windowsのversionが4.0なので、腹立たしい。2)はありか。shareware feeが$30だから、1ドル114円で計算して、3400円くらいか。3)はまずフリー版を使って評価してみる必要があろう。でも4)でとりあえず凌いで、正式にGIMPでDNGがサポートされるのを待つのが精神衛生上はよい。

 しかし、しゃくなのは、それで昨日半日潰してしまったことなのだった(GIMPの開発版をインストールしようとして四苦八苦)。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 鷲田清一「ことばの顔」中央公論新社 C

 当代きっての人気哲学者で、大学入試国語の出題率No.1を誇る著者と、筆者との相性はどうもよくないらしい。まあ、それはいろいろと深い事情もあるのだが、気が向いたら書こうと思う。

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2006年01月18日

院外薬局

 薬を近くの院外薬局に取りに行った。保険証の確認の時に「先生ですか?」と聞かれてしまう(じつは処方箋の記載に誤りがあった)。せっかく隠して行ったのに。

昨日の購入
  ジェーン・オースティン「説きふせられて」「高慢と偏見(上下)」岩波文庫
 庄野潤三「うさぎのミミリー」新潮文庫 

 岩波文庫の本がebookoffに流出することには一定の規則があることが伺える。大して有名作家でもないと思われるオースティンの作品が結構出てくるのだ。想像だが、理由としては映画化されている作品が多いことではないだろうか。映画を観たひとが原作を買って、一度読んだら売るのであろう。
 でないと、この頻回の出品は説明がつかない。

昨日の読了
 エミール・ゾラ「ジェルミナール(下)」岩波文庫 A

 「映画化しやすい作品だな」と思っていたら、すでに映画になって、何かの賞を獲得しているらしい。「ジェルミナール」とは、 日本語訳では「芽月」となる。日本語表現だと、「弥生」ですね。三月を意味します。まだ、「大きな物語」(リオタール)が生きていた頃の小説です。現代作家はもうこんな「労働階級の勝利」を願うような作品は書けないでしょう。

2006年01月19日

日々是凡々

 昨日は実にいろいろなことがあった。一日が終わってみれば、よいことのほうがわるいことよりも若干おおかったような気がする。相変わらず体調は思わしくないし、少々うつ気味でもあるのだが、一日が恙無く終わったことを感謝しつつ、明日(本日)の平穏を祈ることにしよう。そう、人間の幸せとは、「よいことが起きる」ことではなく、「今日が昨日のように過ぎ、また明日は今日のように過ぎる」ことだと思うのである。

昨日の購入
 飯塚浩二「日本の軍隊」岩波現代文庫
 カミュ「転落・追放と王国」新潮文庫
 モーム「手紙」角川文庫
 魯迅「魯迅評論集」岩波文庫

 きょうはカレル・チャペック「未来からの手紙」「カレル・チャペックのごあいさつ」をタッチの差で逃してしまった。また、十川幸司「精神分析への抵抗」をebookoffに売却したのはどこのどいつ、いや、どなたであろう。数日前にamazonの中古で入手したばかりだというのに。こんなマニアックな本がときどきebookoffに流出していることがある(以前、ドゥルーズ/ガタリの「アンチ・オイディプス」が出ていたのをみて、反射的にゲットしてしまったことがあった)。しかしなあ・・ついてないなあ・・
#そいうやぁ「研修医御法度集」みたいのも出てたなあ・・売れるんだろうか??

昨日の読了
 鷲田清一「皮膚へ 傷つきやすさについて」思潮社 C

 鷲田作品についての筆者の評価はあくまでパーソナルなものであることをあらかじめ断っておく。きっと、かれに反感を抱いていないふつうのかたにとっては、よい本なのかもしれない。だったらどうして持ってるの、という突っ込みを受けるのを承知で、かれのどこが気に入らないのかを書いてみよう。ひとつは題材の取り上げ方が陳腐な点。身体、ファッションという関心は、メルロ=ポンティの現象学を専攻していた哲学者としては自然な関心の延長なのかもしれないのだが、筆者にはそれがいかにも受け狙いに見えてしまう。モードのような(大衆的な)文化を知識人が取り上げるのは、カルチュラル・スタディー以来の使い古された伝統だし、身体論は武道や宗教的修行--オウムではなく禅などを想定している--をやっている人間からみれば、当たり前のことを活字にしているに過ぎないからである。
 もうひとつは、かれの医療分野に対する明白な偏見である。哲学者という職業に就いている人間にふさわしくなく、かれは医療職の職種によってあるステレオタイプなイメージでそれを描写しているようにみえる。ナースへの偏愛、精神科医以外の医師に対する蔑視である。たとえば、立岩真也などの社会学者が偏見を持っているのはまだ許されるとおもわれるが(著者にメールを送って指摘しておいたし)、ものごとを根本から思考し直す、という哲学という学問の専攻者としてはまずいのでないかい、と言ってしまいたい。
 それよりも、遅々として進まないソルジェニーツィンの「収容所群島3」が抜群におもしろい、というか、インパクトがあるのだが、それについては読了時に改めて述べようと思う。

優れた書評

毎日新聞より。

 優れた書評の条件とはなんだろうか。それは、購入するかどうか、一読に値するかどうかをたちどころに判別できるかどうか、である。その点では、この書評は、本書がまったく購入や一読の価値がないことを、余すところなく伝えてくれている、という点で、たいへんすぐれた書評ということができる。
 ある文化が出現することには必然性がある。それはナチスであって原爆であってもそうだし。ここで槍玉に上がっているゲームについてもそうだ。だから、そのゲーム自体が悪いかどうかという判定よりも先に、そういうものが出現したことにどういう必然性があり、どのような文脈でそれが広がっていったのか、を考察する必要があろう。
 「キレる」子供と、前頭葉連合野の発達の度合いはあきらかに関係しているそうだが、それを言うなら、ゲームを待たずとも、子供の知的レベルは確実に低下している。それを如実に思い知ったのは、筆者が高校三年生の時である(二年生だったかな?)。筆者が受験しようと思っていた某大学の、過去の入試問題を、20年くらい遡って調べていたのだが、昭和40年代から確実に問題が易しくなっているのだ。その傾向に当てはまらなかったのは数学であったが、これは教育内容の高度化によるものかもしれない。すくなくとも、英語や国語といった、人文系の能力をみる試験にかんしては、確実に平易化していた。
 おそらくそれは、筆者の一世代、二世代前の高校生は、「日本・世界文学全集は読破し、岩波新書青版はすべて眼を通してアタリマエ」という文化の中で育ったことと関係があると思われる。それができなくなった、そういう文化でなくなったのはどうしてだろう? それは、時代の流れだというほかはないだろうが、知識の習得や技術的な能力の養成とは別の、論理的思考力やメディアをどう読むか、というリテラシーの能力といったものに、あまり重点が置かれなくなっている社会の現状があろう。
 そういった時代、文化、社会の流れ、資本主義、経済成長といった背景を考えずに、ゲームのみを取り上げて目の敵にする、という発想は、たとえ述べられていることが真実だったとしても、わざわざ読むような内容ではなかろう。およそゲームを子供部屋から取り除くという主張もナンセンスだ。なぜなら、もうその親の世代も確実にゲームに「犯されている」からである。

 しかし、この程度の書評で原稿料がもらえるなら、いくらでも書いてやるのに・・どなたか筆者に依頼してくださる奇特な御仁はいらっしゃらないだろうか。

2006年01月20日

鷲田清一に対する疑義

 昨日は外来の人数が少なかったものの、妙に疲れた一日であった。しかし、昨日や一昨日は眼鏡が合わない感じがしてかなり調子が悪かったのが、今日はほとんどそれを感じなかった。ので、少しずつ体調は回復してきているようだ。
 堀江、もう終わりだろう。驕れる者は久しからずか。「ITはやはりバブリーだ」という一般の偏見を強化することになったライブドアの罪は大きいだろう。
 しかし、今回の事件を仕掛けたのはいったい誰なのだろう? 東京地検特捜部の独走とは思えないのだが。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 岸田秀・伊丹十三「保育器の中の大人」文春文庫 B
 鷲田清一「死なないでいる理由」小学館 C

 「保育器の中の大人」Bは甘いかもしれない。これは岸田による「唯幻論講義」ということであるが、伊丹十三の精神分析学の理解の広さ、深さには驚かされる。フロイト、ライヒ、ユング、フロム、そしてレインあたりをしっかり押さえているようだ。初心者に対しての講義、という触れ込みだが、どうして、プロ同士の対談のようになっている。ただ、対談をまとめるときの言葉遣いに抵抗を覚えるのは筆者だけではあるまい。
 鷲田の本は書き下ろしではなく、例によってアンソロジーである。そのことにもがっかりさせられるが、他の本でもさんざん使い回しているエピソードや引用が多いこと、相変わらずの医師蔑視、ナース礼賛がみられること、そして本自体のまとまりのなさ、といった悪条件に打ち勝って高評価を与えることは不可能であろう。これは自信を持ってCを進呈する。
 このひとの著作、時流に乗っているのかもしれないけれども、いささか高い評価を与えられすぎのように思うが、いかがだろうか。もっとも、社会学者の橋爪大三郎などに比べれば、ずっと良心的だとは思うけれども。

2006年01月21日

読書の意義

 読んでいて、あまりにつまらない本が多すぎると、単なる時間の無駄に思えてくる。しかし、当たり前なのは、書評を読んであたりをつけていたとしても、読む価値があるかどうかを事前に知ることはできないことである。
 では、どうすれば質の高い本をセレクトできるのか。月並みな意見だが、やはりある程度の年月を経て残った「古典」を選べば無難である。しかし、その方針を貫こうとすれば、「同時代性」は犠牲にされる。効率を取るか、時代のキャッチアップを取るかはむずかしい選択だ。ただ、筆者はどちらかというと前者を重視している。

昨日の購入
 トマス・モア「ユートピア」 中公文庫
 今村仁司「マルクス入門」 ちくま新書
 吉田松陰「講孟余話ほか」
 柳田国男「明治大正史 <世相篇>」
 内藤湖南「東洋文化史」
 空海「三教指帰 ほか」
 今西錦司「生物の世界ほか」以上、中公クラシックス

 なぜか、 今日は中公クラシックスの中古が大量に出ていたのだった。モンテーニュの「エセー」も買いたかったが、訳が悪いらしくこんかいは見送った。折口信夫の「古代研究」は出品されていなかった。残念。

昨日の読了
 岸田秀「ふき寄せ雑文集」文春文庫 C
 鷲田清一「時代のきしみ」阪急コミュニケーションズ C 「弱さのちから」講談社 B
 内田樹「身体の言い分」毎日新聞社 C 「街場の現代思想」NTT出版 A

 岸田以外は一度読了した本なので、最初から内容はわかっていたものである。鷲田と筆者の相性のわるさは以前から書いていることなので、購入の視標として筆者の評価を当てにしないほうがいいかもしれない。しかし、これだけ集中して読むと、記事の使い回しが内田以上に目立つのは問題だ。しかも内田の方は、「使い回しを意識してやっている」点、確信犯である。おまけに書き下ろしが少なく、雑誌や新聞への寄稿のまとめが多く、内容に一貫性を欠くものがおおい。同じ寄稿のまとめでも、例えば佐伯啓思氏の本では見事に一冊の本としてのまとまりが見られる。ということで、文章自体の内容以前の、本としての体裁の点でも見劣りがする。
 「街場の現代思想」だが、これも内田氏の最良の本のひとつであろう。特に第一章は、ブルデューの「文化資本」の概念を用いて、日本の「階層化」について分析したもので、一読の価値がある。
所得格差の拡大が問題になっているが、これは単なる収入の問題だけでなく、「文化」の問題にも繋がっている、ということを見逃してはならない。なので、少々甘いかもしれないが高評価を与えた。機会があれば第一章だけでも目を通していただくとよいのではないだろうか。

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2006年01月22日

運河建設

 昨日は初雪が降った。デジカメのテストで数枚撮ってみる。さて、うまく表示されるか?

140.jpg

昨日の購入 なし

昨日の読了
 岸田秀「不惑の雑考」「ふき寄せ雑文集」文春文庫 B〜C
 ソルジェニーツィン「収容所群島3」新潮文庫 S

 白海からレニングラードまで人海戦術で運河を掘った話が圧巻である。食料も鉄も供給されず、現代の技術なしにどうやって運河を開いたのか。そして、そこでどれだけの囚人(といっても、ほとんどが罪なき人々)が犠牲になったのか。さらに、そうやって文字通り血と汗で築かれた運河はどうなったのか・・・
 結末をお知りになりたい方にはそっと教えます(笑)

2006年01月23日

誇り

 中川とか武部とかが、ここぞとばかりアメリカの悪口を言っているのは非常に聞き苦しい。農政「だけ」は何を言ってもいい、と思っているようだが、ちょっと違うんじゃないの? 特に武部・・「日本人の食に対する繊細な気持ちを、アメリカ人はまるでわかっていない」だそうだ。
 そんなに日本人の「誇り」を大事にしたいのなら、まず西鋭夫氏の本でも読んで、第九条を改正してアメリカの基地撤廃、自主防衛を目指すのが政治家としては筋だろう。支持はしないけれども。

昨日の購入
 エヴァンズ・プリチャード「ヌアー族」平凡社ライブラリー
 「夏目漱石全集(2)」
 「太宰治全集(3)」
 モーム「かみそりの刃(上)(下)」以上ちくま文庫
 庄野潤三「絵合せ」
 大庭みな子「啼く鳥の」
 大岡昇平「中原中也」
 吉田健一「ヨオロッパの人間」
 ゲーテ「親和力」 柴田翔訳
 ナボコフ「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」 富士川義之訳 以上講談社文芸文庫

 文文庫という文庫専門の古本屋さんを発見。一括注文した。「ヌアー族」と「かみそりの刃」を探している際に発見。こういう「日本の古本屋」に登録していない本屋さんには、いろいろと掘り出し物があるのであった。値段も安いし。

昨日の読了
 西鋭夫「國破れてマッカーサー」中央公論新社 B

 西氏は、あまり知られていない、戦後占領期の研究者である。この時期を研究する歴史家は、当然ながら明確な政治的姿勢を打ち出しているひとがおおい。竹前栄治氏や吉田裕氏は左、五十旗頭真氏は右寄りの中道、そしてこの西氏は明確な右である。右と言っても今の自民党のように「ねじれた」右ではなく、米国に対する是々非々を明らかにして、占領政策によってアメリカに押しつけられたご都合主義による政策を排除しろ、と訴えている。本書は、日本人としてはじめて1975年に公開された1945年のアメリカの外交文書にアクセスし、それをもとに手がけた研究を基に執筆されている。しかし、読んでみると、ほぼその論点は他の論者によってカバーされてしまっている印象を受ける。よって、悪い本では決してないのだが、「敗北を抱きしめて」とどちらを推すか、と言われたら前者になってしまう。
 さて、激しい競り合いの末、ようやく五十旗頭真氏の大作「米国の日本占領政策」(中央公論新社)をゲットしたのだが、まだ読まずに本棚にしまってある。おそらく、同著者による、読売新聞社の「20世紀の日本 占領期」や、中央公論の「日本の近代6 戦争・占領・講和」と大差ない内容だとは思うのだが、この分野の第一人者の代表作ということで、きちんと読んでみたいと思っている。

2006年01月24日

運河の結末

 「収容所群島3」の運河建設の結末を知りたいというメールを頂いたので、かんたんに要約してみる。収容所にはソ連の人口の1/10くらいが収容されることになったというが、1933年から二十ヶ月の期限付きで動員された人数は、正確にはわかっていない。最終的に25万人の犠牲を出すことになったこの建設には、鉄もコンクリートも供給されなかった。石を移動させるのに使われたクレーンはなんと木製! 水門も木製、土手もすべて土でつくられ、人力を持って固められた。そして、無事に運河は完成したのだが、この尊い犠牲と払って、しかも材料も動力も与えられないまま、ほとんど人力のみで作られたこの驚くべき作品は、ほとんど使用されることはなかった。それは、設計が間違っていたのである。建設の最初から、水位が低すぎて、大きな船舶の通行ができないことはわかっており、並行して深さのある運河の建設が必要である、と考えられていた、という・・・本当にやりきれない思いにさせられると同時に、人間の偉大さ、すばらしさ、尊厳というものがこれほどリアルに表されているものを、わたくしは知らない。今サルトルが生誕百年を迎えて見直されているというが、「実存」という言葉がほんとうに生きていた時代の作品としては、ソルジェニーツィンの諸作はサルトルを遙かにしのぐだろう。

昨日の購入
 中島敦「光と風と夢・わが西遊記」講談社文芸文庫
 的場昭弘「マルクスだったらこう考える」光文社新書
 廣松渉「今こそマルクスを読み返す」講談社現代新書

 なんだかマルクス関連書籍ばかりでイヤだなあ・・・アカは嫌いだ・・・

昨日の読了
 岸田秀「二十世紀を精神分析する」「ものぐさ箸やすめ」文春文庫 C
 西鋭夫「日米魂力戦」中央公論新社 C

 どれも、決して悪い本ではないのだが、一読をお勧めする、というレベルには至っていない。

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2006年01月25日

広角

ライブドア叩きは、一連の旧守派による反撃とも取れると思うのだが、ジニ係数の増大を総理府が「貧富の格差は拡大していない」と強弁したり、安倍官房長官が「貧富の格差の拡大はよくない。セーフティネット(ついにこの言葉を吐いた!)の構築に努めたい」などの発言をみても、この日本ではまだ「貧富の格差の拡大は個人の能力差を反映した当然のこと」とする、アメリカ流のリバタリアニズム(自由至上主義)を公然と唱えることに社会的な抵抗がかなり強いようだ。この、すくなくとも表向きは貧富の格差の拡大はよくない、とする倫理観が崩れてくるのだとすると、「多文化主義だから人間を評価する共通のモノサシは金銭以外にはない」とするアメリカのような国家に本格的に変貌してゆくだろう。それが日本をどのように変えてゆくのかはわからないが。

