同じようなことを前にも書いた。現代は、プロフェッショナルであることが軽視される時代である、ということ。医療の世界においては、患者による自己決定権が重視され、あまつさえ、一部では患者による自己治療がベストとされる風潮すらあること。
凶悪犯罪の時効撤廃の動きをみていると、少なくとも世の中は、「世論」や「大衆」の意見に迎合する方向へ動いてきているようだ。犯罪被害者には誰もがなりうるし、犯罪被害者の遺族が記者会見をして、時効撤廃を求めたら、誰でも最初はそれに同情し、賛成するだろう。
ここでプロフェッショナルの存在が必要になる。プロたる定義とは簡単ではないが、筆者がおもうに、自分が専門とする事柄について、さまざまな側面から考えられること、長所だけではなく短所についても熟知し、総合判断をもって可否を決定できること、がその条件のひとつであろう。
つまり、多くの一般大衆は、刑事罰の世界とは無縁の生活をふだんは送っている。そのようなひとびとは、「凶悪犯罪の厳罰化や時効の撤廃」における負の側面について思いが及ばないにちがいない。それは犯罪被害者の側から見ても、「犯人は時効を過ぎれば刑罰を受けなくてよくなる」ということしか思い浮かばないに違いない。そこで、「専門家」が必要であり、専門家の意見に耳を傾けることが必要になるのだ。そのためには、刑事裁判であろうと、日本の裁判制度は戦後から、真実追究主義である糾問主義は取っておらず、被告人と検察官が法廷で対峙し、争う「弾劾主義」に変わったことを念頭に置く必要がある。犯罪勃発時から時間が経てば経つほど、被告人側に不利になることは明白である。そのへんの事情を、専門家は他の面も踏まえて、総合的に考察し、説明してくれることであろう。
で、裁判制度のなかでのアキレス腱が何か、ふだん裁判に縁がないひとびとは理解していないだろう。それが、「冤罪」であり「誤判」である。そして、裁判制度そのものの中に、そういったものが起こりうる可能性が内包されているのだ。医療の中に、構造的に「誤診」や「医療ミス」が発生する余地があるのと同じようなものだ。
それでも、なおアナタは、死刑制度を支持しますか?
本日の購入
小熊英二「1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景」新曜社
エドワード・サイード「故国喪失についての省察2」みすず書房
ノイマン/モルゲンシュテルン「ゲームの理論と経済行動2,3」ちくま学芸文庫
ボルヘス「創造者」「続審問」
田部重治「新編 山と渓谷」以上岩波文庫
松本清張「真贋の森」中公文庫
小熊英二の本、、、どうしてこうも、筆者的に「核心」を突いてくるのだろう? 1968年については、ずっとむかしから興味を持ってきたのを知っているのかのよう。