断わっておくが、筆者は今両親とは良好な関係にないとはいえ、彼らを恨んではいない。ふたりとも父親のいない環境で育ち、高等教育を受けぬまま(高校は出たが)ノン・キャリア地方公務員として生計を立て、結婚と同時に母が退職してしまった、そんな状況で、二人の子供に「資本」として残せるのは、高等教育(兄も大卒である)しかない、という決断だったのだろう。その高等教育を受けたひとびとが将来所属する「階層」に相応しい文化資本を身に付けさせる、という発想が、彼らにはなかった。というより、自分たちが生活で精いっぱいの子供時代を送って来たために、子供に実用的なもの以外の(珠算は実用的だと考えていたのであろう)習い事をさせる必要を感じなかったのであろう。
また、筆者は(学費が安いことで有名な)私立中高一貫校に通ったわけだが、その同級生は、多くは中小企業の子弟であって(中には開業医の子弟もいたが)筆者が大学に入学してから身を置くようになった、官僚、銀行員、研究者、テクノクラートなどにある程度共通する文化的な背景を共有することはなかった。そして、ホワイトカラーの末端に属する両親の生活意識を身に付けていた筆者は、そのような文化資本を身に付けることよりも、資本そのもの、つまり技術や学歴を取得することのほうが、遥かに重大な関心事であった。
別のところで、「東大受験の時にキレイな女の子を見つけて、即座に口説いた。試験なんかどうでもよかった。たまたま合格し、入学後はプログレのバンドに入った」という人物に対する不快の念を表明したのだが、それはすでにさまざまな文化資本(おそらく「東大に合格する」ということが、それほど珍しくない階層・学校の出身なのであろう)を身に付けている「強者」に、その人物が属すると思われたからである。
じっさい、医学部に入学してみると、いわゆる「ガリ勉」タイプはほんのごく少数で、スポーツで全国大会に出場したり、プロ並の楽器演奏の腕前を持っていたり、といった、「文化資本」を身に付けている人間のほうが、むしろ大多数なのであった(これは、そういう世界をご存知ないかたにとっては、意外なのではないだろうか。筆者にとっても異次元の世界であった)。