
「日本人は桜が好きだ」こういう文章は、ある意味再帰的なものと言える。つまり、客観的な現象の描写と言うよりは、それによって文章を読んだ日本人という集団の中に「桜」というものに対するある観念を作り出し、それによって元の文章を実現する、という役割を演じている。
「愛国心」などの観念も、それと同じようなものだ。というのは、郷土に対する愛情というものは具体的なものに対する感情と言えるが、国という抽象観念に対する感情は、教育以外によっては養成しようがないからだ。
桜の一件に戻ると、桜にかんするさまざまなイベント(お花見とか)が行われることによって、ますます日本人は桜という植物に対する特別な感情を育ててゆく。例えば、お隣の中国では、むしろ春を代表する花は梅である。
なんとなく筆者には、「桜」に対する扱いが過剰に感じられるのだ。オリンピックやワールドベースボール大会のような「国別対抗」のスポーツに対する扱いがそうだと感じられるように。
郵便局に行って、モースの「社会学と人類学」を取ってきた。たぶん、「贈与論」いがいは(すくなくともしばらくは)読まないと思われる。
大量に蓄積してしまった未読本を、いったいどういう順番で読んだらいいのか迷っている。まずは、ソルジェニーツィンの「チューリヒのレーニン」とか「一九一四年九月」くらいから読むのが小説としては筋だし、古い順番から行くとミルトンの「失楽園」とかゲーテの「ファウスト」とかだろう。評論(ほか、学術的色彩のつよいもの)の方は、網野善彦から読もうと思っていたが、ふと思い立って松本健一の「大川周明」をカバンに入れてみた。じつは、大川のイスラーム主義と大アジア主義というのは、大東亜戦争のプロパガンダと切り離してみた場合、まじめに検討に値する思想なのではないか、という気がしている。
それは、先日も書いたとおり、「民主主義は再検討する余地もなく、他の政体と比較した場合、無条件に正しい」という、広く行き渡っている意見に対する懐疑と同様の見地に立っている。本来は、「アタリマエだ」とみなされて、きちんと自分の眼と頭で検討されることのない事柄に対しても、ひとりひとりの理性的かつ合理的な判断が前提とされるのが民主主義というものであったはずだ。とすると、その前提が崩れたところでは、うまくファンクションしないのはこれも理の当然というものだろう。
また、情報への透明なアクセスというのももうひとつの前提だが、メディアの力の増大とインターネットの普及が、その前提におおきな影をさしかけている。ホリエモン問題にしても、福島産婦人科医逮捕事件にしても、こういった国内の問題ですら、われわれが正しい情報にまるごとアクセスできる可能性はほとんどない。つまり、伝達される断片的な情報から、みずからの理性で「正しい」と判断されるものを拾い上げ、二次的に組み替えるという作業が必要だが、それが正しく行える可能性は誰にも保証されないであろう。
とすると、国内の政治のみならず、国際政治についても(たとえばカディマが勝利したイスラエル/パレスチナ問題に関して)「民主的に」解決が行われる可能性は相当ひくいのではないか、と悲観的にならざるを得ない。
つまり、私見では、合理的・理性的な眼を持つほど、楽天的でいることは難しいのではないか、ということになる。
昨日の購入・読了 なし