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時事 アーカイブ

2005年12月09日

憲法改正

 先日の山拓の「大連立」発言をみても、政治の世界では確実に改憲の方向へむかっているとおもわれる。筆者はもちろんそれに危惧を感ずる者だが、一方たしかに憲法には不備がいろいろあるのも事実である。

昨日の購入
 太宰治全集(1) ちくま文庫
 ミラン・クンデラ「生は彼方に」
 ガルシア=マルケス「愛その他の悪霊について」
 佐伯啓思「「アジア的価値」とは何か」「「欲望」と資本主義」
昨日の読了
 西修「日本国憲法を考える」 B

 本書の著者は保守的な立場に立つことをあきらかにしており、改憲の肯定が本書の主張であることはあきらかなのであるが、たしかに本憲法の問題点をあきらかにしてくれているのも事実である。とくに著者の政治的主張が鮮明にあらわれていない部分ではその批判は説得力をもって聞こえるのだが、最高裁の批判の部分で「靖国への公金支出は一般の国民感情からして妥当」などと述べている部分は、たんに著者がそう思い込んでいるだけに過ぎず、本書の価値を貶めている。
 改憲は必要だが、与党や民主党がいうような改憲の方向性が正しいのかどうかは別のもんだいである。諸外国では国家を愛し、国民としての義務を果たすように教育を方向づけ、また憲法にその旨をはっきり明記しているところはすくなくないのは事実だ。しかし、それをそのまま日本に当てはめてよいのかどうかは大いに疑問である。それよりも、国家や政府への信頼の念を国民が持ってこなかった(し、今の与党への高支持にもかかわらず、事態は変わっていないと考える)ことを念頭に入れると、結局国家が国民を自分たちの利益のために使役できるよう変えようとしている、という批判は当然だし、憲法改正の前に国民の信頼を得るような実績を積んでゆくことのほうが先であろう。
 何よりも、国民は憲法改正よりも財政再建、真の構造改革を望んでいるのは世論調査をみても確かなのだから。

2005年12月20日

シャロン

 アリエル・シャロン、いつか心筋梗塞になると思っていたが、頭が先だったか・・・

昨日の購入
秋山駿「舗石の思想」
井上靖「補陀落渡海記」 以上講談社文芸文庫
モーム「太平洋」 「カジュアリーナ・トリー」 新潮文庫・ちくま文庫

 モームの有名作以外は結構絶版になっているらしい。

昨日の読了 なし

 昨日は忘年会でした・・・

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2005年12月22日

安倍晋三

 某サイトより
「メル友のALS患者激励 安倍長官が官邸に招待」だと。

 ALS(amyotrophic lateral sclerosis)は、あのホーキング博士が罹患して一躍有名になった疾患。徐々に四肢の筋力低下が進み、発症して数年後に球麻痺(嚥下機能)や呼吸筋の麻痺が生じてくる。そうすると人工呼吸器の装着を余儀なくされ(実際の装着率は三割程度に止まっている)、意志を疎通させる手段として最後に残されるのは外眼筋のみ(視線と文字盤を使用する)というTLS(total lock syndrome,閉じ込め症候群と呼ぶ)の状態となってしまうという病気である。
 こういった難病とそれを支える福祉の欠陥を世に知らしめるという意味では有益な行動なのかもしれないが、これは公私混同なのではないか。激励は必要なのかもしれないが、政治家としての人気取りに過ぎないのではないか。ALSの在宅介護における問題のうち、あの「痰の吸引問題」(人工呼吸器装着の有無を問わず、医療従事者あるいは家族のほかは痰の吸引を行ってはならない)といった、バカバカしくしかも解決が簡単な問題にメスを入れるなど、このひとたちにできる政治的行為はいくらでもあるからだ。

 また、話は変わるが、筆者は「難病の子供が多額の寄付を集めて渡米、移植に成功」といった記事にはとても不快感を覚えるのだが、それはまたいずれ項を改めて触れよう。

2005年12月23日

なぜわたくしは新聞を読まないか

 某所で、新聞を読まないことを突っ込まれてしまったので、新聞を含めて筆者のメディアに対する姿勢、ポリシーを書いておこう。
 まず、これを言ってしまっては身もフタもないが、筆者は実は時事的な話題にあまり興味はない。なので、たとえば姉歯事件など報道は追っているものの、<真実>がどのようなものであるか、というよりは、メディアの取り上げ方、そのポリシー、また国会での議員や与党の追求のしかたといった、事件を処理するシステム(当然、この中にはメディアがおおきなウェイトを占めている)にどちらかというと関心がある。なので、新聞を読む必然性をかんじないのだ。もう二十年ちかく新聞は読んでいないと思う。それで別に困ったことは何も感じない。テレビをみない人間であること、W辺J一の三文小説に関心がないこと、なのでそれでよいのではないか。
 また、事件というものは、たとえば9.11をみればわかるとおり、勃発から時間が経過するにつれてその歴史的な意義といったものが浮き彫りにされるもので、リアルタイムに追うことは専門家と篤志家に任せればいいのではないかという思いもある。また、今(古本屋に売るために)集中的に読書している佐伯啓思氏が言うことには、「岩波文庫と若干の二十世紀の古典があれば、現代を分析するツールとしては十分」とのことなのだが、基本的にこのスタンスには賛成なのだ。
 また、各国のメディアはそれなりに偏向しており、たとえば金子勝らの「メディア危機」(NHKブックス)のような労作もある。その偏向をあらかじめ頭に入れておいて報道を修正する、という芸当もできるのかもしれないが、なかなか各国のメディアを比較するのもたいへんだし、そもそも国内事件については国内メディアに頼らざるを得ないことも多い。すると、分析レベルはもちろん、事実レベルでも報道の正確さを欠く国内メディアをつうじてわざわざ情報を入れるのもどうか、という気にもなってくる。

 と、いろいろ書いてはみたものの、基本的に、あまり世の中の短期的なうごきには関心がない、ということに尽きると思われる。小泉自民党の異様な支持率のたかさにきづかなかったのもそれが理由である。

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2005年12月26日

属国に独自外交権は存在しない

某所より。

 先日のNHKやらテレビ朝日やらの討論番組でもちょっと話題になっていた。
 なかなかこの歴史認識問題や三国間関係についてはかんたんにきめられないところがある。というのは、どちらかが一方的にわるいというもんだいでない(とわたくしはおもう)、たぶん比率で言ったら日本が7、中韓が3くらいの帰責性だとおもうのだが、原因をつくっている側が「オマエにもわるいところがあるのだから、そっちから先に謝罪しろ」という態度しかとれないところが解決しない理由だろう。
 また、当然ながら、これは単なる外交問題ではなく、国内の政治・経済の問題でもあるところがまた話をややこしくしている。そもそも、どの国の政治史をみても、対外軟弱派がたかい支持率を得ることはすくないことはあきらかなのだから、宥和政策をとろうとすれば、その政府がたかい支持を最初から得ている、ということが条件となる。中韓においては、国民の不満を抑えるために対日強硬政策をポーズだけでも取らざるを得ないし(しかし以前の中国の反日暴動については政府の思惑を超えてしまったようだ)、逆に日本においては首相が国民の高支持率を維持するために(ようは機嫌を取ろうとして)ナショナリズムを煽ろうとしている。
 関係改善のためには、より政治的に動きやすい方から動くしかないはずなのだが(それは中韓よりは日本だろう)、そもそも関係改善が国益になると与党(というより総理か?)はかんがえていないのではないだろうか。
 まあ、端的に、首相は日本よりもアメリカの国益を優先している売○奴であるといってしまってもよいだろう。そして、それに気付かない国民が大多数なのだから、やはり我が国は独立国ではないのだ。それを隣国相手に意気がってみても・・・

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2005年12月30日

小泉自民党を支持できない理由

 ときどき質問されることがあるので、まとめてみた。

 以前の筆者なら以下のように答えたとおもわれる。
「日本の国益を減少させるから」
 基本的には今でもその考えはまちがっているとはおもわないが、少々ことなったふうに考えている。まずは、その前提となる議論として、「ポリティカリー・コレクト」というかんがえかたについて少々言及する。
 「ポリティカリー・コレクト」とは、「男女平等であるべきだ」とか「少数意見は尊重しなければならない」といった、反論し難い意見を指す。つまり、理念としては正しい意見と大多数が考えている意見のことだ。これを政治的に主張したばあい、なかなか反論を挙げるのはたいへんだ。政治的な反論としては、「理念としては正しいが、実際の政策としては却って有害となる」とするしかないだろうが、理念として正しいことを認めている以上、それが有害である立証責任はその意見に反論する側がもつことになる。つまり、ポリティカリー・コレクトな意見を吐くことは、それだけで議論のうえでは優位に立つことになる。
 では、それを踏まえたうえで、筆者は小泉内閣(というより、小泉純一郎の政治姿勢)は、「ポリティカリー・コレクト」とは考えていないことを最初に述べておく。つまり、例えば経済政策で言えば、いわゆる新自由主義的な「規制撤廃、自由化、民営化」とか、外交政策で言えば「対米追従、対中韓強硬」などの個々の政策は、かならずしも広く「正しい」ものと支持を受けているとは考えていない。しかし、巧妙な宣伝によって、「痛みを分かち合う」とか「民営化はすべて正しい」というフレーズが、大前提として理念的に正しいものだ、という空気はできているようにも感じる。
 さて、先ほど述べた「国益」という考え方にも注意が必要だ。先のフレーズでは、ほぼ「日本のGDPを増大させる」というニュアンスで用いている。ただ、「国益」とは、経済面のみに限らないことには注意が必要だ。例えば、GDPが小さくとも、国民の幸福の総和(というものが測定可能かどうかはまた議論があろうが)は大きい、ということは可能性として十分ありえるからである。
 さらに、一般論として、与党が変わるとどのくらい「国益」は変わるのか、ということについて、簡単に検討しておく。世界の共産圏以外の国々、特に先進国と呼ばれる国々では、多党制(二大政党制をふくむ)が採用されている国がおおい。これはどういうことを意味するだろうか。一党独裁制がさまざまな問題を発生させることについては、戦前のドイツや戦後のロシアといった説得力のある実例があり、ほぼ認められているといえよう。では、今述べた消極的な理由以外に、積極的に多党制を擁護すべき理由はあるのであろうか。
 通常は、多数の人の利害をひとつの党が代表することがむずかしいから、最低限でもふたつの政党が必要だろう、と考えられている。ただ、一億人の人口を持つ国で、ひとつの党が5000万人、もうひとつも同数の人々の利害を代表する(あるいは支持を得る)という仮定はかなり乱暴であって、これは擬制的なものといってよい。本来は異なる主張の数だけ政党が必要なはずである。よって、特に二大政党制と多党制のあいだにはかなりの懸隔があるといえるのである。二大政党制はとても「幅広い民意を反映」するものとは思われない。
 しかし、実際には二大政党制はいくつかの国で実例があり、ふたつの大政党のあいだで政権がキャッチボールされることに積極的な意味を与えている学者や世論が存在する。政権交代が可能であることで、悪い政策を打ち出したばあいに、それを民意として示すことができる、という仮定に基づいている。
 筆者は実はこの意見にかなり懐疑的である。むしろ、二大政党制の長所は、どちらの党もあまり偏った政策を打ち出すことが不能である、という、相互牽制にあるのではないか、と考える。これはどういうことか。先ほど述べたように、国民の半数を代表する、という仮定にはかなりムリがある。よって、政策としては、「自分の党を支持していない」残りの半数の意向にも注意を払わねばならず、その結果支持層への露骨な利益誘導がやり難くなること、そして「明らかに国民所得を下げたり、国益に反するような政策を立案できなくなる」という結果になるのではないか、ということである。
 話が若干込み入ってきたが、筆者が言いたいことは、二大政党制のばあい(これは本来は多党制でもあまり話は変わらない)、どちらの政党が政権についても、「国益は全体としてはさほど変わりはなく、国内でのその分布が若干変わるだけ」という結果が得られるのではないか、ということである。つまり、政府によって「国益」(GDPと言い換えてもそれほど間違いではない)の総和はそれほど変化はしないが、ディストリビューションが変化する、ということは、ゼロサム社会を前提としていることになる。

 ここで小泉政権に話を戻す。筆者は、「小泉が政権を取ったことで、国益自身も減少する」と当初かんがえていた。そして、今もその意見はさほど変化はしていないが、それが支持をしない大きな原因ではない。むしろ、先ほど述べた「分布」のちがいに着目したいとおもう。
 つまり、小泉新自由主義政策、右寄り路線によって、国内には利益を受ける層(またはプライドが満たされ、幸福感を感じられる層)と、不利益を被る層とに分けられる。そして、筆者はまちがいなく自分が後者に属することを確信しているし、それよりも問題だとおもうのは、経済的には不利益を受ける層に、その自覚がなく、巧妙にだまされているのではないか、ということだ。国民の80%が支持をするということは、筆者の上述の議論からすれば、30%程度はだまされている、あるいは誤解をしている、という事実が生じていることになる。 
 注意したいことは、このゼロサムの分布は、かならずしも有利な層が50%、不利な層が50%とはならないことである。たとえば、アメリカの富の50%以上が、1%程度の一部の富裕層に保持されているが、ここに累進課税をしっかりかけて再配分をすれば、99%が利益を受ける、ということもできる。よって、筆者の危惧は、逆に、小泉政策によって、優遇される層はわずかな割合であり、むしろ不利益になる層のほうが多いにもかかわらず、そうは思っていない層がおおいのではないか、ということである。

 なので、筆者が支持しない第一の理由は、自分が不利益を受けるからであり、第二の理由は、「支持している層のかなりの部分が、自分の(経済的)不利益を認識していないような、そういう宣伝(洗脳といいかえてもよい)を行っている」ということだ。
 もっとも、当然ながら、どんな政府もみずからを正当化しようとするから、そのプロパガンダじたいはそれほど責められることはないのかもしれない。ただ、こんかいの出来事は、誰かが笛を吹いて大衆が踊った、という大衆愚民論に基づいて生じたものではない、と考える。それよりも、フーコー的な「権力としての知」が発動された、という印象すら覚える。統制を統制と感じさせない権力の行使。これこそ、オーウェルの「1984年」のような、あからさまな権力の行使よりも、さらに統治としては完全なかたちであるといえよう。

 だから、当然ながら、そのような「知」のかたちは、小泉純一郎ひとりでつくりあげたものではない。いや、小泉じしんもそのような意識はなにひとつとしてないのかもしれない。もしその「権力としての知」が時代のひとつの要請から自然発生的に生じてきたものであるとするならば、それはすぐには如何ともし難いものかもしれない。それは恰も全世界から非難されながらも、アメリカが帝国としての違法な力の行使をやめないことと同じであるのかもしれない。

2006年01月02日

赤色天皇

新年参賀の中継をやっていた。

 今上天皇、かずかずの爆弾発言をかましてくれるが、そのサヨク性があきらかなだけ、マスコミ的にはあまり認知されていない。というより、天皇発言を報道することじたいがタブーになっている印象すら覚える。
 園遊会で東京都教育委員の米長邦雄に言い放った「日の丸・君が代は強制にならぬように」のひとことも感慨深いが、天皇家最大のタブーに触れてしまった「ゆかしさ」発言はその最たるものだろう。宮内庁は天皇家の素性が暴露されることを恐れて、天皇陵の発掘調査には頑としてノーを言い続けてきたのに、よりによって天皇家の出自が朝鮮半島にあることをほのめかしてしまうとは。
#戦時中は朝鮮併合を正当化する「日朝同祖論」というのもあったけれどもね

 父君の戦争関与にも批判的であった由。赤色天皇に栄あれ。

2006年01月05日

政治生命

 アリエル・シャロンが重い脳梗塞だと。
 せっかく卵円孔を閉鎖する手術を行ったというのに、予防効果はなかったらしい。

 彼の政治生命もこれで終わりだろうか。

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2006年01月06日

なぜわたくしは株を買わないか

 筆者が株取引を行っていない理由について述べてみる。

 筆者の周辺には株取引を個人あるいは業務として行っているひとがけっこうおおい。中にはかなり成功しているひともいるらしいが、筆者自身はまだ未経験である。
 筆者の父親はかなりサバイバル能力のたかい人間であると考えている。それは現代社会において、という意味ではなく、小野田・横井氏とおなじような状況におかれた場合、高い確率で生還するだろう、という意味の能力であるが、かれは経済の知識はそこそこあるにもかかわらず(ながねん日経の夕刊を愛読していた)、子供たちに株取引を勧めなかった。その理由は、
 「労働しないで泡銭を手に入れるのはよくない」
という倫理的なものであったらしい。父親には申し訳ないが、この倫理観は今となってはまちがっていると言わざるをえない。なぜなら、
1)失敗すれば資金が吹っ飛ぶというリスクを抱えており、「気軽に」手を出せるようなものではない。つまり真剣な行動である。
2)日本政府に、日本経済を安定化させる能力はない、という、不信感が広がっているために、円さえ手元に置いていれば生活は安泰とは言えなくなった。すなわち、資産の分散を図ることは合理的な考えとなった。
3)株式投資は(日本)経済を成長させるという意味で、むしろ倫理的な経済行動である
といった反論が即座にかんがえられるからだ。
 しかし、そういった合理的な反論とは別に、「倫理観」として子供に根付いたばあい、それはなかなか呪縛となって振り切ることはむずかしくなることもありえよう。つまり、「親の呪い」が株式を遠ざけているという可能性である。
 第二に、筆者が財産に関してはリスク回避性の性格をもっている可能性がある。つまり、資産の分散投資の必然性はみとめていても、外国債等の低リスクの分散方法もあるからである。これは筆者の性格に原因を帰すということになる。
 第三に、現在の株式相場の動向にたいする不安である。とくにこの一年の間に、ネット株取引が急増したといわれている。松井証券など、はやくからネットに特化した会社の成績もよいようである。筆者は、流行には取り合えず乗らない、という対応を好んでいる。とくにさいきんの急なブームはあぶないのではないか。筆者にはとてもうまく売り抜ける自信はない。
 さいごに、毎日一定じかん毎に株価をチェックするということは、けっこう面倒である。この面倒さには耐えられそうもない。ぎゃくに、いったんはじめてしまうと、筆者のような性格の人間は、ケータイで五分毎くらいにチェックしたくなるにちがいない。つまり、本業に影響がでるのではないか、というしんぱいもある。最近の取引に纏る事件をみていると、たしかにうまく乗れればきわめて短時間に多額の利益を挙げられるということもごくごく稀にはあるのだから、はりついていることのメリットはあるわけである。

 まだまだあるが、主に以上のような理由で、現在の筆者は、「取引には手を出さない」というかたちで、むしろ心の平穏を選んでいるといえる。しかし、個人的には、株取引のような投資行動はきらいではない。あすには、もうはじめているかもしれない。

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2006年01月11日

アップルの怪

 四倍早いって言うけどさ、それって今までの「PowerPCのほうがPentiumよりも優れている」という宣伝がウソだったということにならんの? どうも納得できん。

2006年01月14日

ワイン

外務省貯蔵の賓客用ワイン8千本 だそうだ。

 偏見を承知でいわせていただこう。外務省にも、そして医療関係者にも、「ワイン通」と称される人物がいるが、はっきりいってそういう方々の「知性」や「教養」はたかくないとみなしている。ソムリエという職業に対して高評価を与える人物についても同等である。だって、味覚をことばで表現するって、究極のばかばかしい行為じゃないかしら。まあ、それを言ったら、音楽評論家とか美術評論家も同罪だけれど。

 どうしてそんなにワインを敵視するかって? それは、フランス料理のフルコースや、オペラ等に正装が要求されることに反吐がでることと同じ理由と思われる。「ワタクシ、オペラが好きですの」とかいうスノッブもご遠慮願いたい。それなら、まだしも「天皇陛下万歳!」を三唱するウヨクのほうがかわいげがある。

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2006年01月15日

国の威信

 NHK討論より。安倍官房長官いわく「このような時代には、トップダウン方式の政治が必要」だとか。
 日本近代史上、そういう時代があったことをご存じないらしい。あのnotoriousな祖父が一枚噛んでたのを。
 岸信介を巣鴨から出所させ、あまつさえ総理大臣にしてしまったのは、日本史に残る一大汚点なのに、さらにその悪名高い孫まで総理に選ぼうとするのか。
 これでは「国の威信」もなにもあったものではない。「新しい教科書」をつくったり、国旗掲揚・国家斉唱の前に、まともな首相を選ぶことからはじめなければいけないのではないだろうか。

 まあ、阿南惟幾陸相の息子を五年間も中国大使として派遣するような、無神経な国だから仕方がないのか。アメリカがエノラ・ゲイのパイロットの息子を駐日大使にするようなもんだ。

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2006年01月17日

六本木ヒルズ

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悪い奴ばらのたくさん住んでいるところ(笑)。

自宅より。

2006年01月18日

思考実験

 ライブドアの事件の影響で、東証が一時的に取引を停止した由。

 それとは関連のある話ではないが、タイ・バーツ危機や南米のデフォルトなどに関連して、以前から思っていることがある。それは、グローバル経済における、異なる通貨間での為替の存在だ。筆者の理解では、金融の自由化は理論的には世界経済の発展に寄与するはず(投資が行われるから)なのだが、それが地域経済の不安定化に繋がっているのは、為替を利用した投機的な取引がその大きな部分を占めて、じっさいの経済成長によってキャピタルゲインが得られる長期投資に結びつかない、ということだ。
 では、それを回避しつつ、投機的でない投資がなされるにはどうすればいいのか。これはひとつの思考実験であるので、実現可能性は問わない。筆者のかんがえでは、地域通貨がなくなって、世界通貨というかたちで一元化され、為替レートの変動が消失すれば、グローバリゼーションの弊害はなくなるのではないか、ということだ。つまり、現行の投機は、為替差益の存在が前提とされているからだ。
 ユーロが導入された際に、数年で失敗に終わるだろう、と予測する識者がかなりいた。つまり、地域間の経済格差は通貨の一元化を耐え難いものにするだろう、というものである。現実には、ユーロ経済圏には多少の(おおきな?)混乱はあるものの、世界の基軸通貨のひとつとしてのユーロの地位をうたがうひとはもういないだろう。
 是非、経済学者でも、アナリストでもいいのだけれど、世界通貨に統一された場合のグローバリゼーションにつき、見通しを述べていただきたいものだ、とおもう。

2006年01月19日

少子化対策

 あちこちで論議されているが、バッカみたい、との印象を禁じ得ない。いくら出産や育児の環境を整え、補助金等で経済的に優遇したとて、下がった出生率が劇的に改善することはないだろう。
 対策はひとつしかない。「日本人」にこだわらない、すなわち、依然として高い出生率を維持しているイスラム諸国からの移民の受け入れ、である。かれらはしばらくは日本で高い出生率を維持するであろうから、徐々に日本社会はイスラム化してゆくことになる。そう、先進国のイスラム化はヨーロッパを見ても避けられない状況なのだ。フランシス・フクヤマは、歴史は終わり、西欧民主主義が世界を制すると言ったがそれは総計だった。最後に世界を制する者は旺盛な繁殖力を誇るイスラムなのであった。

 筆者も「コーラン」を読む予定だ(日本語訳なので本来は「コーラン」とは呼べない)。これからは初等教育でイスラムのイの字くらいは教えないといけないと思われる。井筒俊彦師は偉大であった。

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2006年01月23日

誇り

 中川とか武部とかが、ここぞとばかりアメリカの悪口を言っているのは非常に聞き苦しい。農政「だけ」は何を言ってもいい、と思っているようだが、ちょっと違うんじゃないの? 特に武部・・「日本人の食に対する繊細な気持ちを、アメリカ人はまるでわかっていない」だそうだ。
 そんなに日本人の「誇り」を大事にしたいのなら、まず西鋭夫氏の本でも読んで、第九条を改正してアメリカの基地撤廃、自主防衛を目指すのが政治家としては筋だろう。支持はしないけれども。

昨日の購入
 エヴァンズ・プリチャード「ヌアー族」平凡社ライブラリー
 「夏目漱石全集(2)」
 「太宰治全集(3)」
 モーム「かみそりの刃(上)(下)」以上ちくま文庫
 庄野潤三「絵合せ」
 大庭みな子「啼く鳥の」
 大岡昇平「中原中也」
 吉田健一「ヨオロッパの人間」
 ゲーテ「親和力」 柴田翔訳
 ナボコフ「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」 富士川義之訳 以上講談社文芸文庫

 文文庫という文庫専門の古本屋さんを発見。一括注文した。「ヌアー族」と「かみそりの刃」を探している際に発見。こういう「日本の古本屋」に登録していない本屋さんには、いろいろと掘り出し物があるのであった。値段も安いし。

昨日の読了
 西鋭夫「國破れてマッカーサー」中央公論新社 B

 西氏は、あまり知られていない、戦後占領期の研究者である。この時期を研究する歴史家は、当然ながら明確な政治的姿勢を打ち出しているひとがおおい。竹前栄治氏や吉田裕氏は左、五十旗頭真氏は右寄りの中道、そしてこの西氏は明確な右である。右と言っても今の自民党のように「ねじれた」右ではなく、米国に対する是々非々を明らかにして、占領政策によってアメリカに押しつけられたご都合主義による政策を排除しろ、と訴えている。本書は、日本人としてはじめて1975年に公開された1945年のアメリカの外交文書にアクセスし、それをもとに手がけた研究を基に執筆されている。しかし、読んでみると、ほぼその論点は他の論者によってカバーされてしまっている印象を受ける。よって、悪い本では決してないのだが、「敗北を抱きしめて」とどちらを推すか、と言われたら前者になってしまう。
 さて、激しい競り合いの末、ようやく五十旗頭真氏の大作「米国の日本占領政策」(中央公論新社)をゲットしたのだが、まだ読まずに本棚にしまってある。おそらく、同著者による、読売新聞社の「20世紀の日本 占領期」や、中央公論の「日本の近代6 戦争・占領・講和」と大差ない内容だとは思うのだが、この分野の第一人者の代表作ということで、きちんと読んでみたいと思っている。