 デジカメでいくつか写真を撮ってみたので、あとで(いずれ)アップすることにしよう。ようやく、単焦点28mmというこのカメラの特殊性がわかってきた。WYSWIGではないが、人間が見えている様を写してくれるのがカメラだ、という初心者の思い込みでこのカメラに接すると、大変なことになる。どうやら、このカメラは、被写体に思いきり近接して、周囲の風景を一緒に取り込むという撮り方が基本のようである。遠近感のある、例えばビルの真下から屋上をめがけて、とか、歩道橋の上に立って、道の遥か彼方を撮る、といった撮り方が、このカメラの得意分野のようだ。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 岸田秀/竹田青嗣「現代日本人の恋愛と欲望をめぐって」KKベストセラーズ C

 同じメンバーによる「物語批判」に比べて落ちるのは、編集者が介在しているせいだろう。このふたりの直接対談が面白くないわけはないから。

恥辱を耐え忍ぶ

 ここに懺悔を決意した。
 筆者は決して読書人ではない。読書人必読図書を結構落としているからだ。恥を忍んで、それらかずかずの未読本(要するに、あまりに有名だから、読んだフリはしているものの、実際には読んでいないもの)を挙げてみることにしよう。

日本文学
・夏目漱石 
 「我が輩」「坊ちゃん」「こころ」「明暗」くらいしか読んでいない。そう、前期三部作・後期三部作で読んだのはたったひとつ「こころ」だけなのだ。
・森鴎外
 似たようなもの。「渋江抽斎」は読んだ。「山椒大夫」「高瀬舟」とか読んでない(恥)。
・白樺派
 武者小路実篤の「友情」以外は読んでないのではないか。志賀直哉、有島武郎ゼロ。
・島崎藤村
 ゼロ
・大江健三郎
 「性的人間」「セブンティーン」くらい。
・村上春樹
 ゼロ

世界文学の未読はあまりに多いので省略しよう。「ふしぎの国のアリス」とか「星の王子様」とか「ガリバー旅行記」とか読んでないんだよ。

 評論・論文も書こうと思ったが、これもあまりに多いので、意味がないと思った。よって省略。

 では、ボクこんなものも読んでます」というのも、せっかくなので書いてみよう。自慢するにしては貧弱でやはり恥をさらす思いである。
・ブローデル「地中海」「物質文明・経済・資本主義」
 「最高の歴史書」といわれつつも、あまりの大著なので、実際に読んでいる人間は少なかろう。
・プルースト「失われた時を求めて」
 ちくま文庫版。全10巻。つまらなくて死ぬ思いだった。もう二度と読まないかもしれない(笑)。
・池波正太郎「真田太平記」
 全12巻。これは自慢にも何にもなるまい。まだ山岡荘八「徳川家康」の方が上だろう。
・伊藤整/瀬沼茂樹「日本文壇史」
 全24巻の大作。伊藤整の死後、盟友の瀬沼が引き受けて完成させた。
・「日本の近代」中央公論社
 全16巻。明治期以後の日本史のスタンダード。
・「20世紀の日本」読売新聞社
 これは主に戦後史。全12巻。絶版になっているのもおおい。
・「中上健次選集」小学館文庫
 全12巻。
・ウォーラーステイン「近代世界システム 1,2,3」岩波書店/名大出版会
 1は岩波、2,3は名大出版から翻訳されている。4で終結の予定だが、終わるのか。
・「マルクス・コレクション」筑摩書店
 既出版のものは全部読んだ。

 しかし、最近は根性がなく、大作は書棚にごろごろしているものの、手を付けていない。取り組むべき大作としては、ブルデューの「ディスタンクシオン」とか、サイードの「文化と帝国主義」とか、モーゲンソー「国際政治」、ちくま文庫の「坂口安吾全集」、筑摩書房の「橋川文三著作集」、そして都市出版の「高坂正堯著作集」、晶文社の「鶴見俊輔座談」なんかが残っているのだった。いったい、読了するのに何年かかるのだろう。。。

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2006年01月26日

怠惰な一日

151.jpg

遊んでしまった。

 ようやくデジカメについていろいろとわかってくる。例えば、Adobe RGBという規格の方が、扱える色空間は広く、プロには必須の項目なのだが、今のモニタ(液晶含む)で、Adobe RGBの色空間を表現できるものがあまりなかったり、画像ソフトの中でもAdobe RGBに対応していないもの(たとえばGraphicConverterなどは未対応)もある。
 その点、AppleのSafariが対応しているのはスゴイと思う。

 せっかくなので、先日撮影した写真を一枚載せておこう。表参道の歩道橋から、原宿方向を撮影。

昨日の購入 なし
昨日の読了 なし

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「スイスの山村」氏に答える

ここで晒し者にされてしまった(笑)。あちらで延々と自分のことについて述べるのも何なので、こちらで筆者の考えを記しておこう。
1)兄弟姉妹がいるかどうかによって、異性への対応、考え方が異なるという指摘は、経験上ただしいもののように思われる。また、成人するまでの少青年期に、どのくらい異性と(ふつうに)接したか、ということも重要だと思うので、中学・高校が共学かそうでないか、というのもおおきいと思われる。男女問わず、共学校で過ごしていないひとは、異性を理想化してみる傾向があるように感ずる。
2)「幻想」ということばの使い方を厳密にしておきたい。このことばは、ふつうに使用するぶんには、「に過ぎない」という続きを付け加えられることがおおいことからもわかるとおり、どちらかというとネガティブな価値判断を含めて使用されることが多い。岸田秀氏、あるいは筆者が「幻想」ということばを用いるときには、それには否定的なニュアンスがないことには注意が必要だ。いや、場合によっては、人間に生きている積極的な意味を付与している、という点から、ポジティブに使用されるケースすらある。
 女性の理想化、つまり、プラトン的な「イデア」を現実の女性に投影することと、性的関係、あるいは恋愛において、その関係が幻想である、ということは、完全に一致しているどころか、前者は後者のごく特別なケースに過ぎない、ということだ。つまり、『女性について何も幻想を持っていないし、全てそのまま受け入れることに何ら抵抗がない』という発言自体も、筆者の用語からすると、「幻想」ということになる。というのは、「女性の現実」などというものは存在しないし、「そのまま受け入れる」というのも、すべてのバイアス(これは、女性側に起因しているだけではなく、受け入れる男性側に起因している場合のほうがむしろ多い)を排除することが、原理的に不可能であるからだ。
 つまり、「ありのままの女性をそのまま受け入れる」というのは、男性側の幻想なのだ、と言いたいわけだが、ここで特記すべきことは、それは筆者は「幻想」とみるけれども、否定するどころか、そういう幻想は恋愛にプラスに寄与するものであるなら、大いに奨励すべきだ、と考えていることだ。
3)つまり、家族とか国民国家とか資本主義とか、現実に作用していると考えられているシステムも、すべて「共同幻想」とみなす立場からすれば、人間の思考、思想もすべからく「幻想」ということになる。かように幻想とは広い意味で用いられており、「女性を理想化する」というプラトニズムとは、そのイデア論を否定するところから、対極に位置することにあると言ってもいい。
4)だから、筆者は、「対立」とは捉えていず、むしろその幻想の内容が異なるだけで、それはごく自然なことである、と考える。なお、
5)『僕の場合、先日書いた話どころでなく、「ふつうに考えればとんでもない話(=ここには書けないような話)」をいくつも経験しているから、今更幻想も持っていない』については、筆者も同様である、と書いておくことにしよう(笑)。ただ、恋愛に限らず、学術研究やイデオロギー追求に関してだって、「幻想」は人間をドライブする原動力として、絶対に必要なのだと思われる。「金持ちになりたい」「有名になりたい」「自分を高めたい」などという欲求(精神分析学的には「欲望」というべきか)も、その内実をよく観察すると、すべて幻想なのであるから。

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2006年01月27日

池袋リブロ

 昨日、一ヶ月ぶりに池袋のリブロへ行く。筆者がリブロを利用する理由は三つある。一つは、西武クラブオン・カードのポイントが付くこと。でも、これは計算すると、池袋への交通費を上回ることはないので、副次的な理由に過ぎない。もうひとつは、ここはすべての商品券が使用可能なこと。図書券はもちろんだが、デパート共通券とか信販系のデパート券などで本が買えるのはありがたい。そして三つ目の理由が本屋らしい理由となるが、ここの新刊書の品揃えはなかなかいいのである。特に三階の人文書のコーナーである。話題書がしっかり置いてある。
 して、たいていここに行くと、「想定外」の本を買ってしまうのだが、今回は有斐閣の一冊で済んだので、まだ軽い出費だったと言えよう(それでも3,700円)。

昨日の購入
 モーム「雨・赤毛」「女ごころ」新潮文庫
 凝念大徳「八宗綱要」講談社学術文庫
 「ミリンダ王の問い」平凡社東洋文庫
 マイケル・クック「一冊でわかる コーラン」岩波書店
 ヘンリー・R・ナウ「アメリカの対外関与」有斐閣

 そのほかに、みすずの新刊でC.レヴィ=ストロースの「みる きく よむ」と、最上俊樹の「国境なき平和に」が出ていた。最上俊樹氏は、土佐弘之氏と並んで、筆者がもっとも評価する、日本の国際政治学者のひとりである。みすずの新刊はちょっと待つと神保町に並ぶ可能性が高いので(ゴメンナサイ>みすず書房さん)、もう少し待とうと思った。割高だしね。

昨日の読了
 岸田秀「心はなぜ苦しむのか」朝日文庫 C

 例によって、このC評価は「つまらない」という意味ではなくて、他の岸田氏の著作を読んでいれば十分だろう、という意味だ。

2006年01月28日

寿司

 西麻布の権八というお店で寿司を食べてきた。はっきりいってここは女性を同伴するための店である(笑)。雰囲気重視だが、味もわるくはなかった。お値段もそれほど高くないもようである。

昨日の購入
  アンナ・ポリトコフスカヤ「プーチニズム−報道されないロシアの現実− 」NHK
 カレル・チャペック「園芸家12カ月」中公文庫

 「プーチニズム」、なかなか興味深そうな本である。
 と思っていたら、ロシアでスパイ疑惑が・・・
 NGO叩きか。なんだか、旧ソ連時代へ向かっているような気がする。大丈夫だろうか。

昨日の読了 なし

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2006年01月29日

一眼レフ

 デジカメとは何のためにあるものだろうか? 繰り返しになるが、やはり「写真を撮りたい方が購入する」モノではなくて、「買うと写真が撮りたくなる」アイテムだとおもう。そのほうが、資本主義というシステムに合致している商品といえる。つまり、はじめに撮影したいという欲望があるのではなく、ある商品を購入することで、新たに撮影という欲望が購入者に生じるのだ。そうでなければ、爆発的な売れ行き(ケータイも含めて)は説明ができない。
 さて、購入後にいろいろデジカメについて調べてみた(笑)。あとの祭りだという説もあるが、購入して以前の機種に比べて大幅な性能向上を目の当たりにして、もう一度最近の技術の進歩について知りたくなったのだ。情報源としては、AllAboutがよいと思う。以前は、もっぱらここを見ていたのだが。
 その結果わかったのは、
・一眼レフが圧倒的なノイズの少なさを誇るのは、撮像素子が大きいから。画素数はあまり関係がない。
・むかしはCCDの方がいいということになっていたが、いまはCMOSが復権しつつある。むしろ、CMOSを使用したキャノンの一眼のほうがノイズは遙かにすくない。
・素子面積のすくないコンパクトカメラで、しかも広角レンズを搭載している場合は、被写体深度が深い。つまり、焦点が広い範囲に合いやすい。逆に、焦点を特定の物体にのみ合わせて、他をボケさせる、という技は使いにくい。
 などなど。
 ということは、今の程度のノイズは、コンパクトカメラとしてはやむを得ないのだな、ということ。でも、もともと被写体深度が深いのだったら、露出の調整で、F値(絞り)を変えることに、あまり意味がないような気がするのだが、気のせいだろうか。もっとも、マクロ機能を使って、被写体に思い切り接近した場合には、絞りを全開にした場合、綺麗なぼけを得ることができるらしい。花を撮影するときに使えるテクニックである。
 また、Raw Data(デジカメで加工される前のデータ)を記録できるので、それを使って現像作業を行ってみたが、改めてGR digital自体の撮影エンジンの優秀さを実感した。通常の使用では、Rawデータを記録しないで、JPEGだけの記録で十分なようだ。不安な場合、露出や色温度をずらして三枚連続で撮影するオートブラケットという技もある。

 でも、いろいろ調べて、やはり一眼レフが欲しくなったのだった・・・GR digital自体は、大変優秀なカメラだと思うけれども。
 こういうのが資本主義の魔力なのであった。

昨日の購入
 ブルデュー「資本主義のハビトゥス」藤原書店
 山室信一「日露戦争の世紀」岩波新書
 カレル・チャペック「ロボット」
 井筒俊彦「意識と本質」以上岩波文庫

 ということで、資本主義についてお勉強しましょう。他の基本書は、いうまでもなくマックス・ウェーバーの「資本主義とプロテスタンティズムの精神」だ。他に筆者が推薦するのは、ブローデルの大著「物質文明・経済・資本主義」。

昨日の読了 なし

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2006年01月30日

使えないiLife

 AppleからiLife'06が届いたので(一昨日かな?)使ってみているのだが、どうもあまり使い勝手がよろしくない(と筆者は思う)。これで.Macのほうに画像を公開しようと思っていたのだが、予定を変更して、Yahoo!のフォトアルバムにリンクを貼ることにしようと思う。

 昨日の「読書」の購入書籍が間違っていたので訂正した。

昨日の購入 なし

 最上俊樹氏の「国境なき平和に」が早速amazonで出ていたけれども、送料を加算すると定価の二割引き。まだ買えない(笑)。「日本の古本屋」から、高原書店からも出ていた。2000円。B。あまり本の状態よくなさそう。

昨日の読了
 岸田秀「幻想に生きる親子たち」文藝春秋社 B 「母親幻想」新書館 C
 マイケル・クック「コーラン 一冊でわかる」岩波書店 C

 文藝春秋から出ているエッセイ集の中では一番おもしろい。ただし、まったく内容に新味はない。「コーラン」は今ひとつ。他の概説書の方がよかった印象がある。この「一冊でわかる」シリーズも、意外にばらつきがあって、特に近刊はちょっと落ちるようだ。

2006年01月31日

ブログソフト更新

 いま使っているtetter totterというブログソフトがバージョンアップしたら切り替えて正式登録しようと思っていたのだが、次期バージョンの動作条件が、perl 5.008_06がサーバにインストールされているのが条件だと。ここのサーバのperlのバージョンは5.005。ああ、動かない。
 やっぱり、Yahoo!かGoogleに移転しようかなあ・・ブログだけのためにわざわざサーバをレンタルするのもアレだし。
 先日購入した「アメリカの対外関与」なかなかよさげ。

昨日の購入
 アルバート=ラズロ・バラバシ「新ネットワーク思考」NHK
 河上肇「貧乏物語」岩波文庫

 「ネットワーク」はほとんど衝動買い。読みたいのかどうかもよくわからん(笑)

昨日の読了
 今村仁司「マルクス入門」ちくま新書 B

 筑摩書房から出た「マルクス・コレクション」の副読本として最適だろう。

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2006年02月02日

河豚

 昨日は河豚を同僚二人(プラス三人)で食べに行った。たぶん数年ぶりである。プラス三人の中に美女が一名おられたので機嫌がよかったのはここだけの話である ;)
 もちろんおいしいのだが、コスト・パフォーマンスは極めて悪い。なぜか、料理の世界にも政治経済の力関係が反映しているようで、大ざっぱにその国のGDPと料理の値段はほぼ相関しているようにも思う。もちろんリニアな相関ではなくて、GDPの対数を取るとちょうどよいくらいなのではないか。
 つまり、フランス、イタリア、日本といった料理は高く、タイ、インド、中南米、アフリカといった料理は安い。中国はやや例外に属しているようである。すると、筆者の基準からすると、C/Pのたかい食事とは途上国の料理ということになる。
 筆者は価格の安い、そして辛いいわゆるエスニックが好きだ。お勧めできる名店をピックアップしてみよう。なお、筆者の信条は、「エスニックに隠れた名店なし」。迷うなら有名店にしておくと間違いがない。
インド
 シタール
 検見川と遠いが、わざわざ足を運ぶ価値のある店。
 ナイルレストラン
 アジャンタ
 中村屋
 東京のいわゆる三大カレー
 アショカ
 価格は東京一とおもわれる。銀座より新宿がお勧め。雰囲気は銀座が圧倒的によい。
 嶮暮帰
 「けんぼっけ」と読む。アショカと並ぶ高級店。デート向き ;)
タイ
 バンタイ
 いろいろな店にいったが、やっぱりここが一番か。月並みな選択・・・
 レモングラス
 タイ宮廷料理。デートならここか。
 タイランド
 NPOでタイに長期滞在した方の話によれば、ここが一番現地っぽいとか。値段も安い。
四川
 銀座桃花源
 東京ならここが一番だろう。値段もちょっと張る。
 麻辣房
 安い。自腹で行くならここ。
 陳麻婆豆腐
 永遠に準備中のページのようだ。四川省成都の麻婆豆腐発祥の店だが、山椒の入り方が足りない気がする。四川飯店、または桃花源の陳麻婆豆腐の方が上だろう。

