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音楽 アーカイブ

2005年12月27日

グルダ

 じつは、本屋に行ってかなり大量の購入(と発注)をしてきた際に、頂き物のQUO cardを使って音楽CDを買うことを思いついた。QUOcardはHMVで使用できるのである。
 別のところでも書いた通り、近年のCDリマスタリングの技術は目覚ましいので、'00以前にリマスターされたものなど買う気がしない。せいぜい20bit以上のオーバービットリマスタリングとか、できればルビジウム・クロックなどをつかってカッティングしてあるほうがいい。さいきんではCDプレイヤーの方にも精度のたかい水晶発振子がもちいられているようだ。
 そこで、ソニーがリマスターしたグールドのバッハ(じつはこんな基本コレクションを持っていないのである)を探していたときに、「音質改善盤入荷」と書いてある、12枚組のCDをみつけた。それがこんかいのテーマのグルダ/ベートーヴェンピアノ曲集(全ソナタと全協奏曲)だ。ソナタは'68のアマディオ、協奏曲は'71と'73の英デッカの録音である。お値段はしめて4900円。随分安いものだ。
 まず、ソナタをかけてみる。たしかこの録音はあまりよくないものとして知られていたと思うが、ほとんどノイズが聴こえない。ピアノじたいもよく撮れているようにおもう。録音じたいとしては優に及第点を与えてよいものと思った。さて、かんじんの演奏のほうだが、意外によい。意外にと書いたのはこのひとのモーツァルトはあまり感心しないできだったからである。バックハウスと同じベーゼンドルファーをつかっている。ウィーン出身ということではブレンデルと共通するが、知性派のブレンデルとちがってスタイルはむしろバックハウスにちかい。壮年期の録音だけにテクニックはよいが、さすがにピアノの音質のうつくしさはバックハウスに軍配があがるだろう。ギレリスのような変なくせやポリーニのような非人間性もなく、高水準の演奏だとおもわれる。バックハウスとどちらを採るかむずかしいところであり、この値段を考えれば文句なくお勧めできる。
 また、コンチェルトのほうがさらによい。この時代の英デッカの録音には何の不満もない(バックハウス/ベームの'68のブラームス録音と同じと考えてよい)。指揮はホルスト・シュタインだが、例によって指揮者不在のウィーン・フィルとみなせば何の不満もない。これもバックハウスと並ぶ出来だと思われる。ただ、ソナタにせよコンチェルトにせよ、バックハウスとけっこう同質のものだけに、とくべつなファンというわけでなければどちらかを持っていればよいと思われる。どちらかというなら値段の点からグルダに軍配があがるか。

2005年12月31日

玄人判断はただしいのか?

 むかしは、表題の問いに肯定的にかんがえていた(ついさいきんまで)。これは、例えば、古典的な音楽のジャンル(クラシックとかジャズとか)では、経験年数がながいと同じような作品を「いい」と高く評価するようになってくる事実を、「耳が肥えてくるとよしあしに客観性が出てくる」とかんがえていたことによる。
 しかし、今はそれをちょっと違ったふうにかんがえている。上述したようなことは事実としてあるとおもうけれども、その理由は別に求められるのではないかとおもうのである。
 その事実から出発して、逆にものごとを見ると、どの作品がよくて、どの作品がわるいというものが、血のにじむようなリスニング(笑)から自然に生まれるのではなくて、長年聴き続けているうちに、「どの作品がよく、どの作品がわるい」というひとつの評価の体系を身に付けるよう訓練されるのではないのか、という発想になる。これは、書かれたメディア(本やウェブ)によるものもあるし、マスコミの影響力もあるだろうし、口コミもあるとおもう。そういった音楽媒体いがいの他の「雑音」(他人の評価)が、よしあしのイデオロギー体系を形成するのにひとやく買っているのではないか、ということである。
 そんな発想へのきっかけは、筆者がジャズのジョン・コルトレーンの「至上の愛」という<<大名盤>>にアマゾン・ドットコム上の評価でケチをつけたことに発する。ご存知の通り、コルトレーンは'68前後の学園紛争期に熱狂的に支持されたミュージシャンのひとりである。当時のジャズ喫茶の雰囲気をもうわれわれは知ることができないのがざんねんだけれども、咳きを立てようものなら周りから無言のプレッシャーがかかる、という、現代のリラックスしたリスニング・スタイルとは異なる、「一聴入魂」の没入が音楽に対して求められていたのだった。そんななかで、「ジャズは神に捧げる音楽だ」というスローガンのもと、宗教がかった妙なフレージングを繰り広げるコルトレーンは圧倒的な賛同をうけた。
 もうあの時代から40年近くが経ち、ベートーヴェン的な深刻な鑑賞スタイルもなりをひそめた今、コルトレーンに対してバイアスのかかっていない、真っ当な評価が可能なのではないかと思っていた。お分かりだと思われるけれども、筆者はあのような独善的な、押しつけがましい音楽を、好んで聴こうとは思わない。なので、アマゾン上の評価は「一つ星」、つまり最低ランクにしたのだ。
 すると、「評価の評価」、つまり筆者の評価が適切かどうかのところに、圧倒的多数のひとびとから「参考にならない」、つまり筆者のコルトレーン評は不適切だ、という審判が下ったのだ。さいごに確認したところ、「参考になる」はひとりもいなかった。
 この事例でわかったのは、「コルトレーンを評価する」ような文化が、ジャズを聴くひとつの「作法」となっているというじじつである。つまり、コルトレーンがわからない、ということは、ジャズがわからない、という判定を下される、ということだ。「いい、わるい」を評価するときに、「ジャズというジャンルでは、コルトレーンのようなスタイルが高く評価されるのです。つまり、ジャズの神髄とはこのようなものなのです」という文化を受け入れることを要求される、ということになる。
 これはクラシックでもロックでもR&Bでも何に対しても通用する実態なのではないか。クラシック・ファンで「バッハは嫌いだ」というと、音楽がわかっていない輩だというレッテルが貼られてしまう。かつて吉田秀和という音楽評論家は「バッハのマタイ受難曲を聴いて涙しない人間は、音楽を聴く資格がない」とはっきり明言したが、かくいう筆者も、「マタイは退屈だ」とおもっているので、かれによると音楽を聴く資格がない、ということになる。
 絵画にしても文学にしても、そういった「褒めなければならない作品」というものがあり(文学だとプルーストとかサリンジャーとか、映画だと小津安二郎とか宮崎駿とか)、そういうものが「わからない」とか「つまらない」と感ずる自由が、芸術の世界にはほんとうにはないようにおもわれる。もちろん筆者にはプルーストは「冗長」、サリンジャーは「自意識過剰」と映った。

2006年01月11日

スピッツ

 「スピッツ、220万枚売り上げたベスト廃盤」だそうだ。

 ファンには大変もうしわけないが、筆者はこのグループをほとんどまったく評価していない。だから、このグループのアルバムを購入する方にも厳しい評価を与えてしまう。どうしてか。
 それは、レトロとかリバイバルというものに非常に抵抗を感ずるからだ。もちろん、たとえば昨今のロックバンドがビートルズ、ストーンズ、ディラン等がすでに達成した音楽性を知らない、踏まえていない、という伝統の軽視もイヤだが(新しいものをやるなら過去は越えるべきだ)、新しいものが作れないから今の人間が知らない古いものをもう一度引っ張り出してくるという発想にもそれ以上の抵抗を感ずる。
 筆者には彼らの音楽は滅びたフォークの亡霊にしか聴こえない。いまさら墓から掘り出してどうするのだろう、という思いを禁じえないのだ。それならば当時の色褪せた「名盤」を懐かしむほうがよくはないだろうか?

2006年04月29日

Bruce Springsteen

 こちらにも書いておこう。

 あのBruce Springsteenが"We Shall Overcome"というアルバムを出している。
 先の選挙のときに、反ブッシュキャンペーンを繰り広げて、かなりファンを減らしたとおもわれる彼が、ついにこんなアルバムを出したと思うと感無量である。
 特別彼のファンというわけでもないが、買ってやらねばなるまいか。

 あの"Born In the USA"がレーガンに悪用されて以来、気の毒なSpringsteen。さすがにこのアルバムを逆用する悪い輩はいないだろう。

2006年05月28日

Comatose

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 Pearl Jamの満を持して出された新譜「Pearl Jam」(まるでデビューアルバムのようなタイトル)は、名実共に彼らを代表するアルバムになるだろう。「Vs.」や「Ten」のような、水墨画を思わせるmonotonousなサウンドから、「Riot Act」からの少々色つきのサウンドへと変貌を遂げる彼らの軌跡が興味深い。
 "Comatose"というと、筆者には彼らの精神的師匠であるNeil Youngの"F*ckin' Up"の一節を思い出す(Pearl Jamもカヴァーしている)。「Pearl Jam」の第三曲目に収録されているこの曲のごとく、昨日は死んだように眠ってしまった。液晶画面の見過ぎが原因らしい。別に、筆者はインターネットがなくても生きてゆけるので、ネット依存というわけでもないのだろうが、やはり眼のせいなのだろう。一日中モニタを眺める職業でなくてよかったとおもうが、電子カルテが導入されたあかつきには・・・

昨日の読了
 鄭大均「韓国のナショナリズム」岩波現代文庫 B

 本書の骨子は、
『韓国は日本以上に「単一民族国家」という、国民国家の純粋な原型にちかい。よって国の内部に少数民族を持たないために、異文化に対する寛容性が低い。在日朝鮮人の存在ひとつを取ってみても、二世・三世が日本国籍を取得しないで在住を続けているという例は世界的にも特異である。いつまでも日本に対して「反省していない」を連呼するのは韓国じしんにとってよくないし、日韓関係においてはもはや韓国じしんの問題のほうが大きいと言える』
 というような内容だ。
 おおむね妥当であろうし、著者も書いているとおり、「本書がサヨク系の岩波書店から出版されたことの意義」を考えるべきだろう。
 しかし、本書の内容を踏まえた対韓関係をすべき、という議論には慎重でありたい。このような本の出版によって、韓国じしんに自省が生ずるのを根気強く待つべきではないだろうか。高揚したナショナリズムに対してナショナリズムをもって臨むのは愚の骨頂だ。相手のナショナリズムに油を注ぐだけの結果になろう。

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2006年06月04日

三者三様

 注目すべきみっつの新譜が出たのでコメントしてみよう。

1)Neil Young "Living With War"

 タイトルからしてコンセプト性のつよいアルバム。サウンドは明るく、ようやく低迷から抜け出したかにみえる。ちょうど"Ragged Glory"に相当するようなアルバムであるような気もする。少なくとも、アルバムを通して「聴こう」という気になるところは、前作、前々作とはおおいにちがうところだ。

2)Pearl Jam "Pearl Jam"

 ファンの評価がいまひとつ低いところが微妙だが、それは彼らの音楽性が変貌を遂げていることと関係があろう。音楽性の幅が広がっただけ、散漫になったともいえなくもない。ただ、ハードなサウンドのなかにちりばめられた恰好の、アコギ系バラードはさすが。"Riot Act"が好きな筆者はもちろん支持する。

3)Bruce Springsteen "We Shall Overcome"

 あのタイトル曲をカヴァーするようでは、相当キてるな、というのが聴く前の印象だったが、聴いて見るとさすがに大御所、十分観賞にたえるサウンドになっている(当たり前か・・・)。アコースティックにもかかわらず、例によって非常にゴージャス。ボブ・ディランやエリック・クラプトンなどのシンプルなサウンドとは一線を画している。これはこれでクオリティの高いアルバムづくりであることはまちがいない。

 あえて筆者が評価をつければ、後に行けば行くほどよくなる。

2006年11月05日

シュタルケルのコダーイ

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 数年間探し続けていたといえばそのとおりだが、たまにレコード屋を覗くとか、amazonで探してみるとか、そのくらいしかしていなかった。
 かなり前に一度フィリップス(マーキュリー)から日本だけの限定版でCD復刻されたのは知っていたから、再発がないかなーなんて思っていたのだが(そしてたまたま「それ持ってます」なんてひとと話をしたことがあったから)、その気配はまったくみられなかった。

