ときどき質問されることがあるので、まとめてみた。
以前の筆者なら以下のように答えたとおもわれる。
「日本の国益を減少させるから」
基本的には今でもその考えはまちがっているとはおもわないが、少々ことなったふうに考えている。まずは、その前提となる議論として、「ポリティカリー・コレクト」というかんがえかたについて少々言及する。
「ポリティカリー・コレクト」とは、「男女平等であるべきだ」とか「少数意見は尊重しなければならない」といった、反論し難い意見を指す。つまり、理念としては正しい意見と大多数が考えている意見のことだ。これを政治的に主張したばあい、なかなか反論を挙げるのはたいへんだ。政治的な反論としては、「理念としては正しいが、実際の政策としては却って有害となる」とするしかないだろうが、理念として正しいことを認めている以上、それが有害である立証責任はその意見に反論する側がもつことになる。つまり、ポリティカリー・コレクトな意見を吐くことは、それだけで議論のうえでは優位に立つことになる。
では、それを踏まえたうえで、筆者は小泉内閣(というより、小泉純一郎の政治姿勢)は、「ポリティカリー・コレクト」とは考えていないことを最初に述べておく。つまり、例えば経済政策で言えば、いわゆる新自由主義的な「規制撤廃、自由化、民営化」とか、外交政策で言えば「対米追従、対中韓強硬」などの個々の政策は、かならずしも広く「正しい」ものと支持を受けているとは考えていない。しかし、巧妙な宣伝によって、「痛みを分かち合う」とか「民営化はすべて正しい」というフレーズが、大前提として理念的に正しいものだ、という空気はできているようにも感じる。
さて、先ほど述べた「国益」という考え方にも注意が必要だ。先のフレーズでは、ほぼ「日本のGDPを増大させる」というニュアンスで用いている。ただ、「国益」とは、経済面のみに限らないことには注意が必要だ。例えば、GDPが小さくとも、国民の幸福の総和(というものが測定可能かどうかはまた議論があろうが)は大きい、ということは可能性として十分ありえるからである。
さらに、一般論として、与党が変わるとどのくらい「国益」は変わるのか、ということについて、簡単に検討しておく。世界の共産圏以外の国々、特に先進国と呼ばれる国々では、多党制(二大政党制をふくむ)が採用されている国がおおい。これはどういうことを意味するだろうか。一党独裁制がさまざまな問題を発生させることについては、戦前のドイツや戦後のロシアといった説得力のある実例があり、ほぼ認められているといえよう。では、今述べた消極的な理由以外に、積極的に多党制を擁護すべき理由はあるのであろうか。
通常は、多数の人の利害をひとつの党が代表することがむずかしいから、最低限でもふたつの政党が必要だろう、と考えられている。ただ、一億人の人口を持つ国で、ひとつの党が5000万人、もうひとつも同数の人々の利害を代表する(あるいは支持を得る)という仮定はかなり乱暴であって、これは擬制的なものといってよい。本来は異なる主張の数だけ政党が必要なはずである。よって、特に二大政党制と多党制のあいだにはかなりの懸隔があるといえるのである。二大政党制はとても「幅広い民意を反映」するものとは思われない。
しかし、実際には二大政党制はいくつかの国で実例があり、ふたつの大政党のあいだで政権がキャッチボールされることに積極的な意味を与えている学者や世論が存在する。政権交代が可能であることで、悪い政策を打ち出したばあいに、それを民意として示すことができる、という仮定に基づいている。
筆者は実はこの意見にかなり懐疑的である。むしろ、二大政党制の長所は、どちらの党もあまり偏った政策を打ち出すことが不能である、という、相互牽制にあるのではないか、と考える。これはどういうことか。先ほど述べたように、国民の半数を代表する、という仮定にはかなりムリがある。よって、政策としては、「自分の党を支持していない」残りの半数の意向にも注意を払わねばならず、その結果支持層への露骨な利益誘導がやり難くなること、そして「明らかに国民所得を下げたり、国益に反するような政策を立案できなくなる」という結果になるのではないか、ということである。
話が若干込み入ってきたが、筆者が言いたいことは、二大政党制のばあい(これは本来は多党制でもあまり話は変わらない)、どちらの政党が政権についても、「国益は全体としてはさほど変わりはなく、国内でのその分布が若干変わるだけ」という結果が得られるのではないか、ということである。つまり、政府によって「国益」(GDPと言い換えてもそれほど間違いではない)の総和はそれほど変化はしないが、ディストリビューションが変化する、ということは、ゼロサム社会を前提としていることになる。
ここで小泉政権に話を戻す。筆者は、「小泉が政権を取ったことで、国益自身も減少する」と当初かんがえていた。そして、今もその意見はさほど変化はしていないが、それが支持をしない大きな原因ではない。むしろ、先ほど述べた「分布」のちがいに着目したいとおもう。
つまり、小泉新自由主義政策、右寄り路線によって、国内には利益を受ける層(またはプライドが満たされ、幸福感を感じられる層)と、不利益を被る層とに分けられる。そして、筆者はまちがいなく自分が後者に属することを確信しているし、それよりも問題だとおもうのは、経済的には不利益を受ける層に、その自覚がなく、巧妙にだまされているのではないか、ということだ。国民の80%が支持をするということは、筆者の上述の議論からすれば、30%程度はだまされている、あるいは誤解をしている、という事実が生じていることになる。
注意したいことは、このゼロサムの分布は、かならずしも有利な層が50%、不利な層が50%とはならないことである。たとえば、アメリカの富の50%以上が、1%程度の一部の富裕層に保持されているが、ここに累進課税をしっかりかけて再配分をすれば、99%が利益を受ける、ということもできる。よって、筆者の危惧は、逆に、小泉政策によって、優遇される層はわずかな割合であり、むしろ不利益になる層のほうが多いにもかかわらず、そうは思っていない層がおおいのではないか、ということである。
なので、筆者が支持しない第一の理由は、自分が不利益を受けるからであり、第二の理由は、「支持している層のかなりの部分が、自分の(経済的)不利益を認識していないような、そういう宣伝(洗脳といいかえてもよい)を行っている」ということだ。
もっとも、当然ながら、どんな政府もみずからを正当化しようとするから、そのプロパガンダじたいはそれほど責められることはないのかもしれない。ただ、こんかいの出来事は、誰かが笛を吹いて大衆が踊った、という大衆愚民論に基づいて生じたものではない、と考える。それよりも、フーコー的な「権力としての知」が発動された、という印象すら覚える。統制を統制と感じさせない権力の行使。これこそ、オーウェルの「1984年」のような、あからさまな権力の行使よりも、さらに統治としては完全なかたちであるといえよう。
だから、当然ながら、そのような「知」のかたちは、小泉純一郎ひとりでつくりあげたものではない。いや、小泉じしんもそのような意識はなにひとつとしてないのかもしれない。もしその「権力としての知」が時代のひとつの要請から自然発生的に生じてきたものであるとするならば、それはすぐには如何ともし難いものかもしれない。それは恰も全世界から非難されながらも、アメリカが帝国としての違法な力の行使をやめないことと同じであるのかもしれない。