 というわけで

昨日の購入 なし
昨日の読了 なし

2006年02月03日

ヒトラー

 遅ればせながら、「ヒトラー 〜最後の12日間〜」を観た。
 思うのは、やはり自分がその場に居合わせたとして、どういう行動を取っていただろう、ということだ。ナチス・ドイツの最期のような状況は、今の日本においてもまったく無関係ではない、と考える。例えば、先ほどの異様な投票率と与党の異様な得票率を記録した選挙において、ナチスが政権を掌握し、その後進めていった政策のなかでのドイツ国民の熱狂と異なるところがあったであろうか?
 重要なことは、ナチスを支持したからその人の知的水準が低い、というわけではないことに注意する必要がある。すでに何度もさまざまな場所、さまざまな論者から指摘されている事実は、マーティン・ハーデガーをはじめ、ナチスを積極的に支持した人間の中には、当時のドイツ最高の知識人が含まれていた、ということである。だから、決して知性の問題としては解決できない。
 また、当時のドイツの民度が低かった、という議論もあるが、これも端的に間違いだ。民主主義の研究家も指摘しているように、ワイマール体制というリベラルなシステムの中に、すでにナチの台頭を許す余地があったわけであるし、ルソーの社会契約論の中にも「一般意思」というかたちで、全体主義を生み出す要素が含まれていないわけでもない。
 また、ナチは100%悪かったか、というと、そうでもない。事実、第一次世界大戦後、ドイツをおそった猛烈なインフレを抑えたのはヒトラーの政策である。

 筆者なりの腹案はないわけではないのだが、こういうむずかしい問題には結論を急がないことが大切である。さまざまな角度から考察してみる必要がある。また、時代の熱気=共同幻想に流されないということは、社会的動物である人間にとっては、かなりむずかしいことなのである、と改めて思う。

昨日の購入
 ジェームス・D・ワトソン「二重らせん」講談社文庫
 T.S.エリオット「キャッツ」
 「宮沢賢治全集 <8>」以上ちくま文庫
 フロイト「夢判断(上下)」新潮文庫

 「夢判断」って、解説書は山ほど読んでいると思うのだが、原著を読んだ記憶がない。どちらにしても、もし読んだとしたら高校生くらいなので、どうせ忘れているだろう。

昨日の読了 なし

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2006年02月05日

高校生の頃

昨日の購入 なし
昨日の読了
 的場浩司「マルクスだったらこう考える」光文社新書 B

 書評としては、「マルクス以後の、マルクス主義から派生した現代思想のさまざまな潮流について、かなりよく整理されている。著者は、これはあくまで自分のマルクス読解に過ぎない、と謙遜しているが、そんなことはなく、かなり客観性の高い内容だと思われる。一読の価値のある本。」となるだろう。

 しかし、筆者が感銘を受けたのは、むしろ「あとがき」である。著者は中学時代にマルクスの評伝を読み、マルクスを原語で読むためにドイツ語とロシア語の独習をはじめ、ソ連の大学が外国からの留学生を受け入れていることを知り、「入学できないか」という手紙を送ったそうである(「先進国からの留学は受け入れない」と断りの返書が来たそうだ)。
 今時の中学生・高校生で、ここまで背伸び(悪い意味で使っているわけではない)した意識を持っているひとは、残念ながらごく少数なのだろうが、筆者自身の中高時代はどうだったのだろうか、とあらためて考えてみた。
 当時、筆者が最も関心を持っていたことは、「天才とは何か」ということであった。これは、天才という特別な人種に関心があったというよりは、人間の各種能力をいかにして伸ばすか、ということへの関心であった。そこで、クレッチュマーの古典的な「天才の心理学」から、当時一世を風靡した品川嘉也氏の「右脳」論、将棋の棋士に関する研究、そして川喜田二郎や中山正和氏らの発想法など、さまざまな「能力開発」に関する研究を読み漁った。そして、取りあえずは自分への応用として、数年後に迫る大学受験にこれらの成果を応用してみようと考えたのである。ここで、特記しておかなければならないことは、大学受験のためにこれらの「能力開発論」を参照したのではない。もともと、人間の能力というもの自体への関心が先行しており、それを実地に応用するために受験という機会を利用したのである。
 そして、筆者は一般の受験生とは違って、理論先行型の学習を行った。つまり、学習計画を立てることは当然一般的に行われるが、筆者はそれを完全な逆算型で行ったのである。つまり、要求される能力水準を算定することからはじめて(言うまでもなくこれは簡単なことではない。つまり、スタートが高一だとして、高三終了時で要求される水準を洞察する必要があるからである)、それを身につけるための手段を割り出し、それをこなすための時間で割り、単位時間あたりの作業量を決定する、という方法である。
 その結果、おそらく他の同級生と比較した場合、かなり少ない労力で目標大学に合格することができた。この計算がかなり精密なものであったことは、のちにある同級生から非難されたように、合格発表の会場にクラッカーを持参していった(もちろん、入部を勧誘しにくる上級生たちに鳴らしてもらうように)という一事から推測できるだろう。

 さて、現在における「人間の能力」に関する筆者の考えを記しておこう。「正義論」のジョン・ロールズなどは、「能力」なるものは個人所有であるものではなく、人類共通の財産なのであるから、その能力によって、多額なお金を稼ぐことができたとしても、それを占有するのは正義に反する、とする。これはかなり批判された考え方である。もちろん、ハイエクやノージックなどの(新)自由主義者は、能力がある人間は当然多く取ってよい、とする。それは、能力を持つ者、それを生かす者は、金銭というかたちで恵まれて、「勝ち組」になって当然、とする思想が根底にある。そして、ロールズも実は同じ発想を共有している。彼と新自由主義者は、能力・才能を「よきもの」とみなす点では一致しているのである。
 筆者はこれにはかなり懐疑的だ。つまり、「人間の自己実現とは、みずからの才能を十全に発揮することである」というドグマがあるが、これを無前提に承認するのはいかがなものだろうか、という意見を持っていることを表明しておく。「能力を生かさない」幸せな生き方もある(というか、むしろそちらの方が幸せなのではないか)という意見に傾いている、と言ってもよい。
 また、それについては機会があれば書くかもしれない。

2006年02月06日

スランプ

 読書ができない状態が続いている。原因のひとつはデジカメである。これについては、だいぶわかってきたというものの、まだまだ使いこなすまでには至っていないし、撮り終えたあとの処理(これは、別にRAW画像で撮らなくても、撮った後に色空間をAdobe RGBからsRGBに変換するとか、どのソフトを使ってどのくらい圧縮するとウェブ用としていいとか、あまり今まで考えていなかった)にそれなりに時間がかかる。このペースで撮っていったら、画像の管理だけでも大きな問題になりそうである。それを解決してくれそうなのは、やはりiPhoto6しかないようだ。
 もうひとつは、集中力が極度に落ちている。今取り組んでいる「アメリカの対外関与」だが、内容とページ数からして、もうとっくに読了していなければならないはずだ。この集中力の低下の原因は・・・ふぅ。

昨日の購入 なし

 ebookoffでいくつか心を惹かれるものがあったが、1500円以上が送料無料となるため、取りあえず「お気に入り」に追加。売れてしまったら諦める。

昨日の読了 なし

 電車の行き帰りで読んでいる廣松渉の「今こそマルクスをよみなおす」も、まだ終わりそうにない。

2006年02月07日

196.jpg

 再び雪が降った。

昨日の購入
 竹田青嗣/加藤典洋「二つの戦後から」ちくま文庫
 ハックスリー「すばらしい新世界」講談社文庫
 高橋たか子「意識と存在の謎」講談社新書
 勝海舟「氷川清話」講談社学術文庫

 勝海舟と福沢諭吉を比べた場合、どうしても人物は勝が上だと思ってしまうんだよなあ・・どうしても福沢には好感が持てない。ハックスリー、有名な本だが実際に読んでいる方はすくないのではないか。かくいう筆者も、オーウェルの「1984年」を読んだのは割と最近(「動物農場」も)。

昨日の読了
 廣松渉「今こそマルクスを読み返す」講談社新書 B

 今村、的場、廣松三氏のマルクス概説書を比べてみて、どれか一冊を薦めるのなら的場氏のにすると思われる。その理由は、前にも書いたが、「現代におけるマルクス主義の展開」というアクチュアルなテーマが扱われているからである。これに比べて廣松氏のは、オーソドックスな(というのは、レーニン/スターリン的な、という意味ではなく、あくまでマルクスの原典に忠実である、という意味で)ものである。つまり、最後は「世界革命」が必要である理由について、マルクスに即して述べる、という古典的なものになっている。著者の誠意および物象化論についての深い思索は評価できるものの、あの独特の文体といい、結構この本に付き合うのは辛いかもしれない。「とにかく一冊でマルクスを」という向きは敬遠した方がよいかもしれない。

2006年02月08日

モデル

 ようやく苦心惨憺して「アメリカの対外関与」を読み終えた。デジカメの使い方もだいぶわかってきたのだが、問題は美しい被写体が少ないこと。どなたか、モデルになってくださる奇特な方はいらっしゃないだろうか(そうです、貴女です)。

昨日の購入
 金子勝「制度と市場の政治経済学」東大出版会

 前から古本で探していた金子の代表作。このまま非主流派経済学者のままで終わるのか。あの学識を生かさないのはもったいない。竹中とは格が違うのに。

昨日の読了
 ヘンリー・R. ナウ「アメリカの対外関与」有斐閣 A

 この本の特徴は、まだあまり日本に広く紹介されているとは言えない、国際政治学の第三の潮流である「構築主義」(これはconstructivismの訳で、「構成主義」と訳す場合もある。言語学者のソシュールを祖とし、文化人類学者のレヴィ=ストロースによって大成された「構造主義」と混同してはならない)の考え方を取り入れた本である。しかし、たとえば我が国の土佐弘之氏のように、"critical constructivism"、批判的構築主義の立場から、従来の政治学の全面的な見直しを図るという立場ではなく、この第三の視点を、従来の孤立主義、ナショナリズム、リアリズム、国際主義という伝統的な立場を修正するために使用していることに特徴がある。その結果、ナウ氏は、国際政治を捉える二つの柱を「パワー」と「アイデンティティ」に設定する。これは、「ソフト・パワー」という概念を発明したジョセフ・ナイ氏にも通ずる発想である。
 その結果、構築主義の紹介書ともなっているのだが、それを全面的に打ち出したというよりは、従来の政策の修正にそれを使用しているというものとなっている。よって、あくまで本書のねらいは、「アメリカの」外交政策を考える、というものであるから、リアリスト(キッシンジャー、ブレジンスキー、ハンチントンなど)やリベラリスト(コヘインやナイなど)の議論と同じく、アメリカ中心であることはある意味当然である。
 対日本という点に関しては、アメリカは中国よりも日本をアジアのパートナーとして考えるべきだ、その理由は日本がアジアで唯一の高度な民主主義国であるからだ、という点が目を引く。つまり「民主主義」という点においてアメリカと日本はアイデンティティを同じくしている、と彼はいいたいのだ。
 構築主義は他の文系の学問については広く取り入れられており、最後に政治学にも応用されるようになった、という経緯がある。よって、例えば文学研究などにおいてはコモンツールとなっているのに対して、純粋の政治学研究者であってもかなり疎いひとも少なくない。よって、一読すれば、専門家に対してもそれなりの論陣が張れる、という意味では、面白い著作であろうと思われる。
 ただ、筆者としては、critical constructivismにより惹かれるのだが、議論はこちらのほうが現実的とは言えるであろう。

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2006年02月10日

生理的能力

 当直というのは疲れる。

 夜中、最深度脳波を出して熟睡している(なんてことは、滅多にないが・・)ときに起こされたり、文字通り寝れなかったりする。それだけでなく、筆者のような人間には、床が変わっただけで、あるいは「いつ呼ばれるかわからない」状態で眠るだけで浅い眠りしかできないので、朝五時頃掃除のおじさん・おばさんたちがゴソゴソし始めるともう起こされてしまうのだった。
 筆者はアインシュタインに似て(そういうところだけ似てどうする・・)睡眠不足には極めて弱いたちなので、翌日の業務にとても差し支える。マルクスの「資本論」に、産業革命当時の汽車の運転手たちの話が出ているが、短時間睡眠を強いられたために、事故が続出しており、しかもその責任は運転手たちに押しつけられたそうである。今、それと同じことが医療現場で起きていることは、ほとんど問題にならない。
 以前、都立府中病院(ここもひどい病院で、近くに中核医療機関がないために、都立墨東病院と並んで、都内で最も劣悪な労働環境であるといわれている)で、「当直翌日を休みにせよ」という裁判が実際に起こされた。ここの当直はほぼ完全に起きていることを強いられるので、医師は36時間の連続勤務となる。結局、その結果、翌日の半休が認められるようになったのだが、この裁判のきっかけとなった医師は職場を追われている(ある大学の教授となったが)。同じような実態は、まだほとんどの医療現場で残っている。だから、医療事故など起こって当然、裁判などでガタガタ騒ぐな、と個人的に思っている。

 では、そのような不幸な事故を避けるにはどうすればいいか。さしあたり、スタッフ数/病床数の率の高い、つまりスタッフが比較的余裕のある環境で働いている職場に期待するしかなかろう、と思われる。現行の制度下では、そもそも病院間にかなりの能力の差があることを甘受するしかないのと同じだから(これは諸外国でも事情は同じであろう)、そもそも病院選びはかなり危険度の高い博奕でしかないのである。

一昨日・昨日の購入 なし
一昨日・昨日の読了 なし

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2006年02月11日

テレコン

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 筆者はうつ状態を身体的な症状として感ずる傾向がある。「気分が塞ぐ」よりは、腰痛、微熱といった体調不良というかたちでくるようである。また、物事が手に付かなくなる。本を読んでも面白いと感じなくなるので、当然読めなくなる。
 もっとも、読書のペースが落ちているのは、デジカメのせいでもある。筆者が前に持っていたNIKONのCOOLPIX 910では、ほとんどユーザー側の介入の余地もなかったし、画質はよいと言われていたものの、撮影者側のテクニックが大きく変わるということもなかった。それが、最近のデジカメは、一眼レフのみならず、高級コンパクト機であっても、撮影者側の設定で画質がかなり変わる。また、この機種(Ricoh GR digital)は、AdobeのDNG formatでの記録ができるので、撮影後、現像ソフトを使って好みの画質へ仕上げることも可能である。要するに、いじる余地がかなりあるのだ。そちらの方に興味と労力を割かれているということもある。
 やはり、夜景を撮るためには三脚が必要だということで、これを注文した。ふつうのカメラ店では入手困難らしい。他にもいくつか卓上三脚は出ているのだが、ベルクロテープ(このVelcroということばは、間質性肺炎の呼吸音を表す単語として、医療関係者にはなじみの深いものである)が付いていて、木などに巻き付けられるという特徴は他製品にはないものである。
 さて、三脚を使うと、手ぶれを防ぐためには、シャッターを直接押さなくても済む遠隔スイッチが必要だ、とふつうは考える。三脚に固定したとしても、シャッターを押すと、そこでカメラが動いてしまう可能性があるのだ。そこで、リモートスイッチも購入しなくてはならないのかな、と思っていたら、そう、そんな時のための機能がついていたのだ。それは、セルフタイマーである。
 カメラの説明書にも、ちゃんと「手ぶれを防ぐためには2秒のタイマーにするとよい」と記載がある。セルフタイマーというと、つい文字通りの目的でしか使わないと思いがちだが、そんな用途もあるのだ。
 そこで、今まで手ぶれのためうまく撮影できなかった夜景を、セルフタイマーを用いて撮ってみた。F値9.0、露出時間8秒、感度ISO64。
 このGR digitalには、画角を21mmまで広げる純正ワイコンが用意されている。現在、テレコン、つまり望遠側に振るためのコンバーターは存在していない。前にも書いたが、このカメラの最大の欠点は「猫が撮れない」ことであり、猫撮影のためには是非ともテレコンが必要なのだ。同じようなことを考える人はやっぱりいるようで、純正でないテレコンをくっつけて撮ってしまった人がいた。純正のテレコンが出るのを待つか(出ないかもしれない)、こういう冒険をしてみるか、迷うところである。

昨日の購入
 R.M.W.ディクソン「言語の興亡」岩波新書
 西修「日本国憲法はこうして生まれた」中公文庫
 臼杵陽「世界化するパレスチナ/イスラエル紛争」岩波書店
 W.S.チャーチル「第二次世界大戦 1-4」河出文庫

 いつ読むとも知れずにたくさん買ってしまった。まあ、「パレスチナ」以外は時事性のうすい本だからいいか。

昨日の読了 なし

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2006年02月12日

氷川清話

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 先に、友人の作品展のことを書いたが、女史の作品がひとつ自宅にあったのを写してみた。これはさすがにこのカメラの実力では手に余るようである。これは、フィルムが数層重なっており、眼で見ると立体感があるのだが、そこまでの描出はちょっと厳しかった。銀塩でないとだめなのかもしれない。実写はこちら。