 きょう、たまたまアマゾンで検索をしていて、そのあと深い考えもなしに、googleに「シュタルケル」と「コダーイ」と入れて、調べてみたのだ。
 そうしたら!
 なんと、新星堂と山野楽器とタワーレコードの共通企画で、過去の名盤復刻シリーズというのがあって、そこから今年の一月に出ていたのである。

 こりゃ、ネット検索しない限り、気付かないよなあ・・・
 幸い、まだ在庫はありそうだったので、タワーレコードの通販で申し込んだ。シュタルケルはこの曲を三、四回録音しているが、これは最初あるいは二回目(どっちが正確なのかよくわからない)の録音で、ベーラ・バルトークの息子、ピーターが録音技師を務めた有名なもの。

 そして、そのシリーズをぼんやりみていたら、こんな音源が存在することを知った。

http://www.yamano-music.co.jp/userProdDetail.do?itemCode=4105100286&type=M

 うーん、聴く気は起きないが、さすがブリュッヘン、こんなことまで。アンナー・ビルスマが激怒しそうなコンセプトだなぁ。

2006年11月08日

民族派と国際派

 まるで日本の共産主義運動の派閥のようだが(と書いてわかる方はいらっしゃいますか?)そういう話ではない。

 東欧、とくにハンガリーの作曲家、コダーイとバルトークは、民俗音楽の強い影響下に作曲活動を行っていた。当然、西洋音楽の発想から外れるような曲想(旋法)やリズム(日本の太鼓のように、徐々に加速して、徐々に減速するような)がふんだんにみられる。
 それを演奏するときの態度として、民俗的な色彩をつよく出そうとする、地元出身の演奏家と、あくまでクラシック音楽という範疇から捉えてゆこうとする他国の演奏家とに大きく別れる。バルトークを例にとると、フリッツ・ライナーやヴェーグ弦楽四重奏団は前者、ピエール・ブレーズやジュリアード弦楽四重奏団は後者、といえるだろう。

 もちろん、ハンガリー出身のヤーノシュ・シュタルケルは前者だ。しかし当然ながらチェロの大家、ソリストとしての技量の不足を隠すために民俗的な色合いをつけた演奏を行うわけではない。なによりも、あのコダーイの「無伴奏チェロ組曲」の演奏が絶賛されたのは、その正確無比のテクニックが理由だったのだ。

 筆者がわからないのは、あのヨー・ヨー・マの演奏である。何度聴いても、筆者には彼の演奏は、自らのテクニックを誇示するためのショー・ピースにみえてしまう。曲への共感や愛情が感じられないのである。たしかにピエール・ブレーズにもそれはないだろうが、近代音楽の中のバルトークの位置を、彼一流の精密なスコア読みとオーケストラ制御をつうじて明らかにすることによって、その現代性を明確に示している、と筆者は考えている。

 それは、単なるヨー・ヨー・マへの偏見なのだろうか?

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2006年11月30日

歌詞に学ぶ倫理

 筆者は、さまざまな知恵を、ポピュラー・ソングの歌詞から汲み取ることが多い。残念ながら、おおくは英語の歌詞なのだが(願わくば日本語であれかし)。

 反戦ソングとして、有名なものを挙げれば "Imagine" "Blowin' In The Wind" "War"などが思い浮かぶが、筆者が好きなのは、Bob Dylanのこの曲である。これには、Grateful Deadとの名演奏がある。

 筆者がこよなく愛するGrateful Deadの "American Beauty"の冒頭に、"Box Of Rain"という名曲がある。ほんとうに奇蹟のようなうつくしい曲なのだが、後半、メロディー・ラインから外れて、天空へ飛翔するような箇所がある。この歌詞で言えば、"Just a box of rain -"以下の部分である。

 筆者がこのたびつくづく思い知らされたのは、「他人に手を差し伸べたい」という一見うつくしい思いに潜む傲慢、思いやりのなさである。その動機が単に自分の自己満足でない、と言い切れないなら、要らぬお節介や押し付けとなって、却って相手を苦しめることになる。

 It's just a box of rain

 I don't know who put it there

 Believe it if you need it

 or leave it if you dare

 みずからが真に必要とされていないのであれば、行動を自省する勇気を持つことも大切であろう。そうでなければ、「菩薩症候群」の患者と同じことになってしまう。

 他人を救うことを自分の救済の口実にしないこと、これが相手を傷つけないこと、ほんとうの思いやりを持つこと、だろうと思う。

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2007年02月17日

千の風

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 世間の流行に疎い筆者は、この唄が流行っていることにもまったく無知であったのだが、あるblogで取りあげられているのを知り、別の場所でいろいろ教えてもらった。

 ふーん、こういう詞が好評なのね。。。

 筆者が好きな唄(歌詞)のなかに、"Four strong winds"というのがある。

"Four strong winds that blow lonely, Seven seas that run high,

All these things that don't change, Come what may.

But our good times are all gone,

And I'm bound for moving on.

I'll look for you if I'm ever back this way."

 wikipediaによれば、これは出稼ぎ農夫(放浪する小作農?)の生活に基づいて作られたのだと。

昨日の読了
 「竹内好コレクションI・II」日本経済評論社 A

 竹内好はリバイバルを遂げつつある思想家(文芸家)である。それはどうしてなのだろうか。筆者がこよなく愛する武田泰淳の東大時代の同級生でもあり、中国文学研究の盟友でもある彼は、魯迅を通じて、日本の近代化やアジア主義というものを、あくまで独自の視点で追求し続けた。その独立独歩の思索が、改めて見直されているのだろう。

 また、筆者には、竹内が追求していた「近代の超克」「日本の独立」「近代とは何か」といったテーマは、実は今の日本においてもずっと重要であり続けているにもかかわらず、なぜか忘れられてしまった、なおざりにされてしまった、という事実をまた由々しきことだと感じられる。筆者にとっては、この竹内好の選集に取りあげられているトピックは、ほとんどすべて親しいものと感ずることができたが、おそらくそういう読者はごくごく少数なのではないかと思われる。

 そういう意味で、竹内のリバイバルは、歓迎すべき流れであるように、筆者には思われる。

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2007年03月31日

若者の保守化

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 政治の話ではない。

 さいきん若者の間で流行している音楽を耳にするたびに、ちょっと軟弱過ぎないかと思うのだ。アコースティック回帰? 筆者には、疲れているとしか思えない。ラップ、ヒップホップ、レゲエなどのダンス・ミュージック? リズムが軽過ぎるよね。むかしの打ち込みみたいなリズムで満足するんかい?

 ジャズでも、'80くらいから、アコースティック回帰というムーブメントがあって、筆者はとても悲しかった。衰退以外の何物でもないと思われたからだ。ロックでも、MTV unpluggedなどをきっかけに、アコースティックなら売れる、というような現象があった。それもちょっと違うと思った。単に疲れているだけにしか思えなかった。

 筆者には、最近の若者の趣味は、おとなし過ぎると思われるのだ。若者はもっと反抗的であっていいように思うのだが、これはステレオタイプ過ぎる見方だろうか?

 筆者はザ・バンド、特に、"StageFright"と、"The Basement Tapes"のファンだが、さいきんはサザン・ロックや、スワンプ・ロックといったジャンルに惹かれる。やっぱりオジサン!?

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2007年05月19日

Sweet Home Alabama

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 筆者はレコード(CD)を購入するときに、輸入盤を買うことが多い。国内盤も多くは輸入盤に日本語の解説を付けただけというお粗末なものも多いから、そういうものはせっかく日本語の解説や訳詞が付いていてもあまり読まない。

 さて、Lynyrd Skynyrdの2nd albumの"Sweet Home Alabama"は、かのNeil Youngの"Southern Man"へのアンサー・ソングとして知られている。Neilの"Southern Man"は、今もなお残る人種差別を糾弾した歌と思われるが(この中の"crosses"は、十字架ではなくて、この南軍旗を指したものだろうか?)、それに対してLynyrd Skynyrdが歌うこの歌は、典型的な(右翼的)パトリオティズムに満ちていて、部外者の筆者にとっては、聴いていてとても面白い。「ニール・ヤングにはこの地には足を踏み入れて欲しくない」なんだそうな。「ニール・ヤング氏には、この地には善良なひとびとがたくさんいることを知って欲しい」のくだりも、正直言って笑ってしまう。

 しかし、こんなのを面白がって聴くようでは、筆者のロック人生(笑)も終わりかな。誰か、レオン・ラッセルとか好きなひとはいませんか?

昨日の読了
 庄野潤三「夕べの雲」講談社文芸文庫 B

 戦後を代表する名作のひとつ。江藤淳の出世作「成熟と喪失」でも取りあげられていたはず。一読するとマイホームパパの園芸奮闘記のように読んでしまいがちだが(そんな読み方をするのは筆者くらいか)、所々に「戦前」が透けて見える。周知の通り、戦後文学、特にいわゆる「第三の新人」と言われる世代においては、戦争との拘りをダイレクトに出さずに、一見すると内向したかのような表現とテーマを追求したものが多かった(古井由吉の「杳子」、小川国夫の「アポロンの島」そして安岡章太郎の「ガラスの靴」(は、まだ読んでないや)などが代表的なものだろう。ちょっと前の埴谷雄高、武田泰淳、そして大岡昇平といった、直接間接に戦争を取り扱った作品とは一線を画している(そうそう、「真空地帯」の野間宏を忘れてはなるまい)。一見、平和な家庭生活と、四季折々の微妙な変化を描いているだけのように見えて、もっと奥行きのある作品にみえるのは、きっとその通りなのだろう。

 そういえば、前回触れるのを忘れたが、橋川文三の「昭和維新試論」がちくま学芸文庫に収録されることになったようだ。石原慎太郎=中曽根康弘を経て、今の小泉から安倍に至るまでの自民党の「改革」のルーツは、いうまでもなく安倍の祖父に当たる岸信介をその代表とする戦前の「革新官僚」にある。そして、彼らとその方向性は異なるものの、5.15や2.26で決起した若手将校らが唱えたスローガンも「昭和維新」であった。「改革」や「改正」ということばによいイメージを持つ国民が多いと思われるが(それはもちろんマスコミの影響も大きい)、筆者にとっては、この「維新」という言葉も含め、戦前の全体主義を彷彿とさせる言葉であり、とてもプラスのイメージは持てない。橋川の著作は、もう一度読み直されるべきである。

2007年05月20日

後退

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 先日ちょっと書いたように、このごろはアメリカのサザン・ロックやスワンプ・ロックというジャンルに興味(というか、好み)を持っている。前からLynyrd SkynyrdやLeon Russelは知ってはいたんだけどね。

 以前の筆者は(たぶん悪い意味で)絶対主義者だった。たとえばクラシックならバッハの「ミサ曲ロ短調」(モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」とか、ベルグの「ヴァイオリン協奏曲」とかも捨てがたいけど)、ジャズならリー・コニッツの「サブコンシャス・リー」(チャーリー・パーカーのダイアルとサボイでもいいかも)、そしてロックならグレイトフル・デッドの「アメリカン・ビューティ」は、

「愛するひとには絶対に聴いて欲しい」

 と思っていたのだけど、ザ・バンドの「ステージ・フライト」や、オールマン・ブラザーズ・バンドの「フィルモア・イースト・ライヴ」ならばまだしも、例のLynyrdの "Sweet Home Alabama" (ついでにザ・バンドによる州歌「わが心のジョージア」も挙げておこうか?)や、Leon Russelの「鬼火」など勧めようものなら狂人扱いされるのが落ちだろう。

 たしかに、たとえばコニッツなどは、ジャズを相当聞き込まないとその凄さや価値は見えてこないだろう。しかし、 "So What?" と言いたくなる。これを知らなかったからといってそのひとの人生が変わるわけもないし(筆者はむかし、「ミサ曲(ロ短調)を知らなかったら人生において生まれてきた重大な意味がひとつ落ちる」と本気で主張していたことがある。今でも、そのことを主張する人間がいたとすれば、真っ向から否定はしないだろう)、文芸作品の価値はひっきょう読者の鑑賞力で決まるように、音楽や美術の価値も、作り手というよりは受け手が決定するものなのだろう。

 余談だが、あの有名な演奏を発見した。この曲の演奏がアメリカ国内では事実上「禁止」されていた頃の演奏のはずである。

http://www.youtube.com/watch?v=Z3T8xr274q8

2007年05月23日

歌詞にみるイデオロギー

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 以前から気になっている歌詞がある。The Bandの、"Twilight" という、彼らにしては軽快な歌のことである。
 その一節を引こう。

 "A young man serves his country
 and an old man guards the home"

 このような、「若者は国を守り、老人は家を守る」のような、「国防」「郷土愛」というイデオロギーは、歌詞に登場してきている以上、少なくともアメリカ(南部)ではふつうの感覚なのだろうが、日本中世においてはどうだったのだろう? テレビドラマなどでは、これが前提とされているように思われるのだが、本当なのだろうか??