2006年01月29日

巨悪は摘発されない

 ライブドア事件に関して。

 この事件の「真相」には、筆者はあまり興味はない。筆者の関心は、同じような悪事を行っていながら摘発されない人間(団体)はほかにもいるのに、どうしてライブドアがターゲットになったか、ということだ。
 特捜が動いたということは、これが「国策捜査」(佐藤優)であることを示唆している。つまり、ライブドアはある「シンボル」として標的になってしまった、ということだ。これは、新自由主義政策の行き過ぎを抑えるために見せしめになった、と見るのが社会学的には正しいように思われる。
 検察の真の狙いは、有名な某ファンドだったと思われるのだが、その某ファンドが助かって、ライブドアが捕まったのはどこに差があるのだろうか。ひとつは、某ファンドの総帥のほうが、堀江氏よりも賢かったということ。つまり、起訴する口実を与えるような、あきらかな悪事を行っていなかった、ということだろう。もうひとつは、こちらのほうがより重要だと思われるのだが、組織維持のための工作の深さに差があった、ということだと考える。ここまで組織が大きくなれば、何らかのかたちで与党や政府、そして行政を支える司法システムに結びつかざるを得ないが(暴力団も社会のシステムのひとつと言えないこともない)、その「深度」が堀江氏においては浅く、某ファンド総帥においては深かった、ということではないか、と考える。つまり、堀江氏の読みの浅さは、現自民党執行部とさえ結びついていれば安泰、というところにあったのではないだろうか。おそらく某ファンドのほうは、非主流派、野党、そして官僚や司法の方にもコネクションを持っているのだろう。そして、強い結びつきのゆえに、「巨大すぎて、悪すぎて潰せない」ような存在を目指しているのではないか、と考えられる。
 筆者がこう考える理由は、すでに日本にはよい「お手本」が存在するからである。それは、某巨大宗教団体だ。政党をつくり、法曹界に人材を数多く送り込む、という手法で、巨大な資金の不透明な運用(これはいろいろなところから何度も指摘されている)その他の「巨悪」を、摘発不可能なものとして守っているといわれている。
 残念なことだが、この手法があまりにも成功したために、これを見習ってマフィアのような団体が、摘発不可能なかたちでいくつも日本に残ってしまっているのは事実だと思われる。
 では、この手法のオリジナルはどこなのだろうか。筆者の想像では、S川R一氏やK玉Y誉志夫氏ではないだろうか。そしてそれに最初にならったのがかずかずの暴力団かもしれない。

2006年02月04日

ソルジェニーツィン

 まだ生きていたのか・・

 この紹介の仕方もひどいと思う。「原題は『第1圏の中で』」というのは、何の意味もないだろう。木村浩氏の解説では、これは"The First Circle"、ダンテの「神曲」の第一圏という意味、つまり、キリスト教(カソリック)の教義によれば、地獄と天国の中間の「煉獄」に当たることからこの訳にした、とある。
 こういう意味もない解説をさも知ったかぶりのように付け加えるのは単に知識をひけらかす目的としか思えない。
 さて、英語の字幕付きでもいいから、一般販売してくれないかなぁ・・

2006年02月05日

恋愛資本主義

 スイスの山村より。
 「社会の安全弁」という言葉を聞くと、あの「従軍慰安婦」を思い出す。いまや慰安婦というと、日本軍の専売特許だったというイメージがあるけれども、それはある意味、(こういうことは書きたくないけれども)某隣国たちの宣伝の影響である。アジアの植民地を支配していた英・蘭・仏軍も慰安婦を置いていたし(自国から連れてきたり、現地調達したりしていた。その「白人慰安婦」は、たとえば蘭印を支配していた日本陸軍の将校たちの間では珍重されていたらしい)、進駐軍に対しても、「日本の婦女子の貞操を守るため」という名目で、なんと日本政府が自発的に「慰安婦」を組織していたのだった。そして、その慰安婦を組織したのが、あの笹川良一だったのだ(ダワー「敗北を抱きしめて」より)。
 近年はやりの社会構築主義によれば、「性欲というのも社会的に構築されたもの」であって、男性としての、女性としての、「生得的な」欲望というものは存在しないと考えられている。だから、例えばこのような立場を採る上野千鶴子などによれば、「慰安婦やソープなどが必要悪だ、とする男性の考えは、男権優位の社会を反映したものに過ぎない」ということになる。
 さあ本当にそうなのだろうか? ここから先は個人的な印象と言うことになるが、日本のCSW(commercial sex worker)を扱ったレポートなどを読む限りにおいては、風俗産業を利用する男性の嗜好は、「抜きにゆく」という、まさに安全弁としての利用法よりも(それだったら、自分ですればいいじゃん、と思うのは、筆者だけだろうか?)、性的接触を含めた何らかの感情的交流を望んでいる、という方向性にある、という印象を受けている。むしろ、「性的弱者」が、料金を支払うことで、はじめから感情的に拒否されてしまう、というリスクを回避した上で、恋人に求めるような「甘え」を買う、という構図になっているようだ。
 とすると、スイスの山村氏のいうとおり、日本においても、外国においても、CSWとして働く女性は、一般的には「社会的(経済的)弱者」が多いということは事実であろうから、今風俗の現場で生じている事態は、「社会的弱者である女性が、性的弱者(要するに、もてない)である男性に、感情的癒しを与えるというサービスを提供する場を与えている」ことになる。さらに、今の日本では、そういう場を提供しているのが多くは暴力団であることを考えると、社会の最も弱い層からいわゆるブラック・マネーを搾取しているということになる。

 このように考えると、風俗の現場というのは、例えば鷲田清一のような、癒し系の論者がいかに美化しようとも、実にやりきれないものであることが見えてくる。筆者は、スイスの山村氏よりは、性に関しての倫理観はたぶん緩やかであるから、風俗産業を利用すること自体は、それで性的・感情的に満足することができれば、差し支えないと考えている。しかし、問題なのは、通常の出会いでパートナーを得ることのできない「性的弱者」の救済である。話題になった河合香織「セックス・ボランティア」は、障害者の性というテーマを扱っているが、これは実は障害者だけでなく、健常者(ちょっとイヤなことばだ)であったとしても、同様に弱肉強食の恋愛市場において、必然的に敗者とならざるを得ないひとびとに関しても当てはまるはずである。今、経済においても、規制撤廃・自由競争が自明の原理として認知されつつある今(この風潮に関しても、筆者は強く疑念を持っている)、恋愛においてもリバタリアリズム、つまり自由至上主義が当たり前であるとされている。もちろん、筆者はこれには基本的には異を唱えることはしない。ただ、一例を挙げると、「人妻に手を出してはいけません」という倫理観は、基本的に不倫の「背徳感」をたかめ、その喜びを増強するためにつくられたルールだと考えるので、規制撤廃が恋愛の喜びを無条件に大きくする、という楽天的な意見には、強く反対したい。栗本慎一郎が指摘しているように、道徳というのは多くの場合性の興奮を高めるためにつくられたルールだからである。
 それとは違った意味で、力ある者が市場を制する恋愛の草刈り場において、必然的に発生する「弱者」を救済するシステムは本当に不要なのだろうか? 現在の「風俗」は、結局性的弱者を搾取するための装置として機能しているわけだから、システムとしては欠陥があるものの、「必要悪」あるいは「安全弁」としての働きがないわけではない。かつての日本、特に農村においては、若年男性の「はけ口」として、後家さんが安全弁としての役割を担っていた、ということがあったらしい。これは女性側からの男性の救済という一方通行のシステムであったように一見みえるが、もちろん後家さんの欲求不満の解消という意味でも有用なものであったであろう。いうまでもないが、ここには金銭の絡んでくる余地はなかった。今の時代、このシステムの復活はもちろん無理だろうけれども、性的弱者同士が公的に認知されたかたちで、お互いの性欲(精神的な意味も含めて)を癒し合うことのできる「場」を新たに設ける、といった、性的福祉政策も必要なのではないだろうか、とも考える。

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2006年02月06日

子供の株取引

 あちこちで記事になっているから引用は控えよう。
 例によって、スイスの山村氏のコメントを期待していたのだが、まあ妥当というか、見方を変えれば常識的に過ぎるとも言える。引用されている森永氏にしても、「もっと早くから株取引をやって、グローバル時代に適応できる子供をつくるべきだ」などと発言したら、おそらく間違いなく干されるだろう。ということは、彼もマスコミの期待通りの発言をして、生き残りを図ったことになる。つまり、世論を「小さいときから株取引に手を染めるのは子供の教育上よくない」というところに落ち着かせよう、という操作の臭いを感ずる。実際にやっている子供が多いということは、黙認、あるいは積極的にやらせている親が少なくはない、ということで、これは「現実」と「世論」とは逆の方向へ行っていることを意味する。「子供はいけない」というなら、裏を返せば大人ならどうしてよいのだろう? 例えばホリエモンは悪いが村上ファンドはよいのか? 「株の売買で儲けるのは本来のすがたではない」といいつつ、そうやって儲けているのがファンドではないのか?
 ひっきょう、子供の株取引を批判する立場は、単に子供に「汗水たらして働くことが労働だ」という倫理観を押し付けようとしているだけで、「どうして株取引を若年から始めることがわるいのか」という疑問には直接答えるものとなっていないのだ。あの村上氏も、小学生から株取引を始めている。しかし、彼の場合は、「授業中も気が気ではなかった」とはならず(当時はネット取引もないし、分刻みの情報蒐集は今に比べれば要求されなかったということもあろうが)、ちゃんと東大へ入っていることから同一視するわけにはいかない。
 今や「お金」はさまざまな証券のかたちを取って「商品」となっている。モノをつくることが資本主義の大原則ではなく、儲けることが原理である以上、「商品」を売り買いすることで儲けることを倫理的に批判することは間違っている。それが実質的な経済成長に関与しないことを持って、いけない、という判断を下すことは筋違いとも言えるだろう。

 今回は、あえて筆者自身の意見は書かないが(長くなるから)、「いけない」と非難するなら、その理由をきちんと論理的に(あるいは倫理的に)説明する必要がある、と思われる。それができなければ、当然ながら株取引に使える時間は、親よりも子供の方が潤沢な以上、子供に代行させることが合理的である、というもっともな意見に反論できない。また、地道に勉強をして大学に入ることが、株取引を生業とすることよりも優れている、と一概には言えないことは、'90の大企業倒産を見ても言えるだろう。

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2006年02月07日

子供の株取引(2)

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 「子供には早いうちから株取引に親しませるべきである」あるいは「子供に株取引の代行をさせることはかまわない」という命題に対しては、報道をみるかぎり否定的になされているようである。つまり、マスコミ=世論は、反対の方へ誘導したいらしい。前回は、それには根拠がないのではないか、つまり、ひとつのイデオロギーに過ぎないのではないか、という疑問を呈した。自らの考えはあえて書かなかったが、少なくとも資本主義の論理を貫徹させる限り、「まじめに働くことを軽蔑する子供がふえる」といった批判は、的はずれであると思われる。ほかにも、「モニタの前に何時間もかじりついているよりは勉強しろ!」という一見まっとうな批判が次に考えられようが、これもだめである。「勉強して、いい学校に入って、いい会社に入って」という、「保証された生活ドグマ」を壊したのが今のおとなたちであるからだ。つまり、今のこどもたちは、「学歴がなかったら下流になる可能性が高いが、あってもいきなり優良企業が潰れる」ことを知ってしまっているので、「将来いい生活をしたかったら勉強しろ」という大人の説得にはもう応じられないのだ(「ドラゴン桜」なんかの例もあるけれど、東大に行ったところで、社会のルールの上に乗っかった「強者」になれるのは、ほんの一握りだろう)。最も、「大学へ行くのは就職のためじゃない!」というもっともな反論には再反論はできない(笑)。

 筆者は残念ながらマスコミと同じ結論を持っている。ただ、その理論構成はかなりちがうことをはっきりさせておこう。以上の議論からもおわかりだと思うが、もはや、「楽して稼ぐことを覚えさせてはならない」とか、「学生の本分は勉強で、ネット取引に数時間も費やすのはよくない」といった、倫理的な観点からの禁止は不可能である、ということだ。
 おそらく、子供にデイトレードをやらせる、あるいは子供が希望する階層というのは、「下流」ではないだろうが、まちがいなく富裕層ではないだろう。つまり、富裕層なら、子供に金を稼ぐことを要求しないで、むしろ自分たちの持っている(「稼いだ」とは書かない)金を子供に「投資」するだろう。つまり、本来投資されるべき子供が逆に投資に走っているというのは、その階層がすでに「負け組」であることを意味すると言ってもよい。ということは、中流層がステップアップを図ろうとする際の常套手段であった、学歴の取得のための投資、つまり受験勉強に充てる時間が割かれる以上、学歴という「勝ち」は放棄しているわけである。
 だから、じつはこの問題については、「投資されるべき」人間が「投資にまわっている」時点で勝負あった、なのだが、いちおう予備的に相場での「勝ち」と、伝統的な学歴の取得ではどちらがより賢い方法なのだろうか、を検討しておく。極端な仮定をすると、「学歴がすべて」という価値観をたたき込まれた子供と、「金がすべて」という信念を持った子供、どちらが幸せになるか、という問題とかんがえてみよう。昨今、学歴の威力はますます落ちているから、社会の格付けとして学歴は年々力を失っている。しかるに、「多様性・多文化主義」の国アメリカでは、異なるバックグラウンドの人々を評価する唯一の指標が「カネ」であることはよく知られていよう。そして、グローバリゼーションは必然的に資金と人(マルチチュード)の流れを生み出し、単一の文化が持つ評価価値をどの文明も維持しえない方向へ世が流れているのは事実ではなかろうか。それは、あのホリエモンの著書「稼ぐが勝ち」ということばに象徴されている。
 筆者は、世の中で重視されている価値基準を叩き込まれたほうが、その後の人生生きにくかろう、と思うのだ。なぜなら、そこにはたくさんの人間が群がる(つまり、「稼ぎたい」と思う人間が多い)ので、競争相手が多いこと、社会によって強く認定された価値基準からの「逃走」がむずかしくなること、といったマイナス要因が考えられるからだ。
 子供時代に大切なことは、「あれもあり、それもあり、これもある」と、逃げ道をたくさんつくっておくこと、別のことばでいうと選択の幅を広げておくこと、ではないかと考える。とどのつまり、学問をするということは、ものごとをさまざまな角度から眺められるようになることであり、「真実」を追求する、ということではないはずなのである。そういう意味で、これからますます日本において人間を評価する指標として採用される可能性の高い「収入」にダイレクトに繋がるような株取引に、子供時代から深く関係してしまうことは、結局その子供の逃げ場をなくすことになるのではないか、ということを懼れるのだ。

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2006年02月12日

天下りは必要悪か?

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 NHKの日曜討論で天下りがいけない、という議論をやっている。ばかげたことだ。もう何年前から同じことを繰り返しているのだろう。
 筆者がこの件に関して多少知っているのは、製薬メーカーに関することだ。医師の中には、同効薬の中から一つを選択するときに(例えば、抗生物質や高血圧の薬などは複数の選択肢がある)国内メーカーの薬を優先して処方する、という方針でやっているひとが少なくない。筆者はまったく逆で、迷ったときにはファイザー(米)、万有[メルク]・ノバルティス(スイス)、グラクソ(英)、ベーリンガー(独)などの中から選択することが多い。
 その理由は、メーカーにとって生命線である、新薬の認可の際に、明らかに国内メーカーと外資系メーカーの間に差異があるからである。じつは、厚労省の「いやがらせ」はそれに尽きないのだが、天下り役人を採らない外資の新薬の認可を故意に遅らせる傾向がある。
 それが顕著に表れたのは、ひとつは胃潰瘍に対するPPI(プロトン・ポンプ・インヒビター)の件である。この時、申請したのは現アストラゼネカ。この時に、当時日本国内の医薬品の売り上げベスト3くらいに入っていた山之内製薬のガスター(H2ブロッカー)を守るために、PPIの認可を遅らせ、しかも適応に厳しい縛りをつけた。最近では抗インフルエンザ薬であるリレンザ(グラクソ)に対するひどい妨害が目に付く。この薬剤は事実上一年認可が遅れ、一年後のタミフル(ロッシュ)の登場を待ってはじめて健保適応となったのである。このためにグラクソが被った損害は億単位ではないかと推測される。もちろん、損害はメーカーだけの問題ではなく、有益な新薬の認可が遅れることは、国民の利益に相反することになるのはいうまでもない。
 さて、先ほど外資のメーカーの名前を挙げた際に、中外製薬(ロッシュ)はあえて外した。これは、同社は外資系の中では天下り役人を積極的に受け入れ、厚労省に迎合することで利益を得ているからだ。これは国内メーカーと全く同じやり方である。このような嫌がらせをすることで、厚労省の役人は自らの天下り先を確保していると言える。
 では、政治家が言うとおり、天下りを禁止すればそれでことが足りるのか。役人の給与はその能力と仕事量に比べれば不当に安い。例えば、夜間・休日出勤の代償として医師が「お礼」というかたちで、患者もしくは家族から非合法に対価を得ているのと同様(これは当然医療費から支払われるべきである)、役人は天下りというかたちでそれまでの努力の対価を得ることになる。これだけを禁止したら無能な輩ばかりが官庁にはびこることになる。これも困る。
 関連会社への天下りは全面的に禁止とするのはもちろんだが、官僚としてのキャリアを正当に評価し、適切な再就職先を公正なかたちで確保するような方策が望まれる。これは、アメリカのように官=民の人材の異動が当たり前になっているような文化が要求されよう。日本の司法システムがもともと法曹一元化が前提とされていたのと同様、官僚についても官ー民、民ー官の人材移動が前提となるようなしくみを同時に作っていかねばなるまい。

2006年02月22日

診療報酬改訂(2)

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 m3.comなどで、骨子がまとめられているようだが、はっきりいって「バッカじゃないの?」と言いたくなるような内容だ。一番疑問に思うのは心臓移植の患者負担の大幅な軽減だが、そんなに移植を普及させたいの? 同じ医療費を使えばもっといろんなことができるよ。なんか、こういう方向へ医療が進んでいくのはよろしくないのではないか。個人的には、もっとcommon diseaseに力を入れるべきではないかと考えている。例えば、もう季節は終わりに近づいているが、企業や学校がインフルエンザの患者の出勤(登校)に厳しく縛りをかけるとか、ワクチンの接種率を増やすとか、満員電車でマスクをしていない人間をしょっぴくとか(笑)、まず感染源を放置しないでほしいと思う。電車の中でマスクをかけずに咳をしている道徳観念のないオッサンをみると、後ろから蹴りを入れたくなる。傷害罪を犯していることに気づかせるべきだ。というか、逮捕してもいいと思うのだけれども(ちょっと過激)。

 と、興奮してみても仕方がないので、写真を載せてみました。どんなもんでしょ。

昨日の購入 なし
昨日の読了 なし

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2006年02月26日

オリンピック

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 もともと筆者はスポーツ観戦が好きではない。それを割り引いて読んで頂きたいのだが、むかしから、つまりプロフェッショナルの参加が許可される以前から、オリンピックで国中が熱狂するという事態が不思議であった。
 はっきり書くと筆者はオリンピックが嫌いだ。その傾向は年々強くなってゆく。もともと冬のオリンピックは「先進国」オンリーと言われている。つまり、雪がないということもあるが、お金のかかるウィンタースポーツの人口は、南北で大きな差があるのだ。メダルが北欧や中欧の国々に独占されているのは、単に地理的な問題にとどまらないことを意味している。
 また、参加する国々も年々二分化していると言えるだろう。参加者が一桁の小国の選手は、最初からメダル獲得は考えていないように見える。国の代表として参加していること自体を楽しみ、誇りに感じているように思われる。これに比して、選手がはじめからメダル獲得を目的として参加している国々がある。もともと共産圏の国家はそういう傾向が感じられたが、わが国もこの部類に属すると考えられる。
 オリンピックには唯一禁止事項がある。そう、ドーピングである。ではドーピングに属さなければ何をやってもいいのか? 専属のコーチ、栄養士、マッサージ師・物理療法(鍼灸その他を含む)士、そしてスポーツ関連器具メーカーによる特殊ウェアや装備の開発、、、と、とにかく選手を養成するためにはカネがかかる。そして、メダルを取らなければそのかけたコストは回収ができず、そもそもコストがかけられるか否かという時点で差がついてしまっている。今回のフィギュアの三人にしても、実家はかなりの金持ちであり、平均的日本人とはとても言えない。オリンピックは参加することに意義があり、メダルが獲得できるかどうかは全力を尽くした結果に過ぎない、などという綺麗事をもう誰も信じてはいないだろう。放映権の問題だけでなく、選手そしてその取り巻きを含んだ、一大ビジネスになっているからである。
 だから、筆者はそこに視聴者として参加しようとも思わないし、年々そのような傾向を強めてゆくスポーツ産業に興味も抱かない。メダル獲得が裾野を広げることになる、と関係者はいうだろうが、実態はあまりに不自然ではないだろうか。それだけの巨額な金銭が動くなら、事実上冬のオリンピックから排除されてしまっている南のひとびとのスポーツ振興のために1/100でもお金が使えないだろうか。誇らしげにひとりで国旗を掲げて歩く小国の選手を見るとそんな風に思うのだ。

2006年03月17日

たまには

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 希望のもてるニュース。光触媒で水を酸素と水素に分解可能だという。

 日本近海には大量のメタンハイドレートという代替燃料が埋まっているようだが、これは当然燃焼させると炭酸ガスを発生する。これから人類が生きてゆくためには水素を燃料として(あるいは燃料電池の原料として)使ってゆくしかない。太陽光がこういうかたちで利用可能なら少しは希望も出てくるというものだ。
 この研究には敬意を表したい。Great !

2006年04月07日

国歌斉唱・国旗掲揚

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 多くの日本人家庭にいるらしい「山の神」。祭り上げないとオソロシイものなのだろうか。

 Yahoo!から、こちらにリンクが貼ってあった。

 この問題についての筆者の意見を記しておきたい(いったい何の意味があるのだろう? という根源的な疑問はひとまずおいておこう)。まず、最低限国民に教えなければならないことは、「外国人の、自国の国旗・国歌に対する尊敬の念を損なってはならない」ことである。つまり、国旗を汚す、落書きをする、自国の国旗よりも低いところに掲揚する、替え歌をつくる、などはもってのほか、ということである。これはアタリマエだ。
 次に、「自国民に、自国の国歌・国旗に対する尊敬の念を植え付ける」ことは、政府が国民に対して要求すべきことなのか、というところで議論が分かれるだろう。今の議論には三通りの立場のちがいがあるように思われる。
 A)他国を尊重するためには、まず自国を尊重しなければならない。よって、当然自国の国旗・国歌に対してはこれを尊重すべきである
 B)尊敬の念を持つかどうかは他人が干渉すべきことではない。よって、強制は望ましくない
 C)基本的には国民は自国の国歌・国旗は尊敬すべきである。しかし、ポツダム宣言を受諾し、サンフランシスコ和平条約に調印した以上、戦前の日本が軍国主義国家であり、侵略国家であったことを認めていることになるので、その戦前からの延長上にある国歌・国旗を変更しないのはおかしい(ドイツ・イタリアはそれを行っている)
 このなかでどの立場を支持すべきだろうか。そして、もしどれも妥当でないとすれば、それに替わる第四の立場はありうるのだろうか。
 さらに検討すべき論点は、「もしAの立場が正しいとした場合、国家はそれを拒絶した教職員を処罰する権限を持つべきだろうか」というものもあるが、これもひとまずおいておく。

 まず、準備として、B)の立場は、憲法、民法学での論点のひとつである「謝罪広告」を認める判決と同様の内容を含んでいることに注意しよう。つまり、「悪いことをした」という意識のない人間に、謝罪を求めることが、内心の自由を規定した憲法に違反しないかどうか、という論点だ。「尊敬」というのは、そもそも無理矢理に教え込んだり、強制したりするものではない、という意見は、憲法第十九条の観点から見て、一定の説得力を持つとしていいだろう。
 またA)は、論理的には一定の正しさを持っているが、「すべての外国人は、自国の国歌・国旗に敬意を持っている」という一文は、論理的には正しくはない。分離独立を求める少数派はむろん持っていないだろうし、多数派の中にも自国の国歌・国旗を望ましくないと考える人間は一定数存在するだろう。
 さらに、「自国の国歌・国旗を尊重できない人間は、すべからく他国人の国歌・国旗に対する感情を尊重できない」という命題がA)の対偶となろうが、これは正しいだろうか? 「自分は日本の国歌・国旗には感心できないが、由緒ある三色旗とラ・マルセイエーズに対するフランス人の忠誠はよおくわかる」というケースは少なくないのではないだろうか。やはり、理を通して考えると、A)の意見には無理がある。
 さて問題はC)だ。「ポツダム宣言受諾、サンフランシスコ条約調印」が戦後日本の外交の大前提となっていることは論を俟たない。だから、いまさら「東京裁判は勝者の一方的な裁きである」という意見を、対内的にはともかく、諸外国に対して叫ぶのは、この二つの条約をないがしろにするものだ。とすると前段は正しい。問題は後段である。「現在の日本の国旗・国歌は、戦前のそれと同じで、軍国主義時代の記憶と深く結びついている」この文章の整合性はどうだろうか。
 日の丸が使われはじめたのは、島津斉彬が自藩の船に掲げたことを嚆矢とする。君が代は、明治時代のお雇い外国人の手になるものであるが、そのことは意外に知られていないようだ(松本健一「日の丸・君が代の話」にあったと思う)。日の丸はたぶん全世界の国旗の中でもそのデザインの優秀性では一、二を争うものだろう。チベット密教に範を取ったナチスのハーケンクロイツもデザイン的にはいい国旗であったが(なんてことを書いていいものか・・・)、やはり日章旗が公平に見て世界一であろう。
 それに比べて君が代はメロディといい歌詞といい見劣りがする。かの保田与重郎も、「君が代の『君』とは、天皇陛下を指すものである」とはっきり言い切っている。保田ほどの学識と保守性を併せ持つ人物はそうはいないのだから、この言を信用してよいだろう。
 また、日章旗のほうは、海軍で使われたのは旭日旗、つまり日の丸の中心から放射線が八方に出て行くデザインである。占領地に掲げられたのは日章旗であったが、軍国主義と結びついたイメージは旭日旗のほうであろう。日章旗を使い続けることに筆者は特別問題はないと考えている。
 逆に君が代の方は救いようがない。この歌が大戦中歌われ続けたことはたしかであるし、「大君の世が八千代に続いて欲しい」という歌詞は、どうこじつけようと主権在民の日本国憲法とは折り合えないだろう。

 国家は"imagined community"である(B.アンダーソン)から、政府は国民にそのイメージを強化する政策を取らざるを得ない。その苦肉の策がオリンピックであり、ワールドカップであったりするのだが、そういった「国としての団結、愛国心」を鼓舞するために、政府は愛国教育をせざるを得ない。「国を愛することが国民の利益に繋がる」というプラクティカルな立場からそれを擁護する佐藤優氏のような意見は当然あり得る。これがリベラル右派の立場だとすれば、"imagined community"はむしろ倒れて当然とする左派の立場もある。筆者は、国家は最終的には消滅の方向へ向かうと考えているが、現在国家が存在する以上、国民の利益のために国家は最大限に利用されるべきだ、とする意見にも理を認めている。以上の議論を踏まえて、
a)国家はアプリオリな忠誠の対象ではないことを周知徹底させた上で、実存する国家の有効利用の上で、国歌・国旗が国益(ひとりひとりの人民の利益)にかなうかどうか慎重に考慮をおこなう
b)内心の自由がまもられないだけではなく、指導する教師を処罰するという間接処罰という意味でも、現行法は正しいとは思われない。
c)日の丸はともかく、君が代は早急に変えるべきだろう
というのが、現在の断定的な筆者の意見ということになる。
 ともかく、筆者には、あんなに魅力のない歌が、どうして歌われ続けているのかが驚きだ。"We Shall Overcome"のように、自然発生的に(国家選定でなく)国歌をつくりあげるしかないのではないだろうか、と思うのだが。

 この問題もそうなのだが、根底にあるのは、「国家が現にある以上は、それを最大限に生かし、国家を強化することが国民に幸福に繋がる」とする右翼の考えと、「世界中の富の不均衡、構造的暴力を解消してゆくには、将来の国家の消滅に向けて運動しなければならない」とする左翼の考えの衝突である。双方に理があるために、その優劣はすぐには決めかねるところがある。ただ、この(リベラル)右翼の発想は、ややもすると国民の幸福追求を忘れた(疎かにした)国威発揚のための国力の追求、というかたちの、戦前の軍国主義を招いたオールド右翼の考えに繋がりがちであり、そういう点では国旗・国歌の問題は、ややリベラルではなく伝統的右翼の発想にちかいものであるために、警戒が必要なことは確かであろう。そういうバランス感覚からすると、やはり文部科学省の処置は穏当を欠くという評価が妥当であるように思われる。

自然との共生?