昨日の購入
 豊下楢彦「安保条約の成立」岩波新書
 石母田正「物語による日本の歴史」講談社学術文庫
 網野善彦・森浩一「この国のすがたと歴史」朝日出版

 なぜか歴史書ばかりになってしまった。昨日のebookoffは、E.サイードの「パレスチナ問題」とか、ハーバード・ビックスの「昭和天皇」とか、掘り出し物がいろいろ並んでいた。

昨日の読了
 勝海舟「氷川清話」講談社学術文庫 A
 鷲田清一「『聴く』ことの力」阪急コミュニケーションズ A

 「氷川清話」にもテクスト問題があったそうである。つまり、編集者がわりと恣意的にリライトしていたというのだ。その結果、勝の意図がかなりねじ曲げられていたらしい。これを読んでわかるのは、勝は日清戦争には反対しており、日韓中の経済圏樹立を考えていたらしい。それは、東洋対西洋という枠組みの中ということではなく、あくまで地域の軍事的・経済的な結びつきを強め、共に発展していこうという共栄圏構想だったようだ。「中国の強大な人口は市場」とこの時代に言い切っていたのは慧眼としかいいようがない。また日本中心的な視野ではなく、グローバルな視点から日本という国を見ていたそのスケールにも驚かされる。
 鷲田のこれは代表作。彼の後年の作品はほぼこれのモチーフの繰り返しとも言えるので、これ一冊読めば十分である。最も、内容については批判なしとはしないが・・

2006年02月13日

限界状況

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 Ricoh GR digitalを購入してからというもの、まさに泥棒を捕まえて縄をなう式に、いろいろ情報を集めている。
 このデジカメの開発コンセプトは絶妙のものだという感を強くする。コンパクトデジカメ(なにせ200gしかない)だから、画質で言えば一眼レフには太刀打ちできるはずのないところ、高画質のためにズームを断念、CCD面積の小さいコンパクトデジカメの欠点(被写界深度が深い)を長所に変えるべく、広角レンズを採用。もちろん、これは銀塩時代のGRが28mmの広角を積んでいたからではあるけれども。
 さらに調べていてわかったのは、本気で使うならば21mm相当の超広角撮影が実現できるワイコンを買うべきだ、ということだ。どうしてワイコンだけあってテレコンがないのか不思議に思っていたのだが、いろいろ調べて納得。一眼レフで21mm相当の広角撮影を実現しようとすれば、標準ズームレンズでは不十分で(だいたいどの機種も最高28mmのようだ)、新たに広角レンズを購入しなければならない。すると4,5万吹っ飛んでしまうのだ。アダプタおよびコンバーターの2万円の出費で21mmがゲットできるなら安い買い物、と考えるのがふつうであろう。
 しかし、このカメラの一番の長所はその携帯性にあるのだから、あくまで28mmのままで使いたいという気持ちもあるので、少々考えたい。21mmのワイコンを接続して首からぶら下げたら携帯性も何もないからである。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 佐伯啓思「倫理としてのナショナリズム」NTT出版 A
 ソルジェニーツィン「収容所群島4」新潮文庫 A

 佐伯氏の著書をまだ読んだことのない方には強くお勧めしたいのが本書。「新しい歴史教科書」にはさまざまな人々が集っているが、もっとも良心的なのがこの佐伯氏と亡くなった坂本多加雄氏の二人であっただろう。賛同するかどうかは別として、グローバリズム、リベラリズム批判として、傾聴すべきものをたくさん含んでいる。
 「収容所群島」、一部を引用してみる。
『サマールカ収容地点で一九四六年にインテリたちのグループが衰弱しきって、死ぬ寸前にあった。(中略)自分の間近い死、それは数週後ではなく、数日後に訪れるはずの死を予知しながら、彼らは壁らしきところに陣取って、眠れない自分の最後の自由な時間をこう過ごしているのだーーチモフェーエフ=レソフスキーが彼らを集めてゼミナールを開き、(中略)チモフェーエフ=レソフスキー自身は、彼らに微視的物理学の話をする。回を重ねるにしたがって、参加者の人数は減少するーー彼らはすでに死体安置室にいるのだ・・・
死ぬ前からすでに硬直していながらも、これらのことに興味を示す人こそが、真のインテリゲンチャなのである!』
 ゲオルグ・ゲオルギウの「明日世界が滅びるとしても、今日もりんごの木を植える」に通ずる、人間の尊さがここには認められないだろうか。V.フランクル「夜と霧」のように、限界状況でないと見えないものは人間世界にはあるようである。

2006年02月14日

一眼レフ(2)

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 書いた原稿を不注意で消してしまい、泣き・・・

 読書とは関係のない話が続いて申し訳ない。
 個人的に嬉しいことがあり、一眼レフの購入を検討してもいいかな、と思うようになり、再度調べてみた。
・画質は今でも銀塩が勝る
 如何に銀塩一眼レフというのが完成された技術であったかわかろう、というものであるが、逆に数十万も出せるなら、わざわざデジカメを選ぶ理由があるのだろうか? 黎明期のCDとアナログレコードのような関係にあると考えられる。
・デジカメ一眼レフの規格は統一されていない
 これは、銀塩には35mmという統一規格があることと比較しての話である。デジカメの場合、銀塩の感光紙(フィルム)に当たるのは、光をデジタル信号へと変換する撮像素子である。これはCCDあるいはCMOSという素子になるが、その大きさが35mmフルサイズ、APS-Cサイズ(24mm)、そしてフォーサーズ(18mm)の三種類あるのだ。キャノンの高級機はフルサイズ、キャノンの普及機とニコンのほぼ全一眼レフはAPS-Cサイズ、そしてオリンパスはフォーサーズを採用している。
 さて、単純に考えれば、露光部分が大きければ単純に画質も上がりそうである。しかしそうではないのだ。銀塩フィルムでは、斜に入る光もフィルムを感光させるが、CCDあるいはCMOSの場合、垂直に入ってくる光以外は反応しない性質を持っている。そのために、特にレンズの周辺部の屈折して入ってくる光の受光が十分でなくなるということが起こる。つまり、フォーサーズのほうが、ある意味レンズの性能を生かせるということにも(理論的には)なりかねないのだ。
 今のデジカメ一眼レフでは、35mm銀塩時代の交換レンズをそのまま用いることができることが多いのだが、以上の理由より、銀塩よりもレンズの性能を生かせないという事態が起こることになる。
 現に、各カメラメーカーおよびレンズメーカーは、APS-Cサイズのデジカメに特化した、またはフォーサーズのデジカメに特化したレンズを発売している。これらは35mm銀塩用のレンズよりもデジカメではよい画質が期待できるものである。反面、もし、この規格が最終的に統一されないために、買いためたレンズの資産が無駄になってしまうということが生じたとしたら、それは由々しき問題である。

 一眼レフの場合、銀塩でいうとフィルムの大きさがまだ統一されていない現状において、無難な選択肢は以下の二つとなろう。
1)レンズ資産の繰り延べは考えず、現行で安価に入手できるものを選択する。
 この方針からは、フォーサーズ陣営のオリンパスE-500の標準ズームレンズ付き(90,000円くらい)がよい選択と思われる。または、APS-Cサイズの素子を持つキャノンのEOS Kiss digital Nの標準ズーム・望遠ズームキット(120,000円くらい)がもう一つの選択肢となる。E-500もkiss digitalも、一眼レフとしては破格の軽さ(レンズ込みで700-800gくらい)を誇るのも嬉しい。
2)しばらく様子見
 取りあえず、手持ちのGR digitalの活用を考える。問題は、「猫が撮れない」という欠点をどうカバーするかだが、おそらく、リコーサイドへ「ワイコンだけでなく、テレコンも出して欲しい」という要望はかなりあるものと予想されるので(二倍テレコンなら55mm標準レンズとなり、ほぼ見たままに撮れることになる)、それを待つか、出る予定がなければ、画質はかなり落ちるであろうが、ケンコーの汎用二倍テレコンを購入して、猫用として用いるか・・・問題は、やはり猫なのである。

 どちらにせよ、以前のデジカメから比べると、GR digitalの画質は格段の進歩があるので、猫以外のことはそれほど不満には思わないのだ。冒頭の画像、赤坂見附の歩道橋から、ベルビーを右手に撮った。歩道橋が揺れていたので、多少のぶれは仕方がないところか(補正機構がないから)。
 でも、ズーム欲しい・・・^^;

昨日の購入
 鶴見俊輔「回想の人びと」ちくま文庫
 小島信夫/森敦「対談・文学と人生」講談社文芸文庫

 鶴見氏、最後の「戦後を代表する知識人」である。どうかいつまでもご健勝で。
 二人の芥川賞作家、作風はかなり違うが、両方とも今の時代には求められない「文芸」的な小説を残している。小島氏の「うるわしき日々」(有名作「抱擁家族」よりは、こちらをお勧め)、そして森氏の「月山」、不朽の名作である。

昨日の読了
 岸田秀/K・バトラー「黒船幻想」河出文庫 C

 評価Cというのは、つまらないという意味ではない。岸田氏の著作に親しんでいる方なら読まなくともよいだろう、という意味である。はじめて岸田氏の著作に触れるかたなら「なるほど!」と思うであろう。
 岸田氏の「外的自己・内的自己」の概念装置は、フロイトが源流と思っていたのだが、実はR.D.レインなのだそう(「引き裂かれた自己」)。岸田氏がレインを読んでいたとはある意味意外だった。
 もっとも、レインは二、三十年前に日本でブームになって、かなり読まれた。その影響で、神田古書街などには、みすず書房から出ているレインの古書が大量に眠っている。

2006年02月15日

古書あれこれ

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 昨日はバレンタインデーだった。ほとんど筆者には縁のない日なので、そのことについての詳細は省こう(笑)。
 カメラ、いろいろ悩んでも仕方がないという結論に達する。はっきりしていることは、今のコンパクトデジカメだけでは、撮影できる写真が限られていることは事実なのだが、プロではないわけだし、今まで銀塩写真もインスタントカメラでしか撮ったことのない人間が、いきなり高級機を買ってもムダなことは明らかだ。しばらくは今のカメラで遊んでみて、オリンパスのE-500あたりが安くなったら購入しようかとも思う。

 珍しく(?)本の話題。きょう、ebookoffを見ていたら、何と学術本が半額で次々と出てくる。いったい誰が売ったのだろう? もし、古本屋の主人であれば、間違いなく即購入である。例えば・・
・ジェイムズ・クリフォード/ジョージ・マーカス「文化を書く」紀伊國屋書店
・トーマス・クーン「科学革命における本質的緊張」
・富士川義之「新=東西文学論−批評と研究の狭間で−」以上みすず書房
 特に「文化を書く」は、文化人類学叢書の中で、定評ある書籍にも拘わらず絶版。筆者は半年くらい根気よく「日本の古本屋」でチェックし、ようやくゲットした。

昨日の購入
 アルフレッド・W・クロスビー「史上最悪のインフルエンザ」
 マイケル・イグナティエフ「アイザイア・バーリン」以上みすず書房
 佐伯啓思「総理の資質とは何か」小学館文庫
以上三冊はebookoff
 最上俊樹「国境なき平和」
 ミンコフスキー「生きられた時間」以上みすず書房
以上二冊は、青山学院前の古本屋、中村書店で。ここは、みすずや法政大学出版などの新古書が時々出るようだ。みすず書房には大変申し訳ないが、筆者はここの出版社の書籍をほとんど書店で購入したことはない。なぜか、岩波と同じで、出版されて数ヶ月後には、新古書店にわりと豊富に出てくるのである。でも、アイザイア・バーリンの「自由論」、これはなかなか出てこないなあ・・

昨日の読了 なし

 パソコンの画面に向かっていることが多く、あまり読む気にならない。筆者は、一度何かを気にしてしまうと、なかなか意識がそれから離れないたちで、ここ一週間くらいはデジカメのことが気になっていたのである。でも、ようやく折り合いを付けられそうである。

2006年02月16日

キヤノンの体質

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 一眼レフの話から少しずれる。どうやら一眼レフ分野ではキヤノンの一人勝ちになる可能性がたかそうだ。それは、センサーの大きさをフォーサーズやAPS-Cサイズに止めなかったからである。いずれ素子を作る技術は進歩し、大きいセンサーが安価で作れるようになる。すると、過去のレンズ資産がそのまま生かせる35mmフルサイズセンサーが選択されるのは理の当然だろう。
 しかし、筆者は、キヤノンという会社の体質について少々疑問を持っていた。キヤノンはトヨタと会社の体質が似ているといわれているらしい。また、御手洗会長自身も、尊敬する企業としてトヨタを挙げている。トヨタにせよ、また医療の世界では武田製薬にせよ、業界のトップの会社のやり方は共通している。こういうのを「日本的経営」というのかもしれないが、新技術を第一番には出さず、二番手三番手にその改良型を出し、一気にシェアを掠ってしまう、というやり方だ。そして、デジカメに関して、キヤノンはこのトヨタ流を踏襲しているというのだ。
 筆者はこういうトヨタ流(というよりタケダ流)のやり方が気に入らない。危険を冒して新技術を出してくる会社を評価すべきであると考えている。だから、薬剤の中では「先発品」を好んで処方するのだが、キヤノンによいイメージを持っていなかったことには別の理由があった。それはキヤノンという会社(というより御手洗氏自身の性格?)の保守性である。
 キヤノンはあの「新しい歴史教科書をつくる会」に献金している筆頭の大企業だ。筆者は、たしかに「従軍慰安婦という項目を歴史教科書に載せるのはバランスが悪い」とするこの会の主張はもっともだと思うのだが(他に生徒が学ぶべきことはあるだろう)、さりとてこの会の誇大妄想にもついていけない。ところが、さいきん御手洗氏はトヨタの奥田氏から「忠告」をうけて、従来の保守的発言を撤回しつつあるらしい。さすがに、陰の経産省と呼ばれるトヨタは、対米・対中の輸出台数を自粛したり、中国の反感を買わないような用意周到な発言をしたり、読みが深い。「師と仰ぐ」ことでそういう読みの深さを見習うのはよいことではないだろうか。キヤノンが献金をやめればもっと前向きに製品の購入を考えるのだけれど。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 エミール・ゾラ「大地(上)」

 評価はこれから。「ジェルミナール」よりも、小説としては練れていそう。しかし、これを「自然主義文学」と呼ぶのはなぜだろう? どこが「自然」なんだろう・・・

2006年02月17日

古本コレクター廃業

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 昨日をもってebookoffのチェックをやめた。理由は二つある。

 ひとつは、別のことに散財を考えているからだ。想像はつくであろう(笑)。現在、正確には数えていないが、月々の書籍代はかなりになる。たぶん三万から五万の間くらいだろうか。十万はいっていないとおもうのだが・・・
 もうひとつは、さすがに出納があきらかにプラスバランスになってきていることだ。金銭のことではない。本を置くスペースがなくなりそうなのだ。二度と読まないと思われる本はまとめて処分しようと思っているが、結局ハードカバーの本はそのまま残りそうだし、まず現在の未読書籍を片付けることを先にしなければならない。
 なので、神田古書街歩きもほどほどにして、守りに入ろうかと考えている。もっとも、今ある本を読むだけでも、膨大な時間が必要であることはいうまでもない。「高坂正堯著作集」とか、「ブルデュー・コレクション」だけでも優に数ヶ月は潰れそうだ。完璧主義ではないつもりだが、強迫神経症の傾向があるのは否定はできないだろう。

 さて、このキーボードは、PFUのHappy Hacking Keyboard Professionalである。スイッチに、静電容量無接点式を用いているのが特徴。ふつう高級キーボードにはメンブレイン型が用いられることが多いが、このキーボードはその歯切れ良さが特徴だ。実際には東プレのOEMだ。
 万年筆といい、時計といい、筆者にはこういった文房具にこだわる傾向がある。循環器医でもないのに割と高級な聴診器を使っているのもそのひとつだが、実際、心雑音が聴き取れるかどうかは、医師の技量よりも聴診器の質に依存するのだから、数千円の安物の聴診器を使っている限り、きちんとした聴診は不可能なのである。筆者は検診で今まで見逃されてきた心雑音を何度か発見したが、それは単に聴診器が優れていたためなのである。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 ソルジェニーツィン「収容所群島5」新潮文庫 S

 この第五巻には謹んでS評価を進呈したい。これは、部分的に引用するよりは、やはり原著に当たっていただきたいと願う者である。厳重に監視された特殊収容所から、どのようにして囚人(といっても、「58条」による政治犯・・というか、本当は政治犯ですらないふつうの人びと・・)が脱走を試みるのか、そしてそれを成功させ、また台無しにしてしまうのはいったい誰なのか、どうしてなのか・・今の日本もまた違った意味で「収容所群島」と言えるだろうけれども、この現代を生き抜くために限りない示唆を与えてくれているように筆者には思われる。

2006年02月19日

地球温暖化

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 自宅から六本木ヒルズを望む。54mm(35mmフィルム換算で108mmのズーム)、F11、10秒。ISO 100。露出を上げて撮ると、肉眼では見えないリキマンション(と言っても、お若い方はご存じないであろう)がはっきり写っているのは恐れ入った。