 「国防」は、アタリマエのことなのだろうか。これもまた難しい質問である。最大の炭酸ガス排出の原因が戦争であり、軍隊である以上、「国防」に国家予算や人員を割くことは、国民の利益という観点以上に(もちろん、アイゼンハワーの警告に反して、アメリカが現に遂行していることは、産軍共同体による雇用の産出、つまりかたちを変えたニューディール政策であるわけだけれども)、人類の生存という観点から、かなりの重要性を持った問題として浮上してくることになる。

 そういった状況のなかで、このような素朴な歌の中にも、「国防が必要だ」というイデオロギーがさりげなく折り込まれていることは、それが意識されていないだけに、より問題視する必要があるかも知れない。

昨日の読了
 大岡昇平「武蔵野夫人」新潮文庫 B

 これも恋愛と一夫一婦制という道徳のあいだで揺れ動く恋人たちの感情を描いた「心理小説」にはちがいないが、前に触れた伊藤整の作品とはちがって、その心理の動きをダイレクトに描いていないだけに、より小説としての完成度はたかいといえるだろう。惜しむらくは、前半に、「スタンダール」ということばが登場する文章がおおいことが、この小説の完成度を削いでいるように、筆者には思われた。

 なお、解説の神西清氏の、「武蔵野の自然こそがこの小説の主人公」という指摘は、たいへん頷けるところである。映画化されているが(もちろん観たことはない)、その脚本をこの作品を酷評した福田恆存が手がけているのが面白い。

2007年09月27日

D級アンプ

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 昨日注文していたRSDA202が届いた。「手のひらサイズ」というのはわかっていたのだが、本当に小さい! これでちゃちなスピーカーだけでなく、れっきとしたHi-Fiスピーカーも鳴らせるらしい。

 その秘密(というほどでもないのだろうが)は、その増幅(amplify)の方式による。平たくいえば、このアンプはアナログ信号をいったんデジタル化(PWM)し、その矩形波パルスをひじょうに高効率に(つまり投入した電力に比べて得られる出力が大きいということ)増幅し、またアナログ化するというものだ。つまりA/D変換を行い、増幅されたデジタル信号をもう一度D/A変換するということになる。

 当然、D/Aコンバーターが未熟な時代の、この方式の増幅器の性能は極めて悪かったという。このデジタル時代において、リニアにA/D, D/A変換を行う優秀なICができて、このD級という方式は脚光を浴びるようになった。

 しかし、このアンプで使われているIC, TA2020は、カリフォルニア州サン・ホセにあるTripath社で製造された(現在は後継のチップが出て製造中止となっている)ものである。日本の製品ではないのね。。。

昨日の読了
 大岡昇平「幼年」講談社文芸文庫 B

 ほんとうにこの人は「最後の文豪」と呼ぶにふさわしい。「文豪」ということばをどういう作家に使うかは、ある程度コンセンサスが得られているのではないだろうか。たとえば、漱石・鴎外のふたり以外には、谷崎や川端、それに志賀直哉くらいにしかこの称号は冠しえまい。芥川や三島などはその作品の質量は申し分なくとも(もっと直截な例を挙げれば大宰と坂口安吾のふたりが典型だろう)「文豪」という表現をすることは少ないのではないだろうか。

 「文豪」は、まず多作であることが求められる。寡作の作家を文豪と呼ぶことはない。なぜなら「豪」とは「えらく」「さかん」という意味であるから。さらに、その文章にも「品格」が求められる。論理を追求した近代的な文体であるだけではだめで、日本の文芸の伝統に棹さした典雅さが求められるといってよいだろう。漱石と鴎外はこのふたつの条件を完璧に満たすが、筆者の感覚では次には谷崎が来るように思われる。

 大岡はこの系列のおそらく最後の作家である。スタンダールに傾倒した彼は、その心理描写を学びつつ、特に風景の描写にその才能を発揮したように筆者には思われる。「俘虜記」や「レイテ戦記」における戦場風景の描写にはすでに定評があるが、「武蔵野夫人」における、当時においてもう滅びつつあった古き武蔵野の面影を写し取ったその描写力には本当に感嘆させられる。本作品においても、著者が育った、まだ江戸のたたずまいを残した東京市の情景の描写はとても巧みなものであり、その情緒は雅びやかですらある。筆者が彼を「最後の文豪」と考えるゆえんである。

2007年09月28日

新ネットワーク思考

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 昨日、スピーカーのAM-5IIIが届いた。五万円なのは、外装が樹脂製だということも関係しているだろう。写真の左はキューブ型スピーカーの部分で、これを左右に一つづつ設置している。マウスを置いたので大きさがわかるだろう。右は独立しているウーハー部で(これは、低音には指向性、つまり人間の耳には、どこから低音が聞こえているのかわからない、という理論による)、アンプの小ささとこのボックスの巨大さがわかるだろう。中型のタワー型パソコンと同じくらいの大きさである。

 音は、、、

 まだ十分に鳴らし込んでいるわけでもなく、単に線を繋いで机の上に無造作に置いたに過ぎないが、随分とシンパルの音がシャープに聞こえる。これだけだと単にバランスを崩しているに過ぎないが、よくボーカルや他の楽器を聴いてみると、あきらかに定位がよくなり、各パートが鮮明になっているのがわかる。しかし、パソコン用のスピーカーとしては、低高音を持ち上げ(いわゆるドンシャリ)、もわーんと分解能のわるいサウンドを聴かせる前のMM-2のほうがまとまりはいいのかもしれない。これからいろいろと設定を追い込んでいく必要があるだろう。

 さて、例のアンプだが、ボリュームのつまみは1/4くらい回したところで、出力としては十分なようだ。つまり、5W+5Wくらいの出力で済んでいる、ということだろう。おそるべしデジタルアンプである。

昨日の読了
 アルバート=ラズロ・バラバシ「新ネットワーク思考」NHK出版 B

 評価はBだが、「推薦度」を考慮すると、AあるはSを進呈してもよいかもしれない。内容は、「べき乗分布」とは何か、それがいずこでみられるのか、という数学的/社会学的/生物学的な紹介なのだが、欧米の良質の概説書にみられる、適切な事例の引き方、巧みなイントロによって、最後まで飽きずに読める。

 べき乗分布とは、少数の勝者(金持ち)と大量の一般人(貧乏人)とを併せ持つ分布であり、ネットワーク的には前者は羽生、じゃなくてハブ(これはまさにPCでネットワークを組むときに、多数のコンピュータを繋ぐ接点というものである)と、個別のコンピュータというかたちであらわれる。そして、このようなインターネットの姿は、計画されて出現したものではなく、他の生物現象や社会現象と同じく、自然発生的に、ある確率的な法則に則って出現するというのが著者の主張である。

 これがどうして衝撃なのか。資本主義社会において、少数の金持ちと大多数の貧乏人にわかれるということは、資本家の陰謀などではなく、ひとつの自然現象に過ぎない、という結論を導くからである。すると、それを悪として修正しようとする試みは、必然的にマルクス的な共産主義経済をめざすという論理に直結するからである。そこまで極端な論理展開に行き着かずとも、修正資本主義経済のような微温的な手段では、この自然法則に逆らうことは難事であることは容易に想像される。

 それに、このような帰結は、「グローバル経済において、少数の人間に富が集中する」事態を、倫理的に善とみなす一群の論者(本間前阪大教授など)に正当性を与えることになる。自然の法則に従うことが生物である人間にとって当たり前のことであり、それを倫理学的に善と規定するならば、そういう結論に自然に導かれるわけだが、どう考えるべきなのだろうか? ホッブスやルソーがみなしたように、「自然状態」が悪なのであれば、この事態は是正すべきなのであろうか??

2007年09月30日

化学物質過敏症

 スピーカーのBOSE AM-5IIIを部屋に置いてからというもの、頭痛がして仕方がない。これは巨大ウーハーの発する樹脂臭が原因と思われる。取りあえず消臭剤を置いて、時間が経つのを待っている状態だが、出荷前に何とかして>BOSEさん

昨日の読了
 大岡昇平「少年」講談社文芸文庫 B

 基本的に「幼年」と全く同じことが言える。充実した風景および当時の東京市の街並みの描写、著者自身を取り巻く人間関係、そして影響を与えた本など、自伝としてとてもよくできた本である。完成した文学作品といえよう。

2007年10月01日

お蔵入り

 あまりの頭痛に、ウーハーを戸棚に押し込んでしまった。

 明日BOSEに電話をして、寝かせても使用不能な場合に返品が可能かどうか問い合わせをしてみよう。
 寝かせているうちに化学物質が飛んでくれればいいけど。キムコでも買ってきて戸棚に放り込んでおくか。
 すでに書斎には脱臭芳香剤(いちおう吸着するらしい)を据え付けてはみたけれども、まだ頭がいなくなる。あああ。

昨日の購入
 大庭みな子「寂兮寥兮(かたちもなく)」講談社文芸文庫
 皆藤健「『森と湖のまつり』をめぐって—武田泰淳とビッキらアイヌの人たち」五月書房

 そういえば、五月書房は、あのシュペングラーの「西洋の没落」の出版社ではなかっただろうか。

2007年10月04日

返品

 この部屋からスピーカーを撤去してからもう一週間ちかく経つが、未だに咽喉の痛みと頭痛が取れない! 恐るべき化学物質過敏症・・・人間は、ごく微量の化学物質を検知する犬並みの能力を未だに保持しているらしい。問題なのは、それを意識するか意識しないかだけで、意識したときにはそれはそれはえらいことになるのだった。

 さて、こんな調子ではくだんのスピーカーを使うことはとてもムリだと諦め、BOSEの相談室に電話してみた。すると、「返品を受け付けるかどうかは小売店の判断になりますから、購入した店に相談してみてください」とのこと。うーむ。

 というわけで、購入したビッ○カメラに電話をしてみた。筆者はすでにレシートを処分してしまっていたが、ここのよいところは、ポイントカードなるものを持っていると、そこに購入記録が残っていること。この番号を申告すれば、たしかに購入したということを確認することができる。

 で、事情を話し、「シックハウス症候群」のような状態になっていることを説明した。折り返し携帯に電話があり、「本来は開封してからの返品は認められないが、このたびは返品を認めます」とのこと。こういうときに、ネット通販などでは怪しげなサポートのよさをみた。BOSEが小売店からの返品を認めるかどうかわからないのに、ビッ○カメラよ、ありがとう。

 かくしてAM-5IIIは、来週の月曜日に、めでたく? 引き取られてゆくことになった。しょうがないから、元のMM-2に戻したよ・・・しばらくこの音で我慢するかぁ。

昨日の読了
 坂口謹一郎「日本の酒」岩波文庫 B
 網野善彦「日本の歴史00 日本とは何か」講談社 B

 この「日本の酒」は、かつて岩波新書で出ていたものの再刊だという。内容は若干古いところもあるのだろうが、日本酒について一応の知識を得るには格好の小著だとおもう。

 講談社「日本の歴史」シリーズの巻頭にあたるこの本は、網野歴史学の格好の要約になっている。反面、「日本の歴史を読み直す」や「蒙古襲来」などをすでに読んでいれば、インパクトはほとんどなかろう。やはり網野史学の代表作としては、その二冊をまず推したい。