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 多くのひとが感じているのと同じことを筆者も感ずる。もう民主党は終わりだろう。

 日本の野党の再生は、社民党を中心とし、民主の一部を取り入れ、共産党を合併して「緑化」する以外にはないのだ。かつてのマルキシズムは、政治的な勢力としては、フェミニズムとエコロジーに残存しているだけだ。この日本でエコロジー政党がないのが奇妙なくらいだが(かつて鳩山由紀夫が「自然との共生」を訴えたのが眼を引いたが、対して有権者の関心をそそらなかったようだ)、小さな地域共同体の再生をも視野に入れた(これは保守主義にかなり接近することになる)「緑の党」の立ち上げが望まれる。

注:写真は合成ではありません

2006年04月10日

自立支援法

 標題法律が施行されたもよう。
 立岩真也氏市野川容孝氏の活動を少しは知っている筆者としては、この法律のタテマエとホンネはある程度理解しているつもりだが、障害者に対してサービス利用額を(全額ではなくても)負担させるということに対して、受診抑制という結果になってしまっているようだ。
 これは、医療の自己負担を増額するときにかならず出てくる議論であり、結局安価なコストで治療可能な初期の来院が阻害されることで、かえって医療の総コストが増加する可能性がある、という問題である。断わっておくが、ここでいう「コスト」とは金銭だけに止まらない。本人のQOLや社会的能力、サポートする周囲の人的コストといった、「社会的コスト」を含むものと考えていただきたい。

  問題の発端は、ほとんどの国民は楽な生活をしているという意識はなく、常に重税にあえいでいるという感じを持っているとおもうのだが(そこまでいかなくとも、給料から天引きされる健康保険料・社会保険料のべらぼうな金額にため息をつかない層はすくないだろう)、そんな中身体障害者・精神障害者は「社会の負の遺産」という意識を持っている国民が多いということだろう。すると、その負担額は必要悪として可能な限り減額してゆくという発想になるのはある意味当然だろう。
 身体・精神障害者に対する社会的サポートを支える「哲学」はいくつかある。ひとつは、「慈悲」というものだ。カワイソーだからお金を出してあげる。はっきり意識しているかどうかは別として、おおくの場合はこのような見下す観点から扶助を考えるケースなのではないだろうか。
 他には、アマルティア・センの「人間の安全保障」説、ロールズの「正義論」説がまともな学者による福祉の根拠である。迂遠な議論になってしまうのだが、そもそも「どうして障害者支援は必要なのか?」という質問にきちんと答えられる学生・社会人はどのくらいいるのだろうか? 「慈悲」以外の回答を出せるよう、福祉についてきちんとした考えが持てるように、小学生くらいから教育することが望ましいだろう。重要度としては、「国を愛する」よりも上位に来てもいいのではないだろうか(笑)。

 「政府が悪い」という議論は、(当事者のせっぱ詰まった要求は、それはそれとして)それからやね。

2006年04月11日

他者について

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 またしても少々こむずかしい議論になるがお許し頂きたい。
 自立支援法の記事のところで、スイスの山村氏がコメントを寄せてくださったので、それについてほんの少しだけ議論してみよう。

 ポストモダニズムでは「他者」論が大流行であった。柄谷行人、浅田彰、そして中沢新一の三人衆の神通力も衰え、フーコー、デリダ、ドゥルーズも死に絶えた今となっては、ポストモダンもすでに時代遅れとなりつつあるのだろうが、それでも現代思想系の単行本や雑誌では未だに「他者」という、日本語としてはこなれない表現(すくなくとも、筆者の日本語の語彙のなかに「他人」はあっても「他者」はなかった)が多く使われている。基本的に翻訳語なのではないか、と筆者は考えている。

 障害者を社会で扶助しなければならない理由として、山村氏は1)障害を持つことは一定の確率で誰にでも起こりうる 2)健常者と障害者の境界を厳密に引くことは不可能 3)障害者という「他者」を持つこと、あるいはこのような「他者」が暮らしやすい社会は、誰にとっても暮らしやすい社会である という三点を挙げている。
 1)はロールズの議論にちかい。「どんな立場の人間に生まれ変わっても自分が受ける不利益が最小限になるように福祉を構築する」というのが、ロールズの骨子である。2)は「障害者は他者ではない」という意味であり、例えば正気と狂気のちがいは分別できない、という意見に近い。ただ、ここでは「自分とは異なる個性を持つ」人間を「他者」としておく。
 出典を示せないのが残念だが(たしか内田樹の「街場のアメリカ論」だったか・・)、現行の他者論、あるいは他者論を安易に引用するリベラルには、致命的な欠陥があることが指摘されている。それは、「自分にとっての他者を認める社会は、誰に取っても暮らしやすい社会である。だから他者を大事にしよう」と言われるときの「他者」とは、実は「自分とは違うが、自分に不快感を与えない存在」が前提されている、ということである。つまり、内田(だったと思う)がいうには、「他者を大事にするとは、イスラム原理主義者や靖国公式参拝論者、A倍S三支持者(笑)をも大事にするということ」が「他者を尊重」することなのである。
 障害者はADLがほぼ自立している「健常者」にとって、じつはサブリミナルにはかなり不快な存在だ(ことわっておくが、「障害者は不快だ」と言いたいわけではない)。それは、交通事故、病気その他の要因によって、「disableとなった自分」を想像させる能力を彼らが持っているからである。つまり、障害者は「自分のオールタナティヴ」だから、自分がそうなるかもしれない存在であり、普段意識しない自分の近未来の姿を想像させるから、「潜在的に不快」なのである。
 「障害者は穀潰しだからカネを出す必要がない」と言い切る障害者差別論者は、自分がいつまでも「健常」だという自信から発言しているわけではなく、逆に自分が「穀潰し」になる恐怖からこういう発言をしていると見るのが正しいのではないか。

 障害者は「いわゆる健常者の他者ではなく、憲法第二十五条の権利を享受するためには公的扶助が必要だ」という障害者性善説からではなく、かりに健常者に危害を与えるかもしれない「他者」であったとしても、現代思想の他者論からは共存していかなくてはならない存在だ、ということに、理論的には帰結する。つまり、「他者と共存する」ことは、「すべての人にとって住みやすい社会」とは必ずしもならず、却ってみずからの安全保障を脅かす結果になるかもしれない。それでもなお「他者と共存すべき」と「他者論」は説いているのだ。このことはあまり指摘されていないが強調しておきたい。
 かくして、筆者は、自分にとっての他者であって、日本国内における多数者である「K泉J一郎・A倍S三支持者」とどう共存していったらいいのか、悩んでいる毎日である。なんちて。

2006年04月15日

憲法第九条について

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 内田樹がまた本を粗製濫造している気配があるが、そのなかに九条論議があった。もはやこの著者の思考のパターンが読めてきたのでさすがに購入する気がしなかったが、今まであまり政治性をあきらかにしてこなかったこの著者の結論が気にならなくもない。

 同じようなことを以前に書いた記憶もあるが、もういちど筆者の第九条に対する考え方をまとめておこう。
 まず、当然だが(意外?)、憲法全体の中では九条の占める比重は高くはない。憲法改正というととかくこの条文のみがクローズアップされる気味があるが、それは間違っている。
 次に、憲法成立時の事情からいって、これを日本の国是とするには弱さがある。残念ながら、この条文をアメリカの押しつけとする見方はまちがってはいない。そして、日本の軍備の解体をはじめはもくろんでおきながら、朝鮮戦争の勃発と共に警察予備隊の設置を余儀なくされた、つまり、憲法の理念を体現するまもなく、アメリカから強制された条文を破ることをアメリカに強制された、という歴史がある。
 三番目に、バチカンやモナコ、レソトやスワジランドといった、強国に囲まれた小国以外で、軍隊なしに安全保障を実現している国家は、事実上皆無だという現実を認識しなければならない。コスタリカがあるではないか、という反論があるかもしれない。そういう論者は、コスタリカの置かれた地政学的立場を無視しているし、国連総会において、日本以上にアメリカべったりの投票を繰り返しているこの国の政治を知っているのだろうか。コスタリカの北はニカラグア、南はパナマだ。両方ともアメリカの庭といってよく、この両国に対するアメリカの軍事力の行使の実態は、サンディニスタに対するものも、ノリエガ将軍捕獲にしても、広く知られている。つまり、はっきり言ってしまえば、この国の安全保障は日本以上にアメリカに依存していると言えるだろう。
 第四に、この条文を変更するとして、その目的である。軍隊を持つとすれば、国際貢献の前に、国内貢献をしてもらわなければなるまい。つまり、米軍の完全撤退を目標としての軍備ということになる。国際貢献のみが論じられている現状にはかなり問題がある。本土の人間としてこういう発言はしたくはないが、現状では沖縄を日本から切り離し、アメリカにくれてやるという選択肢すら考慮に値するからである。

 以上を踏まえた上で、筆者は社民党や共産党の「護憲」の訴えにはまったく説得力を感じないが(共産党は、「国を守るためには軍隊は必要」という理由で、現行憲法に反対した唯一の政党である)、アメリカのための出兵のみを目的とした(あるいは「国威発揚」のための)自衛隊の合憲化にははっきり反対の立場を採りたい。ただ、本当に九条を堅持したいのであれば、米軍が日本から完全撤退したのちにも、日本の安全保障は担保されるのか、その見極めが必要である。そうでなければ、単に自前の軍隊を置いていないというだけに過ぎないからである。世界中に前例がない以上、本気で「軍隊なしの安全保障」を実現しようとすれば、それなりの物的・人的コストを払わなければならないが、政府にも国民にもそれだけの覚悟が本当にあるのだろうか。

2006年04月23日

高学歴への疑問

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2006年05月01日

国を守る

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 皆様へ。できればこの記事に対しても、ご意見を頂ければ幸いです。

 産経新聞より。

 国民が軍隊(自衛隊)に関心を向けることは、決してよいことではない。高橋和巳が「人が健康を気にするのは、体のどこかが病んでいる時であるように、政治が気になるとは、政治が病んでいる時である」という言辞を吐いているが、まさしくそれが当てはまるのではないか。つまり、安全でない気がするから自衛隊が気になるのであろう。
 筆者はこの記事を見て、改めて自分自身の意識と、国民・・なのだろうなぁ・・の意識のずれに気づき愕然としてしまう。
 筆者の認識は、
・北朝鮮軍が日本海を越えて日本へ攻めてくることはありえない。あるとすれば、ミサイルの首都直撃だが、現在のミサイル防衛システムでは迎撃率は極めて低い(米軍のパトリオット改良型でも公称30%くらい、実際にはもっと低いだろう)。よって、ミサイルが飛んできたら諦めるしかない。自衛隊は意味がない。
・テロ云々は自衛とは何の関係もない。テロの定義はいろいろあるが、「軍事的に劣勢な勢力が、非合法的手段を用いてある要求を優勢側に突きつけること」とでもしておくと、軍隊(自衛隊)がテロの抑止にならないことはあきらか。テロの防止は政治的手段によるものしかありえないし、ましてや「イスラーム原理主義の自爆攻撃」はテロと言えるかどうかかなり怪しい(筆者は言えないと認識している)。
・憲法第九条に関しては、筆者は歴史的にはこれは間違いなく「押しつけ」であると思うし、この理念が守られてきたとするリベラル派の主張は端的に間違いだと思う。逆に日米安保が日本の安全保障に寄与しているという保守派の議論も誤りであろう。安保は日本を非武装化したアメリカの戦略の誤りを訂正するものであったし、また極東の軍事プレゼンスの一環だからである。冷戦終結以前は「役立っていた」という議論はあるかもしれないが、現在「役立っている」「安保体制を支持する」が75%という数字は、どこから来たものか。
 なぜ誤りかという詳細な議論はまた別のところでする必要があろうが、安保を容認するのが国民の四分の三を占めるとは、日本の国民性もここまで脆弱化したか、の意を禁じ得ない。
 日本の取るべき道は二つ、憲法第九条を堅持し(加藤典洋氏その他が主張しているように、必要があれば改めて「選び直し」て、日本国民の選択であることをはっきりさせた上で)自ら「非武装化」し、外交努力(世界の和平仲介や、国連への物的・人的資源の提供、NPOへの積極的支援など)によって平和を維持する努力をするか、あるいは改憲して、自衛隊を軍隊へ昇格し、自衛力の行使を認めるか、どちらかである。いずれの選択肢を取るにしても、米軍には出ていってもらわねばならない。

 本当に、国民の大部分には、そんな自明のことがわからないのだろうか?????

昨日の読了
 スウィフト「ガリバー旅行記」中野好夫訳 新潮文庫 S
 網野善彦「『忘れられた日本人』を読む」岩波文庫 B

 名前はよく知られていても、実際に読んだことがない方は多いと思うが、筆者もそのうちの一人であった。小説としても一級、「風刺」の点については完全には理解できないが、最後の有名な章(「ヤフー」が出てくる章だ)は秀逸。やはり、生きているうちに一度は読むべきだろう。

 宮本常一氏の「忘れられた日本人」(岩波文庫)、これも日本人の必読書のひとつであろう。つよく一読をお勧めしておく。

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2006年05月06日

戦争の悲惨さを知れば戦争はなくなるのか

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 ほとんど同じようなことを以前に書いた記憶があるが、こういう話は何度でも繰り返したくなるものだ。

 ある良心的知識人(揶揄しているわけではなくて、いい意味で)の方のサイトを見て、いろいろ書き込みをしてしまったのだが、そんななかでやはり根本的な疑問が湧き起こるのを禁じ得ない。曰く、
 「イラクの、パレスチナの悲惨さを、多くの人びとが知れば、それで世界はよくなる。」

 少なくともこのテーゼの半分は認めたいと思う。それはプラスにこそなれ、マイナスに働くことはない。しかし、話の半分はたぶん楽観的に過ぎる。つまり、そういう政策を取る為政者は、その「悲惨さ」を知っているか、または知ったところで政策を変えようとしないからである。
 リベラルとコンサバティヴの埋めようのない差はどこからくるのか。それは、第一優先にする事柄をどこに置くか、のちがいであって、それは倫理では埋まらない。埋めるのは政治、つまり十分なディベートの後の多数決しかないだろう。
 リベラルは、日本の平和・日本の豊かさより、世界中の富の不平等や、人権を抑圧されている人びとがいること、日本人が気づかずに踏みつけにしている人びとがいること(構造的暴力)、を第一に考える。しかるに、コンサバティヴは、「日本の国益、日本の経済成長」を第一に考える。世界のことをおもんぱかる前に、日本国内にも失業者や虐げられている人びとはいるし、この重い税金を少しでも減らして豊かな暮らしをすることがまずすべての礎になるだろう、と。
 この差が倫理では埋まらない理由は、リベラルがいう「アメリカ帝国主義」に関与することが、日本一国の平和と利益に繋がるならば、何が悪い、ということになるから、リベラルの立脚点からの「説得」や「共感」は絶対に不可能だからだ。かりに、アメリカ帝国主義への協力が、日本にとって何のメリットもないのであれば、コンサバとてそれに同意をしまい。
 だから、どうしてもアメリカへの協力をやめさせることに同意させようとすれば、方法はひとつしかない。それは、
 「アメリカに協力することは、日本の国益にならない」
 ことを証明し、説得するしかない。「それは世界正義に反します」などと言ってみても、何の説得力も彼らには持たないのである。
 同様に、パレスチナ問題にしても、佐藤優がいうように、
「イスラエルを支持することは日本の国益になる」
 ことは、一見するともっともなように思われる。外交情報の入手の点、「中東唯一の民主国家」である点、そしてオイル・メジャーを敵に回さないための戦略として、十分にありうる。だから、佐藤のような現実主義者を折伏しようとしたら、方法はひとつしかなくて、それはイスラエルがパレスチナに非人道的な行いをしていることを強調しても無意味である。やはり、
「イスラエルを支持することは、最終的に日本の国益を損なう」
 ことを説得する以外にはあり得ない。

 そこが、日本のリベラルに一番欠けている視点と思われるのだ。

 戦争をなくすには、戦争の悲惨さを知ってもだめである。「戦争をすることは、その当該国家にとって利益にならない」ことを、すべての国家が納得する以外にはない。
 ならば、すべての国家にとって戦争が不利益になるようなしくみを作ってゆくしかない。残念ながら、今の国連はそのようなしくみを目指してはいない。

昨日の読了 なし

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どうして靖国問題に終止符が打たれないのか

 これも筆者が幾度となく書いてきていることであるが、自分のためにも整理してみようと思う。

 靖国批判派の主張は、「靖国は国民の死を回収する国家装置である」ことを批判する。つまり、国家が国のために国民を死なせるための道具だというのだ。そして、「無駄死にでなかったことを国家に認めてもらいたい」という遺族の感情には配慮しつつ、祀る主体が国家であってはならないことを言おうとする。
 この次元で議論が繰り返されている限り、靖国擁護派と批判派の主張は噛みあうところがない。当たり前だ。靖国擁護派は、その「国家装置である」ことが悪だという認識がないどころか、それを善なるものだと考えているからである。つまり、批判派は自らの倫理観念が擁護派に共有されていると思っている。これは議論をはじめる上で、極めて初歩的なミステークである。

 擁護派の主張は、「靖国が国家装置となることで、国のために亡くなった人々を回収できる。その結果、それは国益にプラスになる。国益が増すことは国民にとって利益になるのは自明だ」という、これもわかりやすい議論に立脚している。これをどうして批判派が理解できないのか、筆者には謎である。
 結局、擁護派と批判派のちがいは、靖国自体の存在がどうこういうよりも、端的に「国家は国民にとって有益であるか」どうかという議論に過ぎない。批判派は(日本)国家に対して信頼を置いていず、擁護派は日本国のもとに国民が結集することこそ国民の幸せになっていることを信じているだけの話だ。

 ならば、しなければならないことは、抽象的な「共同体の構築が成員の幸福に先立つ」という命題の証明ではなくて、日本という具体的な共同体が国民を幸福にしてきたのか、という歴史的事実の検証だ、ということになる。

 「国を愛する」ことと、「1945年以降の日本が国民にとってよろしくなかったのではないか」と疑うことは、矛盾しない。靖国擁護派の多くは、この二つの命題を排中律でとらえるからおかしくなる。国を愛しているから、戦後の日本政府の行動のかずかずはおかしいのではないか、という疑念が出てくるのである。筆者はいうまでもなくこの立場だが、愛する=無誤謬、絶対化、という等号に何の疑念も抱かない右翼の方と以前話していて、どうしてもそこが理解できないようなので、びっくりしたことがある。
 反省できること、誤りを認めて謝罪すること、は、自尊がないとできない行動である。つまり、
1. 99%ただしいと思うから、1%の誤りを認めても傷つかない。
2. 反省する以前の正しい行動が99%で、反省して間違いを改めた場合、100%になるなら、その方が「国家の品格」(笑)は上昇する。
 ということになるからである。
 筆者には、さいきんの右傾化しているひとびとの発言を聞くと、
3. 1%しか正しくないから、99%の誤りを認めると、国の正当性が崩壊してしまう。
4. 99%の誤りを認めると、すべての場所に謝罪が必要だし、改善点も膨大になるから、とてもやってられない。
 ということが前提となっているように感じられてしまう。

 もっとも、筆者の議論が、必ずしも「愛国」を前提としているものではないことは、はっきりさせたいとおもうが(つまり、日本の国家を愛さない国民がいることは、全然差し支えないとおもう)、愛する国家が完全無謬であってほしい、というのは単なる願望であって、筆者には到底そうは思えないので、感情でものをみないでほしい、と願う今日この頃である。

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2006年05月12日

公的領域と私的領域

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 スイスの山村氏のコメントを議論の出発点とする。

「自分の立場はこれだ!と勝手に決めて、他者の意見を全く聞かないことは、ある意味、楽かもしれないけれど、それでは何の進歩も解決もない。でも、そういう人が多いかも。
先日も、あるweblogで、簡単に、右だ左だ、と「結論」を出していた(→思考停止)のに違和感を覚えたのは、僕がそういったこと(右か左か、とか)にほとんど全く関心がないから、だけではないと思う。」

 前段。「他者の意見を全く聞かない」は、もちろん「楽」という理由もあるかもしれないが、それだけではなくもっと深い理由があるように思われる。
 以下、ハンナ・アレント「人間の条件」(ちくま学芸文庫)の議論を一部下敷きにしつつ話を進めるので、ご興味を覚えた方はご一読されたい(いや、本当は、該当書は「公共性」の基本文献のひとつであるので、強くお勧めしておきたい。ランクはS〜Aとなる)。
 特に政治的な領域において言えることであるが、各個人がある政策、思想を支持するかどうかは、最初に「心情」によると考えられる(「心情右翼」は松本健一氏の用法)。筆者の考えでは、これは「私的領域」の話である。おもうに、その問題について議論するためには、その心情を、公共の議論に耐えうるかたちに変形して提示する必要がある。そのためには、その「心情」を、「倫理」なり「利害」なり、議論に適したかたちにして「公的領域」に送り込むことになる。「心情」は、公共の議論に適さない形態である。なぜなら、「自分はそれに惹かれている」ことには、正しいとか間違っているとかそういう発言は無効だからである。自分は好きだ、とか、自分は嫌い、だとか、こちらも好き嫌いのレベルで答える以外の返答はない。すると、当然議論は噛み合わず、そこで終了する。

 まとめると、「思考停止」に見える、議論が先に進まず停止してしまう、とは、その議論のルール、すなわち、「ディスカッションにふさわしいかたちに、自分の意見を合わせて表明しなさい」という仕組みが崩壊している、あるいは崩壊しつつあることが原因であるように思われる。
 では、その議論のルール、アレント流にいいかえれば、「公共圏の再構築」は可能なのだろうか。それが意味のある(お互いの心情をぶつけ合うことに終わらない)議論にとって必要なものならば、そのような場の構築こそが民主主義を成立させる条件と言うことになる。ここで注意しなければならないのは、筆者がおもうに、この公共圏はインターネットの2chやblog、掲示板だけで破壊されているわけではなく、れっきとしたアカデミズムの場や、ジャーナリズムにおいても壊れているように見える、ことである。
 「メディア・リテラシー」を中高生に講義しては、と「大学受験国語」シリーズで有名な石原千秋氏は主張しているが、このような議論の場の再構築にはもちろん学生の教育は重要なことだろう。しかし、それには教える側がそのような事項をきちんと明確に認識していることが必要であろう。

