某所で、新聞を読まないことを突っ込まれてしまったので、新聞を含めて筆者のメディアに対する姿勢、ポリシーを書いておこう。
まず、これを言ってしまっては身もフタもないが、筆者は実は時事的な話題にあまり興味はない。なので、たとえば姉歯事件など報道は追っているものの、<真実>がどのようなものであるか、というよりは、メディアの取り上げ方、そのポリシー、また国会での議員や与党の追求のしかたといった、事件を処理するシステム(当然、この中にはメディアがおおきなウェイトを占めている)にどちらかというと関心がある。なので、新聞を読む必然性をかんじないのだ。もう二十年ちかく新聞は読んでいないと思う。それで別に困ったことは何も感じない。テレビをみない人間であること、W辺J一の三文小説に関心がないこと、なのでそれでよいのではないか。
また、事件というものは、たとえば9.11をみればわかるとおり、勃発から時間が経過するにつれてその歴史的な意義といったものが浮き彫りにされるもので、リアルタイムに追うことは専門家と篤志家に任せればいいのではないかという思いもある。また、今(古本屋に売るために)集中的に読書している佐伯啓思氏が言うことには、「岩波文庫と若干の二十世紀の古典があれば、現代を分析するツールとしては十分」とのことなのだが、基本的にこのスタンスには賛成なのだ。
また、各国のメディアはそれなりに偏向しており、たとえば金子勝らの「メディア危機」(NHKブックス)のような労作もある。その偏向をあらかじめ頭に入れておいて報道を修正する、という芸当もできるのかもしれないが、なかなか各国のメディアを比較するのもたいへんだし、そもそも国内事件については国内メディアに頼らざるを得ないことも多い。すると、分析レベルはもちろん、事実レベルでも報道の正確さを欠く国内メディアをつうじてわざわざ情報を入れるのもどうか、という気にもなってくる。
と、いろいろ書いてはみたものの、基本的に、あまり世の中の短期的なうごきには関心がない、ということに尽きると思われる。小泉自民党の異様な支持率のたかさにきづかなかったのもそれが理由である。
さらに、報道じたいはある世界観の表明であることを付記しておこう。報道を追っていれば世界がわかる、というのはたいへん危険な考え方であるとおもう。そういったメディアの役割をおしえてくれるのは、J.Nyeの「ソフト・パワー」(日本経済新聞社)とか、E.Saiidの「イスラム報道」(みすず書房)などが古典だろう。もちろんマクルーハンを抜かしてはいけない。
もんだいは、報道をみてゆくうえでの最初の「もののみかた」をどうやって身に付けてゆくのか、ということである。このような「情報リテラシー」の教育は、これじたいがたいへんなイデオロギー性をはらむために、学校教育で行うことは適当ではないだろう。
ようするに、自分のもののみかたがある偏向に汚染されていることの自覚、これがたいせつである。
>山村さん
いえ、まったく異論はございません。
たぶん、特定の個人いがいの、世間のひとびと(たとえばbloggerとか)が何を考えているかということに、ほとんどまったく興味がないのがもんだいといえばもんだいなのかなあ、と。
だから、あまり未知の方がこれを読んでくださることも期待していないし、trackbackをつうじて「輪」ができることもあまり信じてません。
コメント (1)
僕んとこに、また少し書いといたよ。
投稿者: michiaki01 | 2005年12月24日 18:24
日時: 2005年12月24日 18:24