2007年11月04日

デジタルとアナログ

 デジタルカメラが未だに銀塩の持っている情報量を超えるのに苦労しているのと同じ現象が音楽の世界でも生じている。もちろん、レコードの話である。

 以前、デジタル・マスタリングの際に基準となるサンプリング周波数をよりたかくしたり(CDの再生の場合は44.1kHzだが、Sonyなどが中心となって取り入れているSACD(スーパー・オーディオCD)では2822.4kHzである)、クロック発振器をより精度の高いルビジウムを使用したことで劇的(とまではいかないが・・)な音質改善をみたことを書いた。いま、読書が思うようにできないこともあって、以前持っていたCD(今は手元にないもの)を購入し直してみたのだが、そのCDではDSDマスタリング、つまりSACDに使用されているDirect Stream Digital方式という1bit方式のマスタリング手法が採用されている。

 もう以前のCDを聴いてから時間が経っており、直接の比較ができないのが残念であるが、たしかに細部の響きなど改善されているように思われる。ということは、まちがいなくCDは、アナログテープに録音された情報の100%の再現にはいまだに成功していない、ということを意味する。

 ここで筆者が不思議におもうのは、'80からはじまったデジタル録音についてである。DENONはもっと早く'70からデジタル録音をはじめていた。使用されている機器については、たとえばTELACではCDに表記されている。それをみるとせいぜい20bitのD/A変換器を用いていたに過ぎないし、もちろんクロック発振器は水晶であり、現在一部で使用されているルビジウムや、原子時計に用いられているセシウムなどの超高精度の発振子は用いられていない。

 ということは、同時にアナログテープによる録音が行われていないかぎり(筆者の知る限りそのようなケースはないと思われるが、ありそうでもある)、その年代のデジタル録音は、マスタリングの改良による音質改善の恩恵に与れる可能性は、かなり低い(もちろん、ルビジウム発振子を用いたカッティングなどは、デジタル録音のばあいにもメリットはあろう)とおもわれるからである。

 録音技術はLPレコードが登場した1950年代前半頃から飛躍的に進歩しはじめ、録音史上に残るゲオルグ・ショルティ指揮の「指輪」が登場したころにはほぼ完成されていたようだ。それから後の時代には、マイクロフォンといった基本的な機器については、ほぼ性能向上はフラットになってしまった印象すらある。あまりよい印象を持っていなかったステレオ最初期の米RCAによる録音(たとえばフリッツ・ライナーとか)も情報量がきわめて多かったことがわかっているし、米ブルーノートや米コンテンポラリーなどの名録音は、現代のスタジオで録音されたものを上回る音質であることがしばしばだが、それは録音媒体(デジタルかアナログか)よりも、録音されたスタジオやホール、そして用いられたマイクロフォンやその配置のほうが遥かに音を決定するのに重要であることを示している。


 ということは、やっぱりデジカメの画質を決定する最大の要因は、撮像素子ではなく、レンズだろうと思われるのだが・・・もちろん、撮影を行う人間の技量という要素がlimiting factorであることは、いうまでもない。

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2007年11月21日

SP復刻

 しばらく音楽産業から遠ざかっていたこともあって、その動向に疎かったのだが、ジャズにおけるリマスタリングの著しい効用を知るにつれて、他の世界ではどうなっているのかが気になった。ロックでは、たとえばピンク・フロイドのようなものならば、リマスタリングによる音質向上は、ファンにとって大いに意味があるものだろうと思われる。それ以外でも、たとえばボブ・ディランにしても、初期のCD化で揃えた音源を、SONYお得意の1bit DSD方式でリマスターしたようなものに買い替えることは、意味があることかもしれない。

 クラシックではどうか? むかしからSP盤、つまりLPが発明され実用化された1951年頃よりも前の録音では、再生時の針音を消してしまうがため、細部が潰れてしまったり、原音の繊細さを損なうというケースが跡を絶たなかった。

 最近ではノイズ消去のアルゴリズムが進歩したり、その他の理由で、むかしのSPからの復刻の技術が大幅によくなり、LPへの復刻を凌駕するようなものも増えているようだ。そのなかでも、イギリスではこの会社が、そして日本ではこちらが、とくにこだわりをもって復刻を行っているようだ。

 前者のものでモイーズ/ラスキーヌによるモーツァルト、後者のものでワルター/ウィーン・フィルによるアイネ・クライネ・ナハトムジークなどを注文してみた。ワルター/ウィーンのマーラーは、両方で復刻されており、一長一短があるようなので、両方買ってみることにした(というのもDuttonのCDは一枚が約1000円と随分と安いのだ)。届いたら感想を書いてみる。

先日の読了
 増尾清「危ない食品食べてませんか」三笠書房 B

 本書の力点は、「食品添加物を使用していない食材を入手するのは、事実上不可能である。ならばそれらの害を極力避けるような調理法を学ぶべきだ」という現実的な立場であり、徹底して添加物を使用している食品は排除すべきだとする原理主義者に比べて、より実用的な立場に立っている。しかし、もちろんそのような食品は早晩市場から消滅することが望ましいとおもうが、日本政府は添加物を使用した食品を擁護する立場に回るだろう。

 多くの場合、伝統的な調理法には理があって、それを守ることで食品添加物のかなりの部分は排除することができるということであり、先人の知恵に改めて感心するということになる。ただ、いくつかの点で疑問を感じざるを得ない。水溶性の物質は水洗いで取れるのは理解できるが、それならば人体に入っても、尿、汗のようなかたちで簡単に出てゆき、害は少ないのではないだろうか。また脂溶性の物質を食品から取り除くのは簡単にはいかないのではないだろうか。

 しかし、つまらない学科を入学試験に出題するよりは、このような本の内容を必修とし、入試にも出題することで、医療費の抑制はかなり達成されるだろう。しかし思うに、食に対するこだわりの喪失は、1945年における敗戦と関連がある事象であると筆者はみなしている。筆者は国の品格とか誇りにはさほど関心がないが、アメリカが日本の実質的な独立を奪う方法として利用したのは食料とエネルギー(石油)という二つであることを想起すれば、アメリカ産あるいはアメリカの政治的影響下にある国の食料を日本に押し付けるために、日本人の食事を無理やり西欧化したことと、添加物の使用が必ずしも関連のない事象とは思えないように、筆者には思われてくる。ただし、公平を期すために、ほとんどすべての発展途上国において、経済成長と食の西欧化はほぼパラレルであることを書いておこう。ただし、それにも筆者にはからくりがあるように思われる。民主主義がそうであると思われているように、西欧風の食事は、世界のどの国でもスタンダードになるようなものとは考えられないからだ。

 衣食住の安全を確保することは、政府が国民に対して行う安全保障の最たるものであると同時に、日本に住む生活者としての誇りを持たせるものであると思われるのだが。

2007年12月20日

iPod壊れる

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 第四世代iPod(40GB)をトレーニング中に床に投げ出し、強打させてしまった。電源を落として立ち上げ直しても、カラカラとハードディスクが空転している。おまけにiPodの泣き顔のイラストが表示されてしまった。ついにご臨終か・・・

 とりあえず、通勤とエクササイズ中にPodcastを聞くための装置を早急に入手しなければならない。すると、共和党ブッシュ政権が嫌いな(民主党に政権が委譲されれば、アメリカがよくなるわけではないけれど)筆者としては、やはりおなじようにiPodを選択するしかない(ソニーはmicrosoftと手を組んでいるし、頑丈さに定評があったWalkmanを例外として、たとえばVAIOにみられるような、デザイン優先のモノとしての脆弱な製品群には、筆者はとてもがまんできない。

 現在、iPodには四種類ある。shuffle, nano, classic, そしてiPod touchである。

 このうち、ジムへ持っていくことを考えると、classicとtouchは却下、日常的に使えるのはnanoだから、必然的に選択肢はそれしかなくなった。しかるに、nanoの8Gのモデルと、classicの80GBのモデルとの価格差が5000円しかないのだ。ちょっと、萎える。

 色も当然Apple Storeの特別モデル、すなわち売り上げの一部(最大50%と書いてあるけど、そんなに?)が「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」に寄付される、というPRODUCT Red Modelしか選択肢はない。

 ここで、Apple Store直販のタイプは、文字を刻印することができる(しなくてもいいのだが)。ここで、筆者はミスをしてしまう。二行に渡って印字は選択できるのだが、一行目と二行目のフレーズを逆にしてしまったのだ。何と書いたのかは、ちょっと恥ずかしいのでやめておこう。


先日の購入
 テオドール・モムゼン「ローマの歴史3」名古屋大学出版会

昨日の読了
 カズオ・イシグロ「日の名残り」ハヤカワepi文庫 A

 イギリスにおいて、その年のもっとも優れた作品に与えられる、ブッカー賞という権威ある賞を受賞した、イシグロの第三作目である。最近はメイド喫茶に次ぐ人気を誇ると言われるのが「執事喫茶」らしいが、その「執事」をテーマにした作品である。

 執事の独白のみという構成だが、まったく飽きない。筆者にすら、「原文を読んでみたい」と思わせる筋であり、翻訳(とても優れている)なのである。しかも、品格とは何か、伝統とは何か、そして民主主義とは何か、そのようなファンダメンタルなものに対する問い掛けを発している、という点では、とてもシリアスな小説である。

 つよく一読をお勧めする。

2007年12月24日

iPod考

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 壊れたiPodを引き取ってくれるサービスが各種あることがわかった。ということは、iPodには壊れても商品価値がまだあるということである。

 筆者のiPod(classic, 第四世代)は床に叩きつけられたときに壊れたので、内蔵されている1.8インチのハードディスクの故障であることはわかっていた。この40GBのHDは、東芝のMK4004GAHというモデルである。これを新しいものに替えれば、理論的には復活するはずである。

 ところが。

 このモデルには、東芝独自のコネクタが採用されていた。おそらく、iPod以外にもさまざまな携帯音楽端末が普及してきたせいか、東芝は独自コネクタの採用をやめて、LIFという汎用的な形式のコネクタに変更してしまったらしい。つまり、東芝独自コネクタ方式の1.8インチハードディスクは、軒並み製造中止になっているようなのである。OMG .....

 で、楽天のオークションで、MK6006GAHという60GBの独自コネクタ方式の1.8インチを見つけたため、14,000円で落札することにした。MK8007GAHという80GBのものも入手できなくはないのだが、これは22,000円くらいする。そうすると、29,800円の80GB new iPod classicが買えてしまうのである。

 
 ところで、新しいiPod nanoを使っていて気付いたことがある。第四世代iPod(classic)に比べて、あきらかに音質が良いのだ。こちらのほうが小型であるにもかかわらず、である。この分野の進歩おそるべし、である。こんなことならわざわざ旧型のハードディスクを探して、再生させる意味はなかったかもしれない。いっそ、6000円程度で入手可能な、20GBのMK2006GAHを選んでしまうやり方もあったかもしれない。故障以前の40GBという容量から後退するのがイヤだったのではあるが、いちばんリーズナブルな投資であったかもしれない。

2007年12月29日

iPod&登山靴再生

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 注文していた東芝のMK6006GALが届いた。外見は(写真撮らなかったけれど・・・)以前入っていたMK4004GALとまったく同一だ。こいつにブチルゴムの衝撃吸収材を噛ませて(もとからiPodに入っていたやつ)接続し、フタをちょっと強引に閉める。振ってもカタカタ音がしないようだから大丈夫だろう。

 接続トレイの上に置き、iTuneを起動。「このiPodは壊れているようです。初期化が必要です」というメッセージが出て、工場出荷時の状態へ初期化。あっけないほど簡単にiPodの再生が終了した。かかったコストは14,000円ほど。これで、今までより20GB、つまり容量の150%アップであり、ハードディスクのキャッシュも512KBから2MBへ増加しているらしいから、高速化と省電力化も期待できる。また、耐衝撃性も強化されているらしい。

 さて、これで何年使えることだろう? もう入手できる1.5インチ型ハードディスク(東芝独自コネクタ型)はない(製造中止になっているから)から、これが最後の修理であろう。以前、大容量型のバッテリーに交換もしているから、このバッテリーが死んだときが寿命であろう。


 さて再生といえばもうひとつ、GOROに修理を依頼していた登山靴が届いた。木曜日が修理日のはずなのに、なぜか木曜日の夜に宅急便で届いている。これはどういうことだろうか!?