 筆者は「左とか右とか」の議論にはおおいに関心があるが、まともな議論のために公共圏の存在、ディベートのためのルールの遵守を提唱するものである。

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2006年05月19日

民主主義の不可能性について(2)

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 時事通信社のニュースより一部引用。「無断転載禁」だからさわりだけ。

 「自民党の次期総裁にふさわしい政治家は安倍晋三官房長官がトップを維持した。2位は福田康夫元官房長官。3位は麻生太郎外相で、以下、竹中平蔵総務相、谷垣禎一財務相」
 まあ、誰が総理でもいいんだけどね・・・

 日本に民主主義はあるのか、と自問すると、やはり「ない」と答えざるを得ない。もっと話題にされて然るべき共謀罪の問題も盛り上がらない。その理由は何か。
 筆者は国民の「教育不足」とか「意識が低い」という議論には与しかねる。そもそも、もし民主意識を高める教育が自分たちの首を絞める結果になるのなら、政治家にしても官僚にしても力を入れるわけがないではないか。教育を充実させれば問題は解決する、と信じるひとびとに対しては、あまりに楽天的だと答えざるを得ない。また、アマルティア・セン流の「人間の安全保障」の一環としての教育の充実、という意味では、日本はとうにクリアしていると考えられる。
 では、このまま安保体制、というより、アメリカによる60年以上つづく日本の属国化はそのまま維持され、憲法第九条は改正(改悪?)され、日本の軍隊は晴れて海外で武力行使できるようになり、中韓との外交関係は悪化し、将来国民は自由に言いたいことも言えない時代になってしまうのか。
 最後の一文を除けばたぶんそういう方向へ進んでいるだろうと思われるが、国民の権利の縮小が進むにしても、言論や行動の自由が著しく制限されることはないだろうと思われる。野党、特に社民党や共産党が言うように、戦前の軍国主義時代に向かっている、という議論にも少々ムリがある。

 なぜ変わらないのか。それは、端的に、国民が変化を望んでいないからであり、国民に権利意識がない、からではない。重税に喘ぐ、といわれても、皆生活にそれほど困っているわけではないのだ。もちろん、非正規雇用者や、下請けといわれる中小企業の被雇用者、そして単純労働従事者にかんしてはそれは当てはまらないことはいうまでもないが、彼らの多くは政治に関心がないし、投票へ行かない。そしてそれを組織しようとする政治色の強い政党(共産党や公明党を指す)の運動は、従来のようにうまくはゆかない。
 そのように経済的に充足してしまっているなかで、「ここで反対しておかなければ生活はどんどん貧しくなるし、ものをいう自由は奪われてしまうのですよ!」と訴えたところで、説得力はない。それに、生まれたときから自由であり、却ってその自由度のたかさをほとんどの国民が享受しきれないほどの自由に溢れた国で、自分たちの持つ権利を少々制限されるよりは、<テロ>に脅かされない安全なくらしがしたい、と感じている国民の方が多いであろう。「自由」は政治的な変革の理由にはもはやならないのである。国民の第一の関心は「暮らし」、それも経済的な意味のそれにしかないからである。政治的な活動の自由を保障されるよりは、その引き替えに年収が一割アップするなら圧倒的多数の国民はそちらを取るであろう。

 おそらく、憲法第九条の改正、自衛隊の海外派兵にも賛成の意見が多い、というのは、日本の国威の発揚を望んでいるわけではなく(そういう少数の人間もいるだろうが)、そういう「時勢」(というか、世界で唯一の超大国の意向)に従っておくことが、日本の経済的な優位を保つ上で有利である、という無意識の計算が働いているのであろう。とすると、「大衆」の直観は、たぶんかなり核心に近いところを突いており、「大衆は何もわかっていない」などと言えないことがわかるであろう。
 そのように、もはや「自由」が国民に訴求力を失っており、経済的関心と、対外的、というより、対国内的な安全保障のふたつが国民の主な関心となっている以上、「与党の専制に反対しよう!」という野党およびリベラルのスローガンは国民に対しまったく魅力を欠くものとなってしまっている、と言っていいだろう。最近のプチ・ナショナリズムの噴出は、日本の対外的な政治的影響力の喪失に対する軽いヒステリー的な反応であって、それをまったく不満に思わなくもないのであろうが、自分たちの血を流すことなく、カネで対外的な安全保障が買えて、しかも資源と食糧のない技術立国である日本が、安定してエネルギーと食糧を入手でき、世界平均よりも一人あたりでは遙かに高水準でそれらを消費する、というしくみが守られるのであれば、現在のしくみが存続するほうがよい、ということなのであろう。これは政治の素人どころか、かなり老獪な意見ですらある、と筆者には思われる。

 とすれば、政権交代や、世界(アメリカ)の意に沿ういわゆる「グローバル・スタンダード」への反対は、国民の望むところではなく、したがって「民主主義」(定期的な政権交代があるかないかは民主度を決める一つの指標と認識されている)の実現をあえて望まない、というのが国民の気分、ということになる。とすれば、今の日本のシステムがいかに不合理に見えようと、それを「改善」するなど望めない皮算用ではないだろうか。国民の大部分にとっては、いささか極論に過ぎるが、もう民主主義など無用の長物なのである。

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2006年05月21日

食の過激派

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 まず、写真をご覧頂きたい。わかりにくいと思うので、オリジナルをこちらに置いた。

 オリジナルだと確認できると思うのだが、左端に「共栄堂」という白と緑の小さい看板の文字が確認できるはずだ。そして縮小サイズでもわかるとおもうが、右側にカレーショップC&Cがある。

 筆者の記憶ではこのC&Cが出来たのは数年前だ。共栄堂についてはご存じないかたがおおいとおもうので解説しておくと、戦前からある由緒あるカレー屋で、「スマトラカレー」という辛口でさらさらしたタイプのカレーを売りにしている。筆者は頼んだことがないが、焼きリンゴも定番メニューらしい。

 もちろん、ちかくにカレー屋があろうと、出店して悪いわけではない。実は神保町はカレー激戦区でもあり、お茶の水駅から明大の前を通り、駿河台下へ抜ける通りの靖国通りに近い方に「エチオピア」という激辛系カレー屋があるし、この共栄堂の向かい側、岩波ホールの側にはやはり名門「ボンディ」があるし、ボンディから共立女子大側へ歩いてゆくと、最近開店したシディークがある。さらに詳しいマップがここにある。

 しかしだ。

 よりによって共栄堂のこんなに近くに、チェーン店が出店するか!?

 筆者にはカレーという食文化を冒涜しているとしか思えない。

 また、わざわざ神保町まで来ていながら(単に会社が近くなのかもしれないが・・・)共栄堂でなくC&Cで食べる奴も奴だ。値段がやすけりゃそれでいいのか?????

 さいわい、共栄堂は本日も営業中であったが・・・・・

 C&Cが撤退し、共栄堂が末永く栄えることを祈る筆者であった。

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2006年05月25日

失策

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 やすくにへのごうしにはんたいするざいにちかんこくじんのとうきょうちさいへのそしょうについてのこめんとをかいたらしんでしまいました。やっぱりよゐこはせいじについてとくにてんのうとかやすくにについてはかいてはいけないのにひつしゃはわるいこなのでいたずらしたらいかりをまねいてしまいました。もうにどとしないのでどうかゆるしてください。かしこ

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2006年06月03日

村上ファンド

 来週、強制捜査が入るようであるが。

 このファンドが今の日本経済に対して果たしている役割はどうなのだろう。本来、投資というのは優良企業に長期になされるものか、あるいはハイリスクで資金の集まりにくいベンチャーに少額の投資を集めることでリスクを分散しつつハイリターンをねらう、というものだと筆者は理解しているが、アメリカで'80に起こった企業買収の嵐は、結局レバレッジド・バイアウトという、買った企業を生かすのではなく分解して、しかも従業員の給与を落として儲ける、という、まさに弱者を搾取するものであった。そして今の日本で起こっている株式買収も、この延長線上にある、つまり、事業開拓のためではなく、親会社・子会社の資本(資産)関係が逆転しているところに目をつける(ホリエモンのニッポン放送買収がそうだった)とか、企業が乗っ取り防止のために自社株を買うことに伴う株価の上昇に対して売り抜けるとか、少数の「勝ち組」に対してだけ還元されるようなかたちで投資を行ってきた、というのが筆者のみかたである。
 まあ彼はプロだから当然なのだが、スイスの山村氏の分析にまったく同感している。

 なぜ村上が刺された(刺されそう)か、というと、これは小泉政権の任期満了に伴う求心力の低下によって噴出している「勝ち組への不満」に対するガス抜きでしかない、つまりこれは佐藤優のいう「国策捜査」いがいの何物でもないのでは、というのが筆者の見方だ。筆者がほかに関心のあるのは、もし村上が刺されたときに、だれが損害を被るのか、ということだが、村上ファンドはそもそも数億円単位の出資しか受け付けなかったらしいし、投資していたのも大企業等の資産運用部が多いような話もある(仕事ちゃんとやってんのか??)。回り回って彼に投資を依頼していた会社の株主に損害のつけがまわってくることもなくはないのだろうが、カネ自体は別のファンドへ流れるだろうし、一般庶民がこれで何らかの影響を受けることは考えにくい。感情的には(残念ながら筆者も含めて)「ザマーミロ!」と思う人間が大半だろうから、逆に村上ひとりがスケープゴートとなるだけで、経済界の問題や国家の経済政策の問題点は、かえって隠蔽されてしまう危険性がたかいのも、また事実なのではないか。

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2006年06月07日

われらは囚われ人

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 われら、と複数形にしたのは適当ではなかったかもしれない。

 われわれは、自分が暮らしている世界の「外」に出ることはできない。なんとなれば、自分の行動に伴って、「外」は拡大してゆくからである。そういう意味で、筆者は常に閉塞感を感じている。
 生きようとしても生きられない、そんな閉塞感を打開してくれるツール、それがカメラだったりする、とさいきんおもう。これは「第五」のネタを探そうと街を逍遥していると、見慣れた街がちがった姿で迫ってくる、そんな経験をしたときに「外」へ抜けた、と感ずることがある。

 じっさいには、われわれが囚われ人であることをやめることはできないのだろう。「外」へ出ようと思うなら、まず「内」を変革する必要がある。そして、変革のための開かれた討論は、まず他者への愛と尊敬が必要なのだとさいきん思う。サヨク的なきれい事の議論ではない。オマエは在日米軍を愛せるのか、朝鮮総連を愛せるのか、アルカイダを愛せるのか、それが「他者」なのである。

 個人の集合としての「団体」に対する態度、感情と、その組織に属するひとりひとりに対する感情は、また違ったものであろう。個人には愛情を持てても総体としての「韓国人」や「中国人」そして「アメリカ人」にはそれができない、というアポリアについては、さらに考えてゆかねばならない。やはり、団体と、個人の集合とは、質的に異なっているのであろう。日本人ひとりひとりが一億人集合したものが「日本」という国ではないように。

昨日の読了 なし

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2006年06月15日

一億総病人の時代

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 「自殺防止法」や「労災認定」といった世の流れをみていると、世の中は病人を作り出す方向へ動いているように見える。
 しかし、そうなのだろうか。筆者には、もっと根源的な問題があるような気がしてならない。

 別の場所で、食、という人間の基本的ないとなみについて、「食べたいときに食べる」という川島四郎流と、「一日一食で十分」というドクター中松流の比較について、どちらが正しいかをにわかには決め難い、ということを書いた。筆者自身は、このふたりの流儀であれば、ドクター中松が正しいような気がしている。

 とても現代栄養学をかじった医療従事者の発言とは思えないだろう。しかし、こういう基本的な問題ほど難解で、しかも適切な回答が与えられていないものだとおもっている。

 では、先の精神衛生にかんすることはどうだろうか。こういうことを考える前提は、現代の社会を構築する前提そのものは正しくて、その運用のしかたが間違っている、ということだ。なぜなら、今の社会の構成そのものをおかしい、とするわけにはいかないからである。
 しかし、純粋に理論的な興味からすれば、さまざまな病像を呈する人間像を見ていると、そもそもどのような人間関係、社会のありかたを、人間という生物は前提としていたのだろう、という疑問が当然湧いてくる。
 そうすると、もともと人間の精神のあり方というものは、もっと少人数の集落という単位での人間関係を前提として発生したもの、という気が筆者にはしてくるのだ。
 現代のようなグローバリゼーション、つまり、異なる文化の人間たちが交流したり共同生活したり(一緒の都市に暮らす、とか)、異なる共同幻想を持つ人間たちと否応なく接触を持つ、ということは、人間という生物にとって、本来予定されていなかったことのように思われるのだ。

 だからどう、という結論があるわけではない。しかし、川島四郎のように、「ほんらい、食とは人間にとって、どのようなものだったのか」と根源的に考えることは、食以外のことがらについても有益であるように思われるのである。例えば、「食塩欠乏に強い」ことが、生存にとっては有利に働く、というのが、人間の本来のつくられかたであるように。

昨日の読了
 エミール・ゾラ「テレーゼ・ラカン(上)」岩波文庫

 なかなか面白い。

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2006年06月16日

人材派遣の実態(1)

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 さいきん、上記の事項につきいくつか耳にすることがあったので、まとめてみる。

 医療の世界では、一昨年から「新研修医制度」というのが導入された。さいしょは、この研修制度外で研修した場合には、保険医登録を許可しない、というサンクションを課す予定だったらしいが、この保険医登録 --- これがないと、自費診療しか行えないため、実質的に医療業務が不可能になる --- は研修開始後早々に許可されるために、あくまで業界内での決まりごと、というレベルの導入である。が、事実上、ほぼこの新制度に統一されたと言ってよい。

 この新制度の狙いのひとつが「医局制度解体」である。この医局というのは大学病院のなかにあって、さまざまな政治的・社会的機能を果たしており、たしかにそのなかには医療においてマイナスとなるものもある。そして、すでに多くのギョーカイ人から指摘されているのが、「僻地に人を回す」という、人材派遣業としての機能である。
 つまり、「医師ならば誰も行きたがらない」条件のわるい医療機関に、権力的に人を配置するというやりかたで、強引に医師を送り込んできたことで、医療過疎地帯においてその崩壊を防止するという役割を担っていた。

 さて、この医局がなくなるとどうなるか。医局の影響力の低下はすでに生じており、医療過疎地域では医師が賄えない、という事態が生じている。これを、J民党政権が進めているように、市場原理を導入することで円滑にゆくのだろうか。
 筆者はそこまで楽天的にはなれない。医療は大都市圏ならともかく、地方においては不採算になるかもしれない公共サービスである。だから、地方自治体は公的病院を抱えているし、その多くは赤字経営である。

 人材を補うためには不採算部門でも高給にしないといけない。もちろん、ネットや日本医事新報などの媒体で、直接求人をすることもできる。しかし、今、かつての医局のかわりになるものとして、「医師の人材派遣会社」がクローズアップされつつある。
 これは、たしかに休眠中の女医(子育てに一段落ついた年齢の)を有効活用するためには有用かもしれない。ただし、臨床から長く離れていたこれらの層は、せいぜい検診や外来業務にしか使えないから、ほんとうの人材補充には役に立たない。アルバイトの口を潰すくらいのマイナス効果しかもたないかもしれない。
 ましてや、過疎地域の医師補充に対して、積極的な効果を持つとは、筆者には到底信じられない。

 長くなったので、次回に続く(笑)

昨日の読了
 エミール・ゾラ「テレーズ・ラカン(下)」岩波文庫 B

 プロットは勧善懲悪型。なのに、不道徳、と非難された当時の倫理感覚を推し量るべきだろう。

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2006年06月17日

人材派遣の実態(2)

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 さて、他業種の人材派遣の実態。

 いままでは、労働法上、労働者の権利を守るために、人材派遣業務は問題があるとして、一部の業種にしか許可されていなかったこの仕事が、法改正により解禁されたため、この業界は急成長するようになった。しかしその実態は当然ながら合法化された人身売買いがいの何ものでもない。

 高収入が水準となっている、特殊な業界に、その業種で必要とされる知識をトレーニングさせ(そういう意味では人材を発見して鍛えるという手間はかかってはいるわけだ)、その業界に契約社員として送り込み、高額の給料のある部分をピンハネする、というやりかただ。
 そしてこちらのほうがより重要だとおもわれるのは、その契約社員が優秀であった場合、その会社からの「買い」注文が入るばあいがある。その場合には、高額の契約金が入手できる、ということだ。まさに人身売買!

 ただ、驚きはここに止まらない。もっと悪質な手口があるからだ。

 大きなグループ企業の場合、その内部に人材派遣会社を所有しているケースがある。そういった場合に、その人材派遣会社は、グループ企業に人材を派遣することで、その企業からのキックバック(というか、いちおう正当な報酬である)を受け取る。そしてその派遣企業は、派遣した社員に、派遣先企業の正規雇用のばあいよりも低い給与を支払う。それで、派遣先の企業は、正社員の数を減らすことが出来る。そしてグループ全体としては、派遣会社が中間搾取をおこなうことで、給与額の支払いを節約できる。これって、

 詐欺ではないのだろうか?

 これって、要するに、労働者の搾取が進んでる、ってやつだろ? 激しい怒りを覚える。

昨日の読了
 デボラ・ローズ「生命の大地」保苅実訳 平凡社 B

 うーん、Aにしてもよかったかな。当然ながらアボリジニ寄りの内容ではあるが、白人の

「アボリジニは広大な土地に寄りかかるだけで、なにも利用しようとしてこなかった」

 というセントラル・ドグマに対する反論の書。アボリジニによる適切な管理が、オーストラリアの生態系の維持に果たした役割につきわかりやすく述べている。
 結局、人類を滅ぼすのは白人なのよのぅ。。。

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2006年06月18日

人材派遣の実態(3)

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 「日曜討論」によると、今日本の雇用の1/3が非正規雇用なのだとか。

 以前、「ワーク・シェアリング」のことにちょっと触れたが、夢のまた夢という感じか。
 べつに筆者は共産主義革命の支持者ではないが、安保・破防法反対の時のような、大規模な国民の政治運動が起こらない限り、今の状況はいかんともしがたいように思われる。特に、その1/3に当てはまる人間が、J民党に嬉々として票を投じているのでは・・・度し難しというほかはないか。

昨日の読了 なし

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2006年06月23日

ワールドカップ報道

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 今日の未明にブラジル戦があるらしい。日本チームに関する報道を見ていると、まるで太平洋戦争の時の「大本営発表」を聞いているような錯覚にとらわれる。もっと面白いのは、韓国チームに対する報道がほとんどなされないことだ。韓国は予選リーグを突破しそうな雰囲気だ。こういう報道にも日本人の国民性、というか、サッカー(スポーツ)の政治性があらわれているように感ずる。

 それが、筆者がほとんどまったくサッカーやオリンピックに興味がない理由だ。

一昨日の購入
 ルネ・デュボス「人間と適応」みすず書房

 書くのを忘れた。知人の推薦図書。

昨日の読了
 徳永直「太陽のない街」新潮文庫 B

 文学としては稚拙な部分もあるが、労働争議についていろいろと考えさせられるところが多い本。高橋和巳「我が心は石にあらず」の描写などは、まるでこの本のパクリではないかと思えるほど。この小説は、作者が実際に体験した共同印刷での争議をモデルにしたもの。
 筆者が疑問に感じてしまうのは、「ある人物(体制)を攻撃しようとする者は、その人物(体制)に似てしまう」という法則が見事に当てはまってしまうことである。つまり、争議に伴って作られる委員会や細胞と呼ばれる末端組織、そして特殊細胞と呼ばれるスパイや破壊活動に従事する分子など、そっくり資本家(体制)側の警察の組織に似てしまうのだ。これを、労働者側は「悪を倒すには悪は必要だ」という論理で克服しようとするが、こういう上意下達のピラミッド式統制をロシア共産党はじめ多くの労働運動が共有していることを考えると、そういう組織作りをした時点で終わっているのではないか。筆者はポーランドの「連帯」については多くのことを知らないけれども、たしか従来の労働運動とはその点で一線を画していたように記憶している。もっと多くを学ばねばなるまい。

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2006年06月24日

徒然なるままに

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 一週間ほどこのblogをお休みにします。七月に再開の予定です。

 医師夫婦の長男(夫の連れ子)が一家を惨殺したというニュースについて。
 このケースでは継母との葛藤、実父から成績についてかけられたプレッシャー(直接父親が学習の指導をしていたらしい)が遠因になっていることはあるのだろうが、そもそも医師を志望しなければ、精神的重圧をかけられることもなかったであろうと推測される。

 自分が高校生の頃を考えてみると、そもそも社会のしくみというものも(今でもわかっているとは言えないが)本当に観念的な意味でしか理解していなかったように思われる。そんな中で医師夫婦の間に育った子供が、医療関係の職業、特に医師を志望することは、ある意味当然であると思われる。それは自分が最もよく知ることができる職業である、ということがひとつ、ふたつめは、医師を志望することで両親が喜びを表したり、蔭に陽に医師を志望させるように仕向けたり、といった親子間の心理的な駆け引きがあったであろう、ということだ。当然その駆け引きは有言あるいは無言の圧力となって、医学部を志望させるように働いたはずである。

 そもそも、高校生の時点で、ある学部を選ぶこと、そしてある職業を選ぶことには、かなり無理があると感じられる。これだけ世の中が多様化している今、その世の中をしっかり認識した上で、職業選択を、親の影響下から脱するかたちで可能にするようなシステムが望ましい、と感ずる。大学に入学してからの進路変更を容易にするようなシステムがあってもいいだろう。

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2006年07月10日

ミサイル発射問題

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 だんだん事件の全貌が見えてくると同時に、各国の足並みの乱れもまた明らかになりつつある。

 中国は西側(特にアメリカ)による軍事介入を望んでいないし、韓国との間に北朝鮮という緩衝地帯を作っておきたいという思惑、韓国は隣国からのミサイル攻撃に対応する迎撃体制を構築するのは不可能だし(近距離過ぎるから)、北との関係をわるくするよりは、日本の対応を非難した方が国内世論への影響もよい、ということで、北朝鮮寄りの態度を取るのはある意味想定内だ。

 しかし、現状では国連安保理で制裁案を通過させるのは厳しい状況であり、ここで失敗すると、日米の「ソフト・パワー」は減弱し、北のミサイル発射を正当化することにすらなりかねない。このタイミングを狙ってもともとタカ派である防衛庁長官・官房長官が「先制攻撃」を口にするのも、ある意味想定内である。

 ただ、これを「軍国主義復活への一歩」として非難するだけの「リベラル」の態度も、また筆者には正当とは思われない。
 矛盾は、善悪とは別に、日本国憲法が、国際法・国際関係論の前提とは違った思想で組み立てられていることから生じている。そして、講学上は、国際的な慣習は憲法に劣後することになっている。しかるに、国際法と憲法が対立した際には、アメリカなどは憲法を堅守する姿勢を見せており(つまり国際刑事法廷で有罪が確定したとしても、犯罪者の引き渡しを拒むのは当然として、そもそも自国以外の権力による裁判自体を拒否するという姿勢である)、それが国際的な非難を浴びる原因となっている。

 「先制攻撃論」は、アメリカのイラク攻撃の論理からすれば、至極当然である。しかし、法的構成としては、ふたつの問題をクリアしなければならない。
 ひとつは主権侵害の問題だ。もうひとつは憲法と抵触するという問題だ。

 国際関係論上、国の主権はほとんど唯一侵してはならない客体である(ことになっている)。これを、国家よりも人民を上位におくべきだ、として、主権を侵すことが正当化される、というのが、「人道的介入」である。そしてこれは最上俊樹氏(「人道的介入」岩波新書)が指摘しているように、非常に厳しい要件のもと行われるべきであり、最上氏の分析からすると、彼が主張する要件をみたしている「人道的介入」はほとんど皆無だったことになる。またもうひとつ(こちらのほうが今回の事案では重要であるが)の論点は、「自国民の法益は他国あるいは他国民の法益を冒しても守られるべきだ」というものである。つまり、極論すれば、「北朝鮮の人民ひとりは、日本国民の人民の生命のためには、何人死んでもいい」という発想だ。
 これを非人道的だと決めつけてはならない。国を主権が存する最高の単位だとする国際関係論の立場からすれば、ある意味当然の帰結であるから。ならば、ミサイル基地を先制攻撃しよう、という発想は、ごく自然に出てくるものだと考えられるだろう。

 憲法に抵触する、というのは、二つの意味で考えなくてはならない。ひとつはいうまでもなく、「専守防衛」、いや、「自衛のためといえども戦争放棄」(これはいわゆる「芦田修正」で否定されたということになっているのだが・・・)の原則に反する行為だということだ。筆者が強調したいのは、日本国憲法の「平和主義」原則が、この国際法上国家は最高の主権単位(最近はNGOにも主権を与えるという考え方がつよくなってきているが)である、という原則を否定している面がある、ということだ。
 だから日本国憲法がまちがっている、といいたいわけではない。国際的な潮流に反しているなら、それを自覚した上で運用すべきだ、といいたいのである。


 問題が大きいために、結論めいたことを先走ることには慎重でありたいが、結局すべての根源は、小室直樹ではないが、「憲法に魂が入っていない」ことにある、と考えざるを得ない。
 筆者じしんは改憲論には反対の立場を取るが、現在の国際法上の枠組みに憲法を合わせた方が運用上利益がある、という国民的な合意が成立するなら、戦争が可能なように改正すべきだろう。ただ、周囲の国家の賛成を得られるとは、こんかいの中国・韓国の反応をみているだけでもとても考えられないし、再軍備・自衛権をおおっぴらに宣言するための外交努力を重ねているとも思えない。
 自民党内閣が続く限りはこの現状は変わらないであろう。

