プロレタリア文学に関して、われわれは(いや、わたくしは)その実作よりも理論のほうをより多く知っている。代表作とされる葉山嘉樹の「海に生くる人々」にしても、まだ書棚に積んだままになっている。それ以前に筆者の小説経験は非常に偏っていて、夏目漱石すらろくに読んでなかったりする。そもそもプロレタリア文学というジャンルに興味があるわけでもない。それは自分がプロレタリアではない、とか思うからではなく、生活のなかから生まれた文学、ということであれば、それはほぼすべての文学について言えるであろうし、最終的な目的をオルグに置くとするならば、それが文学である必要はないように思われるからだ。むしろプロレタリア文学とは、戦前の非合法的共産党員が何を感じ、何を考え行動したかを推測する手段としての、歴史的な価値がほとんどその存在意義を示すものであるような気がする。
先日の読了
小林多喜二「独房・党生活者」岩波文庫 B2
有名な「党生活者」よりも「独房」のほうが優れているように思われる。それは作者も意識したであろうが、巧まざるユーモアが滲み出ているからである。そして獄においても作者たちが不屈の闘争精神を発揮したであろうことが想像がつくからである。本作品は、権力の不当や作者らの気概を示すことには成功しており、また文学作品として楽しく読めるが、読者を運動へ勧誘するという目的を達するものにはなっていないような気がする。
問題の「党生活者」である。文学的な読みはさておき、一読して伝わってくるのは、権力の非情な弾圧ぶりと、その弾圧に対抗するためのこれも非情な共産党の組織ぶり、そして党員のあいだの感情と組織の論理のせめぎ合いである。そこから、容易に、
「権力に力で対抗しようとする者は、自らもその権力に似通ってくる」
という図式的な理解が生まれるだろう。また、「権力に対抗するものとしてのマキャベリズムの正当化」は、党員でないものを運動に引き込むよりは、むしろ運動から遠ざけるように働くだろう。権力による暴力の行使の不当さを訴えるよりは、運動家たちの非人間性が際立ってしまうからである。
もちろん、本作品はそのような図式的な理解を越えたところにその魅力と価値があることは理解できるのだが、「目的のためには手段を選ばない」という考えは、少なくとも民主的な政治政体においては、たとえば自力救済の禁止 --- 自分の自転車を盗人が乗っていたところを発見しても、自力で取り返すことは合法化されず、窃盗罪を構成する --- というかたちで否定されている。筆者はクジラ箱を盗んだグリーンピースのメンバーに対する日本アムネスティの抗議に呆れているのだが、「クジラが不法に流されているのを調べるため」ということが正当な目的であったとしても、私人が窃盗という方法を取ることは、明確に否定されるのが近代法治である。メンバーに非人間的な犠牲を強いるような運動は、もし目的が達成されたとしても、良い結果を生むようには筆者には考えられないのだが。