 外観は、今までの1136ロッチャーから1230A-9に変更した分、よりごつく見えるようになっている。ただ、ステッチダウン製法なので、あと何回修理が利くのかわからない。縫い目を見る限りでは、あと一、二回のソール貼り替えには耐えそうではあるが。

 これを見て、筆者はてつステッチダウンの1230A-9特注タイプが欲しくなってしまった。通勤で履けばトレーニングになるだろうし、はっきりいって普通のトレッキング靴よりは山でも強力である。スーツで通勤するのでなければまったく問題はないだろう。ソールを特注タイプにして、もし可能であればステッチダウンではなくグッドイヤーウェルトにすると、たぶん1万円くらい高価になるだろうが、貼り替えを繰り返してきちんと手入れをすれば二、三十年は使えるだろう。それを考えれば高価な出費ではない。

2008年04月15日

鳴らしてみました

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 例の300万のaccuphaseに勝ったとされる9800円のデジタルアンプである。化学物質過敏症になってBOSEの新スピーカーを断念してから、こちらにつないでみた。DVDプレイヤーの上に鎮座している小さいのがそれである。

 その前はSANSUIの80,000円くらいのふつうのアンプである。もう十年くらい経つが、ご存じのとおりアンプは技術的に完成しているため、十年前のアンプでも最新のものに比べて、CDプレイヤーのようには遜色があるわけではない。

 鳴らしてみた。RSDA202の圧勝である。20Wもあればスピーカーは十分に駆動できるし、音場の広がり感が素晴らしい。筆者がこういうときにオーディオチェック用に愛用しているのは、この演奏である。6曲目の「You Look Good To Me」において、Ray Brownのベースがきちんと再生できるかどうかが要だと言われているが、このデジタルアンプは違った。もちろんわれらがRay Brownは圧倒的な存在感を誇るが、今までキンキン聞こえていたOscar Petersonのピアノがきちんと奥行きを持って聞こえるのだ。

 このRSDA202よりも、カマデンのキット(2041である)のほうが音がよいらしいから、300万のアキュフェーズよりもグレードが低いアンプをお持ちの諸兄は、いちど試してみてもいいのではないか。どーせ1万円ちょっとの出費だし。


本日の購入
 「日本の百年7 アジア解放の夢」ちくま学芸文庫
 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」講談社学術文庫
 「未来派左翼(上)」アントニオ・ネグリ NHKブックス
 「一冊でわかる フーコー」
 「一冊でわかる 科学哲学」以上岩波書店
 「壊れゆく医師たち」岩波ブックレット
 「現代思想 3月号 患者学 - 生存の技法」

 いったい、NHKブックスはどうしてしまったのだろうか。たしかに、「マルチチュード」以来(正確には、以文社の「帝国」の翻訳以来)ネグリが脚光を浴びているのはたしかのだろうけれども。

 それより、どこかでグラムシの「獄中ノート」の全訳(抜粋でもいいけど・・・)を出してくれないだろうか。今は、古本屋で昔のものが入手できるくらいである(みすずと平凡社から抄訳とも言えないくらいのものが出ているけれども)。

 まあ、出ても買うかどうかはわからないけどね。

2008年06月24日

知ることと知らないこと&虹の解体

 筆者はかつて熱血クラシック少年であったが(笑)当時は

「バッハのミサ曲ロ短調を知っているのと知らずに一生を終えるのとでは、人生において生きている意味が全く異なるのではないか」

 というようなことを本気で考えていた。今でも、その考えがまったく間違いとは思わない。やはり知ることと知らないことの間には、どうしようもない深淵が横たわっているという事実は肯定しなくてはならないだろう。

 また、

「音楽に優劣はない」

 という、一見リベラルな考えも、真実を突いているようには思えない。たとえば、日本のポピュラー音楽でも、筆者は桑田佳祐、(ちょっと落ちるが・・)松任谷由実、Dreams Come Trueなどの音楽は評価するが、さいきんはやりのリズム重視系の、あるいはフォーク回帰系のアコースティック系音楽は全く評価しない。そういう音楽と、クラシックあるいはジャズといった「正統派」音楽のあいだには、質的差異がおおいにある、そう感じざるを得ない。

 また、このごろのミュージシャンは、過去の遺産を軽視しすぎではないか、そうも感じられる。これはリスナーにしてもそうだが、過去にすでに達成されているレベルの音楽を、現代のミュージシャンが後追いしているようなものを、喜んで聴いているのは幸せだと言えるかもしれないけれども、より完成度の高い、優れた遺産を知らずに(聴かずに)死んでゆくには、人生は短過ぎるのではないだろうか?


 あらためてそんなことを思うのは、過去の遺産に耳を傾ける時である。たとえば、筆者が躊躇いなく「無人島へ持ってゆく一枚」に選ぶであろう(レオンハルトの「ミサ曲ロ短調」や、ヴァルターのマーラー第九番、あるいはソニー・スティットの「スティット・パウエル・JJ」、ボブ・マーリーの「キャッチ・ア・ファイア」などと迷うかもしれないけれども)あのグレイトフル・デッドの「アメリカン・ビューティ」を聴いてみよう、と思うような時である。

 これを聴くたびに思うのは、このアルバムを知るものはさいわいなるかな、ということである。彼らでさえ、この奇蹟を達成したあとは、これに匹敵するアルバムは二度と作れずに終わってしまった。そう考えると、奇蹟を量産したバッハとモーツァルトの二人は、やはりバケモノであったのだろう。

昨日の読了
 リチャード・ドーキンス「虹の解体」早川書房 B

 評価のむずかしい本である。ドーキンスの「イイタイコト」を理解できるひとなら、代表作「利己的な遺伝子」を読めば本書の読了は不要だろうし、逆にドーキンスの強調している、科学を軽視する精神に反駁すること、人間の脳のデザインはあくまで原初の人間の生活スタイルに照準を合わせていること、なので現代にはかならずしもマッチしない性質を持っていること、などに新鮮味を感ずる読者には、とても興味深い本だろうと思われる。まず、「利己的な遺伝子」を読んで、ドーキンスの説に説得力を感ずるならば、本書を読んでも面白いだろう。

 筆者がおもうに、現代社会のさまざまな病理は、ドーキンスの主張を応用すれば、人間の脳、精神構造が石器時代のままだから生ずるものではないか。つまり、現代社会と石器時代の社会のありかたがあまりにも異なるために、進化がついてゆかない脳がパニックを起こしていたり、あるいは石器時代なら大きな事件と考えられなかったこと(殺人など)が、現代社会では大きな事件として取りあげられたり、といったことが問題になっているのではないだろうか。つまり、人間の脳の働きが社会の変化のスピードに追いついていない、という「進化論的事実」を認識するところから、社会の病理の解析は進むのではないだろうか。

2008年10月11日

トゥーランドット

 キエフ歌劇場のメンバーによるプッチーニの「トゥーランドット」を観てきた。荒川静香が使ったという「誰も寝てはならぬ」が着メロでヒットしているのを反映してか、客の入りはまあまあ。キエフというとあのウクライナの首府である。外貨を稼ぎにやってくるのであれば、観てやらねば・・・

 もちろん演奏も劇も悪いわけはないのだが、筋書きにはさまざまな疑問を呈せざるを得ない。トゥーランドット姫には、ダッタン国の王に陵辱され非業の死を遂げた先祖の霊が乗り移っているということなのだが、そのトゥーランドット姫も、ダッタン国王の血を引くカラフ王子に(愛の力によるとは言え)再び征服されてしまうのである。つまり、本物語は二度も中国がダッタン(トルコ)に屈服してしまう、という蔑視の物語なのである。

 本作品は作者プッチーニの死によって完結されることなく終わった。召使いリューの死のあと、トゥーランドットとカラフ王子は結ばれてハッピーエンドで終わるのだが、初演者トスカニーニは、このリューの死のところで、プッチーニが完成できなかったという理由で演奏を打ち切ったらしい。それでは、音楽的にはともあれ(やっぱり補作部分は音楽的には弱いから)、劇としては悲劇になってしまうのだが・・・でも、そもそも奴隷の死によって幸福を手に入れるカラフの人格って、どうよ?

先日の読了
 「日本の百年5 成金天下」
 「日本の百年6 震災にゆらぐ」今井清一編著 ちくま学芸文庫 B

 リベラル派(マルキシスト?)今井の編著になる巻だけに、大正デモクラシーの時代を労働運動や共産主義とのかかわりで描いていると言ってよいだろう。大正デモクラシーという思潮時代、近年は日本の民主主義における理想的な時代として捉えるのではなく、批判的な見解が増えているように思われるが、そういう点ではまだ本書などでは肯定的な見解が多いように思われる。この時代からの労働運動の激化は、思想の浸透によるものではなく、資本主義の偏在によってその収奪が激しさを増してきたせいであることを本書は教えてくれる。やはり一読しておくべきなのだろう。

 

2008年11月30日

CD再生の怪

 前にルビジウム発振子を用いたCDのカッティングや、1bit A/D変換を用いたリマスタリングのことに触れたが、このところCDに用いられてきたポリカーボネートが耐久性(二十〜三十年と言われている)や光学特性(複屈折がある)のためによろしくないという議論があり、材質をガラス(カラヤン/ベートーベンの第九の特注盤が二十万円! CDのクオリティより演奏のクオリティに難がないだろうか・・・)にしたり、液晶用の高品質ポリカーボネートを使ってみたりするものが出てきている。たしかに、現行の製品は非常に傷が付きやすく、何とかしてほしいのは事実だが、何だかおかしくないだろうか。

 筆者じしん、前にCDのrippingの実験をやってみたことがある。今のCDプレイヤーでは、CDの品質によほど問題がないかぎり、情報は100%正確に読み取られる。つまりripされた音楽データは再現性を持って同じものとなる。ならば、どうして音質に差が出るのだろうか? それは、CDの演奏速度にエラー訂正や再読み取りなどの光学系の処理が追いついていないために正確なデジタル情報がD/Aコンバーターに送られていないことや、光学系から発生する振動や電圧の変動、電磁波などがD/Aコンバーター以後の回路に悪影響を与えていることが挙げられている。

 ならば、どうみても究極の解決策は、ハードディスクへのrippingである。多くの携帯プレーヤーユーザはそれを行っていると思うが(多くはmp3やAACなどの非可逆圧縮方式を使っているだろうが)、何らかの可逆圧縮方式を用いて全情報を取り込み、D/Aアンプに送り込めばよい。じっさい、高級オーディオメーカーのLinnは、そういう装置を発売している。

 もうひとつの解決策は、CD(あるいはSACD)プレーヤーをセパレート方式にすることだ。つまり光学系とD/A変換部を物理的に分離することである。そしてプレーヤー部には相当のRAMを積んで、一定のスピードでデジタル信号がD/A部へ送られるようバッファリングする必要がある。そしてD/A部はアンプと一体になっていてもよいし、純粋にD/A変換だけを行うシステムにすればよい。つまり、従来のオーディオの基本構成は

(CDプレーヤー)---(アンプ)---(スピーカー)

となっているが、これを

(読み取り専用CDプレーヤー)---(D/Aコンバーター内蔵アンプ)---(スピーカー)

または

(読み取り専用CDプレーヤー)---(専用D/Aコンバーター)---(アンプ)

とすればいいだけの話である。これで、CDの媒体による音質の差は、原理的に発生しなくなるはずだ。

 しかし、不思議なことに、このコンセプトを実行しているメーカーは、ほとんどない。日本のメーカーでは、アキュフェーズがこれに近い考えを持っているように思われるが(D/Aコンバーターのみの製品が存在する)、読み取り部だけの独立したプレイヤーを発売していない以上、中途半端なコンセプトと言えよう。つまり、一体型なのがわるいのである。

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沢田研二

 還暦コンサートをやったらしいが、それにしてもこれって・・・・・

2008年12月07日

The Bandの怪

 よい装置で聴くと再生音楽といえども感情を揺さぶるものとなる。

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 久しぶりにThe Bandの"The Last Waltz"を聴いてみる。筆者はわりと最近まで、このバンドを知るためには、この解散コンサートアルバムだけを聴けば十分で、他のアルバムはファン・オンリーなのかもしれない、という印象を持ってきたが、そうだろうか?