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2006年08月04日

靖国参拝がいつまでも問題になっているのは誰のせいか

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 朝日新聞の報道について考えている(元記事削除)。

 こんかいは、中韓は抑制された報道しかされてない、ということだが、この外国からの反発は、自○党によって政治利用されてきたのではなかったか。
 筆者のかんがえでは、靖国参拝は何よりも憲法第20条第3項との関連で考えなければならない「国内問題」である。その国内問題が、外国の反発によって国際問題へとすり替えられている。これは内政不干渉の原則を盾に取れば、ナショナリズムの高揚を招き、「意地でも参拝すべきだ」との国民感情を醸成するだろう。
 他方、中国も韓国も、対国内的に、「日本軍国主義」はまだ存在して、それに対して強硬な態度を取ることが、内政上つごうがよかったわけである。つまり、靖国問題が存在することは、日本政府にとっても、中韓政府にとってもおいしい話だったと考えられる。

 外国、なかんづく中国と韓国からの非難がなくなった暁には、日本人は閣僚の靖国参拝をどう評価することになるのだろうか。興味深いところである。

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2006年08月05日

きなくさい季節

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 毎年この時期になると先の戦争(応仁の乱のことではない)や原爆についての話が飽きもせず繰り返される。結論を出せないまま恨みだけが次の世代に引き継がれてゆくのだろうか。思うに、アメリカと国交を復活したベトナム人はスゴイと思う。経済復興が著しいのも当然だろう。

 さて、こちらの記事へのTBを宣言してしまったいじょう、何か書かねばならない。そして、筆者の正体が真性ウヨクであると書いてしまった以上、それっぽく書かなければならない(笑)。

 まず、原爆投下について、最も多面的な見方をしており、説得力のある書物として、次の本をお薦めしておきたい。

ロナルド・タカキ「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794206143

 日本は軍国主義によって戦争に突入したわけではなく、ペリー来航からの外国に対する防衛の一環として、また直接にはABCD包囲網による経済封鎖、特に石油の禁輸が日本経済に大打撃を来したことへのやむを得ない対策として、対英米蘭への宣戦布告を余儀なくされたのであるからして(今日はこのスタンスでゆく)、太平洋戦争と原爆投下のあいだには直接因果関係はない。つまり、「軍事主義で人を被爆」させたわけではない。
 これは戦争中のアメリカの言説を検証した研究からも裏付けられており、アメリカの対ドイツ観は「ドイツ人は優れた国民であり、ナチスによって躍らされてしまっただけだ」と、ナチスにドイツの悪を押し付けて、ドイツ人じしんは信頼できる国民と考えていたのに対し、対日観は「○皇および宮中重臣、陸海軍の強硬派、そして民間ウヨクによって、日本国民はコントロールされていたのではなく、日本の国民性が軍国主義を生んだ。つまり、日本人は劣った国民だ」という意識に裏打ちされたものである、ということになっている。
 だから、アメリカは、コーケシアンの上には原爆を投下することは全く考えていなかったのだ。

 ポツダム宣言受諾によって、日本はその主権を失ったと考えてよい。「国体」は、天皇制が存続したことにより「護持」されたが、アメリカは国際法上禁じられている、占領国の憲法改正に手を付けてしまった。今の憲法が日本製であると強弁しなければならない理由のひとつが、この国際法違反にある。
 この憲法は速成だけあって、特に統治の部分はよく練られていないところがあるが、それは運用、すなわち法律で定めればよい話である。だから憲法の欠陥すなわち憲法改正で補う、ということをしなくてもいいのだが、アメリカの負の遺産のひとつは、占領政策のため、政治・産業界いがいの、官僚・警察・そして司法の制度と人員をほぼそのまま温存してしまったことだ。そのために、法曹一元化を前提とした憲法の規定と、現状の司法制度が合わないものとなってしまったわけだ。

 筆者は国を愛するウヨクであるがゆえに、この現状をふかく憂える。つまり、三権分立が確立していることは、裁判制度による「正義」が行われるうえで要となる部分である。それが、じっさいには行政府にコントロールされていることで、日本では三権分立どころか、議員立法すらなされていない(そもそも立法は議員がするものだから、「議員立法」ということばが存在することじたいがおかしい)から、権力の分立は成立していない。つまり、内閣がすべてを牛耳る国なのである。

 皆に愛される日本とするには、三権分立の確立が急務である、というのが、筆者の持論だ。そうでなければ、いくら裁判で争ったところで、仕方があるまい。

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2006年08月06日

またやってるぜ・・・

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 NHKの日曜討論。
 松本健一氏が、左側の席に座っていたのには、ちょっと笑えたけど。

 内容は例によって靖国に関して不毛な議論を延々と続けるというものだ。どういう議論になろうと、一方的に自説を展開するだけだし、最後はお手盛りでしゃんしゃんとなるので、最初から不毛であることが約束されている、というのはともかくとして。

 論点はただ一つなのに、それが意図的にぼかされているのが不快なのだ。その唯一の論点とは、

「国として戦没者を祀る追悼施設は必要なのか」

 の一点だけだ。保守派は必要だといい、サヨクはそれを拒否する。本来は一宗教法人である靖国神社が祭神をどう決めようと勝手なはずだが、それがA級戦犯がどうのこうのと言っているのは、実質的に靖国がその役割を果たしていることと無関係のはずがない。


 一気に結論に飛ぶが、このような問題は、いくら討議を重ねたところでコンセンサスに達するとも思えず、結局は多数決に持っていかざるを得ないだろう。とすると、多数決による決定を暫定的には避けておいて、実質的に靖国に国の追悼施設としての役割を担ってもらう、そして一方で無宗教(?)の追悼施設を検討する(無宗教ならば「国として祀る」ことが許されるのか、といえば、また新しい論点が出現してしまう)、というやり方が、もっともプラクティカルと言えるだろう。

 ただ、筆者は現職閣僚のいわゆる公式参拝は、憲法上違憲の疑いがつよいと考えるけれども、その責任を、公僕の憲法遵守を謳う憲法第99条に基づいて取らせることにはむりがある。これは本来政治的判断、つまり、その閣僚の適格性を有権者が判断すべき問題であり、99条違反の議員は容赦なく落選させるのが、公僕の監視者たる国民の義務ともいえるはずなのである。汚職や選挙違反をした議員が「みそぎ」と怒号して堂々と当選してくるのをみると、それを有権者に求めるのは到底むりだろう。

 だから、議員に「政治的責任」を取らせるのは、むりなのである。

2006年09月09日

自民党総裁選

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 C評価にしてしまったハンチントンの「アメリカの分裂」に面白いことが書いてあった。

 アメリカでは、知識人階級と経営者のような高所得層(後者が重要!)はリベラルで、ボーン・アゲイン・クリスチャンといわれる、カソリックから福音主義プロテスタントへの改宗者が激増している(同じプロテスタントでもプリグリム・ファーザーズのようなピューリタンとは違う)、そういった層を中心とする「大衆」はコンサバティヴなのだそう。筆者はブッシュこそが「強いアメリカ」の再生をもくろむ保守(もっとも、アメリカにおいて、本物の保守とは、モンロー主義を奉ずる孤立主義者だという見かたも出来るからむずかしい)なのだと思っていたが、そうではなくブッシュすらアメリカの基準ではリベラル寄りなのだとか。大衆に自分の主張を合わせざるを得ないところにブッシュの悲劇があるらしい。

 というわけで、アメリカにおいては草の根保守主義(というより、ポピュリズム)が全盛なわけだが、わが国においてはどうだろうか。今日から自民党総裁選の運動がはじまったが、演説だけを聞いている限り、筆者には谷垣がもっともまともなこと(というか、当たり前のこと)を言っているように聞こえる。安倍の人気はアメリカ的なポピュリズムに寄り添うところから来ている。財界も経済音痴の彼に首相を務めて欲しくないのがホンネらしい。対中国に限らず経済に最も明るいのは三人の中では谷垣、次が麻生だろう。能力的には安倍は他の二人に大きく劣る。

 筆者が危惧するのは、今の安倍人気が政治家の側から仕掛けられたものか、それとも<<大衆>>の側から仕掛けられたものか、どちらかということだ。つまり政治がポピュリズムに向かうのは避けられない要素もあるのかもしれないが、そういう流れが上からつくられているのか、下から自然発生的に出現しているのか、そのどちらであるかを正確に測定することは、こんごの日本の政治の動きをみるうえでは欠かせないポイントだろう。

 しかし、安倍が「改革、改革」を連呼するのは、ある意味度肝を抜かれる。筋金入りの保守主義者(筆者はバークやトクヴィルを祖とするイギリスの保守主義者、典型的にはチャーチルなどを指してそういっている)は、「改革」を嫌った。なぜならば、「改革」は必然的に政治を右傾化させ、ファシズムに結びつくからだ。これはヒトラーやムッソリーニの経験から導き出されたものではなく、保守の理論からすれば彼らは当然の帰結であったということになる。「保守本流」を自負する安倍は、その歴史を果たして知っているのだろうか。

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2006年09月21日

安倍総裁

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 どうも異様に「世界認識の最前線」の次の巻を読むのに時間がかかっている。本の内容のこともあるのだが、今ひとつ集中できない。先日掲示した写真、鼻のところを拡大できないか、いろいろやってみたが、さすがにギザギザが出てしまい、無理なようだ。代わりに、まるでライオンみたいに見える猫の写真を載せておく。このカメラ(GR digital)の実力の片鱗をみせる解像度である。

 予想通り、自民党総裁選は安倍晋三氏で決まってしまった。ドイツ、フランス、そしてスウェーデンと続く社会民主主義の退潮のなか、三人の候補者のなかでもっともタカ派である彼が選ばれるのは、世界的な潮流のひとつとも言えるのだが、筆者がつねに疑問をするところは、「そんなに靖国神社の問題は、政治の中で重要な問題なのか?」ということだ。はっきり言って公式参拝や特殊法人への改組などは、国政の重要度からすれば、十指どころか百指にも入らない、どうでもいい問題のように筆者には思える。それが争点とされており、靖国参拝への毅然とした態度が評価されるのであれば、それはやはり政治問題化した側(それが誰なのかは知らない)の勝利、ということになる。百歩譲っても、まだしも殉職した自衛官への恩給の適用などのほうが上位に挙がるだろう。

 それよりも、筆者は「改革、改革」を連呼することに対する、特にリベラル系ではない、保守系のひとびとの違和感のなさに危惧を持つ。戦前、軍国主義の道を日本に突っ走らせたのは、皇道派・統制派を問わず(どちらかというと後者のほうが有名だが)「革新軍人」であった。また満州国に「五族共和」という石原莞爾の唱えたビジョンではない、北一輝的な国家社会主義の二番煎じのような社会政策を施行しようとして、東条英機と対立したのは、「革新官僚」であった、かれの偉大なる祖父である。つまり、自他共に許す保守主義者ならば、「改革」「革新」ということばに、とてもよい感情を持つことができないはずなのである。

 筆者は岸信介にはよい感情を持つことができないが、戦後の総理としてのかれの政策には、まだかれなりの首尾一貫性を見いだすことができ、共感はできないが理解はできる。残念ながら彼の孫には、タカ派ということのほか、祖父のような頭脳も理念も見いだすことができないように、筆者には思われる。演説でも、他の二人に比べて、説得力が最も欠ける発言を繰り返していたのも彼である。小泉首相の演説や国会答弁にも、他の議員をバカにしているとしか思えない発言が頻出していたが(特にあの人の話を聞かないという態度は子供への教育上も極めて有害であるとおもわれる。教育勅語以前の問題ではなかろうか?)、まずは有権者には、議員や閣僚の発言に耳を傾ける(その内容を子細に検討する必要は何もなくて、その論理構成が自然であるか、脈絡がないかだけ気をつけていればよい)習慣を付けて欲しいものだと感じられる。筆者が安倍を評価しないのは彼がタカ派であるからではなく、発言に論理性が感じられないからである。あれなら、偉大なる祖父のほうが、よっぽどマシかもしれない。

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2006年09月25日

安倍総理を支持できる条件

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 なかなかむずかしいと思いつつも、事態を前向きに捉えるために、考えてみた。

 筆者として、絶対に譲れない条件とは・・・

・八月十五日に靖国に参拝

 だけでは、ダメである。
 そこで報道記者に質問されたとき、こう答えることができたら支持してもよいと思われる。

(誤答)
記者「靖国で、何をお祈りされましたか?」
安倍「亡くなられた方々のご冥福を祈り、不戦の誓いを新たにしました。」

(正答)
記者「靖国で、何をお祈りされましたか?」
安倍「亡くなられた方々のご冥福を祈り、来たる戦争には必ず勝つことを誓いました。」

 「戦争」とは、「テロとの戦い」なのではないぞ、当然。

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2006年09月28日

読売新聞とはいえ

 小泉内閣の支持率が70.3%なんだそうな。

  うーん、やっぱり筆者と世間の感覚はかなりズレてるんだな、と今さらながらに納得。ロイド・ジョージや田中角栄みたいな人間なら、オックスブリッジや東大を出てなくても総理になって当然、とおもうが、成蹊大卒の安倍が誇れるものって、血筋(これって誇れるものか!?)とタカ派的ポーズだけじゃん。

 近隣諸国から尊敬されるような人物を首相に選ぼうよ、みんな。

2006年10月30日

教育基本法改正(改悪?)

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 某首相が「もっとも重要な案件」と公約していた件について。

 「愛国心」がテーマらしい。

 筆者はこれを聞くたび、有名な老子の警句を思い出す。

「大道廃れて仁義有り
 知恵出でて大偽有り
 六親和せずして孝慈有り
 国家昏乱して忠臣有り」

 愛国心をわざわざ涵養しなくてはならないほど、国家に対する愛を失わせたのは、いったいどこの誰なのだろうか。まずそれを厳しく問うところからはじめるべきだろう。
 つい最近も「憲法第九条は日本の誇り」という今どき珍しい発言を聞いて新鮮に感じたのだが(筆者じしんは第九条をどうすべきなのか、定見はまだ持っていない)、高らかに武装放棄を謳っていながら(例の芦田修正によって、自衛権は放棄されていない、とするのが正しい解釈ではありそうなのだけれど)「核武装もあり」などと発言する閣僚たちがいる、などというのは、まさにその例ではないのだろうか・・・

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2006年10月31日

N川・A生両大臣の核武装発言について

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 これらを聞いた筆者の第一印象は、「何をばかな!」というものであった。しかし、冷静になってこれらの発言の裏にあるものを考えると、重要な事実が浮かび上がってくる。それは、「どうして彼らの発言は糾弾されるべきなのか」という理由についてだ。

 まず、最初に検討すべきことは、彼らのいうように、「日本の核武装は北○鮮に対して抑止力になるのか?」ということである。これはいうまでもなく、基地外国家に対してどんな武装をしようが、彼らのミサイル発射を抑止する力にはなり得ない。まだしもミサイル防衛計画のほうが現実的な選択になる。

 ということは、北問題を口実に、核武装を画策する彼らの脳裏には、別の「抑止すべき国家」が浮かんでいると考えるのが妥当だろう。それはどこだろうか。
 地理的に考えれば、近隣の核保有国である中国である。しかし、これはまったく現実的な方策ではない。歴史認識問題だけではなく、現実に尖閣諸島や春暁天然ガス田問題という、領土問題を抱えている中国への対策として、反発を招くだけであろう。
 とすると、むしろ、現実的に核抑止を考える大国は別にある。そう、アメリカである。

 日本が安保体制からの脱却を図り、東南アジア地域において独立した存在となるためには、アメリカに対する核抑止が必要だ、と考えるのは、非現実的ではない。両大臣がもしそれを狙って核武装発言をしたのであれば、正直筆者としてはこの二人の馬鹿者に対しての認識を改める用意はある。
 ただ、これは別の理由で現実的ではない。それは、アメリカと日本は、戦略上重要な「地理的深み」がまったく違うからである。つまり、核戦争となった場合、札幌、仙台、東京、横浜、名古屋、大阪、広島、そして福岡に核を落とされたら日本はほぼ終わりである。しかるに、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、シアトル、サンフランシスコ、ロサンジェルスに核を落とされてもアメリカは壊滅しない。それを考えればアメリカと日本がミサイル戦争をやった場合、勝敗は最初からあきらかだ。アメリカは日本に三度目の核投下を行い、日本が発射した核ミサイルは途中で撃ち落とすだろう。言うまでもなく原潜の数の差である。

 さて、筆者は世界の非核化に向けてのキーとなるのは、核不拡散ではなく、核保有国の脱核化であると考えている。まず現実的なターゲットはイギリスとフランスの二国である。この二国は核武装に現実的な意味を持っていないからである。つまり、「国威発揚」として核保有をしていることになる。
 そしてそのイギリスとフランスを比較した場合、より現実性があるのはイギリスの非核化である。それはフランス人の気質を考えてみればすぐわかると思われる。おまけに現在イギリスは労働党政権である。
 にも拘らずブレアが核放棄宣言をできなかったことは、核保有にかんする言説の根深さに思い至るであろう。つまり、安保理常任理事国として、世界の大国として、核保有はシンボル的な存在なのである(某国におけるテンノーのように)。

 ここで最初の二大臣の発言に立ち戻ろう。彼らの発言が厳しく糾弾されるべきなのは、上に述べた核保有に関する言説(「核保有は国のステータス・シンボルである」)を強化するはたらきを帯びているからだと筆者は考える。一国の大臣がこのような発言を繰り返すことで、ステータスシンボルとしての核の地位は上昇し、イギリス・フランス二国の核放棄がそれだけ遠のくことになる。この二国が核放棄を行えば、世界の非核化に向けて積極的なイニシアティブを取ってくれることが期待できよう。

 世界の非核化に背を向けたこと、それこそが、彼らの発言の罪なのであり、日本という唯一の被爆国に核兵器を持ち込もうとしたことよりも、それは大きな問題であると思われる。

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2006年11月04日

WHO事務局長選挙

 国連事務総長選挙で棄権したという恥ずかしい投票行動を取った日本(もちろん、韓国人が選出されたことに対する不快感だったと思われる)、今度のWHO事務局長選では、われらが尾身茂を当選させられるのか? ガンバレ、ニッポン(ちゃちゃちゃ)

参考URL:
 http://www.who.int/governance/election/en/index.html
 http://www.mofa.go.jp/announce/announce/2006/6/0605.html

2006年11月08日

未履修問題

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 こういうときに、「読書」と「時事」の両方のカテゴリ選択ができるMTは便利だな。

 今、高校における必須科目の未履修が広く行われていたという事件が問題になっている。みなさまのお考えはどうであろうか。
 筆者はこれを聞いたとき、まず直感的に「おかしい」と思った。それは、未履修を隠蔽していたことがおかしい、というのではなく、それをとがめることがおかしいと感じたのだ。

 そして、それをよく考えてみると、国立大学の独立行政法人化という流れにそぐわないことから違和感を感じたのだ、とわかった。
 どういうことだろうか。

 大学を独立行政法人にし、自由競争の原理を導入する、ということは、理念的にはリベラル・アーツを諦め、大学を職業訓練校化するという意図に基づくと考えられる。ならば、職業訓練校に入学するために、高校が予備校化することは、当たり前のことではないのか。
 つまり、国としては、高校でリベラル・アーツを、大学で職業訓練を、という政策にしたいのだろうが、これは本末転倒ではないのだろうか。つまり、大学への入学が確実でない状況において、受験の役に立たない「一般教養」を喜んで受講する生徒など、だれもいないと思われるのだ。高校は大学予備校ではない、そういう議論もあるかもしれないが、大学進学率が(たぶん)世界一という高い教育水準を誇る日本においては、説得力のある議論とは言えないだろう。

 大学とは何を教える場所なのか、という目的がしっかりしていない限り、その前段階としての高校教育の性質も決まらないのは、ある意味当然であろう。これだけ競争が激しい時代になってくれば、高校は大学予備校、大学は就職のための職業訓練校、という見方は、ある意味至極真っ当だろう。そういう考え方をする父兄/生徒の前においては、未履修問題などはっきりいってどうでもよいことではないか。

昨日の読了
 ミルチア・エリアーデ「世界宗教史(1)」ちくま学芸文庫

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知的スノビズムとしてのリベラル

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 むかし、学園紛争華やかなりし時代の話、体制側ではなく、学生に同情的な教官にこそ、運動家である学生は詰め寄ったものらしい。

「先生はそうやってわれわれの主張に共感をお示しになりますが、ならばどうしてわれわれと共に闘ってくださらないのですか?」

 この主張に、高橋和巳は作品中でこう答えている。ひとは誰もが職業革命家になることはできない、働きながらその共感の示し方というものがあるのだと。

 たしかに、社会の不正に対して怒りを覚えることと、それらとの闘いの中に身を投じる人生を選ぶことは、必ずしも両立させねばならないことではない。社会人として既成の社会に寄与してゆくこともひとつの貢献のあり方ではある。

 しかしながら、筆者のおもうところ、実際には何らの良心の呵責も負わず、寄付等の経済的負担も担おうともせず、単にそうするのが「リベラル系知識人としてカッコいい」という理由だけで、反自民党、反米、反グローバリズムを口にする<自称知識人>が結構いるのではないか。

 ひっきょう、リベラルであるとは、ひとつの心的姿勢であって、何らかのアクションを要求する性質のものである、と筆者は考える。最低限投票行為に及ぶことが必要であろう。具体的な政治的活動への参加は必ずしも必要がないと思う。しかし、参加が必要でないということは、具体的に参加していないことへの免責にはならないはずである。少なくとも、社会変革が必要だと考えるなら、それに何らの貢献をできない自分を責めることからはじめたい、筆者はそう考えている。

2006年11月10日

尾身氏落選

やっぱりなあ・・・

まあ順当な結果だよなぁ・・・

メキシコのフレンク氏が有力だったらしんだけどな・・・

中国のすさまじい政治工作を思い知るべきだな・・・

2006年11月16日

六ケ所村再処理工場

「プルトニウム製品の製造始まる 六ケ所村再処理工場」

http://www.asahi.com/national/update/1116/TKY200611160350.html

 これは、どうみても、○武装を前提としてるよなぁ。。。

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2006年12月28日

規制改革会議

各紙より。

「一定要件の事務職を法定労働時間規制の適用から除外する新制度(日本版ホワイトカラー・エグゼンプション)の導入」をどうしてもしたいらしい。

規制改革の結果、過労死が増加しても、こいつらは全然意に解さないようだ。
まず、現状で、どのくらいサービス残業がなされているのか、その不払いの実態を明るみにすることは、規制撤廃の理念に反することなのだろう。

こういう報道をみていると、脱力する。もうわれわれには反対する力は残されていないようにおもわれるからだ。

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2006年12月30日

フセイン処刑

http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/6218485.stm

これで報復がなされなかったらどうかしてるよな。

2007年01月17日

サイード自伝

 筆者は家の中で何かをしているときに、本を片手に行うことがある。ふだんは一度読み終わった本を選ぶのだが(頭を使いたくないから)、それでは読書量が伸びないので、新しい本を選ぶように変えてみた。今は、先日購入してきたサイードの自伝(これも、"Out Of Place"も含め、数種類ある)を読んでいるが、やっぱりこのひとの人生にはいろんな要素が詰まっていて、とても興味深い。サイードはできれば主要な著作を全部浚ってみたい著作家だからである。

 各種ウェブ・ニュースによると、ホワイトカラー・エクザンプション法案が潰れた由。ほっと一安心だが、きっと近い将来に何らかのかたちで復活するだろう。監視を緩めてはならないと思われる。

2007年02月18日

学ぶべきものは

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 北朝鮮の偽ドル、マネー・ロンダリング、麻薬不法輸出などに対する米国をはじめとする各国の制裁処置と、六カ国協議が話題になっている。
 この際、アメリカの態度の軟化についてはコメントを控えるが、かわりに、竹内好が指摘していた、日本の軍部の「悪行」について触れておこう。

 何と、1920~30年代の、世界の不法麻薬の九割は、日本によって輸出されていたものだという! もちろん、対中戦争を継続するための資金源の獲得、のためである。

 百年前にイギリスが行ったことを、日本がマネをし、そしてそこから半世紀あまりを経て、北朝鮮がその衣鉢を継いでいる。おそらく、北朝鮮の麻薬密輸の生産地は北朝鮮国内であり、それはかつて日本が麻薬生産のために利用していた地域と重なる。つまり、今の北朝鮮の不法行為に、われわれも全く無関係とは言えない、ことは認識しておいてもよいだろう。

 だからといって、すぐに何が変わるわけではないけれども。

2007年02月28日

香港の現状

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 別の場所に書こうとおもったが、せっかくの内容なので、こちらにまとめておこう。Skype友から聞いた香港の現在についてである。

・1997年のhandover(イギリスから中国への返還)以後、本土との交易が盛んになっている
・香港にはparliamentはない。congress(と言っていたかどうかは忘れたが・・)は存在し、人民の代表が選ばれてはいる。多党制であり、自由党、民主党、社会党など多数の政党が存在する。
・法システムは中国本土のそれとは異なり、ほぼイギリス統治時代のそれを引き継いでいる。憲法は存在せず、それにあたる基本法(basic law)が存在する。
・死刑制度はない。香港で犯罪を犯した犯罪者が中国国内で逮捕された場合、本土の法に従って死刑に処せられることがありうる。
・chief executiveは中国から派遣されてくる。法令の解釈は彼らが中国政府の意向を受けて行っている。
・裁判所は三審制(だと思う)。以前は、上訴はイギリスのCourt of Appeal(上訴院。Court of Lordと言っていたと思うが、これは誤りだろう)に対して行っていたが、今は北京ではなく、香港に上訴院が存在する。裁判制度は公平性、透明性がきわめて高いことが、本土との大きな違いである。
・言論の自由は保証されている。中国政府の批判も可能。信教の自由もあり、本土で弾圧されている法輪功も堂々とデモンストレーションを行っている。
・特定の宗教が優勢であるということはないが、若者層の間ではキリスト教が広がってきている。手相、人相、紫微斗数などの占いも一部で人気を呼んでいる。風水然り。
・香港人は晩婚の傾向あり。男性医師は早婚である。香港男性の間で、本土の女性と結婚するケースが増えてきている。
・本土女性が香港で出産することがブームになっている。病院の質がいいこと、香港の市民権が得られることが理由である。
・医師は香港の医大出身が多いが、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦の医大出身ならば問題はない。
・香港人のアイデンティティは、「中国人」ではなく、「香港人」である。香港人の多くは、将来の政治的独立を望んでいる(のかな?)。

2007年03月01日

都知事選

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 浅野史郎が立候補を表明したか・・・

 石原に勝てるんだろうか・・・

 東京都民は良識ある人間ばかりじゃないからな・・・

 民主党がいいとは全然思わないけど、浅野を支持する以外の選択肢はないよな・・・

 それはそうと、いい加減独自候補を降ろしてくれ>共産党

 筆者は、このように、反自民を唱えながら、実質的に自民党を利する行為を多々取るこの党のスターリン的な権威主義の罪悪は、盲目的投票マシーンを擁するK明党の害毒と、どちらが大きいのかいつも判断しかねている。

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2007年03月04日

情報統制&中江兆民

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 例によって、全然異なることを一緒の記事にするのも、どうかと思うが・・・

 本日聴いていたBBCのPodcastより。中国の話。このところ、EU統一歴史教科書とか、近隣諸国の間で、共通の歴史認識を持つことの重要性とそのむずかしさに関する報道がいくつかあった。中国では、「天安門事件」は起きなかった、ということになっているらしい。教育の現場やマスメディアで一切のこれに関する言動を禁止しているだけではなく、スゴイと思うのは、.cnのIP addressからアクセスする場合に、(テクニカルにどうやっているのかはわからないが)「天安門事件」に関するサイトには、一切アクセスが不能になるように統制をかけているという話である。なので、今の中国人の学生には、かなりの割合でこの事件のことを知らないひとがいるという・・・

 これに比べれば、某国首相の、従軍慰安婦に関する発言は、そもそも発言があったという時点で、事件の存在については認めているわけで、中国のようにある事件が抹殺されてしまうことに比べれば、かわいいものだと思うのであった。経済成長に伴って、外国と行き来をする人々も増えてくる中、いつまで民主化の要求を封じ込めることができるのだろうか?

