
「自殺防止法」や「労災認定」といった世の流れをみていると、世の中は病人を作り出す方向へ動いているように見える。
しかし、そうなのだろうか。筆者には、もっと根源的な問題があるような気がしてならない。
別の場所で、食、という人間の基本的ないとなみについて、「食べたいときに食べる」という川島四郎流と、「一日一食で十分」というドクター中松流の比較について、どちらが正しいかをにわかには決め難い、ということを書いた。筆者自身は、このふたりの流儀であれば、ドクター中松が正しいような気がしている。
とても現代栄養学をかじった医療従事者の発言とは思えないだろう。しかし、こういう基本的な問題ほど難解で、しかも適切な回答が与えられていないものだとおもっている。
では、先の精神衛生にかんすることはどうだろうか。こういうことを考える前提は、現代の社会を構築する前提そのものは正しくて、その運用のしかたが間違っている、ということだ。なぜなら、今の社会の構成そのものをおかしい、とするわけにはいかないからである。
しかし、純粋に理論的な興味からすれば、さまざまな病像を呈する人間像を見ていると、そもそもどのような人間関係、社会のありかたを、人間という生物は前提としていたのだろう、という疑問が当然湧いてくる。
そうすると、もともと人間の精神のあり方というものは、もっと少人数の集落という単位での人間関係を前提として発生したもの、という気が筆者にはしてくるのだ。
現代のようなグローバリゼーション、つまり、異なる文化の人間たちが交流したり共同生活したり(一緒の都市に暮らす、とか)、異なる共同幻想を持つ人間たちと否応なく接触を持つ、ということは、人間という生物にとって、本来予定されていなかったことのように思われるのだ。
だからどう、という結論があるわけではない。しかし、川島四郎のように、「ほんらい、食とは人間にとって、どのようなものだったのか」と根源的に考えることは、食以外のことがらについても有益であるように思われるのである。例えば、「食塩欠乏に強い」ことが、生存にとっては有利に働く、というのが、人間の本来のつくられかたであるように。
昨日の読了
エミール・ゾラ「テレーゼ・ラカン(上)」岩波文庫
なかなか面白い。
>山村さん
>そこまで行くとどうかな
いや、そういう時代に戻せ、という主張ではなくて、
「もともと人間の精神のしくみは、どういう(社会)生活を基本に形成されたか」
ということを、根源的に考えたい、ということ。
>現在のような食事の摂り方が、消化器のガンの原因になっている
いやこれはむしろコンセンサスだとおもいますよ。
コメント (1)
ま、そこまで行くとどうかなとは思うけど、思い当たるところはあれこれあるね。
大学のときには、現在のような食事の摂り方が、消化器のガンの原因になっているんじゃないか、なんて言っている先生もいたな...。
投稿者: スイスの山村 | 2006年06月15日 04:50
日時: 2006年06月15日 04:50