 その疑問は、まず彼らの作ってきたアルバムが、一見同じポリシーのもとで作られたようにみえながら、子細に検討するとまったく違う音楽性を持っているのではないか、というところから生じている。代表作四つについて検討しよう。出世作"Music from Big Pink"では、ボブ・ディランの濃厚な影響が歴然としている。むしろ、本作は例の"Big Pink"で試行錯誤を繰り返したすえの決算的なアルバムといえ、実質的にはディランとザ・バンドの合作である。

 そして次の"The Band"がいわゆるカントリー・ロックの決定版のように目されている。むしろ、このアルバムは「古きよきアメリカ」というコンセプトの基に作られたアルバムなのではないか。そしてカントリーをはじめ、ブルース、ゴスペル、フォークなどのさまざまな音楽要素を取り入れた、アメリカならではのロックを代表するバンド、という彼らへの評価は、このアルバム一作のためであり、このバンドはもっと違うものを目指していたのではないか、というのが次作をみると浮かんでくる疑問である。

 一般的には評価の低い"Stage Fright"、近年再評価されているようであるが、筆者もこのアルバムは大好きだ。美しいバラード "Sleeping"、たぶん彼らが残したもっとも耽美的な曲である "All La Glory"、ファンキーな "The W.S. Walcott Medicine Show"など、実験的な面を垣間見せながら、カントリー・ロックという枠を超えたところに音楽性を置こうとしていることがわかる。小沢健一が本アルバムを強く支持していることも有名な事実であろう。

 そして一転して後期を代表する"Northern Lights -- Southern Cross"は、リーダーであるRobbie Robertsonの色が濃く出ているアルバムであり(しかし後年のソロアルバム"Robbie Robertson"とはかなり違った音楽ではある)、いわゆる前期のアルバムに比べると、カントリーやフォーク的な色彩は薄くなっている。ブラスを多用して音色的に豊かになっているのも特徴である。それがシンプルな編成と比べて、よりよいかどうかは何とも言えないが。"Stage Fright" のコンセプトが「ファンキー」なら、本アルバムは「カナダ」であろう。

 これらのアルバムを続けて聴いてみれば、「ボブ・ディランの影響下にアメリカのいくつかの音楽要素を混ぜ合わせたバンド」という評価はちょっと単純に過ぎることがわかる。むしろ、アルバム毎にコンセプトを設定し、さまざまに実験を試みてきたさまが見てとれ、その緊張感(と、二人のリーダー、ロビーとレヴォン・ヘルムとの反目)のため長続きしなかったことが想像される。本バンドは、最初から短命に終わることが決まっていた、コンセプト・アルバムのための実験的なものであった、と考えた方が的確なのかもしれない。

2008年12月10日

The Golden Road & Beyond Description

 先日、友人宅で高級オーディオシステムを試聴してから、システムはともかく音源を少し揃えて見る気になった。ほんとうは、Bob Dylanの大量のbootleg集はおろか、オフィシャルすら聞き込めていないのだが、まあいいか、ということで。

 こんかい購入したのはGrateful Deadの全オフィシャル録音集である、The Golden RoadとBeyong Descriptionの2セット。前者が12枚、後者も12枚。Grateful Deadはバラック・オバマの選挙の際、十三年ぶりに再結成している。

 この記事を書くためにWikiPediaをみてみたのだが、Deadの熱狂的なファンであるデッドヘッドの中に、あのビル・クリントンとアル・ゴアの名前があること。ニューディールあたりからアメリカの保守とリベラル(外交政策においてそれほど格差があるわけではないのだが)が徐々にねじれ始めて、その支持層はほぼ180度交錯してしまう(もともと南北戦争の北軍側が共和党、南軍が民主党だったことを思い起こそう)のだが、今の(リベラルな)ミュージシャンはこぞって(ブリトニー某とか言うアタマの悪そうな・・・失礼・・・例外を除いては)民主党支持だというのもまあわかるようなわからないような。

超高音質CD

 おもうに、盤の品質よりも、収録されている演奏の品質が問われていると思うのは、筆者だけだろうか。

http://www.jvcmusic.co.jp/crystal//

2008年12月25日

bootleg考

 bootleg・・・これは、日本語では「海賊盤」、つまりあるミュージシャンが所属している会社が独占的に所有する著作権を犯した私的録音その他を発売したものを意味する。これは、いうまでもなく「違法」である。問題は、これを「違法」のひとことで斬り捨て御免でいいのか、ということである。

 ミュージシャンは、その演奏を喜んで聴くファンなしにはありえない。これが他の芸術では事情が異なる。美術であれば、ファンなしに生計を立てることができるかどうかという話を別にすれば、ファンというものなしに絵画や彫刻は成立するであろう。しかし、音楽や演劇のような時間性を持つ芸術の場合(グレン・グールドのように、レコード録音のみに活動を限定してしまえば、「ファンを持たない音楽家」は成立するかもしれないが)、それはありえない。聴衆や観衆のいない音楽や劇はありえないであろう。

 ということは、「発売されていないレコード」をリリースする行為は、それが質の良いものであろうとなかろうと、常にファンを益するものである。「質をコントロールしたい」という欲望を持っているミュージシャン(たとえば、クラシックだとカルロス・クライバーやアルトゥーロ・ミケランジェリがそれに当たろうか)の主張は、意味がない。それは、たとえ「質の悪いプレイ」であっても、もうそれは存在し、マイクを通じて録音されてしまったならば、もう存在するものだからだ。そしてその消費可能性を判断するのは、常にリスナーだからである。

 bootlegに規制をかけることは、以下のような弊害を産む可能性がある。ひとつは、以上のように、レコード会社が「売れない」と判断してしまった音源が、お蔵入りのまま日の目をみないことが起こりうる、ということだ。具体的な実例が、Neil Youngの名盤中の名盤、"Tonight's The Night"である。この演奏、ザ・バンド、とくにリック・ダンコの断固とした発言(失礼)がなかったら、発売されていなかったはずのアルバムだった。レコード会社の怠慢、あるいはセールスを気にした選択は、営利企業として当然ながら、優れた作品を世に出すきっかけを潰してしまう。そんなとき、bootlegというかたちで流出してくれることは、ファンとしては大歓迎なのだ。

 もうひとつは、Bob Dylanの例で実際に起こっていることである。レコード会社が従来bootlegとして流通していた音源を公式に発売してしまうことである。これは一見歓迎さるべきことでありながら、問題点がある。ひとつはセールスの関係上、「完全盤」ではなく、抜粋として発売される場合が多い、ということ。あるセッションの記録であれば、重複があろうと出来のよくない演奏があろうと、すべて欲しいと思うのがファンである。もうひとつは(こちらがより問題なのだが)あるアルバムを録音するときに、「これを将来bootleg seriesとして出そう」という意図で、意識的にある曲がアルバムに収録されないことである。要は、出し惜しみが生ずる可能性がある、ということだ。つまり、正式なメーカーのbootlegは、「海賊盤」にはなりえない、ということが言いたいのである。

 また、著作権が侵害されているのはたしかだが、それでレコードの売れ行きに影響を及ぼしているか、と言えば、それは否である。bootlegを漁るような輩は、当然正式なアルバムはすべて所有していることが前提だからである。

 もっとも、筆者の視点は完全にリスナー側からのものであり、ミュージシャン側あるいはレコード会社側からみれば、善悪は完全に逆転する。でも、戦略として、Grateful Deadのように、コンサートの録音はOK、ファン同士での音源の交換もOK、というやり方もあるわけだから(一度演奏された音は、ミュージシャンの手を離れてリスナーに所属する、という考えなのである)、あまり言い訳になるとも思えない。


 そんなわけで、筆者はこの問題に関しては、国立公園内で動植物を取って食べる件とは異なり、「違法行為容認」という立場を取る。取り締まりをきつくすることはできるが、それは結局誰のためにもならないように思えるのだ。そんなわけで、久しぶりにbootlegを買ってしまった。Neil Youngの新作、"Chrome Dream II"の旧作、幻の"Chrome Dream"である。

 曲は、すでにライブや"Decade"に収められているもので、ほとんど新味はない。二、三の曲だけが、新しく耳にするものである。特筆すべきは"Powderfinger"である。この曲は"Live Rust"や"Weld"などのライブ盤で聴くことができるが、どちらもCrazy Horseと演じられている。つまりエレクトリックの演奏だ。ここでは、アコギによってフォーク風に唄われている。

 筆者は愚かなことに、この曲が最初からアコースティック用に書かれたという可能性を考えてもみなかったのである。もともとNeilのエレクトリック・ソングは、アコースティック的な発想で書かれた、もしくは唄われたものがある、ということは、筆者が以前指摘していたにもかかわらず、である(たとえば、"When You Dance" や "The Loner"とか)。このアコースティック・バージョンを聴いて、つくづく自分の想像力の貧困さに腹が立ってしまった。このバージョンのために、わざわざこのbootlegを購入する意味は十分あるように筆者には思われた。

 解決策としては、bootlegを発売する会社から、ミュージシャン本人と所属レコード会社に歩合が行くようにし、海賊盤じたいは黙認する、それが誰もを幸せにする道であるように思えてしかたがない。

2009年01月07日

ラーメン&ブルーノート東京

先日、GOROへ靴の修理に行ったときに、近くにある「千石自慢ラーメン」に寄ってきた。ここは、大学生(研修医だったか?)のときに一度友人と行ったことがある。そのときの感想としては、「食後に口の中に味の素が残る。どうしてここが人気ラーメン屋なんだ?」というものであった。あれから年月が経ち、まだここは人気ラーメン屋としての名声を相変わらず博している。どんなふうに味が進化を遂げたのか、興味津々で行ってきたのだが・・・

 「全部入りラーメン」を注文して、食べ終わる。東京とんこつを銘打っているが、それほど濃い味ではなく、どちらかというと淡白な感じだ。
 さて、食べ終わると・・・なにやら妙な感じが口の中に・・・

 味の素のような・・・

 例の化学物質過敏症罹患以来、筆者の味覚も正常ではなくなっているかもしれないから、この記述の信憑性についてはそれほど自信はない。読者みずからの舌で確認していただきたい。ただし、筆者としては、わざわざ足を運んで「まずかったぜ!」と言われても、当然弁解のしようはない。


 さて、(たぶん)当代一のジャズ・ギタリスト、パット・メセニー@ブルーノートを聴いてきた。ホレス・シルヴァーの名曲「ロンリー・ウーマン」をやることを期待していたのだが、そうは問屋が卸さなかった。筆者は彼の演奏は、デビュー作「リジョイシング」と、ジョニ・ミッチェルの「シャドウ・アンド・ライト」の演奏しか知らないのだが、サウンドはフュージョン+アバンギャルド、時々アコースティックという感じで、かなりモダンである。いわゆる古典的な(ブルースを基調にした)ジャズ・ギターでも、ウェス・モンゴメリー、タル・ファーロウなどの超絶系ギターでも、ジョン・スコフィールドなどのフュージョン・ギターでもない。「ジャズ・ギター」という分類そのものが彼にとっては無意味であろう(ジェリー・ガルシアのギター・ワークがロック・ギターの範疇に入らないように)。筆者がおもうに、このフュージョン+前衛というカップリングはきわめて現代的に響く。熱狂的なファンも多く、世界的に名声を勝ち得ているのも故なしとしない。

 でも、聴いていて気持ちがよいのは、筆者にとってはジェリー・ガルシアのインプロビゼイションだな、残念ながら。

2009年03月13日

Phish再結成

 3/6,7,8の再結成ライブの録音が、はやくもbittorrent経由で配布されている。まずは、めでたい。

 まだきちんと聴いていないのだが、2004年の解散コンサートに比べて、大きく音楽性が変化したことはないようだ。何よりも、ファン(英語だと、fanではなく、phanと言う)の熱狂がすさまじい。

 一般的には、PhishはあのGrateful Deadの後継バンドと目されている。しかしそれはジャム・バンドであるとか、コンサートの録音とその自由な配布を許可しているとか、その「精神」において共通点があるだけで、筆者にはその音楽性には大きな差異があるように感じられる。