昨日の読了
 中江篤介「三酔人経綸問答」岩波文庫 S

 兆民中江篤介の代表作。以前から存在は知っていたし、内容はあちこちの書籍で紹介されてはいるので、だいたい知ってはいたものの、あらためて実物(訳だけど)を読んでみて、兆民の歴史認識の正しさと広さ、国防と民主主義についての透徹した見解に、とても驚嘆した。解説で桑原武夫が述べている通り、この議論の射程は現代にも及んでいるといっていいだろう。

 立憲君主制を排し、カントの絶対平和論にも言及しながら、民主制の導入と軍備の全廃を説く洋学紳士、富国強兵論・帝国主義政策を主張する豪傑君(しかし改革の必要も彼は認めている)、そして当時としては極めて穏健な、立憲君主制の確立と専守防衛に徹するべきだとする、漸進的な政策を支持する南海先生、と、自らの意見の一部をそれぞれの登場人物に託しながら(でも文章のウェイトは洋学紳士にあるように感じられる)説いた本書は、日本人として必読の書籍のひとつにあげられるように、筆者には思われた。

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2007年03月06日

出生率低下について

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 誰かに話したことをそのまま書いているというパターンが、さいきんは多い。

 世界的に離婚率は急増しているとみられる。先日、香港の話を書いたけれども、離婚率は極めて高く、だいたい三人のうち二人は離婚するのだという。離婚率(どういう統計の仕方をしているのかわからないけれども)は日本においても50%に迫る勢いだということである。欧米では、スイスにおいては、50%overという、日本と同じような状況らしい。

 こうなってくると、筆者には、まず男女とも、婚姻が永遠に継続するという前提で、結婚や出産を行うということが、妥当なことなのかどうか、そして政府の政策もこの現状を踏まえずになされないことが適切なのかどうか、疑問に思えてくる。つまり、「離婚はありふれたこと、二人に一人は離婚する」ことを視野に入れた人生設計、行政が必要になってくるのではないか、ということである。

 このような状況で、出生率が下がるのはある意味当然のことである。核家族化している現在、離婚した女性が実家に戻って、「家」のサポートのもと育て上げる、というモデルはもう通用しない。シングルマザーは文字通り独力で子どもを育てなければならない(実家の親の助力を期待できるケースもあるだろうが)。これは多大な負担で、生活費を稼ぎながら子どもを育てることは簡単なことではない。

 そこで、シングルマザーをサポートするようなシステムの構築が必要となってくるが、そのシステムは保育ママや託児所、保育園といった公的システムだけでは不十分で、「共同体の中で子どもを育ててゆく」という、むかしの日本の家制度のような、人的システムも必要になってこよう。

 しかし、筆者には、この人的ネットワークの構築は、容易なようには思われない。ひとつは、かつての「家」の再構築が不可能であることだ。現在の雇用・住宅状況のなかで、大家族制は取りようがない。また個人主義の世の中で、家父長を中心に序列を持った家族というものを構築すること自体、すでに不可能な時勢になっているように思われる。

 人的ネットワークは、血縁もしくは地縁によってつくられる。この地縁による構築が第二の手段であるが、これも困難であるように筆者には思われる。それは、一ヶ所に定住する、というしくみに、今の社会はできていないように思われるからだ。それは住宅事情と転勤が関係している。農業のような今や特殊な産業に従事していない限りは、住民同士の信頼関係が構築されるだけの長期に渡って同じ場所に住む、ということは、特に結婚や出産の担い手である若年者層では全く期待ができない。

 この離婚率と、社会の公的サポート、そして共同体の不存在という現状のなかで、子どもを産もう、育てよう、という意欲が湧いてくる方が、ある意味不自然なようにも思われるのである。

2007年03月15日

memo

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フィリピン政府が臓器売買を公認
臓器移植、来月から外国人困難に
フランス「夜の営み」、50歳超でも大切派多数
運動すると脳が育つ

2007年04月07日

桜はほんとうに美しいか?

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 以前、このテーマについて、ちょっと書いたことがある。

 これに関しては、ふたつのアプローチがあると個人的には考えている。

1)美醜の評価はすべて後天的なものである。ひとは、生まれた時から、「これはキレイ、これはキタナイ」と常に「教育」を受けて育ってきているので、何か新しいものをみたときに、今まで蓄積されたデータベースを参照せずに、独自の評価を下すことは不可能である。
 いっぽう、桜のうつくしさについては、すでに歴史的にも国民的にも幾多の言説が繰り広げられている。よって、その真否を疑うことすら不可能になっている。だから、「桜のうつくしさ」は、本居宣長が主張するように、天皇制と同じように、日本の国体を表象しているものなのである。

2)もともと花とは昆虫や鳥たちのためにつくられているものである。開花とは植物のセックスである。だから花が動物の生殖器に似ていないでもないのは、当然のことである。
 昆虫や鳥は、独自の美醜の判断基準を持っているわけではなく、遺伝的に反応するかたちを有している。だから、その遺伝的なパターンは、人間に受け継がれていてもおかしくはない。動物がキレイだと認識するものは、人間もそう認識するのである。
 よって、人間は、生まれた時から、桜をみると「美しい」と感ずるよう、プログラミングされている。

 さて、どちらが妥当なのだろうか?

2007年04月08日

不可解

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 理解する必要もないことなのかもしれないが。

 投票という行為は、国民の権利でもあり、義務でもある、と考えられていよう。そして、少なくとも、「自分にとって利益になる」ことをしてくれる政治家を選択する、というものだと、筆者は理解していた。だから、自分が投票した候補者以外が当選する、ということは、端的にその当選した候補者の政策によって利益を受ける人の数が、自分が支持した候補者の政策により利益を受けつ人数よりも多い、というように考えてきた。

 しかし、この単純かつアタリマエの考えは、もう当てはまらないのではないだろうか。

 筆者は東京都知事選において、石原の三選を支持していない。それは彼の政策を支持していないからだし、それによって自分が不利益を被るという認識があるからである。だから、逆に彼の政策を支持するひとびとがあっても、それは全然おかしくないことだと思っている。
 彼に投票したひとびとはかなりの数に上ると思われるし、速報では三選は確実だと思われるのだが、実際には、彼に投票した人間のかなりの部分が、彼の打ち出す政策によって不利益をこうむるように思われるのだ。
 これは、先の記事で書いた「ボナパルティズム」という現象が、日本において普遍化してきていることを表しているように、筆者には思われる。

 要は、もう選挙は政策の妥当性や、「誰にとってその政策がありがたいのか」という観点で決まるのではなく、新聞、テレビ、インターネット、活字などのメディアによって作り上げられる「雰囲気」(フーコーに倣って「言説」と呼ぶのが適当であるようにも思われる)によって決せられるものであるのだろう。
 もっとも、それは東京において言うならば、美濃部の時代から変わっていないことなのかも知れない。

 まさに、これもフーコーを引用すれば、近代の規律的権力とは、外部から規律を与えるのではなく、自ら規律に適合するように行動させる(マスコミによる「報道の自粛」というのが、その最たるものだろう)ことが特徴であるということだから、選挙において、「選挙民にとって利益にならない候補者に投票させる」という権力は、最高の内在的規律による統制を実現している、ということが言えるだろう。

2007年04月18日

長崎市長、撃たれる

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 衝撃の報だ。本島前市長に続き、二人目とは。

 ちょうど、昨日読了した本が本だけに、意表を突かれた。

昨日の読了
 イアン・ブルマ「戦争の記憶」ちくま学芸文庫 B

 ドイツと日本の戦争責任を扱った書物。ジャーナリスティックな文体で、大変読みやすい。本島市長のことが登場する本としては、ノーマ・フィールド「天皇の逝く国で」(みすず書房)と並び、印象に残る本である。
 一般的には、本書はドイツと日本の国民性のちがいについて述べた本である、と評価されているが、著者は共通点について論じたものである、と主張している。そしてそう読めないのは、いかに読者が先入観に基づいて本を読むかという実例である、と著者は論じているが、やはり筆者にも、本書は「ドイツは戦争責任問題に真摯に取り組んでいるが、日本はそうではない」というメタ・メッセージが透けて見えてしまう。そういう意味では、本書の執筆のもくろみは完全に失敗していると言えよう。

 さて、よく言われることだが、著者も、日本の戦争責任問題の曖昧さには、戦後の天皇の処遇が関係していることを述べている。この件については、深沢七郎の「風流夢譚」事件あたりからはじまり、昭和天皇の危篤時には「自粛」というかたちで、日本国内に完全に定着したと言える。結局、リベラリストが考えたように、アメリカは「民主主義」を日本に導入したわけではなくて、天皇を含めた階級社会をそのまま日本に温存することで、共産主義の防波堤にしようと意図したわけであり、戦争責任問題については極東軍事裁判で決着がついた、というかたちで手を打ちましょう、という玉虫色の決着が、日米ともに都合がよかったわけである。そして、最大の被害国である朝鮮半島や中国に対しての謝罪や補償がおざなりのまま、六十年が過ぎてしまった。

 筆者は、日本においてリベラルな政体・リベラルな政策は、米国の占領(今でも日本は実質的に占領状態にあると筆者は認識している)という桎梏から逃れない限り、あり得ないとも考えている。まず一番に日本がすべきことは、独立を取り戻すことである(同盟国でありつつ政治的な影響力から抜け出すということは極めて難しい選択ではあるが)。

 政治的な独立を確保して、共和制に移行しない限りは、戦争責任など取りようがないだろう、というのが筆者の感想だ。未だに戦前との連続性を保った制度や文化が続いているということは、連続を国民が選択していることにほかならない。戦争責任など、日本は個人はともかく、国全体としては負う気はさらさらないのだ。

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2007年04月20日

処罰の目的

 1999年に起きた池袋乱射事件の上告審で、被告人の死刑が確定した。判決文にある「冷酷、非情、残忍で、被害者らには何一つ落ち度がない」の、少なくとも後半はまちがいないだろうが、前半には疑問が残る。被告人は統合失調症患者であるからである。

 統合失調症において、責任能力を問えるかどうかは、極めて微妙な問題である。精神鑑定においてそれが100%の正確さを持って医学的に決定可能か、というと、重大な疑問が残らざるを得ない。このように、判事のような(?)「常識的な感覚」では推し量れない(だから、「冷酷」なる感情的な文言が含まれることになる)行為については、責任能力を失った、心神喪失状態にあった、と考えたくなるのが自然であろう。

 ほんらい、刑事事件の処罰は、ある法益が侵害されたことに対する応報刑である、というのが、旧派刑法学の立場であり、遺伝的あるいは社会的に犯罪を犯しやすい人間に対する教育、または隔離というのが、新派刑法学の主張である。
 しかし、本判決は、やはり「遺族の報復感情」に配慮した判決である、ということができるであろう。裁判所が国民から支持されるために必要な措置であるのかもしれないが、筆者には極めて不当な判決にみえる。死刑制度が未だに廃止されていない日本においては、このようなケースは、可能な限り精神病院へ一生入院して頂く、という判決を出すことが妥当なのではないだろうか。

 「一般人」の感情にアピールする判決を出すことが司法人の務めだろうか? 筆者にはそうは思われない。これが裁判員制度が発足してからの判決だったら、どうだろうか。そう考えると、とても他人事とは思えないのである。

昨日の購入
 テオドア・モムゼン「ローマの歴史III革新と復古」長谷川博隆訳 名大出版会
 ピエール・ブルデュー他「教師と学生のコミュニケーション」藤原書店
 ノーム・チョムスキー/エドワード・ハーマン「マニュファクチャリング・コンセント(上下)」トランスビュー
 大岡昇平「事件」新潮文庫
 油井大三郎「なぜ戦争観は衝突するのか」岩波現代文庫
 夏目漱石「文学論(下)」岩波文庫
 和辻哲郎「偶像再興/面とペルソナ」
 吉田健一「旅の時間」以上講談社文芸文庫

 チョムスキーの本、大体書いてあることは想像がつくので、どうしようかな、と二ヶ月悩んだ揚げ句、買ってしまった。
 ジョゼフ・ナイの「国際紛争」が、改版されていたけれども、二年前の版と内容が変わっているとも思えなかったので、買わなかった。

昨日の読了
 進藤榮一「分割された領土」岩波現代文庫 B

 五百旗部真氏や竹前栄治氏らの、戦後史研究の書物と並べて読むと、占領史における外交の側面についての理解が深まるような論文が纏めてあるのだが、そのような特別な関心を抱かない一般の読者が読むには、少々まとまりに欠ける論文集と言えるだろう。内容はもちろんわるくはないが、積極的にはお勧めはしない。

2007年04月22日

区議選にかんする疑問

 市民の務め、投票へ行ってきた。しかし・・

 あらためて気づくのだが、各候補者の政策はおろか、誰が立候補しているかすら知らない。そして、その一覧をどこで調べられるかもわからない。
 インターネットで検索してみると、ここにあるのがわかった。
 しかし、ネットに接続できる環境を持っていない市民にとっては、何の意味もない情報である。

 さて、ここから各候補者のホームページに直接のリンクはもちろん貼っていないため、候補者の名前をgoogleに突っ込んで調べるしかない。
 調べてみるが、こんなのしか出てこない。う〜ん・・・

 要するに、選挙に際して、ほとんど投票する市民に、候補者のことを知らせないようにしているとしか思えない。夜八時まで名前だけ連呼されても煩いだけだ。

 さて、あらためて各候補者の経歴などをみてみると、ほとんど投票したいと思われるような候補者がいない。はぁ・・・
 これじゃ、投票率が上がらないのも当然だよな・・・

 このなかで、唯一投票意欲を誘う「オンブズマンみなと」という会派があったので、調べてみる。そうかい、準備中かい、、、おまけに、候補者ひわたし紀和子氏のサイトから辿れる、「環境政党みどりの会議」のリンク先は、"this domain is for sale"だそうだ。先ほどのオンブズマンみなとのページのコピーライトの表記は、2004年。このひとたち、本当にやる気があるのだろうか。それとも、人手が足りないだけだろうか・・・?

 考えてみれば、筆者は成人してからほとんど投票には欠かさず足を運んでいるはずなのだが、そのほとんどは「死票」になっている。「死票」という票は存在しない、とある社会学者(橋爪大三郎だったと思う)が書いていたが、詭弁だ。当選した候補者に流れた投票以外のすべての票は、論理的に言って「死票」に他ならない。

 さて、筆者の今回の投票は、ムダに終わるであろうか? 前回の都議選で石原氏に投票しなかった筆者の票は前回も空しく朽ちた。さて、どうか。結果は追記で記すことにしよう。

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2007年04月23日

区議選(2)

 結果が発表された。今回は、死票にならなかったらしい。

 まあ、24/32で、残りの8に入れてしまったらキツイよなあ・・

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2007年05月02日

Veto

 やってくれました・・・

Bush vetoes Iraq withdrawal bill

US President George W Bush has vetoed a Congressional bill that would have linked war funding to a timetable for withdrawal of US troops from Iraq.

 だそうです。。。

2007年05月04日

憲法記念日

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 昨日は憲法記念日ということで、各番組とも憲法関係の特集を組んでいたようだ。そのうちの一つをちらっとみたところ、ゲストが

「そもそも、憲法とは、強大な権力を持つ国家を縛るために存在するもので・・」

 と喋っていた。

 これは、憲法学の常識である。憲法という法の意義に関する通説と言える。

 しかし、昨今の憲法に関する議論をみていると、むしろ自民党の意見のほうが、「革新的」なのである。その革新性は、北一輝の「日本改造法案大綱」に通ずるものだ。曰く、

 「国家は従来リヴァイアサンとして、強大な権限を持ち、それを制限するために憲法が発生したことはその通りである。しかし、それは古い国家観であり、今の国家は福祉国家として、自国の国民の福祉だけを考えればいいのではなく、自国民でない他国の人民のためにも奉仕する、つまり、国際貢献をしてゆく必要がある。よって、積極的な、人的貢献をするためにも、憲法改正は必要だ。」

 これは、一見尤もな意見に見えるが、かなりドラスティックな見方だ。従来、国家というものは、国際関係の中での最大のアクターであり、その存在理由は、あくまでその国家に属する国民を守るためであり、敢えて言うなら、他国の国民の福祉を侵害しても、自国の国民の福利厚生を図る、というものだからだ。そしてこの旧来の国家観に忠実な政策を取っている国が、たとえばアメリカ合衆国である。

 この自民党の論理に従えば、日本政府は、自国民の福祉のみならず、他国民の福祉にも責任を取ることを意味する。これは、国家観の新しい捉えかたである。そして、この論理を突き詰めると、現状のポストコロニアルな問題、つまり植民地時代が終焉を迎えた現在も、経済的に先進国が途上国を搾取し続けているという、経済的帝国主義に対しても、日本国は責任を負う、ということになる。

 今、世界中で、富についても、一人当たり使用するエネルギーについても、摂取カロリーについても、著しい格差がみられる。もし、この自民党の主張が認められるならば、このような「構造的暴力」(ヨハン・ガルトゥング)にも、日本政府はそれを改善すべく努力することが国是となる。

 もし、本気でそのようなことを自民党が考えているなら、もろ手を挙げて支持したいところであるが、そのような国際貢献を考える前に、自国内の「構造的暴力」を強化するような政策を取っているのは、憲法に関するこのリベラルな見方と真っ向から矛盾するものではないだろうか。

 まず隗より始めよ。このコトバの意味をもう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。

一昨日の読了
 松本健一「日本の失敗」岩波現代文庫 B

 松本氏の本は面白い。その理由は、彼が北一輝、大川周明、玄洋社&黒竜会、そして竹内好や保田與重郎といった、(竹内だけはちょっと違うけど)「右翼ナショナリスト」として一括され、毛嫌いされるようなひとびとに関心を寄せる点、そしてそれに関して、「深く傾倒してしまう」ことを恐れないその姿勢による。だから氏自体も右翼ナショナリストだと考えられている気味もあるが、それはある意味では正しく、ある意味では正しくない。むしろ、思想的には、竹内=橋川文三ラインに属する、左翼ナショナリストに近い資質の持ち主だと思われる。

 さて本書は、日本が大東亜戦争へ突き進んでゆくその思想的な責任を追及したものだ。頭山満などの右翼が中国の孫文や蒋介石などの深い信頼を勝ち得ていたことはある程度知られていると思われる。逆に、犬養木堂、そして戦後日本を代表する政治家となった、鳩山一郎が、「統帥権干犯」問題を政治利用したことは、ほとんど知られていないだろう。このことは、戦前の思想家の評価がある価値基準によって単純に判断できないことを示す一方、やはり戦後も戦前の日本社会の体質をかなり残留させてしまったことも同時に示すことと思われる。

 筆者じしん、正確に人数を数えているわけではないが、大政翼賛会に参加した戦前の政治家のみならず、A級戦犯を含む、旧日本軍の高級軍人の子弟のうち、戦後(今も)国会議員になっている数がかなりのものに及ぶことは、一体何なのだろう、と思ってしまう。
 そして、敗戦時の陸軍大臣だった阿南惟幾(彼じしんはそれほどタカ派ではなかったという話ではあるが)の次男をよりによって中国大使にしてしまったりする、日本政府の無神経さは・・・

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2007年06月13日

Large condoms for S African men

 どこに書かうか考へたが、やつぱりここにした。ご意見・ご感想をお待ちしてゐる。

http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/4155390.stm

 黒人男性を愛好する日本女性がゐることを非難できぬ。

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2007年06月20日

呆れ果てる教育再生法案

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 筆者が呆れ果てているのは、法案そのものというよりは、国民の対応である。

 天下の早稲田大学教育学部の学生にNHKがインタビューしていた。

「教員の免許更新制度をどう思いますか?」

 三人中ふたりの学生が「いいんじゃないですか?」と答えていた。あとのひとりも否定的な回答ではなかったかもしれない。おそらく、NHKは意識的にそういう回答をした学生を選んで放映したのだろうが。

 しかし、このバカ学生ら、許せない! それでもオマイラ早稲田の学生か?????


 免許更新制度はたしかに有益かも知れない。医療においてこれが提唱されたら、筆者は即座に賛成する。なぜなら、医療において、免許更新制度に政治性はないからだ。

 では、なぜ種々の免許制度のうち、まっさきに教員に更新制度を設けたか。理由は明白である。どう考えても、教員としての技量と適性をみるものではありえない。端的に、日の丸・君が代に反対する教員の免許剥奪を目指したものであろう。

 「賛成です」と答えた学生らは、この方針に賛成なのかも知れない。しかし、かりにこれらの学生が右翼であるにせよ、「政府の方針に沿わない教師を排除」するしくみに賛成することは、やはり筆者はそれだけで教員として適性を欠く、と判断したいとおもう。

 政府=文部科学省が、教員の技量を試験で判定可能か? それを考えてみただけで、政治的な意図を濃厚に持っている制度であることはあきらかだろう。やはり、免許更新制度は、公認会計士や、医師のような「技術色があきらかで、政治性のない職種」に限定すべきだと考える。たとえば、弁護士などには導入すべきでは断じてない。

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2007年06月22日

国会の議論をみていて無気力になるのはなぜか

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 あまり政治的な発言ばかりしていても何なのだが。


 最近の「強行採決」などなどをみていても(実はこの感情は高校生くらいからずっと変わらないとおもうのだが)「茶番」にしかみえないのは、なぜだろうか。

 自民党は民主党その他の「不信任決議案」を「選挙を控えた党利党略だけの手法」と非難し、野党は野党で強行採決その他を同じように「数を恃んで民主主義を無視している」とか、「党利党略」と批判する。この非難の応酬は、対称性を帯びている。対称性を帯びることで、より権力=国民の支持を受けている(と考えられる)与党の権力の行使は目立たなくなる。そして、じじつ、民主党も社民も共産もすべて「党利党略」しか考えていない、という自民党の指摘は正しいように思われる。

 強行採決は違法なのだろうか? これは与党の当然の権利である。民主主義の前提が議会でのディベートだとしても、討議は限られた時間しか持ち得ないのは理の当然だ。そして政党政治というものは、各議員の意見は党の方針に譲歩するものであって(党の多数意見に反対する少数議員は、党の方針が打ち出される前に党内で戦うべきであって、いったん打ち出されてしまえば、造反議員が処罰されるのは政党政治として当然だ)、つまり構造的に議会の討議では各議員の意見が変化することは期待できない。つまり、どうしても討議は政党間の意見のすり合わせに終始し、華々しい意見の応酬はドラマの中でしかありえない。

 だから、国民の声なるものは、投票にしか反映されないのだ。市民運動を議会政治の上位にあたかも置くかのような風潮が、特に安保闘争の頃に、リベラル派の知識人を中心に醸成されたようだが、これは端的にまちがいであって、国民は原則として投票にものを言わせるのが正当な権力の行使である。ということは、論理的には国会で決議された事柄は、「国民の総意」というように擬制されざるをえない。

 正直なところ、筆者の想像だが、投票という権力を行使している国民は、おそらくその収入や最終学歴の平均を取ってみれば、国民の平均を上回るはずである。だから、投票行動を変化させる動機を、おそらくそれらの値が高ければ高いほど、それを有する投票人はもたないことになると考えられる。

 そして革命的な投票行動(55年体制を終焉させた細川総理誕生のときのような)が生ずるのは、国民の不満からではなく、マイケル・マンがいうところの「伝播型の力」、この場合はマスコミ、インターネットなどで複数の核(これが誰なのかは、わからないが)によって醸成される「雰囲気」しかないように思われる。そして、この「雰囲気」は今「改革が必要だ」というスローガンをあちこちに流し、その結果確たる根拠もなく、「改革」こそが正しいという意識をほとんどの国民が持っているように見える。

 与党と野党の振幅がますます小さくなっているようにみえることは、如実に戦前の翼賛体制を喚起する。いつのまにかわれわれは、似通ったふたつの二大保守党いがいの現実的な投票の選択肢を失ってしまっている。たぶん、どちらの政党が政権を取ったところで、大差はないのだ。多少富と権力のディストリビューションが変わるだけである。


 (日本の)民主政治は幕藩体制の延長として捉えてもそれほどおかしな類推にはならない、とはよく言われることである。つまり、選ばれる方法が投票なしの世襲か、投票ありの世襲か、の違いしかもたず、実質的には同じということである。そして、国会の果てしない非難合戦をみていると(そこへ誘導したのは、与党なのかマスコミなのか財界なのかはわからないけれども)「投票によって世界が変わる」という観念を見事に否定し尽くした劇場のパフォーマンス、という感を受ける。

 ひっきょう、無気力の原因の根底には、戦後六十年の政治の軌跡が、国民の権力の源泉たる投票による世界変革の可能性を消し去ってきた、という事実が、今の国会劇に見事に反映されている、ということがあるのであろう。はぁ。。。

2007年06月28日

追悼

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 宮沢喜一氏が逝去されたよう。慎んでご冥福をお祈りしたい。

 自民党最後の、古きよき時代を体現する政治家だったとおもう。


 今の政局、中曽根元首相すら、リベラル派にみえてしまうのは、どうかと。

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2007年07月27日

アカなのか?

