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死刑廃止論

 筆者は過去に五回、この話題について記している。死刑は廃止すべきである、というのが一貫した主張であって、それを変えることはちょっとむずかしいと考えている。そして、時間が経つに連れて、その根拠となる理由がだんだん増えているように思われる。

 かつての筆者の考える根拠としては、以下のようなものであった。

1)死刑には殺人抑制効果がない。
2)日本の司法制度において、冤罪の消える余地はありえない
3)死刑は遺族にとって慰めとはならない

 1)は定説なので反論の余地はなかろう。2)については足利事件を挙げるだけでも十分であろう。3)については異論があるだろう。これについては後ほどまた述べよう。さらに、第四の理由が、筆者にとって重要となってきている。それは、

4)殺人者の罪責は個人だけに帰せられるべきだろうか?

 という命題である。これについては、筆者の職業柄、

「医療者が業務上過失致死傷害などで刑事事件として裁かれる事例が増えてきているが、もともと医療行為そのものにリスクが内在するばかりではなく、ミスは一定の割合で誰でも起こすものである」

 という主張がベースになっている。

 しかし、過失罪だけではなく、通常の犯罪においても、「個人が倫理的に悪であること」を責める理由がどこまであるのか、ということについて、筆者はますます懐疑的になってきている。人間は社会的存在であり、そのように個人を追いやったことに対して、ひとりひとりが有責であること、立場が変われば誰でも犯罪を犯す可能性があることを考えれば、その罪は社会全体で償うべきだろう、という発想に傾きつつある。

 それは、「自己決定・自己責任」を基本にした新自由主義の考え方に違和感を感ずるところとも共通するところがあるが、もうひとつは個人に死刑という責任を負わせて、犯罪被害救済などの、地味だがより重要な制度に力を入れようとしない(一般受けしないから・・・)国のあり方に対する違和感でもある。

 どういうことか。3)とも関係することであるが、被害者が癒されるのは加害者の生命を同様に奪うことではなく、加害者を許せないとしても、被害による悲しみを受容していくプロセスが、癒しに必要なのではないかと考えるからである。

 なので、費用はかかるし、制度構築は簡単なことではないけれども、被害者に対しての経済的な支援(所得補償制度)の確立と共に(現在の制度は十分とは言えない)被害者および加害者家族に対する、一生涯のメンタルケア制度の確立が急務であろう。ここに加害者家族を入れる理由は書くまでもないだろう。


 これは個人の感覚というよりも、社会的なコンセンサスに属する範疇の事柄ながら、貧困が個人の能力の問題に帰せられるべきではない、ということに対して一定のコンセンサスが得られてきているのと同じように(これは、政治的にも「貧乏なのは能力がない個人が悪い」と放言することが、倫理的にも許されないという雰囲気が醸成されてきていることとも関係があるが)、「犯罪を犯すことは、あくまで加害者が悪い内心を持っているからである」ということにして、その個人にだけ死刑なり懲役なりといった責任を負わせて、それで終わりにしてしまうことは、正しいことではない、という合意形成がされるようになればいいのだが。そして、こと死刑に関する限り、マスコミがほとんどこの逆の方向に動いている(特にNHK!)ようなのが、筆者にとっては気掛かりなのである。これは、国民のフラストレーションをそういうかたちで放出させようという、権力(我ながら古い言葉だ・・・)の陰謀ではないのだろうか。

 まあ、NHK、受信料を払っているのだから、きちんと国連の高等人権弁務官事務所が日本に死刑の廃止勧告を行い続けていることも報道して欲しいと思います。それが報道の公正というものでしょう。

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コメント (1)

大川:

そういう下らん主張を聞かないためにも、テレビは全廃しましょう。(爆)
そもそも、持っていなくとも全く困らないし。

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2009年08月09日 13:11に投稿されたエントリーのページです。

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