 それは、Grateful Deadの売りが「ユルさ」(魔術的、と称されることもあるが、どちらかというとだんだん熱狂してゆく、という方向よりは、その心地よさに眠くなってしまう、という方向であろう。コンサートではみな熱狂の方向へ向かっていたようであるが)であるのに対して、Phishのほうは「緊張感」を売りにしているように思われる。また、Phishのほうが、メンバーがクラシックを基礎にした音楽教育を受けている、という印象がある。というのは、Phishの音楽は、ロックをベースにして、クラシック、ジャズ、プログレ、サイケなどの各要素を取り入れたというかんじがする(ブルースやカントリー的な要素もあるが、ザ・バンドなどの比べると、すくない)。このあたりは、NPR.orgのAll Things Consideredの本歌取りであるAll Things ReconsideredにおけるBach的な「もじり」や、ガーシュインのRapsody In Blueを引用しているBathtab Ginといった歌に顕著であるように思われる。しかし、誤解のないように付け加えておくが、これはPhishの音楽が、Deadのそれよりもより魅力がある、とか、高級である、という意味では決してない。

 bittorrentを使える環境であれば、彼らのライブは簡単に(無料で)手に入るのだから、聴いてみるのもわるくないだろう。たとえば一流どころのU2とかPearl Jamなどに比べても、ポピュラリティを別とすれば、Phishの音楽は決して劣るものではない。むしろ、クラシックやジャズのおいしいところをうまく利用している(ここが、クライズラー&カンパニーなどの気色悪さとちがうところである)音楽性の多彩さを考えれば、面白みは上ともいえるのである。

2009年03月30日

The Bandのベスト盤について

 あまり音楽について積極的に書くことを控えているのは、自分の好き嫌いについて別に公表する意味もないと思うからなのだが、Phishについて書いてしまったついでに、ここ数ヶ月悩んでいる問題についても書いてしまうことにする。それは、友人から「ザ・バンドのベスト盤」について尋ねられたときに、現行のベスト盤の選曲に対してあまりにも違和感を感じてしまったことに端を発する。では、自分が考える彼らのベストの選曲は何だろう? ということである。

 この問題のむずかしさは、あのクラプトンをして、"Change my life, change the American music" と言わしめた衝撃のデビュー盤 "Music From Big Pink" を抜きにして選んでしまい、このアルバムに戻ると、今までの選曲が全く無意味に思えてしまうことである。つまり、アルバムに収録されている曲の出来は、"Music From Big Pink" がダントツによいのだ。

 で、実際に、これを彼らのベスト盤に選ぶという選択肢もあり、事実たぶんそれが多数派なのであるが、「ザ・バンドらしさ」、つまり、彼らのイメージに最も合致するアルバムは、といったら、第二作目の "The Band" なのだと思われる。だから、ベスト盤を作るなら、その二枚からの選曲を中心にすればまちがいはないと思われるだろう。しかし、筆者のみかたは異なる。

 筆者はむしろ、"Stage Fright", 後期の傑作 "Nothern Light - Southern Cross" そして、一般的な人気のない "Islands" とかから多く選びたいのだ。それは、筆者がへそ曲がりで、人と違うことをやりたい、というだけの理由ではない。ザ・バンドは、コンセプト・バンドだったという仮説を以前に述べたが、そういうコンセプトを別としても、このような後期のアルバムは、落とすにはあまりにも惜しい佳曲を多く含んでしまっている。


 前書きはこのくらいにしても、実際に選ぶ作業をはじめてみると、一般的には言及されることのない彼らの魅力にあらためて気付く。スロー・テンポのバラードに秀作が多い。"From Big Pink" "In A Station", "The Band" の "Whispering Pines", そして"Stage Fright" の "All La Glory" である。
 また、"The Basement Tapes"の諸作に名曲が多いのは当然としても(Bob Dylanが作曲に絡んでいるから)、"Katie's Been Gone" や "Bessie Smith" のような曲は、その何気なさの中に彼らの代表作となりうる魅力を含んでいる。
 彼らの代表曲として語られることがやはりあまりない側面として、シンフォニックな響きを持つ "Endless Highway" がある。このようにオルガンが活躍するミドル・テンポの曲は彼らの最も得意とするところである。ここで思い出すのは、ジャズ・サックス奏者のアート・ペッパーのことである。彼の全盛時代、最も得意としていた曲は、古いスイング時代の、"Stonpin' At the Savoy" のような、ミドル・テンポの曲である。アップテンポでもスローテンポでもない曲を得意とするミュージシャンは、実はすくない気がする。

 しかし、ほんとうに困ってしまうことは、やはり彼らが筆者にとってのホームグラウンドであることであろう。他のミュージシャンに浮気しても、結局彼らに回帰してしまうのは、それが筆者にとって「ホンネ」であるからにほかならない。
 最後に具体的な筆者的ベストを挙げようと思ったところで、はたと気付く。ふつう、ザ・バンドのボーカルは、ドラムのレヴォン・ヘルムだと認識されている。しかし筆者が選んだ曲は、そのほとんどがベースのリック・ダンコがボーカルを取った曲だ。
 いちおう、以下に暫定的な選択を挙げておくが、何だかこれでも全然ベストになっていない気がする・・・

"Music From Big Pink" から
・In The Station
・Katie's Been Gone(これはThe Basement Tapesの曲)
"The Band" から
・Whispering Pines
・The Unfaithful Servant
"Stage Fright" から
・Sleeping
・All La Glory
・The Rumor
"Moondog Matinee" から
・Endless Highway
"Northern Light - Southern Cross" から
・Acadian Driftwood
・Rags & Bones
・Christmas Must Be Tonight
・Twilight (最後の二曲はもともと"Islands" に収録されていたものの別バージョン)

 とても自信がある選択とはいえないが、"All La Glory", "Endless Highway" そして "Acadian Driftwood" の三曲、そしてザ・バンドらしくない軽快な "Chiristmas Must Be Tonight" と "Twilight" の二曲はかならず入れるだろう。
 しかし、"Endless Highway" がザ・バンドを代表する曲のひとつ、と言われたら、たいがいのザ・バンド・ファンは異論を唱えるにちがいない。この曲は "Stage Fright" の系列の曲のひとつで、本アルバムを第一に推すひとびとならば首肯するにちがいない。筆者の今の意見では、さきに挙げた三曲を繰り返し十回くらい聴いてみて、何も感ずるものがなければ、今のところ縁なき衆生である、としか言いようがない。

2009年04月05日

iBasso

 の、ヘッドフォンアンプを購入した。T4というモデルである。
 これ、iPodとヘッドフォンの間に挿入するアンプなのだが、ちょっと試聴してみての印象。ゲインの高いイヤホンとの組み合わせでは、なかなかiPod内蔵のアンプもわるくない、というかんじ。iPodの音質を100とすると、iBassoでは105から110という印象である。
 まあ、クラシックやジャズの高音質録音を比べたり、ゲインの低いヘッドフォン(筆者が常用しているのは、BOSEのノイズキャンセリングホンであるQuietComfort3である)と併用すると、かなり違うのかもしれない。

 轟音で定評のある、英国Dysonの掃除機をかけながら、QuietComfort3とiPod+iBassoの併用で、グレン・グールド/レオポルド・ストコフスキーのベートーベン「皇帝」を聴いてみる。まず、ヘッドフォンだが、どこの製品でもよいけれど、ノイズキャンセリング機能がないものでは、試聴不可能である。Dysonのノイズは日本製の比ではないからだ。
 この演奏、もともとバーンスタインとの組み合わせで録音されるべきところ(他のベートーベンの協奏曲はすべて録音が終了していて、残すところこの「皇帝」だけとなっていた)、グールドのそのあまりのテンポ設定(冒頭のイントロが遅すぎるというものだろう)にバーンスタインが腹を立てるか呆れるかして、「ワタシはこのひととは共演できません」と拒否、急遽ストコフスキーに(しかし、選りにもよってどうしてこの指揮者を??)白羽の矢が立ったというものだ。
 世間ではゲテモノ扱い(そりゃ、そうだろう・・・)されているこの演奏、そんなにそんな演奏なのだろうか? 筆者が聴いたことがある(演奏内容をある程度覚えている)のは、バックハウス/シュミット=イッセルシュテット、グルダ/シュタイン、そしてブレンデル/レヴァインのものだが、前二者は使っているピアノ(ベーゼンドルファー)とオーケストラ(ウィーン・フィル)が同じだから、世間で言われているほど演奏内容に違いはない。演奏が端正なところを除けば、伝統的なベートーベンのイメージに合致するものだろう。ブレンデル盤は知的な演奏者の組み合わせで、ライブ盤にも拘らずさほど熱気は感じられず(あるとすればレヴァインのやや気負った指揮だろうか)これもヒロイックなイメージをあまり感じさせない。
 で、このグールド盤だが、ピアノは相変わらずバッハと弾くときのスタイルと同じである。ときどき装飾音が入るのが面白い(ゲテモノたるゆえん?)。テンポは、ストコフスキーに諭されでもしたのだろうか、音楽を破壊してしまうほどのスロー・テンポではなく、十分違和感なく聴けるものである。ストコフスキーの、音楽を大げさにしない(ベートーベンを大作曲家として、もったいぶって振らない)曲作りとも相俟って(おそらくオーケストラが、当時の彼の手兵であったアメリカン交響楽団なのもプラスに作用していよう)、好感の持てる演奏だ。
 ちょっとぶっ飛ぶのが、曲のエンディングである。ストコフスキーは、ここで最後の音符を、「じゃぁーーーーーん」と、伸ばしている。楽譜を見ていないが、他の指揮者がすべて「ばん!」と終わらせているのを聴く限り、例によってストコによるスコアの改変だろう。
 世間でやっているところの「誰の演奏がベスト?」といった選考には漏れるものであろうが、決して悪い演奏ではないように筆者には思われる。

 ついでに書いてしまうと、筆者は世間で高名なところの、グールドによるバッハの演奏にはとても懐疑的だ。誰が演奏しても退屈なゴールドベルグ変奏曲や、演奏スピードが速ければ速いほど効果的に響くイタリア協奏曲などの少数の成功例はさておき(「フーガの技法」などを取り上げたことも評価はできる)、特に組曲の形式を用いて書かれている作品群(イギリス組曲、フランス組曲、パルティータなど)では、曲の魅力を呈示することに失敗している。なぜならば、グールドのピアノは「スピード」を主として組み立てられているからである。
 グールドのピアノの演奏を聴いたあとで、レオンハルトのチェンバロによる演奏を聴くと、チェンバロという不自由な楽器(音量の調節ができない、というのは、ある意味致命的な弱点である)を用いた演奏を聴くと、まるで別の曲のように聴こえる。グールドが先へ先へ進もうとして取りこぼしてしまっている細かいフレーズ(特にそれぞれの声部が響きあって形成されている和音の集まり)を丁寧に拾い、アゴーギクをつける(チェンバロは音量が変えられないからディナーミクは使えない)という方法で曲に多様な表情を与えているのを聴くと、この演奏が長年評価されてこなかったことに奇異の念を感ずる。いまだにグールドのバッハが高い評価を与えられ続けているのも謎であるが。

2009年04月20日

どのジャンルを聴くのが経済的か?

