
先日、地球温暖化の件で「自由主義と共和主義の闘い」と書いたのだが、それを筆者の仕事に関連付けて少しく考察してみる。
人間は自由な方がいい。自由な時間と自由に使えるお金を持って、自分の権利を自由に行使する、これが自由主義の理念とするところである。もちろん、他人の自由を冒さない、という最低限の制約がそこに内在されていることはいうまでもない。
しかし、その自由を誰もが行使できるわけではない。日本の例で言えば、憲法に保障されている「最低限の文化的生活」はできることになっているが、貧富の格差の開大は政府がいかに躍起になって否定しようとしても、実感として感じている方が増えているのは事実であろう。
そこで、集団によって個人の権利を調整して、誰もがある程度の自由を行使できるようにしよう、という共和主義の理念がある(乱暴な言い方だが)。地球温暖化に対応するためには、各国が行使できる「炭酸ガスを排出する権利」をその国の実情に応じて制限する必要があることは誰でもわかるだろう。「権利の行使」が「公共の福祉」に対立すると考えられる論点である。
さて、これが端的に現れるのは、細菌感染症に対する抗生物質の使用である。病気を持つ特定の個人のことだけ考えれば、なるべくいろいろな細菌に効く(抗菌スペクトラムが広い)、強力な(抗菌力のつよい)抗生物質を使用した方がいい。外来診療でも、風邪(咽頭炎、扁桃炎)に抗生物質、それもかなり強力なもの(ニューキノロン系抗生剤)が処方されているのをみかける。読者は、副作用のことは措いておいてこれをどう思われるだろうか?
一見、投与されたその当該個人にとってはよいことのように思われる。細菌感染症があきらかであれば、強力でかつ抗菌範囲のひろい薬を使ってもらえれば確実に効果があると思われるからである。では、どうして抗生物質の種類は山のようにあるのだろうか? 何でも強力なものがよければ、たとえば戦争において、戦艦だけあれば巡洋艦、駆逐艦といった小さめの船はいらないのであろうか。また、一眼レフがあればコンパクトカメラは必要ないのか(笑)。
もちろんそうではない。狭域には狭域の、広域には広域のよさがある。強力で抗菌スペクトラムの広い抗生物質を濫用すれば、当然耐性菌が増加する。つまり、抗生物質が効かない細菌がセレクトされる結果になる。そして、当該個人にとって利益になっても、集団全体にとってはかえってその利益を損なうことになる。個人と集団の利益は相反するのである。
これを、公衆衛生学の用語では「個人防衛と集団防衛」と呼ぶ。薬を用いる際には、その個人だけでなく、他の患者(潜在的な患者である健康人も含めて)の利益も同時に考えなければならないのだ。しかし、この考えをしっかり学んで実行に移している医師は少数である。その結果、カルバペネム系抗菌剤のような、「抗菌力が強く、しかもスペクトラムの広い」薬剤の濫用が起きている。
筆者は外来では可能な限り抗菌剤は処方しないし、入院でもなるべくスペクトラムの狭い抗生物質(つまり、カメラでいえば、10倍ズームではなく、単焦点レンズ)を使用するように心掛けている。そして、重症であり、二日以内に結果を出さないと生命にかかわる場合、そして、考えられる細菌が絞り難く、幅広い抗菌力が期待されなくてはならない場合に限り、これらの広い抗菌範囲を持つ薬剤を使用している。その結果、昨年一年で筆者はほとんどカルバペネムを使用していない。これは医師の中では圧倒的に少数である。別に、自分が腕がいいとかそういうことを言いたいわけではないが。
もともと、日本は格差や不平等に敏感な社会と考えられている。この真偽はさておき、自由と平等、このバランスについては、いかなる職種の方であったとしても、社会人としてきちんと自分なりの意見を持つことは必要なことであろう、と思われる。フィーリングだけで格差を広げるような政策を打ち出す首相を支持するのはいかがなものだろうか。