
あまり政治的な発言ばかりしていても何なのだが。
最近の「強行採決」などなどをみていても(実はこの感情は高校生くらいからずっと変わらないとおもうのだが)「茶番」にしかみえないのは、なぜだろうか。
自民党は民主党その他の「不信任決議案」を「選挙を控えた党利党略だけの手法」と非難し、野党は野党で強行採決その他を同じように「数を恃んで民主主義を無視している」とか、「党利党略」と批判する。この非難の応酬は、対称性を帯びている。対称性を帯びることで、より権力=国民の支持を受けている(と考えられる)与党の権力の行使は目立たなくなる。そして、じじつ、民主党も社民も共産もすべて「党利党略」しか考えていない、という自民党の指摘は正しいように思われる。
強行採決は違法なのだろうか? これは与党の当然の権利である。民主主義の前提が議会でのディベートだとしても、討議は限られた時間しか持ち得ないのは理の当然だ。そして政党政治というものは、各議員の意見は党の方針に譲歩するものであって(党の多数意見に反対する少数議員は、党の方針が打ち出される前に党内で戦うべきであって、いったん打ち出されてしまえば、造反議員が処罰されるのは政党政治として当然だ)、つまり構造的に議会の討議では各議員の意見が変化することは期待できない。つまり、どうしても討議は政党間の意見のすり合わせに終始し、華々しい意見の応酬はドラマの中でしかありえない。
だから、国民の声なるものは、投票にしか反映されないのだ。市民運動を議会政治の上位にあたかも置くかのような風潮が、特に安保闘争の頃に、リベラル派の知識人を中心に醸成されたようだが、これは端的にまちがいであって、国民は原則として投票にものを言わせるのが正当な権力の行使である。ということは、論理的には国会で決議された事柄は、「国民の総意」というように擬制されざるをえない。
正直なところ、筆者の想像だが、投票という権力を行使している国民は、おそらくその収入や最終学歴の平均を取ってみれば、国民の平均を上回るはずである。だから、投票行動を変化させる動機を、おそらくそれらの値が高ければ高いほど、それを有する投票人はもたないことになると考えられる。
そして革命的な投票行動(55年体制を終焉させた細川総理誕生のときのような)が生ずるのは、国民の不満からではなく、マイケル・マンがいうところの「伝播型の力」、この場合はマスコミ、インターネットなどで複数の核(これが誰なのかは、わからないが)によって醸成される「雰囲気」しかないように思われる。そして、この「雰囲気」は今「改革が必要だ」というスローガンをあちこちに流し、その結果確たる根拠もなく、「改革」こそが正しいという意識をほとんどの国民が持っているように見える。
与党と野党の振幅がますます小さくなっているようにみえることは、如実に戦前の翼賛体制を喚起する。いつのまにかわれわれは、似通ったふたつの二大保守党いがいの現実的な投票の選択肢を失ってしまっている。たぶん、どちらの政党が政権を取ったところで、大差はないのだ。多少富と権力のディストリビューションが変わるだけである。
(日本の)民主政治は幕藩体制の延長として捉えてもそれほどおかしな類推にはならない、とはよく言われることである。つまり、選ばれる方法が投票なしの世襲か、投票ありの世襲か、の違いしかもたず、実質的には同じということである。そして、国会の果てしない非難合戦をみていると(そこへ誘導したのは、与党なのかマスコミなのか財界なのかはわからないけれども)「投票によって世界が変わる」という観念を見事に否定し尽くした劇場のパフォーマンス、という感を受ける。
ひっきょう、無気力の原因の根底には、戦後六十年の政治の軌跡が、国民の権力の源泉たる投票による世界変革の可能性を消し去ってきた、という事実が、今の国会劇に見事に反映されている、ということがあるのであろう。はぁ。。。