 筆者がしばらく離れているうちに、レコード業界は大変なことになっているらしい。昨年あたりから、主にEU圏内でクラシックのレコードの投げ売り(?)がなされている。筆者が先日購入したGlenn Gouldの全集などかわいいものらしい。極め付けはこれであろう。

 Mozart Complete Works 170 CD Box

 輸入盤では送料を入れても12,000円、一枚あたりの単価は70.6円である。間違ってもこちらを買うべきではないだろう。

 モーツァルト大全集 (全24巻/CD180枚組)(DVD付)

 ブラームスのこれもよさげだが、演奏者がネックか。録音はDGだからいいだろう。46枚で8,200円、一枚180円はなかなかC/P良好だ。

 Brahms Complete Edition

 これらに刺激されて、先月から散財しているのに、こんなものを買ってしまった。

 Gustav Leonhardt Jubilee Edition

 CD15枚で5000円弱、それほど安くはない。では、こちらはどうか。

 Deutsche Harmonia Mundi: 50 Years (1958-2008)

 こちら、Tower Recordで送料込みでほぼ5,000円。50枚組だから、一枚100円。まずまず満足できる値段であろう。どうやらこの時代、クラシック・ファンでいるのが最も散財しないでよいらしいのだ。特に、ロックのはひどい。未発表の音源を既発のものと組み合わせて水増しして売るような商売が横行しているのだ。これでは海賊盤(ブートレグ)は非難できまい(筆者も買うことにする)。ファン心理につけこんだあくどい商売と言えよう。たとえばこの商品である。

 Neil Young Archives, Vol. 1: 1963-1972

 では、ジャズの世界ではどうか。1999年に惜しまれつつ世を去った不世出の(ちょっと大げさ?)ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニの全集が出ている。途中でBlueNoteからDreyfusへ移籍しているため、それぞれのものが出ている。

 Complete Recordings of Michel Petrucciani
 The Complete Dreyfus Jazz Recordings

 このふたつは買ってしまった。いちばん出そうなのはMiles Davisのcomplete boxのようなものだが、彼も途中で移籍しているためか、オフィシャルでは存在しない模様である。RockではBeatlesのcompleteも完全なものは存在しないようだ(分売になっているみたい)。


 このところいろいろ購入したCDの中では、すごくありふれた結論ではあるのだが、新しいものではLou Reedの "Berlin Live" が、そして筆者が回帰しているWoodstock時代のRock'n Rollについては、Allman Brothers Bandの2nd, "Idlewild South" と、超有名盤であるCrosby, Stills, Nash & Youngの "Déjà Vu" がよい。Lou Reedは年を取ってますます円熟味を増しているうえに、このアルバム、録音がとてもよい。Louは機材オタクでもあり、例のアコースティックライブでも、生ギターの音を損なわない特別のアンプを使用したらしい。

 "Idlewild South"については、これが出た当時はあまり高評価を受けなかったらしいのが不思議である。何というか、非の打ち所のない演奏である。ブルースを白人(ということは、日本人にも)受けするようにロック的にアレンジしたものとしては彼らの演奏が最右翼であろう。ブルース・ギタリストとして名の高いクラプトンも、デュアン・オールマンとロビー・ロバートソンには一歩劣る、というより、彼らの技法をマネ、というと言い方がわるいが、取り入れているのである。そして "Déjà Vu" については、、、もともとCSN(当然Yも!)についてはまったく興味がなかったのだが、かのJerry Garciaが彼らの演奏を聴いて、「自分のバンドでもコーラスをやろう!」と思い立ち、生まれたのが大名盤である "American Beauty" であるからして、これを避けるわけにはいかなくなった。もともとライブ盤の "4 Way Street" は持っていて、あまり感銘を受けなかった。ここに収録されていた "Ohio" が、スタジオ録音盤に勝るものではなかったからである("Ohio"の成立にまつわる事情を知っていれば、それも当然であることが理解できよう)。

 で、このスタジオ録音盤の "Déjà Vu", Joni Michelの "Woodstock" が収録されている。Joniの "Shadows and Light" に収録されていたものと比べてみるが、どうも同じ曲には聴こえない。歌詞をみながら聴いてみると、どうやら歌詞は同じようである(笑)。メロディラインに変化がないのだとすると(本当に変化がないのだろうか?)、ビートが入るだけでここまで曲が変わってしまうものだということになる。一般的には、もちろんJoniのオリジナルよりも、ここでのカバーのほうが有名だと思われる。1970年という微妙な年にreleaseされたこのアルバム、ベトナム戦争の敗戦やニクソン・ショック、そしてオイル・ショックという出来事によって、アメリカの成長が停滞し、ヒッピー文化が終わるその幕開けを告げるアルバムとなる。そういった時代背景を離れて聴いてみても、やはりこのアルバムは名盤と言えるだろう。Woodstock、そこに行けばみな自由になれるよ・・・

 そのほかでは、しばらくFrank Zappaのアルバムを集めていこうかと思っている。危険な徴候である。

 しかし "Idlewild South" にしても、"Déjà Vu" にしても、収録時間30分強にして、両方ともSHM-CDだから一枚2,500円くらい。とてもC/P的にはお勧めできないのであった。その二枚だけで、DHMの50枚組が買えてしまう・・・

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2009年06月18日

忘れないうちに

 購入メモ。こんどから音楽CDについても書くことにする。

先日の購入(本)
 プリーモ・レーヴィ「プリーモ・レーヴィは語る」青土社
 クロード・レヴィ=ストロース「パロール・ドネ」講談社選書メチエ
 吉行淳之介「街角の煙草屋までの旅」
 開高健「戦場の博物誌」以上講談社文芸文庫
 J.フォン・ノイマン/O.モルゲンシュテルン「ゲームの理論と経済行動1」
 中沢新一「緑の資本論」以上ちくま学芸文庫
 福田歓一「デモクラシーと国民国家」岩波現代文庫
 小田実「大地と星輝く天の子(上下)」岩波文庫
 塩野七生「海の都の物語123」新潮文庫
 「宮本常一が撮った昭和の情景(上下)」毎日新聞社
 「思考のフロンティア 壊れゆく世界と時代の課題」岩波書店

 われながらよく買ったり・・・ノイマンの「ゲームの理論」なんて、本当に読むのだろうか。

最近の購入(音楽)
 B.B.King「ジャングル」
 Dr.John「ガンボ」
 Creedence Clearwater Revival「クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル」

 最後のは事実上の全集。

2009年07月07日

天誅組

最近の購入(本)
 富士川游「日本疾病史」東洋文庫

最近の購入(CD)
 B.B.King "Live at the Regel"
 CSN "Box Set"

 購入して気付いたのだが、このBox Setは主にunreleasedのもののために出されたもののようで、オリジナル・アルバムは買い揃える必要があるようだ。

最近の読了
 大岡昇平「天誅組」講談社文芸文庫 B

 大岡の本はすべてA評価をつけてしまいたくなる誘惑に駆られる。本作も力作である。面白いのは・・・解説でも触れられているとおり、本作での主人公は、天誅組の首領である吉村寅太郎ではない。出だしは吉村の人となりが「小説風に」描かれているから、そのように合点するのだが、読み進めてゆくにつれてむしろ鷗外が書いたような史伝体となってゆく。そして、どうやら大岡が描きたかったのは、人間ではなく、幕末という時代におけるひとびとや各勢力のせめぎ合い、そして歴史の一般的な理解とは異なる、大岡が到達した「真相」であるように思われるのだ。

 続編を書くといっていながら、本書自体はまさにここから小説がはじまる、という、天誅組の挙兵の瞬間に終了する。そして、「ここからは理想が崩れてゆく悪夢の四十日間」という書き方をして、その間の吉村の苦悩や葛藤を描くという、小説家としての本領をあっさり放棄している。そして、この滔々たる時の流れを描くために(しかしこの時間的な経過はたったの一年である)膨大な資料を渉猟して、まるで本書が歴史書としても読めるような、そんな手法を取っている。鷗外の史伝は、鷗外自身の独自の視点をむりに押しだすことなく、資料を再構成していくうちに、その文体のなかに鷗外かれ自身の個性を滲ませるという、小説家らしい手法で書かれているのだが、この「天誅組」の半ば以降は、むしろ大岡が小説家としての手腕を、叙述の順番やその呈示のしかた、そして資料の読みといった、歴史家がその個性を発揮する部分に力が入れられていることが興味深い。

 その結果、本書は読者が「小説」に期待する何ものか、を超えるものに成長してしまった。その成長が本書の価値を高めているのかそうではないのかは議論があろうが(小説ではない、という批判にも十分根拠があるように思われるから)大岡の小説家としての一側面を知るために見逃せない格好の作品であると同時に、幕末の政治、とくに幕府内部の権力抗争および徳川幕府崩壊の理由を知りたいひとびとにも必読の作品であることは確実であると思われる。

2009年07月11日

高尾山トレイルランニング

 タクシーを使わずに新宿に行こうとすれば、筆者の環境では5:25の総武線高尾行きに乗るのが最も早い時刻である。そこから高尾で大月行きに乗り換えると、藤野へ着くのは6:42である。

 ここから神奈交のバス停である陣馬山登山口までは、登山地図によると30分かかることになっているが、実際には15分くらいで歩くことができ、7時には登山口へ着くことができる。

 ここからしばらくは車道歩きである。最後の民家がなくなったところから山道に入る。植林で眺めもなく単調な道を行くことになる。コースタイムは1時間40分だが、8時には陣馬山山頂を踏むことができる。本日は筆者が一番乗りかもしれない。

 ここからは定番の陣馬山〜高尾山トレインランコースである。明王峠8:20、景信山9:00、高尾山9:50、下山10:10という感じである。走ったのは全行程の1/2くらいという印象だが、結構疲れた。

最近の読了
 バーバラ・タックマン「決定的瞬間」ちくま学芸文庫 C
 十川幸司「精神分析への抵抗」青土社 B

 「決定的瞬間」、定評ある「八月の砲声」ほどのドキュメンタリー性がないうえに、「歴史はある個人が犯した偶然によって変わってしまう」という史観が鼻についてどうもいけない。ドイツの外相がぽかを犯したのは確かだろうが、アメリカの参戦については時期は変わったかもしれないが、決定的に変わることはなかったのではないだろうか。本書を読んでの筆者の収穫は、第二次世界大戦までのアメリカは、基本的にモンロー主義の国だということが再確認できただけである。

 「精神分析への抵抗」、著者が徹底してラカンを読み込み、その結果書かれた論文を集めたものである。筆者にはラカンの理論は荒唐無稽なものにしか見えないのだが、そうだとしても彼の体系を肯定的に研究すれば、それだけのものが生み出せる、という「傾倒するのはどんな思想家であってもよい」ということを証明するような本であるように思われる。一言一句ラカンを回収しようという著者の執念には恐れ入る。

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2009年07月15日

phish.com

 から、CDが大量に届いた。ジグソーパズルとか楽譜とかポスターとか、何をオーダーしたのか認識しないで同時に購入してしまった。関税を700円取られた。

最近の購入
 Phish "Lawn Boy" "Farmhouse" Billy Breathes" "A Picture Of Nectar" The Sicket Disk" "The Story Of The Ghost" "Hoist" "Rift" "LivePhishDownload 03.06-08.09"

 オフィシャルのスタジオ録音のアルバムの持っていないもの全部と、再結成ライブ。

 Crosby, Stills and Nash "CSN" "Daylight Again"
 Sly and The Family Stone "There's A Riot Goin' On"
 Bob Marley & The Wailers "Confrontation"

 デビューアルバムの"Crosby, Stills and Nash" は、SHM-CDが出るのがわかっているので、それを購入することにした。「暴動」は、何となく。特に理由はない。


 当直室にあった「ゴルゴ13」のシリーズを、あっただけ全部読んでしまう。さいきんはiPhoneなどでも読める電子ブック形式のものも出ているらしいが、やはりこういうものは個人的には紙の媒体で読みたいと思う。手塚治虫の「火の鳥」とか、まだ読んでないし(「ブッダ」は、出版社が某宗教団体系である限り、読む機会はこんりんざい来ない気もする。別の出版社から出てくれないだろうか。電子ブックなら、可能性もあるか?・・・と書いていたら、手塚プロダクションが直接電子ブックを発行している! これなら、買えるか!!)。

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2009年10月03日

謎掛け

 次の四人(グループ)の共通する点は、何でしょうか?

◦アレア(イタリアを代表するプログレ・ロック・バンド)
◦ソウル・フラワー・ユニオン(日本のロック・バンド)
◦大工哲弘(八重山民謡歌手)
◦アルトゥーロ・トスカニーニ(いわずとしれた往年の大指揮者)

2009年11月14日

ripping

本日の購入(書籍)
 坂口菊枝「ナンパを科学する」東京書籍
 小島信夫「信濃」講談社文芸文庫
 スチーブンソン「ジキルとハイド氏」光文社古典新訳文庫

 坂口氏の本は、何かの記事で日経に彼女が書いた記事が紹介されていて、面白いと思って買ったものだが、内容を半分くらい読んでみると、そうでもなかった。。。

本日の購入(音楽)
 頭脳警察「俺たちに明日はない」
 「がんばろう 日本の労働歌ベスト」
 「ヴォルガの舟 ロシア愛唱歌集」

 う〜ん、末期だ。

 ところで本日、以前に購入したJanos Starkerのコダーイをrippingしているときに、これは筆者が欲しかった1950年のPeriod盤(バルトークの息子ペーターによって録音された、名演・名録音と言われるもの)と異なる演奏であることに気付いた。

 買い直さねば。

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