 このサイトの存在を知り、やってみた。

 筆者の結論は次の通り。

・自民党 37%
・民主党 50%
・公明党 49%
・共産党 60%
・社民党 60%
・国民新党 41%
・新党日本 59%

 ショックで寝られそうにない。

2007年07月28日

アカが嫌いな理由

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 「アカ」は差別用語で、筆者はその筋の人間から訴えてしまわれるのだろうか?

 筆者がアカが嫌いな理由をこれから説明しよう。まず、ここを見ていただきたい。選挙区候補が32名、これは、自由民主党の49名、民主党の53名に次ぐ数である。

 そして、こんかいの改選のうち、東京が最多の選挙区5名、埼玉・千葉・神奈川・愛知・大阪が3名、北海道・宮城・福島・茨城・新潟・長野・岐阜・静岡・京都・兵庫・広島・福岡が2名のほか、ほかの29県が一名のみの改選となっている。つまり、○本共○党は、一人区で14名の候補者を立てている。

 さて、この一人区の立候補によって、もっとも利益を受けるのは、誰であろうか。

 犯罪捜査の鉄則は、「犯罪によって最も利益を受けるのは誰か」を考え、疑うことが原則であると言われている。その原則に則って考えてみると、実は某党は

「自民党の隠れ分派ではないのか?」

 という疑いが浮上してくる。もしくは、何らかの密約があるのか。一人区での少数野党の立候補は、票を分散化させ、与党の当選確率を上げることは、子供でもわかるだろう(どこかの誰かみたいに、「アルツ○イマーでもわかる」とは、かかない)。その簡単な理屈がわからないか、わからないふりをしているのは、執行部が全員認知症にかかっていないならば、現世利益のためと推測するのが妥当であろう。すなわち、与党からなんらかの利益供与を得ている、という推測が合理的であると判断される。


 こういう疑いを晴らすには、ふたつの方法しかない。ひとつは、このような無意味な候補者の擁立をやめること。そのような無駄使いをせずに、関連の医療法人の職員(医師を含む)の給料を上げることに使用した方がよっぽど有意義だ。某政党の機関誌に「共○党系の病院では医療ミスがおおい」とか書かれずに済むだろう。そして、とっとと社民党と合同して「みどりの党」とでも称して、環境・医療・福祉の党としてやっていくこと。小池さんと阿部さんが党首になったら実現しないだろうか。

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2007年07月30日

参院選終わりぬ

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 意外にも自民党が大敗した。共○党の選挙協力のおかげで、一部の選挙区では議席を保持できたようではあるが。
 ここまで大敗するとは思っていなかった筆者は時勢を見る目がないのだろう。やはり松岡の呪いだろうか。安倍総理が続投すると言っているのは、(妥当な判断ではあろうが)度胸のよさには感服した。

 あるいは、単に鈍感なだけかもしれないが。首相の首をすげ替えたところで支持率は上昇しない、という判断自体は正確だろう。そうこうしているうちに、民主党のスキャンダルが何か発覚するだろうから。

昨日の読了
 大澤真幸「ナショナリズムの由来」講談社 C

 C評価はあまりにも酷かなあ、、、この評価は、ナショナリズム論としての評価と考え頂きたい。大澤真幸の社会学を知り、理解するという意味では、もっと高い評価を与えられてよい。読む価値がない、という意味ではない。

 この書籍についても、amazonに書評を書いてみたのだが、もう少し辛辣にかいてみる。筆者が思うに、ナショナリズムは社会的な現象であると同時に、それを信奉する個人にとっては心理的な現象である。つまり、ナショナリストにとって、ナショナリズムは生き甲斐なのである。その生き甲斐たるゆえんはメタレベルでの社会学的分析で解き明かすことができるようには、筆者には思えない。むしろ、たとえば、「資本主義の勃興によって、または資本主義を成立せしめた同じ精神によって、ナショナリズムが発生した」ことを証明するためには(じつは、この命題はほぼ自明である。おおよそ近代の時代精神にとって、資本主義と無縁なものはほとんど存在しないからである)、資本主義とナショナリズムの成立がほぼ歴史的および地理的にパラレルであることを実証的に示せばそれで足りるように、筆者には思われる。

 大澤が取ったようなメタ心理レベルでの分析に筆者が魅力を感じない理由は、それが直感に訴えないこともあるが、そのような複雑なメタレベル心理によって、ナショナリストが、ナショナリズムへの衝動に突き動かされているとは到底考えられないことによる。大勢の人間を巻き込むムーブメントの心理的動機はもっとわかりやすいものでなければならない、そう筆者には思われる。アンダーソンの「想像の共同体」の成功は、大澤が言うように、対象をアジア地域に求めたことよりも、そのストレートさ、わかりやすさにあるように、筆者には思われる。複雑な心理的なからくりの結果導かれるような結論に、多くの人間が追随すると考えることは、かなりムリがないであろうか。

2007年08月09日

挙党体制

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 このことばを聞くたびに、筆者にはふたつの根本的な疑問がいつも浮かぶ。

 ひとつは、「では、挙党体制でない内閣は、派閥力学によって出来た論功賞罰内閣か、あるいはお気に入りだけを入閣させるお友達内閣なのか?」という疑問だ。ぎゃくに、「挙党体制」でない内閣というのは、党外から有識者を大臣に起用したりという「反挙党体制」なのであろうか。

 そして、もうひとつは、即座に連想されるある言葉、そう、「挙国一致体制=大政翼賛体制」である。
 キョトウイッチということば、筆者にはイメージ的に、とても悪く響くのだが、みなさんはどうだろうか。

昨日の読了
 大岡昇平「戦争」岩波現代文庫 B

 大岡文学への入門として最適な本だろう。もちろん彼は戦記文学しか書けないような幅のせまい作家ではないが、それでも「俘虜記」「野火」そして「レイテ戦記」といった戦記物がその本領とするところだということは、衆目一致するところであろう。そして本書はそれらへのよき掛け橋となろう。

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2007年08月21日

幼児性愛犯罪者に去勢を

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070821k0000e030015000c.html

 フランス大統領サルコジの発言。

 むかしから議論されていることで、一定の合理性はあるけれども、いかにも石原が喜んで言いそうなことではないか。

 こういう(政治的に)単純過ぎる人物を大統領に選んだことが、フランス国民の知性の失墜の象徴であるように、日本人が某氏を総理に選んだということは・・・

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 いま、あらゆる社会契約において、相互の人的信頼性は崩壊しつつあるというのが、筆者の認識である。
 たとえば、教育、医療、建築、物品の購入といった、基本的な契約は、それぞれサービスの提供側(教師、医師、建築会社、小売店あるいはデパート)と、受給者のあいだの「信頼」を前提としていた。そのようなかたちの契約は、民法のなかでも、単なる典型契約ではないとみなされている場合もある(前二者はそうだろう)。売買契約において、相互の信頼関係を全く前提としていない例が、ウェブショップであると考えてよかろう。だから、amazon.comをはじめとするネット取引は、すぐれて現代的な存在といってよい。

 つまり、契約における力関係(当然カスタマーのほうが強い)を利用して、その濫用をする人間、すなわちクレイマーが、典型的な出現の場であった売買契約を超えて、別の契約の場でも増殖しているのではないか、という認識である。

 デパートや食品会社など、クレーマーが頻発してきた領域では、それに対応する特別な部署、特別な人間が存在する。つまり、「クレーマーが存在する」ことが、取引コストに含まれている、ということである。しかるに、教育や医療といった領域では、お互いの信頼関係が前提とされていたために、サービスの質に対する常識的なクレームを超えた、パワハラとも言うべきクレーマーの存在が想定されてこなかった。

 筆者の年来の主張は、「医療において、想定されるリスクやミス(人間である以上、ミスは0%になるものではない)の処理コストを最初の契約のコストに含めるべきだ」というものであるが、これらのクレーマー処理コストも、当初の契約に含めるべきことを真剣に考えてもいいのではないだろうか。
 もちろん、教育費と医療費の増大は、国が望まないところだから、自衛手段として、不正請求その他で稼いだ(笑)費用をそこに充てるしかなかろう。もちろん、筆者は正規の方法で、つまり契約の処理コストがそこに埋込まれることを希望するが、それが期待できないのであれば、国民が学校や病院を一方的に責めるのはどうかとも思われる。

昨日の読了
 武田泰淳「新・東海道五十三次」中公文庫 A
 倉田百三「親鸞」中公文庫 B

 泰淳へのA評価はちょっと甘いかもしれない。ともかく、このような小説とも随筆とも付かぬ、鵺的な文章は、とてもうまい。また、本小説?も、一歩間違えれば太宰治的な、露悪的・自虐的な泰淳の性格(小説上のキャラかもしれないが、おそらく実生活でもそうだったのではないか?)がよく現れていて、興味深い。クルマを用いた東海道の紀行文である。

 「親鸞」については、また機会を改めて書こう。

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2007年09月12日

安倍辞任

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 NHKの報道をみていて思ったのだが、何とお粗末な報道だろう。

 「小沢との二者会談を申し込んだが、断られた」のが辞任の理由だという報道が一部にあるが、おそらくこれが真実だろう。

 なぜか。それは、テロ対策特措法の延長が、安倍政権の存続条件だったからだ。そして、その存続条件をつけたのは、もちろんアメリカのブッシュ政権いがいの何物でもありえない。そうでなければ、自民党大敗後になおも政権継続の意欲を見せたあとの突然の辞任は、説明不能だ。

 それを、安倍個人の健康問題に帰したり(もしそうなら大敗の時点で辞意を表明しただろう)、揚げ句の果てに香山リカまで持ち出して「燃えつき症候群」(内閣改造後数日で??)と診断させたりするNHKの、公器としての役割には多いに疑問を感ずる。もちろん、ほかに脱税疑惑などあったりしたわけだが、それを感づかれたからといって、この政局でいきなり辞任をするだろうか。他に辞任の合理的な説明が存在するとは思えないのだ。

 そして、例によって、「残念」とか「ちょっと無責任」とか答えるインタビュー(その中にはコラムニストなる人種も含まれていた)ばかりを流し、「ほんとうの」理由を報道しようとしないマスコミには、(おそらくこれもどこかからの圧力だろうが)戦後六十年以上を経て、ほんとうの「政治的独立」(つまり、日本人が、首相を選び支持する能力を持っていること)が達成できていないこと、そして達成すべきことを推進しようという気がまったくないということにならないか。

 首相続投の意向を示した後、日本の政治全体からみてそれほど重要とも思えないテロ対策特措法の延長に、その政治生命を賭けると表明したことから、ある意味こんにちの事態は予想がついたとも言えよう。

 筆者は安倍個人の首相としての資質には多いに疑問を感ずるものだが、このような外国からの不当な圧力(いや、当然の圧力?)に日本の政治が左右されることにはいきどおりを感じざるを得ない。何度も書いているように、いつになったら日本の政治的な自主性が復活するのだろうか?

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2007年11月05日

残念

 小沢民主党代表の辞任問題が取り沙汰されているが、おおかたの市民の反応は「ちょっと無責任」「民主党に期待していたのに」など、民主的に好意的な意見と、小沢氏への批判的な意見が目立っていたようにおもう(そういう回答だけを放送した可能性も考えておかねばならない)。

 ここで注目すべきことは、「小沢氏辞任」=「民主党は凋落する」と、ほとんどの回答者が(おそらく無意識に)考えていることである。これは筆者の意見では、特筆すべきことだ。

 首相の人気と党の人気は比例するか? 自民党に限って言えば「イエス」である。次回の衆院選では、福田選挙管理内閣のもとで選挙が行われていれば、自民大敗はない(今より議席が増えることは誰も想定していない)と囁かれている。小沢氏の焦りも福田氏の人気とおおいに関係があろう。

 では、民主党についていえばどうだろうか。少なくとも自民のような明確なかたちで党首と党の人気は比例しない。それは恰も公明党や共産党の党首人気と、彼らの党の支持率がまったく比例しないことと、自民党との中間のポジションにあるようである。

 それに、小沢氏自身はそれほどポピュラリティがあるわけではない。むしろ民主党支持者の中には、小沢氏のスタンスを嫌っている人間が相当数いると思われる。にもかかわらず、多くの有権者が小沢氏辞任は党勢の凋落に直結すると見なしている。

 その理由は、民主党が寄せ集め政党であることにある。それをともかく一つの党としてまとめられるのは、小沢氏いがいにはいないという(無意識の)認識があるのであろう。万が一、衆院で過半数を民主党が占めるようになったら、民主党が打ち出す政策は党の中で四分五列して、自滅することが小沢氏には見えていたのであろう。

 そこで、筆者の想像では、小沢氏が政治家としてやりたかったことだけは、今のタイミングを利用してやりたかったのではないだろうか。それは安全保障問題、つまり、国連決議による自衛隊の海外派遣である。国連決議を経ずして海外派遣可とする自民党とのスタンスは、決定的と言えるほど大きい。そして、そのスタンスは、福田氏のスタンスとさして隔たりがあるものではない。そこに小沢氏は賭けたのであろう。

 逆に、党首会談と大連立を画策した福田氏の側からみれば、その小沢氏の悲願(あるいは弱み)と、大連立が民主党内部に受け入れられることがないことは、見えていたのだと思われる。だから、ここで連立を申し入れれば小沢氏を失脚させることができる、そこまで見えていた「策士」が自民党内にいたのであろう、という見方すらできる。


 やはり、民主党への政権交代は、百年早いと言わざるをえないであろう。それにしても筆者には小沢氏の失脚は残念でならない。

2007年11月07日

小沢翻意

 これで民主党も小沢じしんも終わったと言えるだろう。

 政治家にとって重要なものはいろいろあるけれども、こんかいの辞任劇は民主党の支持に水を差すことになったことは確実であり、辞任が小沢の存在感を党内に誇示し、みずからの権力基盤を確実にする目的で行われた、とみるのがふつうだろう。

 もっとも、政治家として、自らの辞任と自民との政策協議を引き換えにした、とみることもできるけれども、政策の実現に成功したとしても国民の支持を失うのは得策ではないと思われる。

 もちろん小沢氏はそれをも十分に計算した上での辞意表明と撤回だったのだろうが、もう有権者には政治家として小沢氏は信用されなくなるのではないだろうか。それは、取り返しのつかぬ失態であるように、筆者にはおもわれる。

2008年01月02日

ほふり

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 新年の挨拶もさることながら、あまりにひどいなとおもったので、つい。

 だれだ、この組織にこんな名前をつけたのは!!!!!

 「ほふる(屠る)」を辞書(大辞林 第三版)で引いてみよう。

1) 鳥や獣の体を切りさく。
2) 試合などで,相手をうち負かす。
3) 攻め滅ぼす。皆殺しにする。

 まぢで日本語を知らんのか・・・

 もっとも、電子化されない証券は「屠られる」みたいだから、ぴったりの名称ではあるとも思われ。

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2008年02月20日

震洋

 イージス艦が漁船と衝突するという痛ましい事故が起きた。漁船の乗組員父子はまだ行方不明のようだ。生存の可能性はすくないだろうが、無事を祈りたいとおもう。

 この事故を知って、「イージス艦って、ひょっとして北○鮮の不審船の攻撃には弱いのでは・・・」とおもった方はすくなくないとおもうが、筆者が真っ先に思い浮かべたのは、日本が誇る、世界初のある海洋兵器のことである。

 その名は、震洋

 モーターボートに爆薬を積んで、そのまま体当たりするという兵器であった。当時はまだレーダーの発達が十分でなく、哨戒は人間の目視に頼るところがおおきかったから、多くは船舶に近づく前に機銃で撃沈されてしまったようだが、今のような電子機器全盛の時代においては、木製ボートの威力は相当なものであるにちがいない。


 ハイテクの時代においても、人間の五感による診察が不可欠の基本になる、という意味では、医療の世界と相通ずるともおもったのであった。

元女子医大医師注射疑惑

 仮眠室で寝ていた看護師に対して、乱暴する目的で、お尻に薬剤を注射しようとして逮捕されたというものだが。

 あまりに状況設定が不自然なので、それが真実かどうかはさておき、m3.comの掲示板では「医師が筋注で誰かを眠らせようとするなんて、そんな奴が国家試験に受かるなんておかしい」などという書き込みが散見される。

 筆者は、そんな書き込みをするレベルのひくい医者がいることが、また嘆かわしいのだが。


 精神科の患者、あるいは意識障害があって暴れる患者、または協力の得られない小児の患者、そういった患者に、鎮静あるいは麻酔を目的とする静脈注射をすることは、一般的には不可能である(当然だろう)。なので、多少暴れてポイントを外してしまっても、確実に投与可能な筋注というのは、合理的な投与方法なのだ。

 しかし、筋肉から投与すると、血中濃度の上昇が緩やかで、催眠という目的で使用するには適さない薬剤も存在する(ジアゼパムなど)。こういった薬剤を用いようとしたのなら、それはやはりヤブということになる。


 有名なところでは、2007年1月1日から麻薬として取り扱いがされるようになった、塩酸ケタミン(ケタラール)がそのような医学的な意図を持って使われる。

 本事件ではどういう薬剤を使ったのかは不明だが(全身麻酔導入剤であるチオペンタール、商品名ラボナールなどを使用した可能性もありうる)、そうなると病院の薬剤管理のずさんさについても問われるべき可能性のある事件かもしれない。

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2008年02月26日

吊り広告(1)

 えっと、まず、筆者の書評を楽しみにここを読んでおられる、という奇特なかたはいらっしゃるのだろうか?

 筆者の本についての記事が減っている理由はふたつ、ひとつはテクニカルな本は記載しないことにしていること(地図の読み方とか天気図のつけ方とか)、もうひとつは通勤で英語の本に時間を取られていることである。これは構造的にどうしようもない。新書判の本なら往復で一冊読める日本語の読書力はあるのだが(それでもさいきん落ちてきた)、英語の本は300頁のペーパーバックを読み終えるのに一ヶ月はかかるというペースだからである。

 先日、久しぶりに読みかけだったピエール・ブルデューの「ディスタンクシオン」を読んでいて考えた。本の評価は、(内容)/(読了に要する時間)でなされるべきではないかということ。つまり、平易な文章、表現で、充実した内容を持つ本が優れている本である、ということ。そういう点では、筆者の選択するものはちょっと読了に時間がかかるものが多すぎるような気がしている。歴史の本なんかは、いいんだけどね。


 さて、吊り広告は新聞を読まない筆者にとっては格好の時事ネタの入手源だ。「ラルフ・ネーダー出馬」とか「NYフィル平壌講演」(指揮がロリン・マゼールだというのはBBCで言っていた)とか「ヒラリー、オバマを呼び捨てで非難」とかというのはネットで読んでいる。

 SPA! という、くだらない(といっても、筆者はこの雑誌を貶めることにはならないと考える。くだらない雑誌にも一定の存在価値もあるし、読者も存在する)雑誌があの扶桑社(藁)から出ている。そしてこの雑誌の姉妹紙に、さらにくだらない(苦笑)H♂tSPA!(文字化けしたらゴメンナサイ)というのがある。その最新号の特集記事。

『女に「体だけが目当て」とバレないSEX術』

 というのがある。

 筆者の考えをあれこれ綴ってみる前に、みなさんはこの目次を見て、どんなことをお考えだろうか?

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2008年03月01日

吊り広告(2)&国家論

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 誰からも突っ込みがないのでちょっと寂しいと思いつつ。

『女に「体だけが目当て」とバレないSEX術』

 とあれば、見出しとしては結構目を引くだろう。しかし、冷静に考えてみよう。この記事が役に立つのは、どんな読者層であろうか?

『女に「体だけが目当て」とバレないナンパ術』

 もしこんなタイトルなら、対象読者は筆者を含めて(!?)大量になるにちがいない。だが、よく見て欲しい、『SEX術』なのだ。つまり、この記事の対象読者は、すくなくとも「体目当ての女」をベッドに引きずり込むテクニックは取得していることが前提になっている。

 そして、それだけの口説き術を身に付けている男性なら、「体目当てだと思われないベッドテクニック」は疾うに習得しているだろうという想像がつく。つまり、この記事の想定読者層は、

「口説きのテクニックはあるが、ベッドテクニックのない男性」

 ということになろう。そんな男性はすくないのではないだろうか? すくなくとも、持続力などの点で問題があれば、さまざまな伝統的な方法(金冷法とか、乾布摩擦するとか・・・)をまず試してみる余地があろう。

 ということで、一見眼を引くようなタイトルでありながら、内容は貧弱であろうことは想像がつく。筆者がさいしょに「くだらない雑誌」だと決めつけたゆえんである。


最近の購入
 吉田健一「東西文学論・日本の現代文学」「対談集成」講談社文芸文庫
 田部重治「わが山旅五十年」平凡社ライブラリー
 「一冊でわかる論理学」「一冊でわかるハーバーマス」「一冊でわかる古代エジプト」岩波書店
 冠松次郎「峰と渓」河出書房新社 「渓」中公文庫
 花崎皋平「静かな大地」岩波現代文庫
 フロイト「ヒトはなぜ戦争をするのか」光文社古典新訳文庫
 白木正規「百万人の天気教室」成山堂
 フィリップ・ショート「ポル・ポト」白水社

 最後の「ポル・ポト」、前からカンボジアについての史実は知りたいと思っていたところ、書店で新刊を発見したので衝動買いである。なんと翻訳者は山形浩生だった。白水社のような定評ある出版社から彼の翻訳も出るようになったのか。

昨日の読了
 佐藤優「国家論」NHKブックス C

 この「C」評価は、読んでつまらないという意味ではない。むしろ、一読して面白いと感じられる部分、ためになる部分はすくなくない(たとえば、スターリンの母語であるグルジア語の構造と、彼の思考法との関連とか)。にもかかわらず、この厳しい評価は、本書が「国家論」の体を成していないところに由来する。

 何がまずいのか。本書の骨格は序文に明確に示されており、それに沿って展開する・・・ように見える。しかし、本当にそうだろうか?
 筆者が国家に対して抱いている<<先入観>>は、「国家は合法的暴力装置であり、官僚は国家に寄生し、国家権力をいいように振るう存在である。国家の暴力に抗するには、宗教団体やNPOなどのコミュニティを活発にすることが必要だ」というものである。

 まず、この筋書きに対する合理的な理由付けはどこにもみられない。この枠組みに沿って、マルクス、宇野弘蔵、アーネスト・ゲルナー、柄谷公人、そしてカール・バルトのテクストが読み解かれる。著者の読みが正確であったとしても、たとえばゲルナーのナショナリズム論が、「国家論」とどう繋がるかも判然としない。その理由は、ひとつは国家=国民国家という位置づけが佐藤氏にとって自明であるからであり、またマルクスや宇野理論が持ち出される理由は、それらが国家論に応用可能なだけの視点を提供してくれるという理由もあるかもしれないが、国家の出現の理由、あるいは国家の活動として、経済活動に干渉することが(理由を明示されずに)前提されているからにほかならない。

 ということで、筆者には、本書は「国家論」を名乗るべき資格はなく、「国家随想」というレベルに留まっているように思われた。ただ、一読して損はしないだろう。カール・バルトの神学の部分は、正直筆者はうんざりさせられた。バルトの神学がどのようなものであり、彼の国家観がどのようなものであろうとも、はっきり言って筆者にはどうでもいいことだし、それならそもそも近代国家を考える上でキリスト教がなぜ外せないかをきちんと述べるべきだろう。それに、バルトの神学が宗教批判という全否定から積み上げられたものだとしても、筆者には、彼が選択したキリスト教という宗教への肯定が、みずからの立場を自明とする楽天的なものであるという印象をぬぐい去ることができない。

 本の面白さは論述の正確さ、論理の積み上げ方とはかならずしも比例しない。本書は、国家論としては落第であるが、それにも拘らず読了後にそれほど損をした気がしないという、そのような実例のひとつであると言えよう。

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2008年04月27日

ネグリ入国拒否

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/c249404cab2f85fb58ee2783ee4ff70d

 ふだんから新聞を読まないのでわからなかったのだが。

 筆者には、日本政府がそれほどネグリを大物だと捉えていることが驚きであった。

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五輪走者

 善光寺は五輪協力を拒否したのに、報道されているかぎり、日本の五輪ランナーでひとりも辞退者がいなかったのは、なぜ? ○太子妃と同じように脅迫されたか!?

