mononohazumiより。
素直に書かれた文章のように見える。いや素直に書かれている。にも拘わらず、常にものをナナメに見ることに慣れている筆者は、論旨の流れに逆らって読みたいという欲望を禁じ得ない。
おそらくこの文章の書き手であるhazumi氏(省略失礼)は、むかしむかし古老が囲炉裏端で子供に語ったという「怖しい話」の伝統、大家族のなかで成人するまでに誰か複数の死に直面した、という麗しき伝統を念頭に置いているのだろう。そういう死や恐怖という側面が「消毒」されてしまっていることに氏は「物足りなさ」を感ずる。すると、氏の文章に共感する立場からは、当然「伝統への回帰」という方向で話が続けられてゆくだろう。
筆者は、お笑いやグルメの話や、ゲーム感覚の人生のハウツー番組、そしてデフォルメされ視聴者受けする商品となった相談事、などは、マスコミ(とくにフジテレビ)による愚民化政策である、という側面を否定はしない。が、それはやはり物事の一面のみを見ているように思われるのだ。
そうではなく、ある意味それを制作しているTV局側の意向とはちがって、それを視る視聴者は、「自己防衛」として、無意識のうちにそういった番組を選択している、とも取れるとおもうのだ。
どういうことか。ほとんどの日本人は、まじめに生きることで、市民運動等で社会と関わってゆくことで、この日常が変わってゆく可能性に絶望しているように思われるのだ。つまり、<<隠さなくとも絶望は随所に転がっているがゆえに、あえて触れようとしない>>ように筆者には思われるのである。これは、「闇の物語は消毒され隠蔽されている」という氏の見方とはまったく相反するものである。
特に、最近のニュースを追っていると、伝統的な陰謀論ではないが、やはりある特定の階層が、自分たちの生存に有利なように社会を固定しているそのプロセスがあからさまに示されているように、筆者には思われる。(筆者は見ていないが)「その論理を批判するにせよ、論理の受益者としてシステムに組み込まれるにせよ、東大に入るしかない」という「ドラゴン桜」の台詞、そしてそれが支持される背景には、この再生産のシステムはメタレベルで多くの日本人が認知していることを表す、と言ってよいだろう。
そのある意味絶望的な「構造」は、再三指摘されつつも、それを決定的に変えるプロセスは提示されていない。少なくとも共産主義は死滅したし、北欧流の社会民主主義は特別な条件を満たす国家でしか通用しない政体であると思われる。では日本はどのように進んでいけばいいのか。この質問に対する回答が与えられるどころか、保守二大政党制が確立しつつある今、システムを温存する方向へ潮流が向かいつつあるところに、「ふるきよき時代に帰ればよい」という議論の限界があらわれている。
まずは現実を直視すること。直視することに快はない。その不快さに堪えてゆくことが出発点となるのだろう。