筆者が前回でモラルの失墜を嘆くのは、倫理的な観点からではない。職業人としての立場から警鐘を鳴らしたいがためである。
さいきん、タクシーにおいて後部座席の客に対してシートベルト着用が義務づけられた。これに対して「どうして?」とおもうのは、筆者だけだろうか。はっきり言って事故によって被害を受けるのは、当の客だけであり、ひょっとしたら運転手にも被害が及ぶ可能性もありうるが、基本的にはそれだけである。つまり、後部座席のシートベルトは「自己責任」いがいの要素は少なく、これを法的に強制する根拠にはいささか乏しいとおもわざるをえない(誤解があったら筆者に教えてください)。
このような客に対して規制をするのなら、もっと規制対象にする人間たちがいるはずである、と筆者はおもう。それは、現実に<<傷害罪>>を冒し続けているやからである。それは、公共機関でたばこをふかし続ける喫煙者たちか? たしかに、彼らも<<傷害罪>>を犯している可能性はたかいが、それを実証するのはなかなか大変であり、また被害は累積的なもので、ひとりひとりの寄与は小さいと判断せざるを得ない。では、いったい誰であろう。それは、
「風邪を引いたのに公共交通機関の中でマスクをしない人間たち」
である。
自分が性病に罹っていることを知りつつ、それを隠して異性と性交渉を繰り返す人間は、障害未遂罪であり、実際に感染が成立すれば傷害罪となる(判例あり、だったとおもう)。満員の車内でくしゃみや咳をし続ける不届き者たちは当然傷害罪に相当する。後部座席の客に罰金を科すよりも、これらの輩を取り締まることのほうが急務である。
なぜか。それは、日本人の健康意識に大いなる欠陥があるからである。
たとえば、「メタボ」。これは、あくまで「個人の健康維持に寄与する」目的で啓蒙されている。だから、メタボの人間がそれを放置したとて、困るのは当人自身である。そして、このように、「自力での健康増進、あるいは健康維持」という発想しか、ほとんどすべての日本人は抱いていない。自力救済の思想であり、これを公衆衛生学では「個人防衛」と呼ぶ。
しかし、個人防衛ではまったく不十分な病気がある。それが、伝染病である。伝染病を予防するポイントは、まず「ある集団の中での有病率=他人に感染させる可能性のある患者数を減らす」ことである。患者が少なければ、そこから大流行する可能性は低くなる。そしてその少数の患者を健常人と接触させないようにすればよい。しかし、とても伝染性の強い病気の場合には、この戦略ではむずかしい。その場合には、「ある集団の伝染病に対する抵抗力を上げる」ことが必要となる。これは具体的にはワクチンを打つことだ。それによって、母集団の罹患率を減らし、その結果有病率を減らすことができる。この考えがワクチン接種の発想であり、ワクチン接種は個人防衛のためというよりは、集団防衛のためなのである。そういう意味で、「自分の子供には注射を受けさせたくない」という保護者の考えは、ワクチン接種の根本的な誤解に基づくということが言える。
さて話を戻すが、マスクという衛生材料は、「自分の感染を予防する」という個人防衛に用いるものではなく、「自分が感染した場合、他人にうつさない」ための、集団防衛用のものなのである。さいきんは各種フィルターのついた、前者の役割も果たすものも出てきているが、あくまで基本は後者である。これをかけることでくしゃみによる飛沫の飛散を押さえることができ、感染の広がりをある程度防止できる。都市部でこれを徹底してもらえば、インフルエンザの流行に多少は歯止めがかかるはずである。
最近、三菱総研と千葉大の共同研究で、「新型インフルエンザの流行の拡大防止には、通勤電車の運行の中止、学級閉鎖、ワクチン接種がある程度有効である」という結果が発表された。これはインフルエンザの伝搬様式(飛沫感染)を考えれば、合理的な対処ということが言える。それ以前に、まずは後部座席のタクシー客を取り締まる暇があるなら、駅で紙マスクを無料配布し(それくらいの費用は税金から出費すべきだ)それをかけない感冒罹患者を取り締まる、といった対策を早急に講じて欲しい。ウイルスを確信的にばらまく彼らはまちがいなく犯罪者なのだから。今厚労省は「咳エチケット」という標語を作ってマスク装用を広めようとしているが、それではまったく不十分である。小中学校での十分な教育と無料マスク配布、そして法的な非着用者の取り締まりが必要であろう。
最近の読了
ジョージ・パッカー「イラク戦争のアメリカ」みすず書房 B
岩井克人「二十一世紀の資本主義論」ちくま学芸文庫 C
まず、前者のBは、Cに近いBである。本書は、イラク戦争に対して多大な期待をかけていたジャーナリストが、イラク戦争の終結後時間が経つにつれて、アメリカの占領政策の稚拙さと、拡大してゆく部族(宗教)間構想を目の当たりにして、「イラク戦争はまちがいだった」と結論してゆく、というストーリーである。
本書の何がいけないのか。それは、そもそも、「アメリカだけが他の主権国家に戦争を仕掛けてよい。なぜなら、アメリカが信奉する民主主義は、最善で普遍的な理念であるから」という傲慢さに対して、著者が全く疑念を抱いていないことである。そしてその疑念のなさは、イラク戦争の失敗を悟ったあとでも続いているように、筆者には読める。
「人道的介入」については、前にも書いた通り、岩波新書に収められている最上俊樹氏の論考が決定版とも言える内容であり、彼はそこで「人道的介入」が許容される基準をかなり厳しく定めている。イラク戦争の開始に当たって、そのような考察がなされていなかったことは本書によらずとも明らかであり、そういう意味ではイラク戦のルポとして一読の価値はあるが、イラク戦の本質を考える上では無用の長物とも言える。ので、あまり筆者は勧めたくはない。
岩井氏の本、あとがきで氏じしんが述べている通り、「繰り返し同じことを語っている」本である。なので、最初の一篇だけ読めば十分であり、通読する価値はないように筆者には思われる。ようは、「ヴェニスの商人の資本論」で岩井氏は終了してしまったのであろう。