 NHKスペシャル、表題のテーマを扱った番組。この問題にはヨーロッパが最も熱心で(カナダやニュージーランドもそうだ)、アメリカ・中国・インドの三国をどう説得してゆくかが、大げさに言えば人類の命運を分けるとも言えそうだ。中国とインドという二大途上国の問題は置いておくと、これはヨーロッパの共和主義とアメリカの自由主義の戦いと言えなくもないのではないか、とふと感じた。

 100年後、当然自分は死んでいるわけだが、自分がいなくなった後の地球や人類の行く末をどのくらい真剣に考えられるかということも、人間を測る重要な尺度であるような気もする。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 エミール・ゾラ「大地(中)」岩波文庫

 この小説を読んで真っ先に連想するのは、あのパール・バックの「大地」である。フランスはファッション産業のイメージから農業に立脚していた伝統的中国とは相容れないような気がするが、今でもフランスは農業国なのである。この巻で登場する「都市から発生する人糞が大地を肥やしてゆく」というイメージは、また違ったフランスの一面を表しているように感じる。

2006年02月23日

面白いと感ずること

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 「興味を持つ」というのは、かなりそれ自体が興味深い心理状態である。おそらく脳科学的には、ある一群のニューロンが励起している状態なのだろうが(ドパミン系だったような記憶がある)、あるひとつのことをねばり強く追い続ける性格のひともいれば、次々と興味の対象が変わってゆくひともある。筆者は間違いなく後者だ。
 このことについてはまた触れると思うが、今読んでいる本が実につまらない。投げ出したくなるのを我慢して少しずつ読んでいる。興味を感じられないのは、著者がどうしてそのようなテーマを取り上げたのか、つまり、著者のそのトピックへの興味がまったく理解できないからである。
 筆者は芸能・スポーツ関係のニュースにはほとんどまったく興味がないが、他人がどうして興味を持つかについては想像がつく。本を読んでいても、その著者がある事柄に情熱を持つ理由、面白いと思う理由を理解できれば、たいていは著者の熱気に引きずられるかたちで読み進められるものである。ところが、くだんの本は、なぜ著者がそのようなことを取り上げているのか、どこが面白いのか、その理由がまったく理解できない。こういうのは難行苦行である。

 明日、本来は出席せねばならないある会合があるが、不義理をすることにした。それについても書きたいことはあるのだが、どうも今ひとつ心身共に不調なので、このくらいにしておく。疲れているのだろうか。

昨日の購入・読了 なし

2006年02月24日

旧友

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 きょうは友人に久しぶりに会ってきた。前にこちらでちょっと触れたひとだが、先日渋谷へ行って作品を撮ってきた一部をアップしてみた。画面中央付近に見える円形の物体が糸球体である(笑)。以前会ったときとだいぶ印象が違ったので驚いたが、ようやく薬の影響が抜けてきたということである。これからも一層制作に邁進して頂きたい、と思う。
 前から渡すことになっていた草間彌生の作品集を持って行ったのだが、このひとの作品に触れたことのないかたは、一度ネット上で検索してみてみるとよいだろう。日本を代表するアーティストのひとりだが、ムンクよりもはっきり「病気」である。友人の指摘だが、「病気を必死にまとめようとするとあの作品になる」ということで、たしかに、たんに病気であるだけで作品を作れるはずはないのだ。ソ連の収容所に強制入所させられた人は一千万人はいたわけだけど、その全部が全部ソルジェニーツィンになれたわけではない。ある人の成果を「特殊な体験」にすべて帰してしまうのは評論家のわるいくせだとおもうが、心したいものである。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 岸田秀「フロイドを読む」河出文庫 A
 ソルジェニーツィン「収容所群島6」新潮文庫 A

 岸田唯幻論は現代に生きるわれわれにとって必読の文献のひとつであると信ずるが、「ものぐさ精神分析」「続・ものぐさ精神分析」(以上中公文庫)、そして本書と「幻想の未来」(河出文庫)の四冊がそのエッセンスであると思われる。
 ソルジェニーツィンの六冊、ついに読了した。ダンテの「神曲」に比されるべき本作、もともと「煉獄の中で」のタイトル(The First Circle」)がダンテから取られているように、ソルジェニーツィン自身もそれを意識していたふしがある。ともあれ、この六冊が絶版のまま入手困難であるのは許せない。早々に再版するか、版権を譲り渡して別の出版社から出すべきである。

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2006年02月25日

幻想の未来

 読書に関するメモのみ。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 岸田秀「幻想の未来」河出文庫 A

 なんと、故小此木啓吾先生が「解説」を書いている。これがまず読了してみての驚き。そして、まさに「書き散らかしている」印象のつよい岸田の本の中で、文藝春秋への連載にも拘わらず、ほとんど唯一といってよい、体系的な叙述。小此木先生のいうとおり、岸田唯幻論の代表的著作と言っていいだろう。強く推薦したい。

2006年02月27日

恋愛の不可能性について

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 本棚がぼけているのは気のせいではない。フラッシュを炊かないとこういうことになる。
 先月購入した新刊をざっと浚ってみた。新刊といっても、講談社学術文庫やちくま学芸文庫は、すでに刊行された書籍の再版であるから、実際の出版年度はかなり前のことが多い。翻訳本ならなおさらである。しかし、これらに入れられるということじたいが、書籍にとってはある意味ステータスとなる。毎年大量の学術書が出版されるが、その中でも後世に残したい、あるいは文庫化してより多くの読者に触れてもらう価値がある、と判定された本だからである。
 まあ、それなら一度文庫化されたものを、簡単に絶版にはしてほしくないのだが>特に筑摩書店

昨日の購入 なし
昨日の読了
 大澤真幸「恋愛の不可能性について」ちくま学芸文庫 C
 大嶽秀夫「再軍備とナショナリズム」講談社学術文庫 B

 大澤真幸は脚光を浴びている社会学者である。代表作は勁草書房から出ている「身体の比較社会学」という大部の著作である。この本が彼の「学問的」著作の中でどんな地位を占めているのかは、本格的に追跡をしてみないことにはわからないのだが、著者のある意味一番悪いクセが強烈に出ている本ではないか、という気がしないでもない。恋愛と言語論、貨幣と私的言語、数学と社会学、といった、一見無関係なものの共通性を指摘するのはよいのだが、それにいったいどんな意味があるのか、その共通性を指摘した先に何があるのかが不明瞭である。その上に、この著者は「弁証法的思考」がお好きなようなのだが、「A極まってBとなる」という論理と、「AにとってBが他者であるとき、BはAの世界に包摂されることはない」という、レヴィナスの他者論のふたつの論理の射程に、ほとんど全議論が収まってしまっている。二つの相反するものの関係が、著者においては究極的に融合してしまうか、別世界のものとして触れ合うことがないまま終わるか、どちらかしかないようなのだ。これはほとんど何事をも言っていないことに等しい。議論の抽象性もさることながら(社会学はそれほど抽象的な学問なのか? これでは哲学とどこが変わるというのだろうか??)、この意味のない論理構成が読書意欲を減退させる。著者の本に好感を抱いてきた筆者としては(以前から、「弁証法的思考」が全面に出過ぎとは、別の論者から指摘されてきたとはいえ)、たいへんにがっかりさせられる本であった。'95の出版とのことだが、今さら学術文庫に収める価値が果たしてあったのだろうか? おそらく、出版業界的には、こういう本は褒めなければならないものなのだろうが(何となく想像がつく)。

 一転して、大嶽氏のほうは、軽くしかも興味深く読み流せる。ドイツの再軍備をめぐる議論と日本のそれを比較して、どうして日本では自衛隊という「歪んだ」かたちになってしまったのか、それを吉田茂に代表される保守、鳩山一郎・芦田均・石橋湛山などの(オールド)リベラリスト、そして西尾末広らの社会党右派(のちの民社党)の三群に分けて考察したものだ。一読して戦後の防衛と再軍備をめぐる論議が見渡せるようになる。一読の価値ある本である。

2006年02月28日

無購入

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 ここ数日、春眠暁を覚えず、ではないが、とにかく強烈に眠い。帰りの電車の中でも、本が読めずに睡魔に負けて寝てしまう。おかしいなあ、と思っていたが、やはり原因はどう考えても花粉症だろう。花粉症自体が眠気を誘うわけではない。抗アレルギー剤で「最も眠気が少ない」とされる某薬を服用しているのが原因である。やはり、もう服用を止めよう・・・

 一昨日は26日であった。2.26事件で殺害されてしまった高橋是清蔵相の邸宅が近くにあり、今は公園となっている。よく知らないのだが、筆者とは遠い縁戚に当たるらしい。公園にはご覧の銅像が建っている。

 久しぶりに書店にゆく。通常、購入して帰らないことなどないのだが、いくつか欲しいものはあったものの、見送ってしまった。まずは、現在の書籍を読了することを第一に考えよう。
#「世界を変えた感染症」(だっけ)なんか、読みたいと思ったけれども

昨日の購入 なし
昨日の読了
 岸田秀「幻想を語る(上)」河出文庫
 E.サイード「ペンと剣」ちくま学芸文庫 B

 前者は(下)と併せての評価としたい。サイードの本、個人的にはすべてA評価としたいくらいだ。ご存じの通り、現代の古典とも言える「オリエンタリズム」そして「文化と帝国主義」を表したサイードは、パレスチナを代表する知識人として、一貫してパレスチナ問題に対して政治的な発言を行ってきた。惜しまれつつ白血病のために2003年に亡くなったが、本書はインタビューに答えるかたちで、サイードの政治的信条と著書執筆の背景の解説などが語られており、サイードの入門書として、またサイードの本の読解の手引きとして、見逃せないものであろう。
 サイードの主著、「オリエンタリズム」は平凡社ライブラリーに収められている。筆者の強く推薦したい古典のひとつである。強く一読をお勧めしておきたい。

2006年03月01日

恋の情熱

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 まず、某メーリングリストで流れた記事の再掲。

「神経細胞成長因子(nerve growth factor:NGF)に関する興味あるイタリアの研究者の報告として、新しい恋人を見つけた58人のカップルの血中NGFレベルを測定したところ、恋人のいない人、長い間恋愛関係にあるカップルに比べて明らかに高かったとのことである。
 しかし、同じカップルを対象にした1年後の調査では、同じ相手が恋人である場合には血中NGFレベルは既に恋人がいない人たちのレベルに下がっていたと報告されている。
 この報告が正しければ、恋の情熱は普通1年以上続かないことを客観的に示したデータであるといえよう。」

 まぁ、情熱が続かなくても、愛情が長く持続すればいいんじゃないか、という気がしないでもない。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 岸田秀「幻想を語る(下)」河出文庫 A
 ケネス・ルオフ「国民の天皇」共同通信社 A

 「フロイドを読む」「幻想の未来」と並んで、河出に収められた岸田秀の書籍の中では出色の出来である。なにせ対談相手がよい。日高敏隆、いいだもも、伊丹十三、そして栗本慎一郎・・・それぞれ専門を異にする数々の相手を選び抜いたのは、岸田唯幻論のよき理解者のひとりである、元「現代思想」編集長の三浦雅士氏である。この対談集の成功のなかばは三浦氏の手腕によると言えるだろう。現在絶版になっているようだが、入手は比較的容易であると思われる。
 ケネス・ルオフは筆者とあまり年齢が変わらない。これだけでも読んでいて鬱になるが(笑)、主に戦前という文脈で天皇制が語られたり研究されたりすることが多いのに比べて、本書の価値を高めているのは、これが戦後の天皇制についての研究本であるということだ。また、建国記念日や元号法制化についての「草の根ナショナリズム」も分析されていて、それが戦前のファナティックなものとは質的にちがって、むしろ新憲法や民主主義と結びついた、非復古的なナショナリズムであるという指摘は、真偽は別として興味深い。戦前からのさまざまな部分が戦後においても残存している、つまり戦後は戦前と連続性を持っている、とは、野口悠紀雄氏の「1940年体制説」をはじめとして、さまざまな論者により指摘されていることだが、そういうことに興味のある方にとっては必読の本の一冊であると思われる。

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2006年03月03日

少年時代

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 いままで、GR digitalで撮った夜景(要するにヒルズのこと)は、7-14%に縮小して載せていたのだが、よく考えてみれば最初からトリミングして部分現像し、それを縮小すればより縮小率が少なくて済む(はず)。というわけで、建物の部分だけ切り取って現像してみた。広角レンズにしてはよく撮れているんじゃないでしょうか。何せ、ここから1.5kmくらい離れているわけだし。

 さて、本当は今日は別に書くことがあるのだが、それはまた折りを見て触れることにする。そればっかりだけれども。

昨日の購入 なし

 図書券がかなりたまってきたので、シリーズで欠品があるもの(下巻がない、とか)を新本で補うつもりである。「罪と罰」の新しい江川卓訳(といっても、もう10年くらい経っているか?)など、下巻のみ持っていない。昔は中村白葉訳で読んだものだ。前にも触れたかもしれないが、実は日本にロシア文学が紹介されたのはかなり古くて(アメリカなどよりもずっと早い)、トルストイやドストエフスキーはほぼ同時代に入ってきている。日本に紹介したのは内田魯庵と二葉亭四迷という当時の文壇の大御所だったのである。

昨日の読了
 佐伯啓思「総理の資質とは何か」小学館文庫 C
 トルストイ「少年時代」新潮文庫 B

 佐伯氏の本、実は2006年3月においても一読の価値はある。C評価にしてしまったのは、田中真紀子問題に触れてあったりするところで、さすがに今となっては意味のない分析となってしまっている。小泉改革なるものの中身に関する分析などは現在でも当てはまるであろう。しかし、本として旬を過ぎてしまっている。
 「少年時代」これは評価の分かれる小説だろう。「幼年時代」「少年時代」そして「青年時代」はトルストイの自伝的小説として定評があることになっているが、筆者にはあのプルーストの自伝的小説、「失われた時を求めて」が耐え難かったのと同じような印象を本書にも覚える。つまり、大人になってしまったトルストイから見る若き日の自分は、自意識過剰で尊大であるという「おとな」になっていない「こども」の共通の性質を濃く持っていて、それが客観的筆致でなく、「ぼく」が記すという一人称形式の小説になっているために、主人公に感情移入して読むというスタイルでは、繊細な感受性に共感を覚える読者もいるのだろうが(「失われた」のように)、筆者は成熟していない人間の像をこのように提示されることは好きではない。不快にちかい気持ちを覚える。反面、文学作品として客観的に見た場合には、その少年期特有の「狭い」世界をしっかり捉えていて、高評価になるのだろう。そこでB評価にしておいたが、小説として読んで気持ちがいいか、といわれると、否、と答えざるを得ない。

2006年03月04日

靖國神社

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 いつかゆかねばならぬと思いつつ、いつも鳥居の前でそこをくぐることを躊躇した場所にようやく行ってきた。この神社のあらましについては改めて紹介するまでもないであろう。神社の中にある記念碑によれば、もともとここは神道無念流(桂小五郎が有名か)の道場、練兵館があったところだそうだ。それもこの神社にふさわしい(?)と言えよう。
 何といってもこの神社を有名にしているのはあの遊就館である。題字を閑院宮載仁親王(1931-1940 参謀総長)が書いている。入場料1000円を払うのがもったいなかったので、入り口の広場は無料、そこに入ってあの有名な「零戦」を撮ってきた。迫撃砲なども展示してあって、戦没者の慰霊というよりは、むかしの鎮護国家思想を濃く伺わせるような感じ。じっさい、「国を守ろうとして亡くなった英霊の弔い」というよりは、これら英霊によって国を守ろう、というコンセプトに見える。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 トルストイ「青年時代」新潮文庫 B

 ほぼ昨日「少年時代」について書いたことがそのまま当てはまる。それにしても、貴族が「身分が低い」というだけで、平民に対して優越感を抱くというのは、それだけでも読んでいて気分が悪い。

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2006年03月06日

登山

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 ほとんど撮影が目的で、奥多摩の低山に登ってきた。
 場所の条件は、アイゼンの必要のないこと、そして眺望のよいこと。この時期は、北側ではまだ残雪があるし、南面は溶けたあとに凍結していることもあり、ちょっと危険である。今回選んだ場所でもその危険があった。なので、当初は奥武蔵の棒ノ折山に登るつもりでいたのだが、これではあまりに歩き甲斐がないために、奥多摩の高水三山とつなげて歩く計画を立てた。
 ところが、バスの時間に見事に遅刻したために、急遽コースを変更。休日の特別列車の停車する御嶽駅から登るコースへ変更したため、六時間のロングコースとなってしまった。
 撮影のポイントは棒ノ折山山頂。しかし、天気もそれほどよくなく、眺望も榛名山、赤城山などに限られるために、せっかくの望遠レンズもほとんど役に立たなかった。三脚なども含めて、8kgくらい背負っていったのに・・・くすん。
 ただ、下山時にはゴルジュ帯といって、沢が岩を浸食したあとにできる狭い谷間を下るなかなかよいコースであったため、通過するときにかなりの枚数を撮影したために、下山したのは四時半くらいになってしまった。終点の有間ダムはロックフィル式のダムである。
 帰りには名栗村営の日帰り温泉に漬かる。終バスは飯能行き18時。この味を覚えてしまうと、もう温泉のないところへは行けない(笑)。

