
多くの日本人家庭にいるらしい「山の神」。祭り上げないとオソロシイものなのだろうか。
Yahoo!から、こちらにリンクが貼ってあった。
この問題についての筆者の意見を記しておきたい(いったい何の意味があるのだろう? という根源的な疑問はひとまずおいておこう)。まず、最低限国民に教えなければならないことは、「外国人の、自国の国旗・国歌に対する尊敬の念を損なってはならない」ことである。つまり、国旗を汚す、落書きをする、自国の国旗よりも低いところに掲揚する、替え歌をつくる、などはもってのほか、ということである。これはアタリマエだ。
次に、「自国民に、自国の国歌・国旗に対する尊敬の念を植え付ける」ことは、政府が国民に対して要求すべきことなのか、というところで議論が分かれるだろう。今の議論には三通りの立場のちがいがあるように思われる。
A)他国を尊重するためには、まず自国を尊重しなければならない。よって、当然自国の国旗・国歌に対してはこれを尊重すべきである
B)尊敬の念を持つかどうかは他人が干渉すべきことではない。よって、強制は望ましくない
C)基本的には国民は自国の国歌・国旗は尊敬すべきである。しかし、ポツダム宣言を受諾し、サンフランシスコ和平条約に調印した以上、戦前の日本が軍国主義国家であり、侵略国家であったことを認めていることになるので、その戦前からの延長上にある国歌・国旗を変更しないのはおかしい(ドイツ・イタリアはそれを行っている)
このなかでどの立場を支持すべきだろうか。そして、もしどれも妥当でないとすれば、それに替わる第四の立場はありうるのだろうか。
さらに検討すべき論点は、「もしAの立場が正しいとした場合、国家はそれを拒絶した教職員を処罰する権限を持つべきだろうか」というものもあるが、これもひとまずおいておく。
まず、準備として、B)の立場は、憲法、民法学での論点のひとつである「謝罪広告」を認める判決と同様の内容を含んでいることに注意しよう。つまり、「悪いことをした」という意識のない人間に、謝罪を求めることが、内心の自由を規定した憲法に違反しないかどうか、という論点だ。「尊敬」というのは、そもそも無理矢理に教え込んだり、強制したりするものではない、という意見は、憲法第十九条の観点から見て、一定の説得力を持つとしていいだろう。
またA)は、論理的には一定の正しさを持っているが、「すべての外国人は、自国の国歌・国旗に敬意を持っている」という一文は、論理的には正しくはない。分離独立を求める少数派はむろん持っていないだろうし、多数派の中にも自国の国歌・国旗を望ましくないと考える人間は一定数存在するだろう。
さらに、「自国の国歌・国旗を尊重できない人間は、すべからく他国人の国歌・国旗に対する感情を尊重できない」という命題がA)の対偶となろうが、これは正しいだろうか? 「自分は日本の国歌・国旗には感心できないが、由緒ある三色旗とラ・マルセイエーズに対するフランス人の忠誠はよおくわかる」というケースは少なくないのではないだろうか。やはり、理を通して考えると、A)の意見には無理がある。
さて問題はC)だ。「ポツダム宣言受諾、サンフランシスコ条約調印」が戦後日本の外交の大前提となっていることは論を俟たない。だから、いまさら「東京裁判は勝者の一方的な裁きである」という意見を、対内的にはともかく、諸外国に対して叫ぶのは、この二つの条約をないがしろにするものだ。とすると前段は正しい。問題は後段である。「現在の日本の国旗・国歌は、戦前のそれと同じで、軍国主義時代の記憶と深く結びついている」この文章の整合性はどうだろうか。
日の丸が使われはじめたのは、島津斉彬が自藩の船に掲げたことを嚆矢とする。君が代は、明治時代のお雇い外国人の手になるものであるが、そのことは意外に知られていないようだ(松本健一「日の丸・君が代の話」にあったと思う)。日の丸はたぶん全世界の国旗の中でもそのデザインの優秀性では一、二を争うものだろう。チベット密教に範を取ったナチスのハーケンクロイツもデザイン的にはいい国旗であったが(なんてことを書いていいものか・・・)、やはり日章旗が公平に見て世界一であろう。
それに比べて君が代はメロディといい歌詞といい見劣りがする。かの保田与重郎も、「君が代の『君』とは、天皇陛下を指すものである」とはっきり言い切っている。保田ほどの学識と保守性を併せ持つ人物はそうはいないのだから、この言を信用してよいだろう。
また、日章旗のほうは、海軍で使われたのは旭日旗、つまり日の丸の中心から放射線が八方に出て行くデザインである。占領地に掲げられたのは日章旗であったが、軍国主義と結びついたイメージは旭日旗のほうであろう。日章旗を使い続けることに筆者は特別問題はないと考えている。
逆に君が代の方は救いようがない。この歌が大戦中歌われ続けたことはたしかであるし、「大君の世が八千代に続いて欲しい」という歌詞は、どうこじつけようと主権在民の日本国憲法とは折り合えないだろう。
国家は"imagined community"である(B.アンダーソン)から、政府は国民にそのイメージを強化する政策を取らざるを得ない。その苦肉の策がオリンピックであり、ワールドカップであったりするのだが、そういった「国としての団結、愛国心」を鼓舞するために、政府は愛国教育をせざるを得ない。「国を愛することが国民の利益に繋がる」というプラクティカルな立場からそれを擁護する佐藤優氏のような意見は当然あり得る。これがリベラル右派の立場だとすれば、"imagined community"はむしろ倒れて当然とする左派の立場もある。筆者は、国家は最終的には消滅の方向へ向かうと考えているが、現在国家が存在する以上、国民の利益のために国家は最大限に利用されるべきだ、とする意見にも理を認めている。以上の議論を踏まえて、
a)国家はアプリオリな忠誠の対象ではないことを周知徹底させた上で、実存する国家の有効利用の上で、国歌・国旗が国益(ひとりひとりの人民の利益)にかなうかどうか慎重に考慮をおこなう
b)内心の自由がまもられないだけではなく、指導する教師を処罰するという間接処罰という意味でも、現行法は正しいとは思われない。
c)日の丸はともかく、君が代は早急に変えるべきだろう
というのが、現在の断定的な筆者の意見ということになる。
ともかく、筆者には、あんなに魅力のない歌が、どうして歌われ続けているのかが驚きだ。"We Shall Overcome"のように、自然発生的に(国家選定でなく)国歌をつくりあげるしかないのではないだろうか、と思うのだが。
この問題もそうなのだが、根底にあるのは、「国家が現にある以上は、それを最大限に生かし、国家を強化することが国民に幸福に繋がる」とする右翼の考えと、「世界中の富の不均衡、構造的暴力を解消してゆくには、将来の国家の消滅に向けて運動しなければならない」とする左翼の考えの衝突である。双方に理があるために、その優劣はすぐには決めかねるところがある。ただ、この(リベラル)右翼の発想は、ややもすると国民の幸福追求を忘れた(疎かにした)国威発揚のための国力の追求、というかたちの、戦前の軍国主義を招いたオールド右翼の考えに繋がりがちであり、そういう点では国旗・国歌の問題は、ややリベラルではなく伝統的右翼の発想にちかいものであるために、警戒が必要なことは確かであろう。そういうバランス感覚からすると、やはり文部科学省の処置は穏当を欠くという評価が妥当であるように思われる。