年末を迎えて何となく忙しい。ことしは去年とうって変わって厳冬のようだが、これも温室効果の影響だろうか。
昨日の購入
カレル・チャペック「山椒魚戦争」 ハヤカワ文庫
水田洋「アダム・スミス」 講談社学術文庫
井伏鱒二「人と人影 」「晩春の旅・山の宿」 講談社文芸文庫
チャペックにかぎらず、ロシア・東欧の作家のテキストには、すべからく検閲というもんだいが絡んでいるようである。
昨日の読了
佐伯啓思『新「帝国」アメリカを解剖する』 A
佐伯氏にとっては「アメリカとは何か」という問いは結構切実のようで、数年前にも「アメリカニズムの終焉」という本をものされている。本書も、単なる数あるアメリカ論とはちがって、現代日本の抱える諸問題に直結するようなかたちで「アメリカ」や「自由」が論じられているので、たいへん参考になるだろう。
さて、小泉自民党の政策が、アメリカ的な文脈における「新自由主義」であることは論をまたないが、その「構造改革」なるものが本当に必要なのか、それは「ワールド・スタンダード」であり、そういう方向へ政策を進めていくことが妥当でかつ必要なのかどうか、そういう根元の部分ではまったく論議されていないことは周知のことと思う。一般の有権者にとってはそういうことはむずかしすぎ、そして政策への支持を決定するのは電車の吊り広告やテレビの三分間報道によるしかない、というのが実情なのだろうか?
こういった衆愚政とかポピュリズムとか、政治の質をわるくするといった問題は古典的であり、すでにギリシャ時代から議論されているが、決定的な解決策はみつかっていない。有権者の学習能力を上げて政治に関心をもたせるようにしむければいいのだろうか。わたくしにはそれは決定版となる解決策とはならないように思われる。その理由は、「民度のひくいところに民主主義は育たない」という結論に陥ってしまうからである。これは同語反復だ。というのは、「民度が低い」ことを前提として、投票というシステムに基づく政治制度を構築したのが民主主義というしくみではなかったのか、と思うからだ。
投票に基づく政治制度はうまく機能しない、ということを前提としたシステムづくり(例えば、アメリカにおいて三権分立が厳密に決められているのは選挙民への不信がその前提となっている)が必要なのではないのだろうか。