一昨日・昨日の購入 なし
一昨日・昨日の読了
 R.M.W.ディクソン「言語の興亡」岩波新書 B
 豊下楢彦「安保条約の成立」岩波新書 A

 前者は岩波新書に収めるには適当な内容ではないと思われる。議論はかなり専門的で、言語学者が読んでもそれなりの評価に堪える学術論文である。
 後者の推論はかなり衝撃的だ。ハーバード・ビックス「昭和天皇」の天皇観、すなわち、天皇は能動的に戦争を遂行した、との結論に対して、ピーター・ウェッツラー「昭和天皇と戦争」は、昭和天皇は天皇家および天皇制の存続が彼にとってのすべてだった、との昭和天皇観を提示して真っ向から対立していた。豊下氏の安保成立史観は、後者に近いものであり、さらに衝撃的である。つまり、米軍の日本駐留、沖縄占領を積極的に推し進めたのは昭和天皇である、という仮説を提示している。思うに、この推論はかなり信憑性の高いものであるように思われる。著者が最後に書いている事実もショッキングだ。つまり、沖縄の米軍基地内に存在する遺跡が次々と破壊され、民俗学者を嘆かせているという。日本で最後に残った聖域は、天皇陵(あるいは宮内庁・外務省に眠る天皇関係の資料)と治外法権(米軍基地)だということなのである。
 筆者の推論は資料公開がないかぎり立証されることはないが、これが真実だとすると、昭和天皇こそ史上最悪の売国奴、ということになる。右翼はこれをどう考えるのか。十五年戦争への天皇の態度も併せて、天皇制存続のために、どれだけ国民は犠牲になったのか、計り知れない損失かもしれないのである。

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2006年03月07日

m3.com

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 憂うつになるなら読まなきゃいいと思うのだけれども、メールを受信するとポイントがたまってくるらしい。50pointをレイテ島地滑りの義捐金として寄付した。思うに、イースラムやユダヤ教では、収入から喜捨する額が自動的に決まっているが、これはとてもよいシステムだと思われる。自分の生活と虐げられている他人の生活と、バランスよく金銭を振り分けるシステムは、国家による税金の徴収とその再分配ということになるが、そのしくみをもって自らが倫理的に正しい行いをしていると確信できる国民はほとんどいないだろう。何とかしたいという気持ちに応じて何万円も寄付することもできるが、おいしいものも食べたいし旅行にも行きたい、などという欲望との釣り合いを考えると、やはり宗教によってその比率が決まっているのが合理的と思えるのである。

昨日の購入 なし
だいぶ図書カードが貯まってきた。

昨日の読了
 山室信一「日露戦争の世紀」岩波新書 C

 悪い本ではないが、特別これといった特徴が見られないように感じた。日本の近代史(明治以降)を調べるには、やはり中央公論社の「日本の近代」シリーズがよいだろう。大部だが購入する価値はある。

2006年03月08日

文豪

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 契約更改の季節である。今の職場は、何と原則として一年毎の契約更新ということになっている。ボーナス、退職金なし、という給与設定を見ても、長期在職を前提としていないことはあきらかである。今、有能な同僚のひとりが、条件の不一致を理由に解雇もあり得ると脅されている。彼が有能であることは首脳部も認めているらしく、そのうちのひとりが「泣いて馬謖を斬る」と言ったらしいが、斬られるべき「馬謖」(本当は無能なのに恰も有能であるかのように振る舞い、実力に見合わぬ抜擢を受けた人物)とは、その放言した幹部(実は副院長だ)であることは、職場では院長を除いて誰一人として知らぬものはない。そもそも、スタッフを大事にしない病院が、患者を大事にするはずがないのだ。
 まあ、誰でも自分の職場を低く見積もるのがふつうだと思うので、話半分に取っていただいた方がよいのかもしれない。馬謖の話が事実であることだけは太鼓判を押しておく。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 エミール・ゾラ「制作(上)」岩波文庫

 フランスの作家で「文豪」の名にふさわしいのは、バルザック、スタンダール、そしてゾラの三人だというイメージを持っている。プルーストやカミュを「文豪」とは呼ばないのではないだろうか。
 日本だと漱石・鴎外の二人は別格として、どのあたりを「文豪」と呼びたくなるだろうか? イメージとしては谷崎や川端だろうか。単に多作であるだけでは「文豪」とは呼ばないだろう。ちくま文庫から全集の出ている作家のうち、泉鏡花や坂口安吾を文豪とは呼ばないだろう。なかなか不思議な含蓄を持ったことばである。

2006年03月10日

プリンセス・キコ

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 都立公園は意外によく整備されている。あの吝い石原都知事も「自然」は好きなようである。本日は眼科の帰りに夢の島公園へ寄ってきた。新木場駅から徒歩すぐであるが、ここには都立公園唯一(実は23区でただ一つでもある)の熱帯植物園がある。
 病院の帰りで、しかも雨だったので、E-500は置いていった(しかも三脚使用禁止だし)。GR digitalで熱帯の草花を激写してきた(笑)のだが、日差しがないために高感度の撮影を余儀なくされたうえに、このデジカメのひとつの致命的欠点に気づいてしまった。そう、一般的にデジカメは「紫」が弱点といわれているのだが、このGR digitalは全然ダメなのだ。赤紫の花をホワイトバランスを調整して何度も撮ってみるが、青に撮れてしまうのだ。仕方がないので、紫の物体については、RAWファイルで撮影しておいて、あとで現像の時に調整するしかないようだ。まだまだデジカメも発展途上なのである。
 今、ここの目玉商品? として、「プリンセス・キコ」「プリンセス・マサコ」という蘭が開花している。皇位継承や皇室に何の興味もないのだが(あるとすれば、ただ一点、女系天皇が認められたときに、タイとかブルネイとかブータンとか(笑)青い目のヨーロッパ・中近東の王族らとの国際結婚がありうるのか、ということか)、話題性ということで撮ってきた。コメントの方に「マサコ」を載せてある。

昨日・一昨日の購入
 アイザイア・バーリン「自由論」みすず書房

 「自由論」の古典である。「〜からの自由」と「〜への自由」(消極的自由と積極的自由)の二分法を提唱し、前者を擁護したことで有名。最近のアメリカのやり方を見ていると、「消極的自由の追求」というスローガンさえアブナイとおもうのだが。

昨日・一昨日の読了
 エミール・ゾラ「制作(下)」岩波文庫 B
 トルストイ「人生論」新潮文庫 C

 ゾラの作品は、「ルーゴン・マッカール叢書」の中の異色作品であり、自伝的な側面が濃いとのことだ。また、盟友セザンヌとの絶交のきっかけになった作品とのことで、芸術史的にも興味深い。A評価にしてもよかった。解説も、作品背景についての記述が適切だ。
 「人生論」、これはどういう読み方をするかによって評価が分かれよう。トルストイの作品解説として読むなら必読(A)、「人生論」として読むならCだろう。この本の大意は、「人間の生は動物的生ではなく、『愛』によって死後も続くものである」という、キリスト教的な色彩がきわめて色濃いもの。仏教の輪廻転生に親しんでいる日本人にはなじみ深い、と勘違いしてはいけない。輪廻転生とは悟りを開いていないがゆえの「業」であって、悟りをひらくと永遠に涅槃におもむくことになる。すなわち、仏教において、救いとは永遠の死で輪廻転生にピリオドを打つことなのである。

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2006年03月15日

森林公園

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武蔵丘陵森林公園に写真を撮りに行った。あとで載せようと思うが、ここは埼玉県では一、二を争う梅林ではないだろうか。
 周りに三脚を抱える中高年が異様に多かったが、どうも団体さんだったようだ。抱えている写真を見ると、どうやらデジカメは少数派で、銀塩一眼レフが多かったもよう。ニコンにしても、キャノンにしても、明らかに筆者のOlympus E-500よりも大型だ。また、撮り惜しみしているようにも見えたので(現像が前提だから)枚数を気にせず撮れるメリットと、構図を深く練らずに撮ってしまうデメリットと、どちらが問題なのかと思った次第。
 とにかく、三脚なしで撮れるメリットを生かさない手はない(といいつつ、筆者も軽量三脚を抱えていったが)。しかし、軽量とは言え、やはり全装備で10kgくらいになってしまい、完治していない膝には辛かった。

 また、懸案のトレッキングシューズを入手した。ローカットタイプで、店のお兄さんの話では、やはりこれにはアイゼンはつかないので、雪山はもちろん、今の時期の登山路が凍結している奥多摩・丹沢北面の登山はできないそうだ。あくまで条件のよい場所のトレッキング用のようだ。

一昨日・昨日の購入 なし
一昨日・昨日の読了
 難波田和英・内田樹「現代思想のパフォーマンス」光文社新書 B
 臼杵陽「世界化するパレスチナ/イスラエル紛争」岩波書店 B
 高橋たか子「意識と存在の謎」講談社現代新書 C

 「パフォーマンス」だが、いつ読んだか忘れたのだが(一昨日・昨日ではない)、さいきんのものなのでここに記しておこう。「ツールとして使える現代思想の紹介」ということだが、筆者たちの意気込みにも拘らず、ここで紹介されている「現代思想」がこの本を読んでツールとして使用できるようになるとはとても思えない。また、内田がラカンについて述べている「難解すぎるために誰にでも使える理論というものがあるのだ」というのは、まやかし以外の何ものでもないだろう。このひとの本は筆者も嫌いではないが、こういう発言は無邪気な読者(がこのひとのファンには多いと思われる)を惑わせるだけだろう。また、たくさんの臨床家が支持しているから、それが理論として妥当である、という判定もまちがっている。精神分析の理論とは、それがいかに荒唐無稽なものでも役に立つからである。こういうところ、内田氏の弱点が現れている。
 臼杵氏の本、この話題にはじめて触れる読者(例えば、パレスチナ人は自爆テロを繰り返していてよくない、などと、アメリカ/イスラエル側の宣伝を鵜呑みにしている方にはよい本かもしれない。ただ、サイードを称揚するところで、すでにそれはひとつの政治的な立場の表明になる、ということについての自覚は持っておいた方がいいだろう。また、すでにパレスチナ問題についての予備知識がある方々にとっては、読む必要がない本のような気がする。
 高橋たか子氏のこの本は、著者が問題にしようとしていることがらについて、興味のない方にとってはまったく時間の無駄であろう。普遍的な議論とはあまり思えないからだ。ふつうは、意識を問題にしようとすれば、脳科学か現象学的なアプローチがふつうだと思われる。ただ、これは偏見を承知で書くのだが、日本人でキリスト教に入信し、神職についたり著者のようにフランスで修道院生活を送ったり、ということには、どうしても筆者は抵抗を覚えてしまう。たとえば、日本でムスリムについて同じことをする人間がどのくらいいるだろうか? キリスト教が韓国のように定着しているとはいえない国において、それだけキリスト教に深くかかわるということに、かたちを変えた西洋崇拝(あるいはコンプレックス)をみるのは筆者だけであろうか。

2006年03月16日

日本国憲法

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 きょうはストレートに読書の話題。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 西修「日本国憲法は こうして生まれた」中公文庫 A

 日本国憲法の成立過程を丹念に追った労作。著者はあきらかに右傾している人物であるが、その思想傾向とは関係がなく、本書は現代において改憲論を考える上でも大変有益な書物であると思われる。
 個人的に一番驚いたのは、生存権として知られる二十五条の規定が盛り込まれたのは、社会党の努力によるということだ。当時、社会党は憲法に関しても本当によく勉強し、真摯に「国のため」に議論を重ねていたことが伺える。その後の社会党の凋落は、この当時の熱意を失い、内紛に明け暮れたことが大きいのだろう。本書は手軽な文庫本だし、(筆者は読んでいないのでどんな本か知らないのだが)「国家の品格」などよりも、遥かに読後得られるものはおおきいだろう。

国民は騙されている(2)

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 表題はやや過激だが、一連の医事紛争の流れを見るとそう感ずる。

 おそらく、「改革改革」を連呼する小泉自民党政権には、「医療改革」を行おうという意図はあまり(ほとんど)なく、目的は医療費の削減しかないだろうと思われる。それを推し進めるために、「庶民感情」、すなわち、医師と弁護士に代表されるオールド資格職に対する反感に訴えて、医師個人を攻撃するという挙に出ていると思われる。つまり、「改革」を容易にするためのよくある手として、「医療者」と「患者」は対立関係にある、とする構図を持ち込もうとしていると考えられるのだ。
 他院からの紹介状を読んだり、医事紛争になったカルテの査読などをしている印象として、日本の医師のレベルが必ずしも平均して高くないことは事実だろうと思われる。残念ながらそれは改善の余地がありうる。そしてその責任を負うべきは、主に開業医の既得権益を訴えた日本医師会と、国家試験の合格率を恣意的に調整してきた厚労省のふたつであることもまた明らかだ。
 ただ、医師のレベルが上がれば医療事故・医療ミスは減るのか? これは、詳細な事例の分析と統計が必要なので、筆者の手に余る質問であるが、システム自身に潜む構造的な問題であったり、医療自身に内包されるリスクであったりするケースが多いという印象を持っている。

 以前も触れたが、筆者は民事・刑事事件を問わず、裁判所を介する現在のやり方は、最終的には医療者・患者双方を不幸にすると考えている。民事は前述したように保険方式で処理するべきだし(繰り返しになるが再び書くと、医療費として徴収した一定額を保険金として積み立てし、事故が発生した際には第三者機関による認定に基づき、基金から支払う)、例外を除いて刑事事件からは免責されるべきだ。
 後者について、以前に書いた内容では議論が不十分であったと思われるので、さらに進めると、医療事故の刑事裁判は、原則無過失責任が問われている道交法上の業務上過失致死・傷害とパラレルに考えるのがよいと思われる。医療による過失と運転による過失のもっとも大きな違いは、ひとつは(これには異論もあろうが)運転に関しては「運転しない自由」はあるが、医師の場合、その職業を選んだ以上、「診療しない自由」は認められないことだ。つまり、過失を回避する手段がない。もうひとつは(こちらの方が重要である)運転の方は、十分な注意義務を果たせば事故は多くの場合避けられる(と考えられている)のに対して、医療の方は、必然的に事故やミスが起きうる要素を内在している、ということだ。つまり、運転行為のもたらす危険と、医療行為のもたらす危険は、明らかに質が違うのである。
 こういった場合、処罰の方針は、それがもたらす公共の利益によって調整されることがいちばんであろう。医療行為の刑事処罰によりもたらされるメリットは、「危険医師の除外」と「遺族(本人)感情の納得」である。ただし、前者に関しては疑問が大きい。厚労省や検察は、「リピーター医師の処罰」が目的であると謳っているが、それなら再犯のみ処罰という方法でも十分だからだ。現在の起訴・書類送検は、ほとんどリピーターになりえない医師に集中していると言ってよい。筆者には、書類送検・起訴によってもたらされる消費者(患者)の不利益のほうが大きいと考えられるのである。

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2006年03月17日

国民は騙されている(2)

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 政府も官僚も「医療費を減らしたい」点では共通している。しかし、現状で日本の医療は諸外国に比べて低コストであることは敢えて国民には広く知らされていない。ここがまず第一の欺瞞である。また、これは世界的な傾向と言っていいのだが、特に現在の日本のシステムはまだ「包括化」、つまり、ある病名に対する医療の給付は定額になっていない部分が多い。これを出来高制というが、一般的には、これはコスト抑制の方向には逆のインセンティブとして働くと考えられている。しかしそれは大きな誤解だ。儲けようというインセンティブよりも、エクスキューズ、つまり「これだけ検査をやっても何も見つかりませんでした」という、リスク回避としての意味合いの方がつよい。本来は、消費者=患者側から「なになにの検査をして欲しい」と言われた場合に、それは拒否してよいのだが、拒否することは医療者にとっては大変なリスクである。というのは、万が一それによって見つかるような病気が検査をしなかったことによって発見されなかった場合、間違いなく裁判になり敗訴するからだ。とすれば適当な検査のための病名を付けて検査を行うのが一般的なやりかただろう。話が逸れたが、出来高で一番儲けているのが医薬品業界である。つまり、医療費の適切な配分がなされてないことが問題と言えば言えるのである。
 話が分かりにくくなってきたので、一番重要な点だけ書いてしまうと、医療従事者を刑事処罰することは、良質の医療の提供に繋がらないのでは、という議論がおざなりにされていることだ。たとえば、こういう事態を考えてみよう。

 ケース1 ある患者が、「書類送検された経験のない先生をお願いします」と言って受診した。対応したのは、大学を卒業したての研修医だった。

 ケース2 「研修医にリスクのある医療行為をさせて、医療事故が起きた場合、指導医は責任を負いますか?」「当然です。指導医も研修医の監督責任を負います。」 研修医にまともに指導にあたる医師はいなくなり、研修終了後、何の治療手技もマスターできない医師ばかりになる。

 じつは、刑法総論(過失責任)上の議論をしようと思っていたのだが、だんだんばかばかしくなってきたので、この話は打ち切りにしたいと思うようになったのだった。
 もっと明るい、生産的な話をしたいと思うのだが、いかがだろうか?

