
個人のレベルでこのようなことを考えたり述べたりすることに、いかほどの意味があるかわからないのだが、筆者の一貫したみかたは、
「日本は、戦前的な封建的/非合理的な体質/体制の除去に失敗した」
というものである。
野口悠紀雄の「1940年体制説」は多くの経済学者から否定されているが(日本の製造業の技術が中央集権的でなく、地方に分散されていたことは、よい意味で戦後の高度経済成長に寄与したことはよく指摘されているけれども)、政治の体制はいうに及ばず、抽象的ないいかたをすれば、戦前の「日本的精神」がそのまま無反省に残ってしまった、あるいは1968年革命の失敗によって復活してしまったように思われるのである。
昨日の読了
大岡昇平「レイテ戦記(上中下)」中公文庫 A
いうまでもなく、大岡のこの本の執筆の動機は、彼をして「俘虜記」「野火」「ミンドロ島ふたたび」などの戦記物を書かせたものと同じであり、ミンドロ島守備隊として戦争に参加し、米軍の俘虜となったその体験であり、また同じフィリピンの戦場を踏んだ同胞への鎮魂の念である。
しかし。
限りなく歴史書に近い体裁を取りながら、大岡自身はこれを「小説」に分類し、事実野間文学賞にノミネートされている(受賞は辞退された)。
それは、なぜか。
レイテ戦に関する手記や公式文書はたくさん残されているが、それらがいかに粉飾されているか、その粉飾の事実を指摘すること自体によって、大岡は人間の虚栄心を描こうとしたのではないか、というのがひとつ。
日本の兵士がいかによく戦ったか、それを十二分に呈示することで、日本軍の二大悪癖ともいうべき(そして筆者がおもうに、これは戦後の会社や政府といった組織にも受け継がれているのだが)兵站 (logistics)と諜報 (intelligence)の軽視が一層浮き彫りにされているというのがもうひとつ。
さらに、その兵士らのあまりにも人間的な(自発的な投降、逃亡や遊兵化も含んだ)善戦の結果、日本とフィリピンには何が残されたのか、それを総括した「エピローグ」の記述は、あまりにも悲しいものだ。大岡の結論では、太平洋戦争の終結後、「復興」が果たされなかった国とは、日本とフィリピンのふたつだけだというのだ。
かなり大部の小説であり、個々の部隊の戦闘のもようが詳説されているのは、少々退屈に思う向きもあるかもしれない。しかし筆者が思うに、戦前の「日本精神」や、戦後に受け継がれなかった何物かを示すには、こういう方法しかないのかもしれない。
本書がいつまでも文庫に収録されて、ずっと読み継がれることを希望する。