これも筆者が幾度となく書いてきていることであるが、自分のためにも整理してみようと思う。
靖国批判派の主張は、「靖国は国民の死を回収する国家装置である」ことを批判する。つまり、国家が国のために国民を死なせるための道具だというのだ。そして、「無駄死にでなかったことを国家に認めてもらいたい」という遺族の感情には配慮しつつ、祀る主体が国家であってはならないことを言おうとする。
この次元で議論が繰り返されている限り、靖国擁護派と批判派の主張は噛みあうところがない。当たり前だ。靖国擁護派は、その「国家装置である」ことが悪だという認識がないどころか、それを善なるものだと考えているからである。つまり、批判派は自らの倫理観念が擁護派に共有されていると思っている。これは議論をはじめる上で、極めて初歩的なミステークである。
擁護派の主張は、「靖国が国家装置となることで、国のために亡くなった人々を回収できる。その結果、それは国益にプラスになる。国益が増すことは国民にとって利益になるのは自明だ」という、これもわかりやすい議論に立脚している。これをどうして批判派が理解できないのか、筆者には謎である。
結局、擁護派と批判派のちがいは、靖国自体の存在がどうこういうよりも、端的に「国家は国民にとって有益であるか」どうかという議論に過ぎない。批判派は(日本)国家に対して信頼を置いていず、擁護派は日本国のもとに国民が結集することこそ国民の幸せになっていることを信じているだけの話だ。
ならば、しなければならないことは、抽象的な「共同体の構築が成員の幸福に先立つ」という命題の証明ではなくて、日本という具体的な共同体が国民を幸福にしてきたのか、という歴史的事実の検証だ、ということになる。
「国を愛する」ことと、「1945年以降の日本が国民にとってよろしくなかったのではないか」と疑うことは、矛盾しない。靖国擁護派の多くは、この二つの命題を排中律でとらえるからおかしくなる。国を愛しているから、戦後の日本政府の行動のかずかずはおかしいのではないか、という疑念が出てくるのである。筆者はいうまでもなくこの立場だが、愛する=無誤謬、絶対化、という等号に何の疑念も抱かない右翼の方と以前話していて、どうしてもそこが理解できないようなので、びっくりしたことがある。
反省できること、誤りを認めて謝罪すること、は、自尊がないとできない行動である。つまり、
1. 99%ただしいと思うから、1%の誤りを認めても傷つかない。
2. 反省する以前の正しい行動が99%で、反省して間違いを改めた場合、100%になるなら、その方が「国家の品格」(笑)は上昇する。
ということになるからである。
筆者には、さいきんの右傾化しているひとびとの発言を聞くと、
3. 1%しか正しくないから、99%の誤りを認めると、国の正当性が崩壊してしまう。
4. 99%の誤りを認めると、すべての場所に謝罪が必要だし、改善点も膨大になるから、とてもやってられない。
ということが前提となっているように感じられてしまう。
もっとも、筆者の議論が、必ずしも「愛国」を前提としているものではないことは、はっきりさせたいとおもうが(つまり、日本の国家を愛さない国民がいることは、全然差し支えないとおもう)、愛する国家が完全無謬であってほしい、というのは単なる願望であって、筆者には到底そうは思えないので、感情でものをみないでほしい、と願う今日この頃である。
>ポー助さん
>ミクシーのよっちさんから、聞いて来ました
はじめまして。コメントありがとうございます。
しかし、筆者はMixiからこちらへのリンクは貼ってないつもりでしたが、ありましたか?
消しておかねば。あああああ・・・・
ま、いいか。
>凄く難しい文章を書かれていたので
・・・これは失礼しました。「むずかしい文章」とは、要するに書いている人間自身がよくわかっていないということなのですよ。
筆者にとっては「悪文家」の代表として、小林秀雄とラカンのふたりがまっさきに浮かびますが、「読み飛ばされないようにわざと二、三文章を省いておく」と語った小林は、結局大東亜戦争を肯定し、戦後も開き直りの態度をとり続けていました。まあ、戦争賛美を持って、文学者として即座に「ダメ」と決めつけるのも、視野の狭さを露呈しているようなものですが、小林秀雄の例は極端だと思っています。
一方のラカンも文章の意味不明さだけで教祖になった人間ですが、こういうのを賛美する追随者も後を絶ちません。例えば内田樹は「世の中にはむずかしすぎるからこそ誰にでも使える思想というものがある」と述べていますが、ここにまやかし以外のものを見い出すのはむずかしいでしょう。
こういう「悪文家」の手合いは、筆者は蛇蝎のように忌み嫌います。なるべく自分では明快な論理構成を心がけているつもりですが、やはり整理不十分なこともあるようですね。気をつけます。
さて本題ですが、
>靖国神社は神社だとは思えない
何が神社で何が仏閣かを決めるのは、要するに自己申告なのですよね。宗教法人側が「祭神は戦争で亡くなった英霊すべてです」と言ってしまえば、神社になってしまうという、いい加減なものです。
明治神宮の祭神の明治天皇、乃木神社の祭神の乃木将軍は神なのか? 明治天皇はおいておいても、日露戦争で多数の将兵を犬死にさせた乃木が神とはとても思えません。
>戦争に利用し鎮魂を守る大義名分として神社を創建した
これはその通りだと思います。
筆者が思うには、この問題を議論するときに(いや、もっと一般論として広げていいと考えているのですが)、求められるものは「学識」では決してないと思うのです。むしろ「常識」かと。
つまり、「戦争に利用し鎮魂を守る大義名分として神社を創建した」ことが真実であるかどうかは、靖国擁護派としてはどうでもよいのです。むしろ、大義名分が必要であったことを喜んで認めるかもしれません。その「争点のずれ」が問題なのです。
靖国批判派が問題にしているところは、擁護派にとってはどうでもよい、あるいは積極的に肯定してもよいところだ、というのが議論が噛み合わない理由だと考えています。
いかがでしょうか?
>批判と言っても何処の部分を批判しているのか?
>もしくは、擁護と言っても何処の部分を擁護しているのか?
>右に向いているから、擁護派なのか?
これに関しては、筆者は争点は比較的明確だと考えています。
>気安くレスしてすいませんでした
みなさん気安くレスしてくださらないので困っているのです(いませんが)。
今後とも何かございましたらお気軽にコメントくださいませ。
本は・・・高橋哲哉「靖国問題」(ちくま文庫)を読んで、激怒してしまった筆者としては、、、やはり「小熊三部作」(新曜社)をお勧めしたいと思います。少々高くて分厚いですが、筆者としては一押しですね。