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2006年03月18日

罪と罰

 きょう、バード・サンクチュアリに行ければいいのだが、どうなるものやら。

昨日・一昨日の購入 なし
昨日・一昨日の読了
 ドストエフスキー「罪と罰(上)」岩波文庫(新訳)

 むかし中村白葉訳で読んだのだが、この江川卓訳は活字の組み方もあって読みやすい。これはちょっと違うだろう、と想像される訳文もないわけではないが、旧訳で読むよりも読みやすいことはたしかであろうと思われる。今、トルストイの「戦争と平和」も、米川正夫氏の旧訳(これは戦前のもの)から藤沼貴氏の新訳に代わり、刊行中のようだ。
 さて、20年ぶりくらいに読んでいるのだが、ほとんど内容を忘れていることに驚いた(笑)。あらすじは覚えているが、ディテールはほぼ記憶から抹消されているようである。まあ、そういうものかも。

 今、並行してアレクシス・ド・トクヴィル(貴族なんだな)の「アメリカの民主政治」を読んでいるが、こちらも岩波から新訳が刊行中である。筆者の持っているのは井伊玄太郎氏の講談社学術文庫版だが、これは訳のせいかもともとの文体のせいか、極めて読み難い。ところどころ翻訳の間違いなのかなあ、という部分も散見される。内容についてはまた別記すると思うが、日本人もこういう本を読むべきなのだ、と考えさせられるものだ。

2006年03月19日

横浜

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 先日の二度の眼科受診の結果、「上下はΔ1.5、左右はΔ3程度の内斜視の補正をしたほうがいいのだけれど、空間の歪み感がつよいならしょうがありませんね」とのことで、結局プリズムなしのレンズをテスト装用することになったのだった。レンズができたとの連絡を受けたので、フレームを持って入れに行こうと思っていたら、何とそのフレームを置いてきてしまったのだった。なので、予定を変更して横浜に行ってきた。
 みなとみらい駅で下車。日本丸のところから赤レンガ倉庫を経て、山下公園というお定まりのコース。今横浜市は市長選挙の真っ最中で、現職の中田宏市長に二度(みなとみらい地区と港の見える丘公園)遭った。現職の再選はまず間違いないのではないか。
 三月になっても温暖化のためか、空模様はよくなく、今日も強風が吹いていた。岸壁をカメラ片手に歩いていたら、レンズがすっかりしぶきを浴びてごま塩状態になってしまった。いけないいけない。
 山下公園から港の見える丘公園、外人墓地を経て、中華街の中を散策し、みなとみらい線の元町・中華街駅から東横線直通の特急で渋谷に出る。東京から横浜はだいぶ近くなった。

昨日の購入・読了 なし

 トクヴィル「アメリカの民主主義(中)」に悩まされている。上巻に比べてボリュームも多く、内容も濃いのだが、現代のアメリカを知るうえだけでなく、民主主義を振りかざすアメリカの正当性をきちんと評価するためにも有益な書だ。トクヴィルの本にはまだはっきり書いてないけれども、建前の政体が民主主義であっても、その内実が権威主義的な政治であった場合には、民主主義政体の弊害がもろに出るのではないのだろうか。

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2006年03月22日

とりあえず

 読書についての記事のみ。
 本日、ようやく「アメリカの民主政治(中)」を読了した。ふう・・・

一昨日・昨日の購入・読了 なし

2006年03月24日

体調不良

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 単なる飲み過ぎである(笑)。

 昨日は某社(眠くなるのだがとても評判のよい某薬を発売しているメーカーさん)とのお付き合いで六本木レジデンスなるところへ行ってきた。ここはA棟からD棟まであって、昨日行ったのはB棟なのだが、C棟にはホリエモンが住んでいる由。住居スペースを通り抜けて飲食店街へ行く。わりと高級な店が並んでいるようだ。バブリーな印象である。自腹で来ることはまずないと思われた(笑)。

一昨日・昨日の購入 なし
一昨日・昨日の読了
 トクヴィル「アメリカの民主政治(中)」講談社学術文庫 A

 まず評価についてひとこと。内容だけなら問題なくS(最高評価)である。Aとしてのは翻訳に難を感ずるからである。岩波文庫の新訳のほうがいいのかもしれない。この有名な古典は、(上)(中)(下)でかなり内容が異なる。上巻はアメリカの政治制度(この時代の)概説であり、重要性は少々落ちる。この中巻はとても大事な巻である。主にアメリカの民主制を、イギリス(貴族制)やフランス(王制)と比較しつつその得失を論じている。ここでのトクヴィルの視点が新鮮かつ必読なのは、彼が現代アメリカ合衆国が連呼する「民主主義を守れ、民主主義を布教させよ」というドグマに冒されていないことである。つまり、トクヴィルの生きた十九世紀には、まだ民主主義が最上の政治制度である、という、はっきり書いてしまうと「偏見」は存在しなかった。われわれは、アメリカの宣伝(どうしてかの国が「民主主義万歳」をアピールするのかも、この本にその回答のひとつが示されている。また、わが国の岸田秀によると、それはインディアンを虐殺したトラウマによるものであるという)を戦後無条件に受け入れさせられているために(もちろん、それが世界的な傾向であることも認めなくてはならないけれども)、「民主主義はひょっとしたら政体としては問題があるのかもしれない」というスタンスを取れなくなってしまっている。これは、形式的には民主制を採りながら、その実態はかなり専制政治を引きずっている運用がなされている日本のような国家においては、かなり問題のある態度であると言える。
 トクヴィルは決して一方的にアメリカを批判しているわけでも、逆に賛美しているわけでもなく、淡々とその功罪を論じているという印象を与えているが、「民主主義は絶対に正しいのだ」という風説がアメリカを中心勢力として流布されている現状においては、トクヴィルを勧めることにはまちがいなく政治的な意味合いがある。しかし、こういう本は、中学・高校生にしっかり読ませるべきではないかと思われる。
 まだこちらには手を付けていないが、ハミルトン、マディソン、ジェイ・ジェイによる「ザ・フェデラリスト」と並んで、アメリカ民主主義(だけではなく、民主主義一般としても)をきちんと考え、理解する教科書として、必読の本の一冊と考える。

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2006年03月25日

気分不快

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 どうも気が滅入って仕方がない。また後で写真・文章ともにreviseする予定である。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 ドストエフスキー「罪と罰(中)」岩波文庫(新訳)

 例によって内容をすっかり忘れていることに気付く。

2006年03月26日

社会学と人類学

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 「罪と罰」今日中には読み終えるつもりだが、下手なサスペンスドラマよりもずっと面白いと思う。

昨日の購入
 M.モース「社会学と人類学(I)(II)」弘文堂

 有名な「贈与論」が(I)に収録されている。(II)は現在絶版のようだ。モースは大森貝塚を発見したモースとは別人。社会学の祖のひとりであるエミール・デュルケーム(「自殺論」などで有名)の甥に当たり、社会学者として出発し、その視点を保持したまま人類学者に転向したことで知られている。「贈与論」は、マリノフスキーの研究と並び(「ポトラッチ」を取り上げている)、特にK.ポランニーや栗本慎一郎らの経済人類学に大きな影響を与えた。

昨日の読了 なし

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2006年03月27日

「罪と罰」再読

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昨日の購入 なし
昨日の読了
 ドストエフスキー「罪と罰(下)」岩波文庫(新訳) A

 S評価にしなかったのは、だんだん筆者には「文学はよくわからない」という気がしてきたからである。また、このようなテーマが明確な、つまり現代ではもう執筆不可能なタイプの小説(味読不可能、という意味ではない)について評価をすることの難しさも感ずる。最後に、筆者の体調(心調?)がよくないために、あまり文章をつづったりする意欲が湧かないのだ。

2006年03月28日

昭和史発掘

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昨日の購入 なし
昨日の読了
 松本清張「昭和史発掘(1)」文春文庫 B

 「発掘」とあるとおり、歴史本流ではない。本書を読む前に、ふつうの通史の本を読んでおくべきだろう。その知識があってこそ面白く読める本だと思われる。特に、最後の章、戦前から被差別部落は軍隊内で問題になっていたこと、そしてそれに対して軍も政府も建前上は対処せざるを得なかったこと、そして戦後、現代に至るまで、自衛隊の中でもこの問題は尾を引いていて、未だに解決されていないこと、それを知ったことだけでも本書を読む価値はあったと思われた。

2006年03月30日

異形の王権

 本日の読了のところに、夏目漱石「坊ちゃん」と書くような気恥ずかしさがなくもない。「異形の王権」は必読書だもの。

一昨日・昨日の購入 なし
一昨日・昨日の読了
 網野善彦「異形の王権」平凡社ライブラリー A

 網野史学に魅せられている者でありながら、まだ代表作のいくつかは未読だったりする。本書は、隆慶一郎の「花と火の帝」シリーズなどに多大なる影響を与えたと思われる。ちなみに同作品の主人公は「八瀬童子」である。興味のある方はgoogleなどなされたい。
 本著作のテーマは「異形の者」であるが、後年になると穢多・非人(「えた」はATOKから削ってあるようだ)として差別の対象になるひとびとの、歴史上の役割を探ったものである。最後に収められた表題論文では、後醍醐天皇の「建武の新政」が、単なる復古調のものではなく、むしろ「異形の者」をフルに活用した、それ以前には例をみないものだった(だから足利尊氏の離反はなくとも長続きしなかったであろう)という指摘は興味深い。
 さらに筆者がより興味を惹かれたのは、「鎌倉・室町時代、女性の一人旅はごくふつうだった」という記載である。治安は現代に比べても格段に悪かったと想像される当時、どうして女性の一人旅が可能だったのだろうか? 正解は書かないでおくが、ぜひ推理するか、本書を購入して読まれたい。

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2006年03月31日

民主主義に対する懐疑

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 「日本人は桜が好きだ」こういう文章は、ある意味再帰的なものと言える。つまり、客観的な現象の描写と言うよりは、それによって文章を読んだ日本人という集団の中に「桜」というものに対するある観念を作り出し、それによって元の文章を実現する、という役割を演じている。
 「愛国心」などの観念も、それと同じようなものだ。というのは、郷土に対する愛情というものは具体的なものに対する感情と言えるが、国という抽象観念に対する感情は、教育以外によっては養成しようがないからだ。
 桜の一件に戻ると、桜にかんするさまざまなイベント(お花見とか)が行われることによって、ますます日本人は桜という植物に対する特別な感情を育ててゆく。例えば、お隣の中国では、むしろ春を代表する花は梅である。
 なんとなく筆者には、「桜」に対する扱いが過剰に感じられるのだ。オリンピックやワールドベースボール大会のような「国別対抗」のスポーツに対する扱いがそうだと感じられるように。

 郵便局に行って、モースの「社会学と人類学」を取ってきた。たぶん、「贈与論」いがいは(すくなくともしばらくは)読まないと思われる。
 大量に蓄積してしまった未読本を、いったいどういう順番で読んだらいいのか迷っている。まずは、ソルジェニーツィンの「チューリヒのレーニン」とか「一九一四年九月」くらいから読むのが小説としては筋だし、古い順番から行くとミルトンの「失楽園」とかゲーテの「ファウスト」とかだろう。評論(ほか、学術的色彩のつよいもの)の方は、網野善彦から読もうと思っていたが、ふと思い立って松本健一の「大川周明」をカバンに入れてみた。じつは、大川のイスラーム主義と大アジア主義というのは、大東亜戦争のプロパガンダと切り離してみた場合、まじめに検討に値する思想なのではないか、という気がしている。
 それは、先日も書いたとおり、「民主主義は再検討する余地もなく、他の政体と比較した場合、無条件に正しい」という、広く行き渡っている意見に対する懐疑と同様の見地に立っている。本来は、「アタリマエだ」とみなされて、きちんと自分の眼と頭で検討されることのない事柄に対しても、ひとりひとりの理性的かつ合理的な判断が前提とされるのが民主主義というものであったはずだ。とすると、その前提が崩れたところでは、うまくファンクションしないのはこれも理の当然というものだろう。
 また、情報への透明なアクセスというのももうひとつの前提だが、メディアの力の増大とインターネットの普及が、その前提におおきな影をさしかけている。ホリエモン問題にしても、福島産婦人科医逮捕事件にしても、こういった国内の問題ですら、われわれが正しい情報にまるごとアクセスできる可能性はほとんどない。つまり、伝達される断片的な情報から、みずからの理性で「正しい」と判断されるものを拾い上げ、二次的に組み替えるという作業が必要だが、それが正しく行える可能性は誰にも保証されないであろう。
 とすると、国内の政治のみならず、国際政治についても(たとえばカディマが勝利したイスラエル/パレスチナ問題に関して)「民主的に」解決が行われる可能性は相当ひくいのではないか、と悲観的にならざるを得ない。
 つまり、私見では、合理的・理性的な眼を持つほど、楽天的でいることは難しいのではないか、ということになる。

 昨日の購入・読了 なし

2006年04月02日

モンベル

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 自分が中高年に分類される年齢を迎えつつある今、あらためて中高年向きのレクリエーションのブームにも目がいくようになった。もともと筆者はときどき(たまに)登山をしていたのだが、一眼レフも買ったし、新緑や花の季節に山々を歩いてみたいと思うようになったのだった。
 今までは、低山ということもあって、特別なウェアを使ってなかったのだが(とはいえ、高度差1000メートル以上の丹沢などに、普段着で行っていたのは無謀だったかも知れない)、さすがにウェアを揃えてもいいかな、という気になって、最近の動向を調べてみた。
 海外のブランドだと、ノースフェイスが最人気のようで、こだわるひとはパタゴニアを使っているようだ。また、国内でも、ミズノがベルグ、アシックスがタラスブルバというブランドを展開しているが、あまり本業に比べて力を入れていないらしい。
 で、国内のブランドとしてはモンベルが圧倒的なシェアを占める結果になっているようだ。モンベルの特徴は、創業者が一流の登山家であること、そして圧倒的な安値である。他社では3万円台が相場のゴアテックス三層を用いたレインコートが1万円ちょっとで購入できてしまう。また、自社開発の素材もたくさんあって、他社から繊維の供給を全く受けなくなっても生産可能な数少ないブランドであるということだ。

 結局、Tシャツ、長袖シャツ(両方ともポリエステルの速乾性素材)、シャミース(極薄のセーターのようなもの、ポリエステルを起毛させたもの)、ウィンドブレーカー(撥水性)を買ってきたのだった。占めて二万円くらいで、どうやらほとんどの店は定価販売らしい。ただ、一年毎のモデルチェンジのため、アウトレット品がかなり出回っていて、それは若干安いようだ。ただ、他社製品で同じ性能のものを揃えると、やはり倍くらいになってしまうそうだ。

一昨日・昨日の購入 なし
一昨日・昨日の読了
 半藤一利「完本・列伝 太平洋戦争」PHP文庫 B

 無謀な戦争のなかで、使命を全うしようとした将兵、そして一部民間人の群像を描いたもの。「列伝」は、もちろん史記の列伝を意識している。「決して戦争賛美を意図したものではない」と著者は断っているが、にも拘わらずそういう読み方をされてしまうのがこういう本の宿命だろう。通俗的な言い方をすれば、「プロジェクトX」のような感じである。
 筆者は、この本に記されているエピソードの半分以上はすでに既知の内容であったから、特別新味や新たな発見はなかったのだが、どんな状況に追い込まれても力を尽くす、ということの意味を改めて考えさせられる本であると思われる。

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nishima先生のこと

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 この画像、縮小するとちょっといまひとつ。オリジナルはこちら

(以下の記述はごくわずか事実に反する記載を含んでおります。あらかじめご了解ください)

 せっかくの日曜日、文字通り何もせずに終わってしまった。バッハ、ベートーヴェンといった定番ものに耳を傾けるようではもう廃人寸前である。ザ・バンドの演奏で少し持ち直し、Pearl Jamを本当に久しぶりにかけてみると、これは聴衆の精神が健康であることを前提としたロックであるということがよくわかる。"Ten","Vs",そして"Binaural"といったアルバムは、まだ彼らがほんとうにハードであった時代のアルバムだ。まあ、踊るにはこういうのもいいかな・・・
 そういえば、先日ふらっと入ったバーで、マディ・ウォーターズのアルバムがかかっていてびっくりしたのだった。

 ネットを逍遙中に発見したページ、筆者はもともとブログ否定論者だし、他人のページはほとんど(知り合い以外は)関心がないのだが、なかなか面白いのでご本人と直接(と言いましてもネット上です)お話しする機会を得た。
 やはり、医者および精神病院の数に恵まれている(と言っても、未だに精神科救急の搬送に関して、受け入れを巡るトラブルが絶えないのは東京の勤務医共通の常識である)東京とはちがって、地方の精神科は非常に忙しいようである。東京の病院でも、墨東や府中(なぜか、精神科は忙しくないようであるが・・)のように、殺人的な多忙度を誇るところも例外としてあるが、土日もほとんど日直状態という人権を無視した状況が改善もなく続いているのである。先生のように、それを執筆活動というかたちで逆用しているケースもあるのであろうが、由々しき事態である。福島産婦人科事件の背景にもこのような実態が潜んでいることはもっと知られてよい。

 nishima先生はご自分も持病と闘いつつも(それはブログに触れられている)その病気から得られた知見も臨床に活用されておられるわけだが、同級生を見ても、精神的にはいざ知らず、肉体的にも恵まれ、ましてや経済的には何の不安もなく育ってきた(そして医師となった)人間が圧倒的に多い。筆者はそれらのひとびとを非難するわけではない。医者にかぎらずすべての職業で成功するための条件として、真っ先に挙げられるのが「体力」であろう。
 社会学には以前から「再生産論」という分野がある。これはマルクスも下敷きにした考え方で、要は「金持ちが金持ちを再生産する」というものだ。これを精緻なものにしたのがフランスの故ピエール・ブルデューで、「文化資本」ということばは彼の名を不朽のものにした。つまり、「学歴」だけが重要なのではなく、学歴を得る途中で家庭において培われた「文化」を消費し、あるいは生産するための蓄積こそが、将来の輝かしい成功の上で重要であり、この文化資本を相続することが、再生産の要であるとかれは主張した。
 つまり、現代の日本においてはこれはストレートに適用されるような状態になってきており、かつての八百屋や大工の息子・娘が医師になりようなケースは激減してきている。その結果、医師になる階層のバラエティが極端に減ってきている。これがどういう結果を招くかは想像がつくだろう。つまり、医師と患者の立場の開きは徐々に拡大を続けている、ということだ。
 筆者は、「患者の目の高さで」といった主張をあまり信用しない。どんなに医師が患者に近づこうと、同じ目線のたかさでものをみることは不可能なのだ。筆者は日頃生活保護の患者に接する機会がおおいのだが、彼らの生活レベルをほんとうにわかっているか、というと、そうではない。ただ、経験論的ないいかたをすれば、「患者の目線からものを見ようという視点を持っている」医師は優秀な医師であることがおおい、ということは真実だと思われる。
 筆者の畏友、もも先生は、ももの木という集まりで、「治療が終わったあとの患者さんの社会復帰」というテーマに取り組んでおられる。このような社会的な視野を持った医師がすくないのが現状である。