2008年06月12日

居酒屋

 エミール・ゾラの小説のことではない。

 昨日、赤坂SACASの「マキシム・ド・パリ」で食事をしたあと、近くのドイツ居酒屋に入り直したときの話。

 隣のテーブルの会社員らしきグループが、秋葉原大量殺人についていろいろと話をしていた。「まちがいなく死刑」だということで結論は一致していたようだが、とんでもない、ああいう殺人ができるのは精神鑑定の結果をみるまでもなく、統合失調症またはそれに類する病気であろう。彼が入るのは刑務所ではなく病院であろう。しかし、だからといって「統合失調症は危険」なわけではない。統計的には、一般人よりも殺人を犯す率はすくないと言われている。彼らの中で暮らす方が、ふつうの日常生活を送るよりも殺される確率は低いのである。

 で、さらに話は「死刑」に進んでゆくわけだが、筆者は前にも書いたかもしれないが、亀井静香と同じく死刑廃止に賛成である。その理由は、死刑が野蛮な制度であると思うからでもないし、死刑廃止論者が大きな理由として挙げる「死刑には重大犯罪への抑止効果はない」からでもない。端的に、司法が信頼できないとおもうからである。

 麻原オウム事件にしても、われわれは間接的に報道を通じて知っているに過ぎない。そしてその報道の内容が偏向していないという保証もない。にもかかわらず、多くの日本人はテレビや新聞で報道されているニュースの内容は正確であることが保証されていると漫然と考えており、その報道に基づいて事件の真実を認定することを不思議には思わないようである。ボードリヤールの「湾岸戦争はなかった」ではないが、伝聞に基づく事実認定は極めて危険であり、その危険は裁判員制度で解消できる性質のものではない。逆に、裁判員制度の導入は、偏った報道による誤判の危険性を増すばかりであろう。

 おそらく、誤判はまちがいなく一定の確率で起こり、冤罪をかぶせられた人間あるいは国家が冤罪をかぶせたい人間が死刑に処されることが生じているはずである。無期懲役でその誤判の罪は消えないが、生命を奪うことは決して許されない。「遺族の感情」に留意するという名目で、その割合すら不明確な冤罪者の生命を奪う危険が穴埋めできるはずはない。「無期懲役では遺族は納得できないでしょう」というような、感情的な議論で、行為責任を問えない人間を有罪にしたり、死刑制度を存続させておくということは、到底筆者には容認できない。さまざまな問題について、感情的でない議論ができるよう、しっかり教育をしていただきたいものである。


先日の購入
 ギュンター・グラス「玉ネギの皮をむきながら」集英社

 自伝だそうです。

先日の読了
 子安宣邦「近代の超克とは何か」青土社 B

 竹内好に関心のある筆者としては、彼が取り組んだこの「近代の超克」という思想についての研究書には同じく関心を持っているし、靖国問題などへの子安氏の説得力ある論説には共感するところもあり、買ってみた。扱われている内容は主に京都学派、日本浪漫派、そして竹内好の思想が中心である。

 この「近代の超克」という古びたテーマを再考しなければならない理由は、この現代が帝国主義の時代の延長である、という認識に因っている。つまりその認識に同意ができなければ、そもそもそのような、竹内が抱いたような問題意識は共有しえまい。そして、竹内が考えたような「方法としてのアジア」という発想も共感しえまい。

 最終的に著者は、イヴァン・イリイチの「平和の輸出とは戦争の輸出である」という、パックス・ロマーナの延長線上にあり、しかもイラク戦に象徴されるようなテーゼから、方法としてのアジア、つまり西洋が東洋(というより、資本主義における周辺国)の軍事的・経済的な征服によって得た自己認識である「西洋」を超克する手段のヒントとして、最終的には日本国憲法の「不戦思想」がその出発点として据えられるべきだ、というかなりの論理の飛躍を敢えてしている。ただ、これはミシェル・フーコー説くところの「言説」説によって再解釈しなおせば、先日観たヒロシマを訪れたアメリカ人学生らが「核廃絶は可能か」という議論を帰国後行ったドキュメントの中の風景を参照することで理解可能である。そこでは、「アメリカから核をなくせば、どこかの国から攻撃されるかもしれない」という意見が出ていたのだ。

 これが非現実的な意見であることは誰でもわかる。核を放棄したところで圧倒的な通常兵器による軍事力を誇る(各種新型爆弾は核兵器の威力を上回るものもある)アメリカが他国に侵略されることはありえない。もちろん核戦争になっても通常兵器で十分報復は可能であるように思われる。その可能性についての客観的な事実よりも、「攻撃されるかもしれない」という根拠なき恐れが核兵器の廃絶に関して障害になっている可能性はある。

 また、「核兵器を持っている国が大国である」という象徴的な保有の効果についても考える必要がある。どちらかというと、こんにちの核兵器は、インド・パキスタン間などの緊迫した関係を除いて、象徴的価値をもつものと捉えてよいように思われる。そしてこのような象徴的な価値は、「核兵器を持つことは野蛮国家の象徴だ」というパラダイム変換が起きれば、なくせる可能性がある。おそらく、日本国憲法は、不戦というパラダイム変換のためのひとつの言説として存在価値がある。そういう主張なのであろう。

2008年06月22日

GreenPeace

 筆者はもともとこの「環境テロリスト」どもが好きではない。特に例の「捕鯨反対」は明確な論理的根拠を有さず、欧米人の(彼らも以前は捕鯨をしていたはずなのだが・・・)「捕鯨は野蛮」だという文化的偏見に基づいているから、余計なのだが(別に筆者は「捕鯨は日本の文化だ」と強弁するつもりもないし、捕鯨を残さなければならない合理的理由もないようにもおもうが)、こんかいの逮捕劇は公平にみて国に軍配が上がるのではないか。

 セイノー運輸の倉庫から鯨肉を持ちだしたことが「返すつもりだった」とか「盗むつもりではなかったから窃盗ではない」とか、目的が正当ならば非合法的な手段も許されるという彼らの論理は、自力救済を認めない近代刑法と真っ向から対立するものである。ならば、捕鯨という大義のために、人が何人死のうが「目的が正当だから許される」というナチ張りの論理が登場するのは目に見えている(じっさい彼らの活動で怪我人は出ていたはず)。こういう団体に多額の寄付が寄せられているというのは、いったい何なのであろう。

 まあ、今回の事件は、まぎれもなく権力によるNPOの弾圧だけれどもね。GPはある意味オウムと同じで弾圧されても仕方ないのかもしれない。正直、やつらの論理には恐れ入った。

2008年06月25日

本来ご法度なのですが

 こういう記事は、やはり広く世の中に知られた方がいいと思うので、独断で転載します。

 これが昨今の日本人の実態です。「中高年」とあるところに注目(つまり「今どきの若い者」が悪いわけではない)。

 この国は滅びた方がいいよ。


「航空機内で心肺停止した男性に蘇生(そせい)措置をして助けた女性が、やじ馬状態のほかの乗客に写真を撮影され、強い恐怖心などから心的外傷後ストレス障害(PTSD)になった。心肺蘇生法が普及し一般の人が救命活動にかかわる機会は増えたが、助けられなかった場合にも精神的な傷を負う恐れがある。厚生労働省は救命への意識が高まる中、これらのケースに対する心のケアなどの支援が急務と、対策の検討を始めた。

 ▽過呼吸症状

 女性を診察した国保旭中央病院(千葉県)神経精神科の大塚祐司(おおつか・ゆうじ)医師によると、女性は会社員だが救急法の指導員資格を持っており、約2年前、機内の通路で倒れた50代の男性に、独りで人工呼吸や心臓マッサージをした。約1時間後、男性は呼吸が戻り、規則的な心拍も回復して命を取り留めた。

 この間、多くの中高年の日本人男性乗客らが「テレビと同じ」「やめたら死ぬんでしょ」などと言いながら携帯電話やビデオで撮影。客室乗務員は手伝わず、心臓に電気ショックを与える自動体外式除細動器(AED)を頼んだが、持ってこなかったという。

 女性は日本人に不信感を抱き、特に中年男性が集まる場所で過呼吸症状が出るようになった。カメラのシャッター音が怖く携帯電話のカメラも使えず、当時のことが繰り返し思い出され、物事にも集中できなくなった。

 大塚医師は、女性が急性ストレス障害を経てPTSDが約半年続いていたと診断した。女性は、今もカメラを使ったり撮影されたりするのが嫌で「やじ馬の罵声(ばせい)と圧力の怖さは忘れないと思う」と話しているという。

 大塚医師は「救命活動をした後に、つらいと感じたら専門医を受診してほしい」と呼び掛ける。」

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2008年07月08日

傷害罪&「イラク戦争のアメリカ」

 筆者が前回でモラルの失墜を嘆くのは、倫理的な観点からではない。職業人としての立場から警鐘を鳴らしたいがためである。

 さいきん、タクシーにおいて後部座席の客に対してシートベルト着用が義務づけられた。これに対して「どうして?」とおもうのは、筆者だけだろうか。はっきり言って事故によって被害を受けるのは、当の客だけであり、ひょっとしたら運転手にも被害が及ぶ可能性もありうるが、基本的にはそれだけである。つまり、後部座席のシートベルトは「自己責任」いがいの要素は少なく、これを法的に強制する根拠にはいささか乏しいとおもわざるをえない(誤解があったら筆者に教えてください)。

 このような客に対して規制をするのなら、もっと規制対象にする人間たちがいるはずである、と筆者はおもう。それは、現実に<<傷害罪>>を冒し続けているやからである。それは、公共機関でたばこをふかし続ける喫煙者たちか? たしかに、彼らも<<傷害罪>>を犯している可能性はたかいが、それを実証するのはなかなか大変であり、また被害は累積的なもので、ひとりひとりの寄与は小さいと判断せざるを得ない。では、いったい誰であろう。それは、

「風邪を引いたのに公共交通機関の中でマスクをしない人間たち」

である。

 自分が性病に罹っていることを知りつつ、それを隠して異性と性交渉を繰り返す人間は、障害未遂罪であり、実際に感染が成立すれば傷害罪となる(判例あり、だったとおもう)。満員の車内でくしゃみや咳をし続ける不届き者たちは当然傷害罪に相当する。後部座席の客に罰金を科すよりも、これらの輩を取り締まることのほうが急務である。

 なぜか。それは、日本人の健康意識に大いなる欠陥があるからである。

 たとえば、「メタボ」。これは、あくまで「個人の健康維持に寄与する」目的で啓蒙されている。だから、メタボの人間がそれを放置したとて、困るのは当人自身である。そして、このように、「自力での健康増進、あるいは健康維持」という発想しか、ほとんどすべての日本人は抱いていない。自力救済の思想であり、これを公衆衛生学では「個人防衛」と呼ぶ。

 しかし、個人防衛ではまったく不十分な病気がある。それが、伝染病である。伝染病を予防するポイントは、まず「ある集団の中での有病率=他人に感染させる可能性のある患者数を減らす」ことである。患者が少なければ、そこから大流行する可能性は低くなる。そしてその少数の患者を健常人と接触させないようにすればよい。しかし、とても伝染性の強い病気の場合には、この戦略ではむずかしい。その場合には、「ある集団の伝染病に対する抵抗力を上げる」ことが必要となる。これは具体的にはワクチンを打つことだ。それによって、母集団の罹患率を減らし、その結果有病率を減らすことができる。この考えがワクチン接種の発想であり、ワクチン接種は個人防衛のためというよりは、集団防衛のためなのである。そういう意味で、「自分の子供には注射を受けさせたくない」という保護者の考えは、ワクチン接種の根本的な誤解に基づくということが言える。

 さて話を戻すが、マスクという衛生材料は、「自分の感染を予防する」という個人防衛に用いるものではなく、「自分が感染した場合、他人にうつさない」ための、集団防衛用のものなのである。さいきんは各種フィルターのついた、前者の役割も果たすものも出てきているが、あくまで基本は後者である。これをかけることでくしゃみによる飛沫の飛散を押さえることができ、感染の広がりをある程度防止できる。都市部でこれを徹底してもらえば、インフルエンザの流行に多少は歯止めがかかるはずである。

 最近、三菱総研と千葉大の共同研究で、「新型インフルエンザの流行の拡大防止には、通勤電車の運行の中止、学級閉鎖、ワクチン接種がある程度有効である」という結果が発表された。これはインフルエンザの伝搬様式(飛沫感染)を考えれば、合理的な対処ということが言える。それ以前に、まずは後部座席のタクシー客を取り締まる暇があるなら、駅で紙マスクを無料配布し(それくらいの費用は税金から出費すべきだ)それをかけない感冒罹患者を取り締まる、といった対策を早急に講じて欲しい。ウイルスを確信的にばらまく彼らはまちがいなく犯罪者なのだから。今厚労省は「咳エチケット」という標語を作ってマスク装用を広めようとしているが、それではまったく不十分である。小中学校での十分な教育と無料マスク配布、そして法的な非着用者の取り締まりが必要であろう。

最近の読了
 ジョージ・パッカー「イラク戦争のアメリカ」みすず書房 B
 岩井克人「二十一世紀の資本主義論」ちくま学芸文庫 C

 まず、前者のBは、Cに近いBである。本書は、イラク戦争に対して多大な期待をかけていたジャーナリストが、イラク戦争の終結後時間が経つにつれて、アメリカの占領政策の稚拙さと、拡大してゆく部族(宗教)間構想を目の当たりにして、「イラク戦争はまちがいだった」と結論してゆく、というストーリーである。
 本書の何がいけないのか。それは、そもそも、「アメリカだけが他の主権国家に戦争を仕掛けてよい。なぜなら、アメリカが信奉する民主主義は、最善で普遍的な理念であるから」という傲慢さに対して、著者が全く疑念を抱いていないことである。そしてその疑念のなさは、イラク戦争の失敗を悟ったあとでも続いているように、筆者には読める。
 「人道的介入」については、前にも書いた通り、岩波新書に収められている最上俊樹氏の論考が決定版とも言える内容であり、彼はそこで「人道的介入」が許容される基準をかなり厳しく定めている。イラク戦争の開始に当たって、そのような考察がなされていなかったことは本書によらずとも明らかであり、そういう意味ではイラク戦のルポとして一読の価値はあるが、イラク戦の本質を考える上では無用の長物とも言える。ので、あまり筆者は勧めたくはない。

 岩井氏の本、あとがきで氏じしんが述べている通り、「繰り返し同じことを語っている」本である。なので、最初の一篇だけ読めば十分であり、通読する価値はないように筆者には思われる。ようは、「ヴェニスの商人の資本論」で岩井氏は終了してしまったのであろう。

2008年07月18日

石油価格高騰は阻止できるか

 昨今、食料品価格の上昇の背景にもこの石油不足があると言われる。石油は現代社会を動かしている油であるからだが、食料品にせよ石油にせよ、投機筋による余ったカネの投入がその原因と言われている。そして、そのような投機は、岩井克人によれば資本主義の根本をなす行為であり、かつ「本当によいと思ったから投資する」のではなく、「みんなもよいと思うであろうから投資する」というケインズの「美人投票」が投機(つまり岩井によれば投資と投機は同じものだ)の本質である以上は、経済活動は古典派的均衡に達することはなく、不均衡、つまり景気が収縮と膨張を繰り返したり、恐慌が生ずることは資本主義につきものであり、それを安定化することは不可能だ(放任主義的な経済体制においては)、というように主張されている。

 しかしこの岩井のペシミズムは、歴史的にも証明されているように思われる。たとえば、古代中国。富国強兵の時代といえば春秋・戦国時代であるが、この時代にすでに農を軽んじ商に走るという経済活動が、為政者によって敵視されていた。通商こそが経済のダイナミズムである、という観点から、日本中世史を一新したのが網野善彦であったとすれば、網野史学と商業を強圧した為政者、たとえば最終的に中国を統一した秦の歴代の宰相らの姿勢は、180度異なるものであった。しかし、ここで注意しなければならないのは、秦を中国統一に押し上げた立役者である呂不韋は、商人であった、という事実である。重農政策は成功しなかったのである。

 モノを作る(あるいは掘り出す)行為を行う第一次産業・二次産業よりも、貿易あるいは金融というモノの生産に直接関与しない産業のほうが収益がよい(そしてその結果従業員の給与も高く、東大生のあいだでゴールドマン・サックスが一番人気の就職先という結果を生む)という、国家機能および社会生活の維持にとっては大きな危機ともなりうる状態は、すでに二千年前から認識されていて、それを是正しようという政治的な試みはすべて徒労に終わっているのだった。となれば、現代の発達した政治経済学の知識を持ってしても、それは容易ではない、あるいは不可能である、という結論が出ない方が常識的にはおかしい。感覚的には、モノを作る人間よりもモノを転がす人間のほうが得をする(原油価格の高騰で本当に得をしているのは、産油国だろうか?)という事態はおかしいと感じられるのだが、資本主義という制度を採用する限り、理系出身者が文系出身者よりも損をする、という現状は変わることはなく、生産者が報われることも永遠に来ないとすれば、いつまでもこの資本主義という制度は続くのだろうか、と疑問を持たざるを得ない。

最近の読了
 Jack Kerouac "Oh The Road" C
 エドワード・サイード「文化と抵抗」ちくま学芸文庫 B

 ケルアックの代表作で例の"TIME"の「二十世紀の百冊」に選ばれている本書、今となっては"Beat Generation"とは何か、ということを知る以外の意味があるとは思えない。

 サイードの最後のインタビュー集、もちろん、パレスチナ問題に関する彼の飽くことのない意欲が伝わってきて、感動を誘う。サイードは、領土分割案は支持しない。あくまで一国家二民族(正確には、「二」という数字ではあり得ないが)、つまり同じイスラエル国家にイスラエル人とパレスチナ人が共存共栄してゆくという道を探っている。
 しかし、そのプロセスは民主主義によって実現可能なのだろうか? 民主主義の建前からすれば、たとえ「シオニズム」という思想を保持するイスラエル人たちも尊重されなければならない。ましてやシオニストが多数のこの国がシオニストによって運営されてゆくのは、民主主義という政体からすれば正義である。その中でパレスチナとの共存という理想は民主的なプロセスで実現可能なのだろうか? 筆者には、それも民主主義の限界のひとつのように思われる。パレスチナ人とイスラエル人の共存のためには、シオニズムを禁ずるほかはないように思われるからである。

2008年08月04日

ソルジェニーツィン逝去

 慎んでご冥福をお祈りいたします。筆者にとって、未だに世界最高の小説家でありつづけています。

 代表作「収容所群島」はfukkan.comから復刊されたが、未だにノーベル賞受賞作「ガン病棟」、そして小説家としての最高傑作「煉獄の中で」(これもタイトルも含めて名訳!)も絶版のままである。追悼復刊してほしいものである。

2008年10月29日

バラック・オバマは黒人か?

 アメリカ民主党の大統領候補、オバマ氏の演説のビデオを見た後、ウガンダの映像が映し出された。黒光りするウガンダ人を見た後にオバマ氏を見ると、彼が黒人であるという説には疑問を感じざるを得ない。

 何でも、アメリカでは一滴でも黒人の血が混じると黒人と呼ばれるらしい。それなら、すべての人類は同一のアフリカ原人から生じたということになっているから、日本人を含むすべての人類は「黒人」であるはずなのだが。それとも、突然変異種(おそらくメラニンの量が極小である白人は動物におけるアルビノのようなもののはずである)であることが重要なのだろうか。

 おもうに、そんなに皮膚の色が重要なら、16階調グレースケールでも用いて、「黒人度10」とか定義したらよかろう。いわゆるdark blackが10なら、日本人は3-7くらいに分布するだろうか。そして、「黒人度」に合わせて社会的な権利や差別を定めるのが公平というものであろう。ただし、高額納税者はその税金の額に合わせて黒人度を引き下げ、貢献の大きなものは「名誉白人」として扱われるべきである。

 その点、「大久保利通公の玄孫である」のような家柄は見た目でわからないのは問題だ。せめて、「さすがに大久保公の末裔らしく、気品がおありになる」みたいに、外見で他人が家柄を判断できるよう、やんごとなき家系のかたがたはせいぜい自己研鑽につとめていただきたい。

先日の購入

 トリン・T・ミンハ「月が赤く満ちる時」みすず書房

 絶版なのでアマゾンで古書を買った。

2008年11月30日

沢田研二

 還暦コンサートをやったらしいが、それにしてもこれって・・・・・

2008年12月10日

マルクスの予言

 漫談のような話を続けてみよう。

 昨今の各政党による経済談義(政策、というより、これこそ漫談、というのが適切か)をみていると、ほぼ各政党とも「政府による強力な経済対策」が必要だ、という点では一致しているようだ。いつの間に日本の全政党はケインジアンになってしまったのだろうか。

 また、不況の原因は、すくなくとも現況では、実質経済が縮小の方向へ向かっているというより、金融不安という要素が強いように思われる。そして誤解してはならないのは、足りないのはカネの総和そのものではなく、「信用」であるということ。つまりカネ周りをよくするためには、紙幣を増刷するのではなく、強力な信用を付与する必要があるということだ。経済活動を行う諸団体相互の信用が崩壊しているからこそカネが回らないという構図ができているのであろう。いわゆる「貸し渋り」である。

 短絡的な筆者は政府日銀そのものが強力な「貸し手」になればいいとか思ってしまうのだが、これは税金をそのまま中小企業に投入する、つまり国民の税金を回収できないかもしれないことを承知で突っ込むということだから、資本主義経済に国家が介入しない、というひとつの原則を完全に破ってしまうことになるし、ハイリスクの投資となるわけだから議会の賛成は得られまい。暴論である。石原の「新銀行東京」の設立の発想がこれに近い。

 となると、次の手段は銀行に積極的な貸し出しをさせるために、デフォルトに陥った銀行に国家が介入し、国有化してしまうことである。実際これは周知のように日本でも実際に行われたが、結局はすべて民間に売却している。しかし、これを国家が持ち続けていたら、どうなるか。

 経営の効率化はなされないかもしれないが、国有銀行からの貸付金で企業が運営されているのであれば、株を保有していなくともその企業の実質的なオーナーは国となるであろう。これは、「国家による生産手段の保有」となる。共産主義の実現のための前提の第一歩である。

 マルクスは、資本主義が爛熟していることが共産主義への移行に必要と論じた。そして岩井克人によれば、恐慌やバブルは資本主義の鬼子ではなくて、まさに資本主義の本質的な部分であるから、金融不安や恐慌によって生産手段の国有化が進むのであれば、それはまさにマルクスの予言が当を得ているということになりかねない。つまり、共産主義への移行はマルクスが論じたように「革命」は必要とされず、ただただ資本主義の末期を傍観していればよい、のかもしれない。

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2008年12月22日

王子が持て囃される今という時代

 ストレートに書いてしまえば、筆者は「ナントカ王子」こと、早稲田の某投手や高校生の某ゴルファーがマスコミにしばしば登場し、多数のファンがいるということに、げんなりする。彼らに対してもちろん肯定的な感情は持てないのだが、それ以上に彼らのような存在に喝采する時代に対してげんなりしてしまう。

 考えてみれば、それは大学時代に、筆者の同級生たちの中に、父親と同じ職業を選ぶのみならず、あまつさえ父親と同じ専攻を選び、しまいには父親が教授をやっていた同じ教室に入局してしまう、というひとびとを見たときの吐気と同じようなものかもしれない、と思い当たった。彼らには、父親に対する反発がまったくないようにみえたのである。

 どういうことか。筆者には今でもそういうところがあるが、特に学生のうちは、自分の嗜好が世間で「よし」とされていることに一致することが、気恥ずかしくまた何となくフェアでないような気がしたものである。たとえば、中学三年生の時に、シューベルトの「冬の旅」、ブラームスの「交響曲第四番」、そしてマーラーの「大地の歌」を取りあげて、『諦念』という感情が好きなのだ、みたいな作文を書いたことがあるが、当時の通念として(今でもそうかもしれないが)「子供が聴く音楽としては、情操教育上、ロックや歌謡曲よりは、クラシック音楽が好ましい」という風潮があった。筆者としては、好きだった将棋指しがそのエッセイで「八ヶ岳の美しさはまるでブラームスの交響曲を聴いているような感じ」などと書いていたのがきっかけであり、別にそういう「上からの押し付け」で選択したのではないにもかかわらず、である。

 そういう「親や社会がよしとするものへの反発」が子供の特権であるし、また既成概念への懐疑というかたちで、学問や他のソーシャル・アクティビティのうえでも役にたってきたのではないだろうか。そのような意味で、筆者は「老成した子供」を見ると胸がむかつく。「親や社会が絶賛するしつけのよさ」を体現している子供に対して、世間は何のうさんくささも感じないのだろうか?プロゴルファー某氏の発言、あるいはそのエピソードを聞くにつけ、それが「社会でよしとされるもの」にあまりに合致していることに違和感を感じざるを得ない。たとえが悪すぎるが、そういう点ではまだ亀田兄弟のほうが人として自然に感じられるのだ。

 「アコースティックやフォークを聴く子供」にも同じようないやらしさ、というか、生命力の乏しさを感じてしまって、嫌である。これは好みの問題と言ってしまえばそれまでだが、筆者にはいつまでも不良でいたい、という願望のようなものがあって、それが筆者をロックや黒人音楽 --- レゲエとかブルースとか --- に走らせている原動力なのかもしれない。でも、もちろん、そういう「外的なかっこよさ」にとどまらない魅力をそれらは持っていて、ひとを惹きつけて放さないのである。