 医師になる層がますます均質化し、同じようなタイプの医師ばかりになりつつある昨今、nishima先生のような存在はますます希有になってゆくだろう。一層のご活躍を祈念したいとおもう。

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2006年04月05日

民主主義概論

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 きょうは当直である。この当直という業務についても、いろいろいいたいことはあるのだが、本日は措いておこう。
 一昨日・昨日の購入 なし
 一昨日・昨日の読了
 トクヴィル「アメリカの民主主義(下)」講談社学術文庫 A

 トクヴィルが五年間の思索を経てあらたに起草した一冊。上・中巻と比較して気付くのは、上・中巻が「アメリカの」民主主義を論じていたのに対して、この下巻はアメリカの「民主主義」というように、置かれている力点が違うような印象がある。個人的に関心を覚えたのは、のちにマックス・ヴェーバーが論証しているように(というよりは、ヴェーバーはトクヴィルからそのヒントを得たらしいのだが)民主主義とカリスマによる独裁政治との因果関係を指摘し、警鐘を鳴らしていることである。この民主主義黎明期にそこまで予測できたトクヴィルはやはりただ者ではない。「民主主義論」を論じるときに必ず目を通すべき必読書であり、やはりS評価を与えるべきだとは思うのだが、訳のせいかトクヴィル自身の論述スタイルのせいか、どうしても読んでいて投げ出したくなってしまう。特に内容が難解というわけではないから、形式の問題だと思われるのだが、とにかく面白くて読み進めてしまう、というわけではない。そこでひとつグレードを下げてA評価にしたのだが、Sが妥当であろう。

2006年04月07日

キタテハ

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 だと思うのだが、よほど気に入られたらしくて、カメラに止まろうとさえする。レンズを10cmくらいまで近づけても逃げようともしない。きっとメスだったのだろう(笑)。

一昨日・昨日の購入 なし
一昨日・昨日の読了
 ソルジェニーツィン「チューリヒのレーニン」新潮社 B

 ロシア革命に参加するまでのレーニンはスイスのチューリヒに亡命していた。その彼がロシアへ帰るまでのポートレートなのだが、小説としてはちょっと中途半端な気がする。ロシア革命については、岩波現代文庫から、著名な歴史家でロシア革命の専門家でもあったE.H.カーのロシア革命が出ている。一度読んだのだが、あまり興味深い内容とはいえなかった。もういちど復習してみる必要があろう。
 中途半端と書いたが、ある程度の予備知識があれば、リアリズム小説家としては一、二を争う小説家の作品だけに、読み応えもあり面白い内容である。ただし、いうまでもなく絶版だ。古本屋では比較的入手しやすい部類にはいる。

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2006年04月09日

アメリカの鏡・日本

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 今週はまた明日より天気が崩れがちになるようだ。

 さいきん、読書に対する集中力を欠いていたのだが、少なくとも表題作については、400ページを三時間強で一気に読了してしまった。復活か?(笑)

一昨日・昨日の購入 なし
 ほんとうはいくつか買いに行こうと思っているのだが、なかなか本屋に足が向かない。塩野七生の「ローマ人」シリーズも、宮城谷昌光の「三国志」もなかなか刊行されないし。
 フランスの構造主義マルキストのアルチュセールの「再生産論」が全訳されたのが目につく。また、白水社からカフカ全集が文庫化されたようだ。これは全部揃えても6000円くらいで済むようだから、入手してもよいところだろう。

一昨日・昨日の読了
 ヘレン・ミアーズ「新版・アメリカの鏡・日本」角川学術出版 A

 この本はまず外装からして読む気を削ぐ。あの元NHKキャスターで現ジャーナリストのS井Yしこ女史が推薦文を書いているからだ。筆者は彼女と以前に個人的面識がちょっとだけあったが、日本のジャーナリストの代表のような感じだった。つまり、報道の社会的意義よりも売名、話題性を重視するという取材姿勢なのである。また、政治的にもはっきり右であることも気にかかる。最近の語録には、安倍晋三に対して期待を表明したり、東条英機を「古武士の風格を感ずる」と言ってみたり、というものが目立つ。また、序文で以前この本を出版した会社の社長が気負った推薦文を書いているのも嫌味だ。
 本書の主題をひとことでまとめれば、「戦前の日本は西洋諸国を手本として外交や軍事を行ってきたのだから、日本を罰することは自分たちに跳ね返る」というものだ。つまり、これは強調しておきたいことだが、本書はあくまで西洋人のために書かれた本であり、日本をはじめとするアジア諸国の人びとのための本ではないことである。この主題を、戦前の日本を正当化するために使用したいひとびとが大量に存在することはわかるが、そういうひとたちに逆に言いたいのは、「この本の主張をまともにとると、戦前の日本はひたすら西洋のマネをした主体性のない存在だったのだよ」ということになるのだ、ということだ。だから、本書を戦前の日本の正当化のために使用する、ということは、根本的な誤読と言えるだろう。

 では、本書の記述によらないとするならば、どのように戦前・戦後日本を考えていったらいいのだろう。前にも書いたが、日本はポツダム宣言を受け入れ、サンフランシスコ和平条約に調印したのだ。ということは、東京裁判や押しつけ憲法、GHQの内政干渉がいくら国際慣行からして穏当ではなくても、それに対して疑念を(すくなくとも表だって)表明することはできない、というのが筆者の立場である。問題はその後の日本政府の対応だ。戦後六十年経ち、未だに米軍の駐留を許しているのは(それもイギリスやドイツとはその規模がかなり違う)どういうことだろうか。
 ほとんど近年の日本はアメリカにとっての金づるでしかない。さまざまなところにアメリカの代理としての膨大な支出を要求されている。これは国辱というみかたもあろうが、紛れもなく日本人のQOLを損なう行為だ。そんな余計な出費がなければ、国債の償還も容易になるだろうに・・・
 「国の誇り」を云々するまえに、憲法九条を改正しようと改正しまいと、すでに自衛隊が存在するのだから、普天間基地移設と言わずに(撤退させるならカネを払えと言う米軍の厚かましさもたしなめる必要がある)将来の完全撤退を目標に(ソ連が健在であった冷戦時代にドイツが米軍基地を必要としたような軍事的な価値が今の極東にあるだろうか? 北朝鮮や中国に対して沖縄は抑止力になっているのだろうか?)政治交渉を進めてゆくのが、責任ある政治家の仕事と言えるはずなのに、まったくそれを構想しようという人物が皆無なのは(それがむずかしい理由はよくわかった上で書くのだが)やっぱり困ったことと言えよう。つまり、筆者は、「国の誇り」とか「国家の品格」というものがもし必要だとしたら、それらを損なった戦犯は、戦前の軍国主義者でも、戦後のサヨク民主主義者でもなく、基地を存続させてしまった戦後の自民党の政治家たちこそそれに該当すると考えているのだが。

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2006年04月11日

太平洋戦争とは何だったのか

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 後継総理、NHKの世論調査では、A倍S三が一番人気だそう。筆者の周囲には、(当然)彼を推す人間は一人もいない。少なくともいたとしてもそういう話題にはならないだろう。これはかなり本気で考えてみるに値する事項であると思う。つまり、「後継総理はどんな資質であるべきか」を論理的に選考するよりも、気分で(「何となくよさげじゃない?」というノリで)答えているのではないかと思われるからだ。
 しかし、そういう大衆の(という書き方をすると、一般大衆をバカにしていると思われそうだが・・)「ノリ」や「気分」で決まってしまうのが政治というものではないか、とも思ったりもする。そしてそういう時代の気分を捉まえるのがうまい人物が大物として君臨するのかもしれない。

一昨日・昨日の購入 なし
 丸谷才一の「裏声で歌へ君が代」出版当時ちょっと話題になったが、改めて読んでみようと思っている。この主人公が大川周明に関連のある人物だそうだから。今度購入せねば。

一昨日・昨日の読了
 デフォー「ロビンソン・クルーソー」新潮文庫 B
 クリストファー・ソーン「太平洋戦争とは何だったのか」草思社 A
 松本健一「右翼・ナショナリズム伝説」河出書房新社 C

 新潮文庫は吉田健一(吉田茂の子息、ケンブリッジ中退)訳である。この訳が一番よいとされているらしい。大塚久雄が「これぞプロテスタンティズムの倫理を体現した人間」と絶賛? しているクルーソー、あらためて小説として読むとさほど面白くはないような気がしてしまう。
 ソーンの本、先日触れた「アメリカの鏡・日本」と共に、欧米側から東京裁判史観を否定した歴史書として知られている。本書も、帯に猪口邦子・北岡伸一・栗本慎一郎という、読書意欲をこれ以上は削がないだろうと思われる三人の右派論客の評が載せてある。これはだめか・・・と思いつつも、中身はなかなか興味深い、まじめな本だ。著者は太平洋戦争と呼ばずに「極東戦争」と呼んでいるが、この戦争を巡る社会的、経済的、政治的状況を詳細に分析した本だ。つまり戦争そのものの記述は極めてすくない。本書の着目すべき指摘は、猪口が述べているように、たしかに「人種」というのが二重、三重の意味で、つまり「黄禍論」(yellow peril)という意味の人種差別と、国家内あるいは軍隊内における人種差別(黒人だったりアボリジニだったり)が重要な役割を演じていたことである。が、筆者には、訳者があとがきで述べているように「極東地域における最強のファシズム国家は日本ではなく中国(蒋介石政権)だった」という指摘が注目された。たしかに毛沢東が勝利を収めた原因がそこにあったことは容易に推測される。また、「民主主義の防波堤」を自負する米(英)が最後まで蒋政権を支持したことも、民主主義擁護は単なる建前であることを露呈してしまっている。当時の日本は婦人参政権こそなかったものの、普通選挙を実施していたのだった。日中戦争についてもあらたに考えてみる必要があろう。
 松本健一のこの著作、わざわざ読む必要もない、と思う。ただ一点、次の指摘は傾聴に値する。
「ナショナリズムと原理主義(ファンダメンタリズム)は『反米』という点では一致するが、元来別物である。」本書では北一輝と大川周明をナショナリズムに分類される思想家としているが、後年の「大川周明」では、北はナショナリストだが、大川はファンダメンタリストだとしている。分析を変えたのかもしれない。

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2006年04月12日

泰緬鉄道

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 Y國神社の遊就館に飾ってあるC56。これはかつて泰緬鉄道で走っていたものという。下で述べる「容赦なき戦争」でも、この「死の鉄道」と呼ばれた工事に大量のアジア人が動員され、数万人が亡くなったことが書かれている。もちろん、遊就館の展示にはそういった記述は一切ない。とすると、一体何を目的とした展示なのだろう? 少なくとも、泰緬鉄道建設のために亡くなった方々の慰霊という目的でないことだけはたしかなようである。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 チャルマーズ・ジョンソン「アメリカ帝国への報復」講談社 B
 ジョン・ダワー「容赦なき戦争」平凡社ライブラリー B

 チャルマーズ・ジョンソンは、ノーム・チョムスキー、故エドワード・サイードと並び、アメリカ国内の良心派として知られている。本書の内容はチョムスキーの一連の著作を知っている方には容易に推測のつくものだ。本書は9.11の前に書かれたが、本書が予言している"Flowback"は見事に実現したと言えるだろう。しかし、アメリカの対外政策が変化する見通しはない。一国独善主義はおそらく人類滅亡まで変化しないのではないか。
 ダワーは「敗北を抱きしめて」で一躍有名になった歴史家。本書は第二次世界大戦(太平洋戦争)における人種差別の実態についてのレポートと言える。ダワーは最初に「本書は人種差別が戦争の原因となったことを主張しているわけではない」と断っているが、そういった要素がかなりのウェイトを占めていたことは、ソーンの本と併せて読むと納得するだろう。但し、「太平洋戦争とは何だったのか」と比べると事実の羅列という印象が強く、やや冗長。ソーンの著書を薦めたい。本書にもソーン教授は二度登場する。

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2006年04月13日

タイツ

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 さいきんスポーツ界においてタイツが注目されているようであり、各社から製品が出されている。元祖はこのワコールのものであり、イチローが宣伝に起用されている。たしかに、テーピングを考えればそれなりに効果があってもいいのかもしれないが、所詮外から支えるだけでは不十分ではないのだろうか、と筆者はやや懐疑的だが、使ってみようかとも考えている。矛盾してますな。

昨日の購入
 今日も書店に足を運ぼうと思いつつ面倒になって止めてしまった。そう、カフカ全集(文庫本)は揃えようと思っている。

昨日の読了
 松本健一「大川周明」岩波現代文庫 B

 松本健一氏は竹内好や橋川文三の系譜上にある評論家。ナショナリズムをテーマに取り上げた著作が多く、岩波から出版された、三十年間の研究の集大成である「評伝 北一輝」全五巻は高い評価を受けた。このシリーズについてもまた触れることがあると思われるが、北一輝もまた二・二五事件の黒幕、当時の右翼のカリスマ的指導者と要約されるに収まらない多面的な思想家であったと松本氏は考えているようだ。
 その北一輝は未だに多くの読者を惹き付けているが、それと対称的なのがこの大川周明だ。ほとんど東京裁判で東条英機の頭を叩いたことしか知られていないのではないだろうか。
 昨日も少し触れたが、松本氏はこの大川を北との対比で原理主義者と捉えている。松本氏においては、ナショナリストとファンダメンタリストは似て非なるものなのだ。つまり、大川はあくまで西洋に対する東洋の団結、大東亜共栄圏(これは必ずしも日本を盟主としなくてもよく、中国の儒教とインドのガンジー主義を思想的主軸とした「東洋」独立の主張である)の思想を信奉し、その実現のために大東亜戦争を(心ならずも)支持せざるを得ない立場に追い込まれた。
 注意しなければならない記述としては、多くの知識人や作家が表明している、十二月八日の対英米宣戦布告に対する「爽快感」である。これは、柳条湖事件に端を発し、盧溝橋事件でさらに拡大することになった対中国戦争が、多くの日本人の心理的負い目になっていたことを意味する。このことは見逃されてはならないだろう。
 北や大川の現代的意義について筆者はそれなりの関心を払っているが、興味のない読者も機会があれば一読されてはいかがだろうか。

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2006年04月15日

閉塞感

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 久しぶりに池袋のリブロへ行った。ここは西武のポイントがたまるのと、各種商品券が使用できるので使っているわけだが、計算すると交通費の方がポイントよりも高くつく。しかも、最近はほとんど図書券でしか本を購入していないので、本来は八重洲ブックセンターでも神田三省堂でもいいはずなのだが、ついここを使ってしまう。なお、ここの強みは、よく利用する三階の人文・社会系図書の品揃えのよさである。社会科学系は都内でも一、二を争うだろう。
 回ってみるが、購入意欲がいまひとつ出ない。単に気分が塞いでいるからだろうか? それもあるだろうが、おそらく原因は、「書物の力」に懐疑的になってきているためである。ハーバーマスのように、民主主義を絶対視して、理想的な討論の中に政治のあるべき姿を見い出す、というのは、イデアとしてはあるだろうが、それよりもトクヴィルのような民主主義に対する懐疑的な姿勢の方が、現代日本には合っているような気がする。言論でも暴力でも世界が変わらないとすれば、なるようにしかならない生活を日々送っていくしかない。
 ドラマティックな社会の変革を望んでいるわけではないが、社会をよりよい方向へ変えるためには世論形成が必要であり、その世論形成の前提としては、情報の透明性が重要であり、その情報を分析して社会を認識するためのツールとして、さまざまな概念---例えば、フーコーの「権力」とか、ネグリの「生政治」とか、ブルデューの「社会資本」とか---を知って置いた方がよく、そのための手段として書物は役に立つ、という古典的な教養主義は、もう機能していないのではないか。そういう諦念がある。

昨日の購入
 エドワード・サイード「故国喪失についての省察1」みすず書房
 上野成利「思考のフロンティア 暴力」
 「一冊でわかる ギリシャ・ローマの戦争」
 網野善彦「『忘れられた日本人』を読む」以上岩波書店
 加藤哲郎「国境を超えるユートピア」平凡社ライブラリー
 山口定「ファシズム」岩波現代文庫
 三島由紀夫「三島由紀夫文学論集1」講談社文芸文庫
 「宮沢賢治全集6,8」ちくま文庫

 カフカの全集を買ってくるのをうっかりした。

昨日の読了
 スタンダール「パルムの僧院(上)」岩波文庫

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